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【栃木】

「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(3) 二荒山神社脇の防空壕跡 絵本作家の大門高子さん(69)

かつていくつもの防空壕があった場所。今は駐車場の裏になっている=宇都宮市で

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 今は立体駐車場になり、正確な位置は分からない。でも、ビル街の一角に風情はある。宇都宮市中心部の宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社の脇には十数年前まで、防空壕(ごう)がいくつも残っていた。一つで四十人ほど入れる大きな穴。近くの住民らが戦火から逃れるために掘った。

 東京都北区に住む元小学校教諭で、現在は絵本作家兼作詞家として活動する大門(おおかど)高子さん(69)は、宇都宮空襲があった当時、生後わずか十日目の乳飲み子だった。

 一九四五年七月十二日午後十一時すぎ。二荒山の近くに住んでいた家族は必死で逃げていた。自宅から二百メートルの防空壕へ、母親が兄の手を引いて走った。途中、衣服に火が付き、泣き叫ぶ人たちがいた。生まれたばかりの大門さんは毛布にくるまれ、母の腕の中にいた。

 防空壕にたどり着くと、母親が抱えていたはずの赤ちゃんがいない。逃げるのに夢中で、途中で落としてしまったことに気づかなかった。取り乱して自宅へ戻る。二十分ほどで見つけ、大門さんは奇跡的に助かった。そう何度も兄から聞いてきた。

 「私は戦争の『落とし子』なんです。記憶のない生後十日目の空襲体験が、自分にとっては生きる原点になっている」

 十二歳のころ、子どものいなかった都内に住む叔父の元に養子に入り、生まれ故郷の宇都宮を離れた。大学を卒業し、教師になってから千葉県や都内で暮らしたが、生後間もない戦争体験によって「大事な子どもたちを戦場には送りたくない」との思いに突き動かされてきた。

 宇都宮空襲では、女性や子どもなど多くの弱い命が奪われた。小学校や地域で平和教育を進める中、そこに人を追い立てた戦争への憎しみが強まった。

 五十四歳で教師を辞めてからは、都内で空襲体験を聞く講座を催したり、公害反対や平和運動に取り組んだりした。近年は終戦後、大陸から日本軍兵士が持ち帰った「むらさき花だいこん」という花を題材にした絵本を書き、合唱曲にもしてきた。その縁で中国を何度も訪問した。

 平和運動を通じて、輪は広がった。戦時下の動物の受難を描いた絵本の名作「ぞうれっしゃがやってきた」を基に、合唱曲を作曲した藤村記一郎さんとも一緒に平和の曲を作った。子どもたちに絵本を読んだり、都内でミュージカルのプロデュースや作詞をしたり。合唱で平和への思いをつなげる全国運動にも携わる。一行の歌詞を書くために何冊も本を読み、事実に向き合う。

 終戦の年に生まれ、今も平和運動に心血を注ぐ大門さん。多忙ながら、宇都宮で戦争体験をした友人をテーマにミュージカルを作る約束もしている。

 「原点は宇都宮の空襲にあるから」。六月にある小学校のクラス会を心待ちにしつつ、自分で決めた大きな宿題に取り組む。

   (後藤慎一)

 

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