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- 2013年度03月 さぴあインタビュー
聞き手:サピックス小学部上本町校・千里中央校 校舎責任者 梅田 一弘・サピックス小学部西宮北口校校舎責任者 算数科副教科責任者 佐脇 洋一郎
創設時から進路指導に注力、優れた進学校へと躍進
大阪桐蔭中学校高等学校
校長 森山 信一 先生
梅田 初めに、貴校の歴史から教えてください。
森山 本校は1983(昭和58)年に、大阪産業大学高等学校(現・大阪産業大学附属中学校・高等学校)の分校としてスタートしました。当初の学校名は、大阪産業大学高等学校・大東校舎といいます。当時は十代の子どもが急増していました。そのため、大阪府から私立校も定員を増やし、生徒を受け入れてほしいとの要請がありました。それを受けて、大阪産業大学の敷地の一部を使って開校したのです。そして5年後の1988年、大阪産業大学高等学校から独立し、現在の学校名になりました。
分校としてスタートした当初は、一般コースが2クラス、体育コースが1クラスという編成でした。この体育コースは当初、野球とラグビーだけでスタートしましたが、独立校になった後は、ゴルフや卓球などに種目を広げていきました。そして1995年に中学校を併設。当初は英数選抜コース、英数コース、特進コースの3コース制を敷いていましたが、2008年に特進コースを廃止し、英数選抜コースと英数コースの2コース制にして現在に至ります。
梅田 そうした歴史のなかで、森山先生ご自身は、学校とどのようにかかわってこられたのですか。
森山 わたしは、もともと大阪産業大学附属高校の教員で、そのころから進路指導の責任者を務めていました。そうした関係で、本校がその分校であった時期に着任してからも、ずっと進学校をめざした進路指導に力を入れてきました。当時は、勉強が好きではない生徒も多かった本校ですが、まず、一日8時限授業で基本からきちんとやり直すことから始めました。たとえば、英単語の力をつけさせようと、早朝テストを取り入れるなどさまざまな工夫もしました。すると、最初は勉強を嫌がっていた生徒たちも、高3にもなると、夜の8時、9時まで自主的に学校に残って勉強をするようになっていったのです。そんな姿を見たときは、人間というものは、これほど変わるものかと感動しましたね。
佐脇 そうした努力が、進学実績の向上に結びついていったのですね。
森山 大東校舎として誕生した当時の進学先は大阪産業大学が中心でしたが、やがて関関同立などの難関大学へ進学する生徒も増え、大阪桐蔭となって2年くらいすると、国公立大学に合格する生徒も出てきました。そうなると、きちんとやりさえすれば学力は伸びるものだと、教員も自信を持つものです。さらに、中学を創設したころから、東大、京大をはじめとする国公立大学をめざすカリキュラムを導入しました。その1期生のなかから東大現役合格者が2名出たのを筆頭に、7~8割の生徒が国公立大に合格したのです。
こうした経緯で歩んできた学校ですから、本校の教員たちは、どんな生徒もやれば伸びるということを体験的に知っています。ですから、伸び悩んでいる生徒がいても、その子がだめだとは考えていません。どんな生徒にもすばらしい面があります。すべての生徒が、まだ誰も知らない素質・才能・可能性を秘めているということを、その監督である教員が信じて指導に当たる。そうした基本の姿勢が、今の大阪桐蔭の根底にはあるのです。
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