感染症は国境を越えて

ある福祉施設の方から、次のような趣旨の質問をいただきました。

「昨年の12月からノロウイルスで亡くなる方の報道が多かったように思います。どのようなことが原因で多かったのでしょうか? 原因が分からないと、施設の皆さんが必要以上にノロウイルスが怖いものだと思ってしまう気がします」

たしかに今シーズンは、急にノロウイルスによる死亡事例の報道が相次ぎました。もちろん、今年は例年よりも多かったと私も思います。しかし、ノロウイルスの流行は今年に始まったことではありませんし、毎年のように介護施設でお年寄りの命を奪っていたことも知っています。死亡報道によらず、「今年はノロの話題が活発だなぁ」と感じている方は多かったのではないでしょうか? 実は、今年に限って、これだけ報道された背景には「病名が見えたことにより注目してしまった」ことがあるようです。

私たちには何が見えていて、何が見えていないか。何を見ようとしていて、何を見ようとしていないか。このような自己認識をもって、世の中の観察事象を捉えることは、科学的思考の第一歩といえます。そんな思考に立ち返って、このノロウイルス騒動を考えてみたいと思います。

簡便なイムノクロマト法による迅速診断キットが、ノロウイルスについて商品化されたのは2008年冬のことでした。それまでは、高齢者がノロウイルス腸炎で亡くなっても、そもそも診断しようがなかったんですね。なので、2008年までは「高齢者のノロウイルス腸炎が見えない時代」といえます。

ただし、ノロウイルスによる食中毒は別です。食品衛生法で食中毒に関しての届出規定があるので、医療機関で食中毒が疑われたら、速やかに保健所に届けなければなりません。そして、保健所は地方衛生研究所に依頼して、専門機器を用いるRT-PCR法によりノロウイルスを同定していました。つまり、「ノロウイルスの食中毒は見ようとしていた時代」ともいえますね。だから、このころから「飲食店提供の仕出料理でノロウイルス食中毒」みたいな記事は多かったのです。ただし、寝たきり高齢者が外食をしたり、仕出し弁当を食べるような機会はまずないこともあり、食中毒による死亡者が出ることはありませんでした。

さて、2008年になり、ついにノロウイルスの迅速診断キットが発売されました。医療機関において簡便に診断ができるようになったのですが、まだ保険適応になっていなかったので普及までには至りません。全額(2000~5000円程度)を自己負担で検査をお勧めしなければならなかったからです。

「感染性腸炎の迅速診断ですがノロウイルスだけは検査法があります。やってみますか? ただし、検査料3000円の自己負担をお願いしています」
「ノロウイルスと分かったら、特別な治療法があるのですか?」
「いいえ、ありません。他の下痢症と同じことをします」
「では、結構です」

こんな会話が日本中で重ねられたことと思います。つまり、これは「高齢者のノロウイルス腸炎を見ようとしていない時代」といえます。だから、なかなか報道にもならなかったのです。

ところが、昨年(2012年)春、ついにノロウイルスの迅速診断が保険適応となりました。もうお分かりですね。安価に検査ができるようになったので、「高齢者のノロウイルス腸炎を見ようとする時代」がやってきたのです。

こうして、「お腹の風邪をこじらせて亡くなった」という解釈で終わっていた高齢者の下痢症について、少なからずノロウイルスが原因であることが、今年になって明らかとなってきました。そして、「介護施設でノロウイルス集団感染」という記事が紙面を飾るようになったのです。決して「昔は食中毒が多かったのに、最近は介護施設で流行している」わけではありません。これは単に、私たちの見る姿勢によって作られた観察事象なんです。これを、疫学の世界では「検出バイアス」と呼んでいるのです。

横浜市の病院で4人の高齢者がノロウイルス腸炎により亡くなるという「事件」がありましたが、その年齢は80歳、92歳、95歳、そして97歳だったそうです。この方々はどのような感染症であれ、死亡するリスクが高い方々だったと思います。

ウイルス感染症であれば、集団生活、とくにトイレの共有などが感染拡大要因としてあります。さらに、手洗いなどの衛生行動が守れない認知症高齢者の感染リスクは高まりますね。そして、そのようなインパクトは、有名無名のウイルスによって、常にどこかの高齢者施設や療養型医療機関で発生していたのです。

ただ、感染症の微生物名がつかなければ、新聞記者は報道しようがないし、行政は指導しようがないのでしょう。もちろん、ある程度のアウトブレイクなら保健所は察知して調べる努力をしています。でも、行政がアクションを起こせるのは(つまり指導を入れるのは)、やっぱり微生物名が明らかになってからねんですよね。症候に対して行動を起こしている医療者との懸隔について、もっと世間の人々は理解するべきでしょう。

いま、安価に簡便に迅速診断が可能なウイルスは、ノロとインフルエンザだけです(小児領域だったら、他にもアデノとか、RSとか、ロタとかありますけど・・・)。だから、お約束のようにノロとインフルだけ世間は騒いでいるのです。もし、今後、ヒトメタニューモの迅速診断キットが発売されれば、そこにヒトメタニューモが加わるでしょう。

でも言うまでもなく、私たち医療者は「名」のあるなしに関わらず、高齢者を守ってゆかなければなりません。新聞記事や行政指導に気を取られすぎると、そのような目が霞んでしまう恐れがあると私は思います。見えているところ、見ようとしているところだけに気を取られず、ハイリスク高齢者のコミュニティで何が起きているのか、リアルな事象を捉えてゆこうとする科学的姿勢が求められていると思います。

それでも、いつか人は老いて衰弱し、やがて微生物に負けてしまうもの。これが自然の摂理なんですけど・・・

高山義浩 (たかやま・よしひろ)

1970年、福岡県生まれ。地域医療から国際保健、臨床から行政まで幅広いフィールドで活動。臨床では、国立病院九州医療センター、九州大学病院、JA長野厚生連佐久総合病院を経て、沖縄県立中部病院において感染症診療と院内感染対策に従事。また、在宅緩和ケアにも取り組んできた。行政では、2009年の新型インフルエンザ流行時に、厚生労働省においてパンデミック医療体制の構築に取り組んだほか、2014年からは2025年問題に対応する地域医療構想(ビジョン)の策定支援に従事している(現職)。単著として、『アジアスケッチ ~目撃される文明・宗教・民族』(白馬社)、『ホワイトボックス ~病院医療の現場から』(産経新聞出版)がある。
ツイッターhttp://twitter.com/hiro_icd

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