川俣線の歴史は、大正15年3月に東北本線松川駅〜岩代川俣駅間の12.2キロにおいて開通した。その後昭和19年には不要不急路線として休止、昭和21年に復活したが昭和47年5月に廃止となる。常磐線の浪江駅と接続する計画も持っていたが、ついに盲腸線のままその役目を終えた。 |
川俣線は東北本線松川駅の構内北側より東方向に分岐していく。一番右の線路が北芝電気への引き込み線と平行していく川俣線の跡。川俣線の跡には線路はひかれていない。 | |
ちょっと脇道にそれるが、松川駅の危険品庫は日本鉄道時代に作られたものである。白石駅にも同じようなオランダ積の危険品庫があり、このカマボコ型の屋根が特色である。開業が明治20年なので、おそらくその時期につくられたものであろう。 | |
鉄道廃線跡を歩く等の文献によく書かれている、廃線跡に架線が張られている場所は、架線はなくなっていた。その後は工業団地造成の為路盤は消失するが、国道4号線とクロスするあたりから、再び出現する。 | |
市道の下をアンダークロスして路盤は進んでいく。 | |
その後、県道51号線とクロスした後、しばらく県道と並行して川俣線の築堤が残っている。 | |
沼袋隧道(仮称)へと続く路盤は、道路建設により完全に消失している。 | |
道路の少し下に隧道は口を開けていた。雪が強くなったため、写真が不鮮明だが勘弁。どうしようかなぁ…。行く?やっぱり行くでしょうw | |
というわけで、内部へワープw石造りと思ったが、よく見るとコンクリートブロックで作られている。大正期の煉瓦〜コンクリートへの過渡期によく使われた手法である。 | |
予想はしていたが、完全閉塞である。モルタルでかなり念入りに固めてあり、全く隙間はない。いや、たとえ隙間があっても反対側は完全に埋没しており、坑門は存在しない。 | |
おそらく閉塞地点は入口からちょうど半分、50M程の場所であろう。歩けば2分で行けたみたいであるw | |
川俣側に伸びる路盤跡。この後阿武隈川を渡る橋梁があるのだが、今回はこの雪のため断念。滑って落ちるのもいやなので。 | |
阿武隈川を渡った後は県道307号に並行して路盤跡の道路が進む。 | |
飯野町向平付近に残る切通の跡。夏場はかなりの藪のようである。この季節に見ると、まるで現役の路線のような錯覚に陥る。 | |
藤柄付近で県道に合流するまで、路盤の跡が続いていく。 | |
県道307号に合流した路盤跡。この後県道39号に合流するが、鉄道の痕跡は残っていない。 | |
岩代松野駅跡には福祉センターが建っている。福祉センター前の松は、川俣線開業時の記念に植樹されたということだ。 | |
すぐ横にはC−1260が静態保存されていた。 | |
国道114号と並行して道路となった廃線跡。 | |
終点の川俣駅跡には名前だけ資料館(笑)が建っている。 | |
今もどことなく駅前道路の雰囲気が残っていた。 END |