一人二役の謎 YO・JO   

 

 一般に、推理小説などで甲乙二人の人間が同一人物であった場合、この甲と乙は同時に別の場所に存在することはない。甲が活動している場合は、乙は活動してなく、乙が活動している時期には、甲は姿を隠しているのが、一人二役のトリックが成立する根本的な条件である。 歴史の中でも、一人二役のトリックといわれるものがいくつかある。特に有名なのは、源義経=成吉思汗説である。源義経は1159年、成吉思汗1158年あたりとほぼ同年代に生まれている。源義経が1180年に源平の戦いに参加してから、1189年衣川にて藤原泰衡に攻められて死ぬまで日本で活躍している。一方、成吉思汗が歴史上に名をなすのは1206年に即位した時であり、それ以前は伝説として伝えられているだけで定かではない。

 東北から北海道にかけて昔から伝えられている義経の遺跡や伝説が数多〈残っている。徳川光圀(水戸黄門)の大日本史では「世に伝う、義経衣川の館に死せず、逃れて蝦夷に至ると。」と記している。義経は衣川を脱して、蝦夷に逃れ、さらに大陸に渡った可能性は十分にある。逆にそのことを完全に打ち消す確証はない。

 そもそも13世紀に突如と出現した大義古帝国は世界史上最大の奇跡である。それまでのモンゴル地方は、遊牧民族の集まりであった民族であり、統一することは至難のわざと思われる。成吉思汗が突如現われたよりも、義経や武蔵坊弁慶等のすぐれた武将がモンゴルを統一した方が自然であると思われる。 しかも、1206年に成吉思汗が即位した時には、白旗を使用し、源氏の紋であった笹竜胆は、現在モンゴルやロシアの遺跡にあるという。

 モンゴルは8月15日に成吉思汗の命日としてオボー祭という祭りを行なっているが、義経が少年時代を過ごした鞍馬山では同じく8月15日に義経忌という法要が現在でも行なわれている。義緩の衣川での命日は旧暦の開4月30日であるので、義経が成吉思汗になったことは鞍馬山に伝わり、成吉思汗の命日を選んで法要を行なっていると考えられる。これらのことが、偶然の一致で片付けられるのだろうか。

 源義経=成吉思汗説は、800年もたった現在立証することは困難であるものの、多くの共通点があり、しかも両者が同一人物でないと完全に否定できる材料もない。 もし元寇時に北条時宗がフビライ(成吉思汗の孫、元の皇帝)と友好関係を結んでいたならば、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した足利尊氏、楠木正成、新田義貞等の有能な武将が大陸で活躍し、元の黄金時代を延長させ、日本人によるユーラシ大陸征服というスケールの大きな夢が実現したかもしれない。

源義経=成吉思汗説に比べるとスケールの大きさではおよばないものの、意外性の点では匹敵するのが明智光秀=天海説である。 明智光秀は、1582年に本能寺の変で織田信長を討ちとりながら、豊臣秀吉に討たれ、3日天下で終わったことで有名である。1526年生まれと言われているが、前半生はほとんどわかっていない。ある意味では、明智光秀は生涯最後の半月で日本史の流れを大きく変化させるために戦国時代に現われたようにも思える。 

 一方、天海は、徳川初期政権の最大の政治顧問であり、徳川家康の死後家康の遺体を久能山から日光に改葬した人物である。1643年108歳にて没したと言われいるので、没年から逆算すると1536年生まれになる。 二人の生年が十年違っていても、この二人の人物の前生はほとんど謎であり、言い伝えられている生年も正確性にかけるのでこの差はあまり気にすることはない。

 明智光秀の死後、天海は家康に仕えて頭角を現わしている。それ以前の天海の足取りはあきらかではないので、一人二役のトリックか成立する可能性は十分にある。 明智光秀=天海説の根拠としては、日光に明智平というところかある。これは、天海が自分の名を残すために名付けたといわれている。また、3代将軍徳川家光の乳母で女帝とも呼ばれた春日局は明智光秀の家釆の娘であった。当時女帝と呼ばれた春日局は、なぜか僧侶である天海の前では臣下の礼をとったという。

 かりに、明智光秀=天海説が成立した場合には、どのようなことになるだろうか。ずばり、織田信長の殺したのは明智光秀と徳川家康の共謀ということになる。むしろ、徳川家康こそが本能寺の変の仕掛け人かもしれない。徳川家康は、本能寺の変の3年前に正室築山殿と長男信康を信長の命により、殺しており、信長に対して恨みを抱いていたはずである。山崎の戦いにて土民に槍でつかれたのは、替え玉であり、家康が光秀を保護して黒幕として雇ったと考えられる。 

 家康が天下を取って、江戸幕府が成立した後に、当時の歴史家が、本能寺の変は光秀の怨恨説であることを広めたと言われている。家藤共謀説を消すために本能寺の変を婉曲させ、情報操作をしたと思われる。 このように、明智光秀=天海説は、信長暗殺のかげに家康ありということになり、江戸時代に証拠隠滅させた可能性もあるので、あながちうそとは言えない。

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