三原議員「八紘一宇」発言に違和感なし。言葉だけをあげつらっていては、事の本質が見えなくなる

2015年03月21日(土) 馬淵 澄夫
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「橿原建都の令」

そして、もう一つの共生の思想を示しているのが紀元前六百六十年の初代・神武天皇建国の詔(みことのり)「橿原建都の令」であります。そこには、「苟(いやしく)も民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。」と記されています。

神武天皇は国民のことを「大御宝(おおみたから)」と呼び、国民を幸福にすることこそ為政者の務めと考えていました。以来二千六百年にわたり、この国は覇権ではなく徳をもって治めてこられたことから、我がこと以上に相手を思いやる、即ち「利他の精神」が国民の中に共有されてきたのです。

世界では、征服の歴史によって隷属を求めてきた為政者が常であり、国民を「たから」と称する国は我が国以外にありません。建国以来の精神として徳治がなされてきたのです。

さらに、詔には「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや。」と記され、天下に住む全てのものが、まるでひとつの家になったように温かい結びつきを実現させることの尊さを説いています。まさに、人々の心のつながりによって、一つの家、家族のような国を創り為(な)そうというのが神武建国の理想であったのです。

この国の長い歴史の中に、「家族宣言」という言葉で、私自身が語り続けてきた国家観が脈々と続く価値観として示されています。

私は、再び、挑戦します。見せかけの保守や、復古的国家主義が台頭しようとする危うい政治情勢に対し、そして、弱い立場に置かれ、途方に暮れた人を切り捨てるような冷たい政治に対して、日本の伝統・文化・価値観、すなわち日本人の「心」を正しく映した本当の保守政治とは何かを私は問い続けます。

たとえどのような厳しい状況に置かれようとも、どのような試練が待ち構えていようとも、人の心が通った一つの家族のような温かな国を創る政治を、私、馬淵澄夫は必ずや実現するべく挑戦し続けてまいります。

以上

安倍総理や麻生財務大臣の残念な答弁

通常、国会質問というのは、用意周到に練られたものだ。もし仮に、三原氏が「橿原建都の詔」として質疑をしていれば問題視されることはなかっただろう。

それにもかかわらず三原氏は、「八紘一宇」という言葉を、今回あえて使ってきた。与党ながら、彼女が政治家として、時の総理や国民に対し何かを訴えかけようとする覚悟を感じさせた。

それとは対照的に、安倍総理や麻生財務大臣といったリーダーたちの答弁で、強欲なグローバル資本主義の矛盾に日本はどう対応していくのかという問題提起に正面から答えようとせず、はぐらかすような答弁に終始していたが、まったく残念だった。

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