日経平均3万8915円、地価暴騰、ジュリアナ、金融破綻、リストラ……
日本人を熱狂させ、そして、巨大な傷痕を残した
「バブル」とは何だったのか?
戦後70年の日本の歩みを振り返る「Since1945」
第4回は「バブル経済」。私たちは何を学び、何を忘れてしまったか――
1980年代後半の日本で、株価、地価など資産価格の大幅な上昇が始まった。本来の価格はその資産を利用することで生まれてくる収益などを基に決まるものだが、この時はそうした実力からかけ離れた異常な伸びを示した。
この時期を「バブル景気」(86年12月~91年2月、51カ月)という。
日経平均株価は89年の大納会で3万8915円の史上最高値をつけた。東京圏のマンションの価格はサラリーマンの世帯年収の8倍にまで高騰した。
三菱地所による米ニューヨークのロックフェラーセンター買収など、海外の資産・企業を次々に買いあさるジャパンマネーに世界が注目した。
高級車が飛ぶように売れる「シーマ現象」。ゴルフ、スキー場と行楽地は人であふれ、リゾート開発が進む。若者たちは東京・麻布十番のマハラジャ、芝浦のジュリアナ東京など高級ディスコで夜通し遊んだ。好景気はどこまでも続くという思い込みや、「世界一の経済大国になった」というユーフォリア(陶酔感)が国全体を覆っていた。
だが、90年以降、年明けにまず株、その後地価も下落に転じる。「バブル」ははじけ、しぼみ始めた。借金をして買った土地は売れなくなり、金融機関は巨額の不良債権を抱え、日本は「失われた20年」の長期停滞に陥っていく。
90年3月27日、大蔵省(現 財務省)が金融機関に不動産融資の総量規制を通達した。行き過ぎた不動産取引を押さえ込む狙いだったが、これが地価バブルを崩壊させるきっかけとなり、その後の日本に想定を超える深刻な打撃を与えることになった。
あれから25年――。
私たちはどこで酔い、間違い、傷み、懲りたのか。バブルにいったい何を学んだだろう。日銀の「異次元の金融緩和」、海外投資家のマネー流入、公的年金資金の株式買い支えで、株価は今またバブルの状況に向かっているではないか。だからこそ、バブルとその崩壊の記憶を呼び戻してみたい。
1985年9月のプラザ合意後、ドルが急落。11月には一時1ドル=200円台を割るなど急激な円高に見舞われた。成田空港の窓口で両替した1万円札の少なさに渋い表情の米国人ビジネスマン=85年11月、橋口正撮影
地方博覧会がまっ盛りだった。89年3月に開幕した横浜博は191日間で入場者1333万人を集めた。跡地に国際会議場、ランドマークタワーなどを備えたウオーターフロント都市みなとみらい21の開発も進む。当時は未整備の土地が広がっていた=89年12月
東京都中央区佃に完成したリバーサイドの40階建て高層賃貸マンション。分譲販売される予定だったが、地価高騰で転売目的の購入者が多く東京都の要請で賃貸に切り替えた。家賃の最高額は90万円以上。最上階室のベランダから眺める風景は価値十分=89年4月
大都市部の地価高騰に目を付け、転売を狙った「地上げ」が大きな社会問題になった。札束を積み上げて強引に転居や売却を迫る悪徳業者も。東京都中央区入船の土地は地上げされて隙間(すきま)だらけに。だが、90年以降、地価は下落していく=88年1月
ゴッホの名作「ひまわり」がロンドンで絵画としては当時最高の約53億円で落札。落札主が安田火災海上保険と判明した。作品は同年秋、東京で公開された=87年3月。90年に大昭和製紙の斉藤了英名誉会長が落札したゴッホの「医師ガシェの肖像」の値段は実に125億円だった
株や土地の値段は「もっと上がる」と、ほとんどの人が思い込んだために発生したのがバブル。個人の財テクブームが過熱、サラリーマンの給料は上がった。銀行の定期預金の金利も最高で年率6%まで上昇した。「お金が増えたから」と言って、人々はお金を使い始めた。
週休2日制の社会に移行する一方で、帰宅は遅くなっていく。会社の残業時間は増え、仕事後の夜遊びも派手に。夜のタクシー乗り場には長蛇の列。恋人へのプレゼントは高額になり、クリスマスの時期はレストランの予約がなかなかとれなかった。女性の活躍が取りざたされ、なかでも「女子大生」が目立った時代だった。誰が買うのかデパートでは高額な絵画や宝飾品が売れに売れ、マイホームはどんどん高根の花になっていく。
米誌「フォーチュン」90年1月1日号は「今年の最も魅力的な経済人25人」に米コロンビア映画を買収したソニーの盛田昭夫会長を選んだ。米国の企業や資産を買いあさるジャパンマネーが注目され、ブルース・ウィリス主演で89年に日本でもヒットした映画「ダイ・ハード」も、ロサンゼルスで日本企業の本社ビルを占拠した犯行グループの狙いは金庫にある巨額なカネ――というストーリーだった。株価は90年1月から急落していくが、楽観する人も多く、世の中の「バブル的」なムードは92年ごろまで続いた。
三菱地所が米ニューヨークのロックフェラーセンターなどを所有する不動産管理会社を買収すると発表した。ソニーの米コロンビア映画買収に続き、「またもアメリカのシンボルが日本の円に買われた」との批判を招いた=89年10月
1キロ10万円という究極の松阪牛肉が東京都内のデパートで売り出された。すき焼き用の霜降りロースで50キロ限り。1人1キロずつ先着50人という販売方法にもかかわらず、開店後すぐに売り切れたという。円高で世界の高級食材が安く買えるようになったこともありグルメブームに=87年12月
「ビバリーヒルズを千葉に」と大きな夢が語られ、千葉市緑区に平均分譲額7億円という超高級住宅街が開発された。89年の分譲開始後は「チバリーヒルズ」の通称でテレビ番組や雑誌で騒がれた。都心から遠いため分譲は進まず、多くが売れ残った=90年10月
東京都内のホテルで開かれたプラチナ・ジュエリーフェアでアクセサリーを吟味する女性たち。為替市場で円・ドルの値動きが不安定になったため金、銀、プラチナなどの貴金属が買われ、88年のプラチナの売り上げは日本が世界一だった=89年2月
日産の高級車シーマやベンツなど欧州の高級車がすごい人気だった。米国や英国で現地生産して日本に運ばれてくる外国仕様の逆輸入車も若者たちのあこがれに。写真は米国から到着したホンダ「アコードクーペ」=89年4月
世界一の大きさの金塊。「ふるさと創生」事業の1億円を担保に三菱マテリアルから重さ約63キロの金塊を借りて公開した兵庫県津名町(現・淡路市)。21年間展示され、377万人の観光客を呼び込んだ=89年
80年代後半から女性の水着はハイレグカットが主流、髪型はソバージュがおしゃれのポイントだった。にこやかに歩く最新の水着ショー=92年1月。汗を流し美を追い求める女性たちの間でエアロビクスも大流行
1991年1月の「毎日ニュース」は、成田、羽田、横浜のみなとみらいを結ぶ日本初のヘリコプター定期便を紹介している。88年の開業時には「新時代の都市コミューター」と期待された。しかし、天候に左右されやすく搭乗率は低迷、91年11月に運航休止。乗客の女性の髪形、メークがこの時代らしい。横浜に帰宅するOLたちがビール片手に「夜のクルーズ」でひとときの豪華な気分を味わう船内もバブル期らしい光景。東京-横浜の船便も、現在は週末のみ運航する不定期の客船があるだけだ。(映像協力・毎日映画社)
「一言でいえば、景気は引き続き絶好調を維持している。しかも世界から要請されている内需主導型というパターンを崩さないで、いい状況を維持しているということだろう。いい状態を続けている根底にあるものは、日本の経済体質が非常に強くなったということだと思う」
1989年12月中旬に発売された「週刊エコノミスト」臨時増刊号の識者座談会。2003年に日銀総裁となる福井俊彦日銀理事は、翌90年の景気の持続性に自信を示した。黒沢洋・日本興業銀行副頭取はさらに言う。「ジェット機で言うと、1万メートルぐらいまで上がって巡航速度に入り、当分降りない。モスクワまで行くのかロンドンまで行くのかわからないが、雲も見えないし揺れもないし順調にいく」
今から振り返れば、すべて根本的なところを見誤っていた。
左目盛り:日経平均株価、右目盛り:政策金利(%)または為替
出典:日銀
1985年のプラザ合意以降、急激な円高が進行。日銀は公定歩合を過去最低の2.5%に引き下げた。日本が円高不況を脱した87年以降も超低金利は継続された。
円高不況を脱した87年以降、実質国内総生産(GDP)の伸びは前年比5%前後。内需の柱である住宅投資と設備投資は力強い伸びを示していた。政府が対米協調の枠組みの中で「国策」として目指した内需主導の経済成長が実現しているものと見えた。
ところが、その内実は、金融自由化で資金調達コストが低下する中、銀行、証券、ノンバンク、そして一般企業までが本業そっちのけで「財テク」に走り、都市部の地価暴騰の裏では地上げが横行していた。
対外純資産額が85年末から世界一となり、日本企業による海外資産・企業の買収が相次ぐなど「世界一の債権大国」になったという自信が目を曇らせた。89年12月29日の大納会で、日経平均株価は3万8915円の史上最高額で引けた。専門家も含め、多くの人が株の上昇はさらに続くと信じた。市場には「5万円を目指す」との声もあった。
陶酔感の中、「膨らんでいる時は気がつかない」。典型的なバブルだった。
バブルの発端は、85年9月22日の「プラザ合意」にさかのぼる。米ニューヨークのプラザホテルで米、日、西独、英、仏が参加した秘密会議。ドル安誘導で、対日本・西独からの輸入を抑え貿易赤字を改善させるのが米国の狙いだった。会議後、円高は政府・日銀の想定を超えて進み、同年11月には1ドル=200円を割り輸出産業などで不況感が高まった。
合意で「国際公約」となった円高誘導と内需拡大路線のため、低金利が要請された。日銀は86年1月から87年2月まで連続で公定歩合を下げて、過去最低の2.5%とし、この超低金利は89年5月まで続いた。80年代は、市場金利連動型預金(MMC)の創設などの金融自由化で金融機関の貸し出し行動は積極化し、転換社債など企業の資本市場からの資金調達も拡大。そうした状況下で超低金利が続いたことで「金余り」に拍車がかかった。
米ニューヨーク市場の終値が1日で2割超も暴落したブラックマンデー(87年10月19日)への国際協調対応、旧日銀法のもとでの政府からの独立性の弱さ、当時の大蔵省の財政再建路線から金融政策に負担が大きかったことを考慮しても、円高不況を脱した後も日銀が超低金利を続けたことがバブルを膨らませた、という責めは避けられない。
地価高騰も異常だった。80年代半ばには東京都心部でオフィス需給が逼迫(ぴっぱく)した「実需」から価格上昇が始まったが、急激な値上がりが見込まれると、「土地転がし」でもうけようと、投機が投機を呼ぶ土地バブルにのみ込まれた。銀行、住専などのノンバンクは競うように不動産業に融資を行い、地価高騰の波は東京から大阪、名古屋、さらには地方都市に波及していった。融資の一部は、反社会的勢力による地上げの原資にも使われた。バブル期のモラルハザードが、バブル崩壊後に発覚した銀行や証券の金融不祥事につながっていく。
単位:1平方メートル当たり、出典:国税庁、財務総合政策研究所「財政金融統計月報」
地価高騰はまず、東京から始まり、大阪、名古屋、さらに地方都市まで広がった。
89年の11月の「サンデー毎日」冬のボーナス特集記事。富士銀行(副支店長格)約260万円、住友信託銀行(課長)約210万円――と銀行は軒並み200万円を超えた。証券会社については「関係者によると、非営業職で250万円前後、営業職になるとその15%増しで、『やり手』営業職では320万円が相場とか」「証券会社では年間ボーナスだけでも暮らしていけるんです。それに比べ、メーカーは日々の残業で生活しているという感じ」などと当時の銀行、証券マンの所得の高さを紹介している。また、90年に発表された「平成元年の長者番付」でも全国の高収入上位100人中90人が土地または株を売却して多大な利益を得た人々だった。
マネーゲームと無縁だった人々との所得格差は広がるばかりで、国民みんなが豊かだったわけではない。ただ、自分も豊かになれるかもしれないと思い込ませる「魔力」がバブルにはあった。
1990年3月27日。大蔵省が、金融機関の不動産業への過剰な融資を規制する不動産融資総量規制の通達を出した。既に株価は下落に転じていたが、この通達が引き金となり暴騰していた地価は沈静化――そして、暴落を始めた。
株価以上に急激に落ち込んだのがゴルフ会員権の相場だった。倒産したゴルフ場会社の会員権証券。新規オープンゴルフ場の会員権の募集平均額は90年ごろが最高で1口約4000万円ともいわれたが、バブル崩壊後に急落、新規の会員募集ができない業者もあった
96年1月24日、東京都はホームレスと支援者を強制排除し、「動く歩道」の設置に取りかかった。後方には都庁舎。長引く不況の中でリストラなどにより失職した人、就職難の人たちの路上生活への流入が増えていた
91年7月29日、野村、日興、大和、山一の4大証券の損失補填(ほてん)問題で補填先を発表する日本証券業協会の関要専務理事(左から2人目)。同協会の92年の調査で損失補填額は準大手を含め25社計2363億円に達した
不況の波が東京・銀座にも押し寄せた。「社用族」が接待を減らした影響を受け、クラブやバーなどの飲食店が店をたたんだり、売りに出されたりした。タクシーを使う社用族もめっきり減った=93年1月
住専処理を巡って混乱した「住専国会」。財政支出6850億円を96年度予算から削除するよう求める新進党議員が第1委員室前に座り込んで閣僚、与党委員らの入室を阻止。与党議員ともみ合う=96年3月
三洋証券は東京地裁に会社更生法の適用を申請、事実上倒産。会社更生法適用による証券会社の倒産は初めてだった。ニュースを聞き、静岡支店の開店を待つ投資家たち=97年11月、丸山進撮影
歳末の風物詩、「変わりびな」。91年11月に発表された変わりびなは「バブルびな」だった。しぼんだ風船を下げたさえない表情の男と預金通帳を抱えた料亭のおかみが対になっている。おかみは旧東洋信用金庫などを手玉に取り架空預金証書で2700億円をだまし取った「尾上縫事件」がモデル?
低迷する株価に憂鬱そうな東京証券取引所の証券マン。バブル崩壊後、株価はしばしば大きく下落し、関係者をあわてさせた=92年4月。東証の株券売買立会場は99年4月の取引を最後に廃止され、「場立ち」と呼ばれる証券会社の社員が独特の手サインで注文を出す風景は姿を消した
宮崎市の大型リゾート施設「シーガイア」を経営する第三セクター、フェニックスリゾートが宮崎地裁に会社更生法の適用を申請。三セクの会社更生法申請は初のケースだった。バブルがはじけた影響もあり、利用客数が低迷。同法適用を申請したその日、大型室内プール、オーシャンドームは人影もまばらだった=01年2月、中尾祐児撮影
95年4月19日、急激な円高が進行、円相場はついに1ドル=80円台を割り込んだ。この日はワシントンで行われていた事務次官級の日米自動車交渉が不調に終わり、円買い・ドル売りの流れが強まった。79円85銭を表示する為替掲示板=東京都中央区のトウキョウ・フォレックスで
98年12月13日、政府は日本債券信用銀行を債務超過と判断し、一時国有化を決定。これを受けて報道陣から逃げるように東京・霞が関の総理府を出る日債銀の東郷重興頭取(中央)=宮本明登撮影
リーマン・ショック後の世界同時株安に日本経済はまたも沈んだ。日経平均株価が7500円を割り込んだ最安値を表示する08年10月27日の証券会社の株価ボード=大阪市中央区で小関勉撮影
日銀の三重野康総裁(当時)
バブルを退治する「平成の鬼平」と喝采を浴びた男がいた。
日銀の三重野康総裁である。三重野氏は90年2月の「週刊エコノミスト」のインタビューにこう語った。「マネーサプライが高いからといってすぐインフレになるわけじゃないが、インフレ心理に火がつけば直ちに燃え上がる。(中略)だいぶ前に私は薪(たきぎ)の上にすわっているようなものだと話をしたが、その状況は変わっていない」
三重野氏が懸念していたのは土地価格の暴騰だ。「一般の物価ではないが、土地の価格も上がっている。これは持てるものと持たざるものとの格差を拡大する」「金融機関は公共的な性格をもっているものだから、土地投機に手を貸すようなことをやるべきではない。また金融機関の健全性という問題からも、土地融資、不健全融資は自粛してもらわなきゃ困ると言っている」。土地投機に加担する金融機関を強い調子でいさめた。
左目盛り:名目GDP実額、右目盛り:日本の総人口
出典:内閣府「国民経済計算」、総務省「国勢調査」「推計人口」
名目GDPの水準の推移は、バブル崩壊後に傾きがゆるやかになり、その後のデフレ傾向もあり低迷。また、高齢化と人口減への転換による追い打ちが日本の経済環境をさらに困難にしている。
だが、三重野日銀もバブル崩壊が日本経済に及ぼす打撃の大きさを見通せていたとは言いがたい。
日経平均株価は数度の暴落を経て、90年10月には2万円を割り込んだ。89年末の3万8915円からはほぼ半値。初めは景気の持ち直しを期待したマーケットの雰囲気も秋口にはすっかり弱気になった。
90年11月5日の「週刊エコノミスト」に掲載された市場関係者の匿名座談会。「家庭の主婦や学生の同好会が株を買うようになったら、おしまいなんだ。こんな連中が買ったら、次に買う人はもういない。しかも市場にはエクイティ・ファイナンス(新株発行を伴う資金調達)の当然の結果として株式があふれている。下がって当然だ」(機関投資家)。「市場の全員が『上げ賛成』だった。とにかく平均株価を上げないと儲(もう)からなかったから、世の中すべて強気が支配していた。(日経平均株価などと連動するように運用する)インデックス運用が花盛りで、今から考えると企業向け株式投信、特金、ファンドトラストの最後の悪あがきだったんだ」(証券系研究所)。人々はようやく我に返った。
大手証券による「損失補填(ほてん)」、銀行の「MOF(大蔵省)担」による大蔵省幹部の接待、金融機関と反社会的勢力との不明朗な関係など不祥事が次々発覚した。証券不祥事で辞任に追い込まれた野村証券の田淵節也会長は「バブル経済というテコを利用して効率性を追求しすぎた」とわびた。
続いてノンバンクの土地関連融資がやり玉に挙がる。日経連の鈴木永二会長は91年2月の会見で「バブル経済の夢を追うノンバンクの一つや二つつぶれてもやむを得ない」と語ったが、バブルのツケは証券会社、銀行に重くのしかかっていく。
97年から98年には、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などが、次々と経営破綻に陥った。山一最後の社長となった野沢正平氏は自主廃業を発表した記者会見で「私ら(経営陣)が悪いんです。社員は悪くありません。一人でも二人でも再就職できるように路頭に迷わないようにお願いいたします」と号泣した。
出典:総務省「労働力調査」「労働力調査特別調査」
全労働者に占める非正規雇用労働者の割合はバブル前には約15%だったが、バブル崩壊後に企業のリストラで採用行動が変化し、現在は約37%まで増えている。
出典:厚生労働省「賃金構造基本統計調査」
サラリーマンの賃金(残業手当などを除く所定内給与額)は、90年には前年に比べて5.3%も増加した。しかし、バブル崩壊に伴う景気後退や非正規雇用比率の増加で増加幅は減少、95年以降、1%以下の低い水準が続く。デフレ経済が深刻になり02年に初めて減少、賃金は下がり始めた。
93年1月29日の衆院予算委員会で宮沢喜一首相は「バブルは初めての経験で、明確な見通しを持てなかった。バブル崩壊で消費意欲や企業の投資意欲が衰えたうえ、資産デフレで経済の血液となる金融機関が融資能力を極端に失った」とバブル崩壊後の長期不況を見通せなかったことを認めた。そのうえで「プラザ合意以後に生じた過剰流動性が最終的に株や土地に向かい、その間に仮需要が発生した(バブルの)教訓はきつい教訓だ」と述べ、合意後の長期間の金融緩和がバブル膨張を招いたことに反省の念を込めた。
資産価格の下落に伴い、金融機関は回収が困難な「不良債権」を抱え込み、それが日本経済の重しとなった。不良債権の抜本処理の検討が始まるには、2001年4月に発足する小泉純一郎政権を待たなくてはならない。
バブル崩壊後、日本人は金融業だけでなく、「世界一」と思っていた一部のモノづくり企業の内実も目の当たりにすることになった。日産自動車は92年9月中間決算で142億円の経常損失を計上。赤字は終戦直後の混乱期以来だった。日産は工場の閉鎖、人員整理などのリストラを繰り返したが、有利子負債は2兆円を超え、資金繰りにも窮して99年に仏ルノーの資本を受け入れた。
金融システムが痛手を負った影響は広範囲に及び、製造業の競争力は低下し、企業で大規模なリストラが頻繁に行われるようになった。非正規雇用も増えた。日本は「失われた20年」に陥っていく。バブル前の経済には戻らなかった。
出典:内閣府「国民経済計算」、財務省
国全体の資産から負債を差し引いた正味資産の「国富」は1990年をピークに減少している。一方、国と地方の長期債務残高は年々増加し、既に1000兆円を超えた。
1990年3月27日 東京夕刊
ボードを使い記者会見をする日銀の黒田東彦総裁=東京都中央区の日銀本店で2014年10月31日、竹内幹撮影
2012年12月の政権交代を節目に、株価は大きく上昇した。
株式市場が「テーマ」としたのは、デフレ脱却を目指し、日銀に大胆な金融緩和を求める安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」だ。安倍政権に任命された、日銀の黒田東彦総裁は13年4月4日、その期待に応えるかたちで、「常識を超える、これまでとは次元の違う緩和策」として2年以内に消費者物価上昇率2%の達成を目指すための「量的・質的金融緩和」の導入を表明。安倍政権での円安・株高の路線のかじ取りを固めた。
民主党の野田佳彦首相が衆院解散を表明した12年11月には、既に、総選挙後の安倍政権の誕生を先取りするようなかたちで円安と株価の上昇がスタート。解散直前に9000円台後半だった日経平均株価は、13年5月後半には1万6000円に近づき、約1.6倍にまで上昇した。その後、調整期間を挟みながらも上昇は続き、2015年3月13日には終値として約15年ぶりに1万9000円台に乗せた。
直近の東証1部の時価総額は550兆円近くまで拡大し、バブル期のピーク(1989年12月末の590兆9087億円)の9割に達している。
この株価の上昇に、バブルの要素は含まれていないのだろうか?
黒田総裁は今年2月26日の参院財政金融委員会で「大胆な金融緩和で金融・資本市場や金融機関の行動に、(80年代後半のバブルをもたらした)過度な『期待の強気化』が起こっていればバブルの懸念があり、常に慎重に見極めている」としつつも、現時点ではそうした状況は「起こっていない」と結論づけた。
現状の株価は、為替相場に敏感に反応する不安定さがあり、かつてのバブル期とは異なり、「株価が一本調子で上昇し続ける」というような楽観は、まだ感じられない。今のところは、円安や年金マネーの底支えで、ジリジリと上がっている状況かもしれない。
だが、企業の実力以上に株価が上昇することには、むしろ警戒が必要だ。膨らんだバブルは必ずはじけることになるし、その際の水準が高ければ高いほど、バブル崩壊によるダメージは大きくなるのだから。
出典:東京証券取引所
インタビューに応える野口悠紀雄・早稲田大ファイナンス総合研究所顧問=東京都中央区日本橋の早大日本橋キャンパスで2015年3月18日、高橋昌紀撮影
日本企業は強くなっていない。円安で収益が支えられているだけ――。1980年代後半、みんなが熱狂していたバブルを「悪」と断じた早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問の野口悠紀雄さんは、今の株価上昇を支える「円安バブル」にも「同じことを繰り返すのか」と厳しい目を向ける。【聞き手・尾村洋介、荒木功/デジタル報道センター】
一言で言えば違和感です。あるはずのないことが起こってどんどん進行している、という感じがした。それまで日本経済の成長過程で、私は違和感を感じたことはない。戦後の復興、高度成長、石油ショックへの対応といろいろ問題もあったが、違和感というのはなかった。しかし、バブルの時には「こんなことがあるはずはない」と、非常に強い違和感を抱いた。特に不動産と株の価格の値上がりは、異常な状況でした。
「東京都を売ればアメリカ全部が買える」などと言われるようになった。カリフォルニアにペブルビーチという美しい高級ゴルフコースがありますが、そこが日本の不動産会社に買収された。私はありえないと思った。ニューヨークのロックフェラーセンターを三菱地所が買い、そういうことが次々起こっていく。日本のNTTの時価総額がアメリカのAT&TとIBMを合わせたよりも大きくなったとか。それを誰も不思議に思わない。その異常さですね。87年に私が東洋経済に書いたのは地価と賃貸料、フローとストックの価格の比較でしたが、その前提として「直感的に見て、これはおかしい」と。
当時金利の自由化が行われようとしていて、転換社債やワラント債などいろいろな資金調達の手段が出てきて、それらを利用して安い金利で資金を調達できた。他方で大口預金の金利が自由化されてかなり高くなったので、お金を右から左に回すだけで稼げてしまう。それを当時「財テク」と称していたわけですが、そんなものはテクノロジーでも何でもない。虚業で多額のお金を稼げる一方で、真面目に働いても自分の住む家も買えない。本当におかしいことなのに、みんなそれに熱狂している……
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