トンデモナイ大嘘の記事
をみつけました。


以下がその記事です。

うその萌芽 --- 山中 淑雄
からの引用です。

戦時慰安婦のうその種がどのように蒔かれ、それが芽生えた時にどんな人達がそれを育て、花を咲かせ、実を収穫したかはもうほとんど明らかになっているのでここでは触れず、『図書』の今月号(8月)の日本研究者のNorma M. Field氏と心理臨床家の横湯園子氏の「絶望をくぐりぬけて生きていくために」と題する対談に認められるうその萌芽に言及してみたい。
(中略)
横湯氏は震災後の南相馬の海岸に立った時に、
(4、5歳の頃に?)富士山の裾野でグラマン機に狙われた時の「笑っているパイロットの目」がよみがえった。
(タコ注:なにしろ4,5才の時の体験だから、もしかしたら)映画のワンシーンだったかもしれないという心理も働き、軍事研究家に訊いてみたら、「戦争のヒヤリングの中ではその話が多く出てきますよ。実際の体験でしょう」と言われた、という。

横湯氏は慎重に、幼児を狙って機銃掃射するグラマン機のアメリカ兵の「笑っている顔」と言わず「笑っている目」と言い、しかもそれを自分が見たとは断言しない。軍事研究家が「その話は他にも多く聞いたことがあるから本当でしょう」と言ってくれたというのだが、疑い深い私は、ここにいくつものうその種があると思う。

目が笑っている、という言い方でアメリカ兵が殺戮を楽しんでいたことを示唆する種まき。恐怖に引きつった目と笑った時の目はどう違うのか。どれほどの低空飛行なら(ゴーグルをかけていたかもしれない)飛行士の目が見えるのか。軍事研究家を持ちだしたのは、種まきをしたのは他人としておく便法ではないのか。
軍事研究家が言ったことが本当としたら、グラマン機の操縦士(射手が別にいるのかは知らない)は皆目が笑っていたことになるが、漫画としか思えない。
(以下略)

以上引用終わり。

以下、この話しに原発の話を絡めて反原発運動を批判しています(リンク先をどうぞ)。
原発擁護の部分を取り出して「鼻血は?食べて応援は?」などと批判してもよいのですが、いつもの調子で厳しくやると、逆に「言論狩りじゃね?」と言われかねなさそうなので(^_^;)
ここは、自粛して…

引用した部分は眼に余る酷いウソだらけなので歴史のお勉強をば(^o^)

以下は
アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
からの引用です。

沖縄本島には千二百隻の艦船に分乗する17万人のアメリカ軍が来攻した。
わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。
―――――――

以下、マックス・ヘイスティングス著(イギリスの歴史作家)

ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
―――――――

一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。
とくに沖縄戦がそうだった。

クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。

『地面に15歳か、16歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、
少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、
何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。
赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、
「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」
と、叫んだ。

兵がいっせいに射撃した。
女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。』

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

(中略)
【サイパン】米兵、婦女子らに残虐行為
昭和19年7月9日、元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の田中徳裕(のりすけ)氏らが山の中腹の洞窟から眼下のバナデル飛行場で繰り広げられた惨状を証言
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我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実
田中徳裕著(立風書房 昭和58年)

からのまとめ。

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、約3個師団と推測される敵兵が上陸してきた。
そこからサイパン島の陸上戦が始まった。
当時のサイパン島には砂糖工場があり、民間人も居住していたため、かなり悲惨な結果になってしまった。

7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり掃討戦の様相をあらわしてきた。
敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し投降を促す放送を流し始めた。
日本軍は組織的な抵抗は捨て、あちこちに散らばった洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。
米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、隠れている日本人に投降を勧めた。
「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も充分に与えます。もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降を待っています」
その後に、「兎追いしかの山~」と続く童謡を流し始めた。
その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などが流されたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出て来てください。」
投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

ところが米軍は、投降呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。
日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、その距離1キロ位先で惨劇は展開された。
そこでは三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた
そして、無理やりトラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった(この婦女子たちはその後一人として生還しなかった)。

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴。
「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」
という投降勧告一体なんだったのか。


常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。
幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。
残虐な行為は凄絶をきわめた。
火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、
ゲラゲラ笑いなが、また火の中へ突き返す。
かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて
泣いている赤ん坊を見つけ出し、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。
「ギャッ」という悲鳴。
人間がまるで蛙のように股さきにされ殺されてゆく。


彼らは、それをやっては大声で笑った。
無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

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(タコ注:サイパン島で断崖絶壁から飛び降り自殺する民間人女性たち。鬼畜米兵に強姦後に殺されるよりは自ら死を選びました。)
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(タコ注:フリーメイソンとサイエントロジーの行う悪魔教の拷問=生け贄の儀式。動画:
Scientology Religion Revealed (Shows Child Tortur…」より)


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連合軍が日本兵を捕虜にせず殺害しまくった例は枚挙に暇がない。
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カリフォルニア大学のジョン・ダワー教授はその著『人種偏見』
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【改題】『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別』において、連合軍側の虐殺行為を詳しく紹介している。

例えば、すでに米軍の支配下にあった島に、仲間とはぐれた日本兵を一人放ち、その兵士が身の安全を求めて狂ったように駆け出すところを銃の標的として楽しんだ。

ペリリュー島や沖縄の激戦地で、米軍兵士は日本兵の死体から手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯を漁る、死体のあいた口めがけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から逃れさせてやっただけだ」と気にもとめない、といった具合である。

太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、1946年一昭和21年一の『アトランティック・マンスリー』誌の『One War Is Enoug』という記事に、
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、または他の骨でぺーパーナイフを作るとかしてきたのだ」
と書いた。
これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。

ジョン・ダワー教授はいう。
「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。
たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を与えられている。」

さらに、ダワー教授はこう述べる。
連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。 」
(中略)
動画アメリカ軍による日本内地への機銃掃射
(中略)
■病院に対する爆撃
昭和19年( 1944年 )5月24日にブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第8海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら1千4百名が死傷した。
病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという
国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。

■遺体を損壊する行為
日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。

日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。
「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いてネックレスでも作るかな 」と一人が言う。
「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」ともう一人が宣言する。
「 塩漬けにしてな」。( ガダルカナル日記、1942年 )

戦後出版された水兵の日記の1944年( 昭和19年)7月の記述に、すでに 17個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。
( 「容赦なき戦争」【改題】『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 (平凡社ライブラリー)』ジョン・ダワー著 より)
(以下略。要参照)

以上引用終わり。

以下は
人種蔑視に基づく蛮行 …日本軍将兵の頭蓋骨は35$の土産物にされた!
からの引用です(写真等追記)。

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1月には、アフガニスタン反政府武装勢力
タリバン兵士3人の遺体に、「金色のシャワーだ」などと冗談を口にしながら、笑顔で小便を掛ける4人の米海兵隊員の動画がインターネットに投稿され、
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その映像を観たアフガニスタン国軍兵士が駐留外国部隊への反発を募らせ、報復として、仏軍兵士4人を射殺した事件が起きている。

2006年にも、アフガニスタン駐留の国際治安支援部隊(ISAF)独軍兵士が、アフガニスタン人の頭蓋骨を掲げた記念写真がドイツの大衆紙「ビルト」に掲載され、非難を浴びたことは記憶に新しい。
遺体を冒涜する5枚の写真は2003年に撮影されたもので、頭蓋骨を掲げた記念撮影の他に、
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切り取ったペニスを頭蓋骨に接触させるシーンやパトロール用のジープの先端に頭蓋骨を引っ掛けた異常なシーンの写真があった。

問題とされている米陸軍第82空挺師団兵士に依る不祥事は、敵兵の遺体を辱める行為であり、
武力紛争による敵戦闘員の遺体は尊厳を持って扱うと定めるジュネーブ条約に抵触し、倫理的にも非難されるべきは当然のことであるが、アングロサクソン主導社会である米国の一般世論も、米国防総省が政治的判断で表明しているように、当事者の兵士たちを懲戒に処するほどの非道と捉えているかは、甚だ疑問に思うところである。

何故ならば、当該の遺体への冒涜などは、20世紀半ばの太平洋戦争に於ける、
米軍兵士に依る日本軍兵士の遺体への惨憺たる陵辱の蛮行とは比較にならないほど、些細な行為と言えるからである。


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日本軍兵士の頭部を煮る米軍兵士(1944年)


クリント・イーストウッド監督作品である映画「硫黄島からの手紙」にも描かれているが、硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、水際作戦の防衛戦術を主張し、米軍を上陸させた後の撃滅作戦を意図した総司令官栗林中将と対立したことで更迭され、アメリカ軍上陸前に本土へ転任させられていたことで、生きて終戦を迎えた。
戦後、彼が天台宗の僧侶となり、硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦闘に於ける戦没者の供養と遺骨収容とに余生を捧げたことは世に知られている。

彼は戦後、硫黄島守備隊戦死者の遺骨収集の為に奔走し、未だGHQの占領下に在った日本政府と米国政府に掛け合い、幾多の困難を経て、硫黄島に渡り、玉砕した将兵の遺骨収集を実現させた。
その彼が現地で目にしたものは、「収集した遺骨の内、1000体分に頭蓋骨が見当たらない」という異様な惨状であったのだ。

上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」に依れば、彼は硫黄島駐屯のヤングス空軍少佐と、グアム島駐屯のコリンズ海軍大佐に、頭蓋骨の数が足りないことを告げ、米軍当局の釈明を求めて抗議をしたが、「そのことは承知しているが、現段階では声高に糾弾せず、当方に任せて欲しい」との返答があったという。
また別の戦場のケースとして、戦後にマリアナ諸島から日本軍将兵の遺体が送還された時、その約60%には頭蓋骨が無かったいう記録もある。

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米海軍魚雷艇341号艇甲板上で、日本軍将兵の頭蓋骨を弄ぶマクファーソン海軍中尉
。(1944年4月30日ニューギニア戦線)


これが何を意味するかと言えば、日本軍と戦った太平洋戦線の米軍兵士の間には、
戦勝記念に日本軍将兵の頭蓋骨を持ち帰るという猟奇的な習慣があったということである。
頭蓋骨のコレクションどころか、米軍兵士に依る日本軍将兵の遺体損壊という残虐な猟奇行為は日常化していたのである。

1927年(昭和2年)に、スピリット・オブ・セントルイス号で大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したチャールズ・リンドバーグが、その従軍日誌「リンドバーグ第二次世界大戦日記」で、米軍兵士の日本軍将兵の遺体への目に余る冒涜の目撃談を著わし、その実態を告発していることも有名である。
遺体に小便を掛けることや、遺体を的にしての射撃、頭蓋骨をボール代わりにしてサッカーをするなどは序の口で、ペニスを切り取って、口に咥えさせる、耳や鼻を切り取って、ネックレスにする、帰還する時に持ち帰る為に耳や鼻を
乾燥させる、ゴールドラッシュと嘯きながら、金歯を抜き取る、砲弾が着弾して出来た穴に遺体を放り込んでおいて、その場を残飯などの廃棄物の集積所にするなど、獣にも劣る蛮行が日常化していたのである。

中には生首をそのまま持っていた海兵隊員がいて、悪臭が強くなり過ぎたことから、その首を上官から取り上げられたというおぞましい話もある。
馬鹿は馬鹿なりに知恵を働かせるもので、頭蓋骨から肉片を取り除く為に、煮るようになったという。
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そうして出来上がった肉を削ぎ落とした頭蓋骨は、一体35ドルの値で売買されていたということである。

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木に吊るされた日本軍将兵の生首。(1945年ビルマ戦線)


これほどまでの遺体への冒涜は、日本人に対する人種差別的感情が無ければ、為し得なかったことであったろう。
ヨーロッパ戦線での激戦場でも、独軍兵士の遺体の切り取りが流行したなど聞いたことが無い

1952年に、米国の移民と国籍に関する事項を定めた法律である移民国籍法は、ネバダ州選出の上院議員パトリック・マッカランとペンシルベニア州選出の下院議員フランシス・ウォルター、二人の策定の下、制定された法律で、マッカラン=ウォルター法とも言われるが、この人種差別主義者のフランシス・ウォルターは、太平洋戦線で戦死した日本軍兵士の肘から手首に掛けての骨、前腕骨で作つたペーパーナイフを嬉々として、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の贈呈した人物でもある。
日本を巧妙な謀略で対米戦争へと誘い込んだ、卑劣な人種差別主義者であったルーズベルト大統領は、そのペーパーナイフを愛用している自らの写真を反日キャンペーンに利用していたという。

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日本軍兵士の頭蓋骨を送ってくれた米軍兵士に礼状を書く女性「ライフ誌1944年5月22日」


ミズリー州のカトリック教大司教管区内の一教徒が、友人の子供が太平洋戦線に従軍中の兄から送って来た日本軍将兵の頭蓋骨をおもちゃにして遊んでいるのを目撃し、その旨教会へ通報したのが発端となって、米国内で遺体冒涜問題
が議論に上るに至った。
同教会は機関週報「アーチ・ディオシイス」誌上で、米軍兵士の背徳心を非難し、「教会の掟は邪悪な目的を以って死体を冒涜することを禁じている。死後の人間の身体に対する礼儀として、頭蓋骨は適当に埋葬されねばならない。敵国人の身体の一部であるか、どうかに依って区別されるべき問題ではない」との厳重警告を米国社会に発した。

また、米国のグラフ雑誌「ライフ」1944年(昭和19年)5月22日号に、米軍兵士が戦地から米国本土の彼女に記念品として送って来た日本軍兵士の頭蓋骨を使ったトロフィーが机の上に置かれ、それを眺めながら寄贈に対する礼状を書く女性の写真が掲載された。

その写真を入手したドイツ外務省は、外国新聞記者団会見を開き、写真を公開すると共に、「かかることは、ドイツ人の考え方を以ってしては到底、想像も付かぬことで、アメリカの道義が如何に頽廃しているかを最も明らかに示すものと言えよう。正に『首狩り時代』の再現である。アメリカが、往昔の食人時代に復帰していることを物語るものに他ならない」
との見解を発表した。
(以下略。要参照)

以上引用終わり。

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上下ともに写真はこちらから【英語版】
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ペリリュー島とタラワ島の日本兵の頭蓋骨
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チェコにあるリヒテンシュタイン家の剥製のコレクション


以下は
スポーツハンティング
からの引用です。

サフル大陸(オーストラリア大陸)では、1788年よりイギリスによる植民地化がはじまるにつれ、動物のみならず、
原住民であるアボリジニをスポーツハンティングするようになる。
1803年にはタスマニアへの植民が始まってからは、同じくタスマニア島のアボリジニに対するスポーツハンティングが行われ、さらには、
組織的なアボリジニー襲撃隊も編成され、島を一列で縦断し島民をすべて虐殺した。

このようなアボリジニへのスポーツハンティングの背景には、アボリジニを人類以前の類人猿とみなす人種差別的な当時の考え方があった。

なお、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。

以下は
元海上自衛隊海将補、平間洋一著『日露戦争が変えた世界史
からの引用です。

白豪主義政策が国是となり、「アボリジニ狩り」をしていたことを示すものとして、ニューサウスウェールズ州立図書館には、「今日の収穫27匹」という記録がある。
入植者にはアボリジニを殺害することへの罪の意識は全くなく、
楽しいハンティングのようなものであった。

しかしその後、「狩り」が問題となると、ヒ素や水銀などを水飲み場に流し毒殺するなど、アボリジニ殲滅の方法は陰湿になっていった。

アボリジニの虐殺に関する子供の時の思い出を、女流詩人メアリー・ギルモアは『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙(1938年3月4日)に次のように書いている。
「水飲み場の周辺に何百人ものアボリジニが死んでいた。大人たちが集まり、アボリジニの狩りに出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛な狩猟犬が輸入された。アボリジニたちを狩りだし、食い殺させるためだった。ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んでいるのも見た」
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(オーストラリアの10ドル札の裏側に描かれた
メアリー・ギルモア)

1935年、国際連盟は原住民の虐殺や差別について、オーストラリア政府に釈明を求めた。しかし、オーストラリア政府はそもそもアボリジニを国民とみなしていなかったので、人口動態国勢調査対象からも外し続け、アボリジニを人口統計に入れたのは1976年の憲法改正以降であった。
2000年のシドニー・オリンピックの開会式では、アボリジニとの融和を演出しようとしたが、反発が強く一部が協力を拒否したため、白人がアボリジニに扮して友好和解を世界にアピールする演出をしたという。
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特に悲惨なのはタスマニア島の原住民で、当初は3万7000人が住んでいたが、1847年には44人となり、最後には絶滅してしまった。

以上引用終わり。

抵抗できない黄色い子猿のハンティングを彼らは楽しんでやっているのだから、『幼児を狙って機銃掃射するアメリカ兵の「顔が笑っている」』のは当然なんですが?

正に
『軍事研究家が「その話は他にも多く聞いたことがあるから本当でしょう」』
とある通り。


ほんと、
原発安全厨はウソつきばかりですね。

ここまで来ると
山中 淑雄をはじめとする原発安全厨は『人間のクズ』と言ったほうがよい?


湯の花トンネル列車銃撃事件
以下はこちらから
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大山口列車空襲事件

筑紫駅列車空襲事件

多治見駅列車空襲事件

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艦上戦闘機F4Fワイルドキャット。
初期の零戦の相手。
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艦上戦闘機F6Fヘルキャット。
大パワーのエンジンによる、高速と一撃離脱戦術で零戦を苦しめた。
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傑作機の誉れ高い陸上戦闘機P-51マスタング。
陸軍の戦闘機ながらしばしば日本に飛来し、
女子供を標的にしたスポーツハンティング楽しんだ
ことで名を馳せました

動画「B-29 P-51本土空襲
茨木の空襲 ③ 逃げ惑う児童を校舎に追い詰め機銃掃射
観音(かんのん)様が銃撃された日~1945年7月19日の銚子大空襲~

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ロッキード P-38 ライトニング。
初期には零戦のカモとなった双発戦闘機。
山本五十六長官座乗の一式陸上攻撃機を撃墜したことで有名。

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終戦直前の米軍機による機銃掃射で右腕を吹き飛ばされた豊村美恵子さん。昭和2年東京生まれ。父親、母親、姉、弟の家族4人が3月10日の東京大空襲により死亡。写真はこちらから


こちらも
日本本土空襲

以下は
沖縄戦と占領への新鮮な怒りを
施政権返還後も占領状態は同じ
日本人を虫ケラのあつかい

からの引用です。

米兵が、壕に隠れていた男たちを追い出し、
救うようなふりをしてタバコを与えて背後から射殺したり、隠れていた穴から飛び出してきた国民学校の生徒を射殺したことも目撃されている。
食糧確保のため離島に渡った若い娘が米兵に追われ射殺されたり、妻子に乱暴しようとした米兵をいさめた夫を米兵が連れ出して射殺したり、米兵が来るまえに女性を逃がしてやった村人を正座させたまま射殺するなど蛮行のかぎりをつくした。
本部半島のある部落では海兵隊上陸直後に部落中の婦人が米兵に襲われた。男が戦争にかり出され、女、子ども、老人しか残っていないところを狙った蛮行だった。

米兵の婦女暴行事件は戦火がやみ、米軍の支配下におかれてますますひどくなり、多くの混血児が生まれた。夜になると鉄条網がはられ逃げられない収容所を米兵の集団が襲って「娘狩り」をくり返すため、そのたびごとに酸素ボンベを打ち鳴らして女性たちを逃がす状態だった。米兵から襲われて殺されたり、混血児を産まされた証言はきわめて多い。

45年7月時点で合計約32万人余の沖縄住民と旧軍人などが米軍政下に入った。軍人などは捕虜収容所、住民は難民収容所に収容。収容所では入所と同時に殺虫剤を散布され、新しい衣服に変えさせられた。それは米兵を伝染病から守るためだった。
そして必死に戦場を生きのびてきた住民にわずかな食糧しか与えず、負傷者や栄養失調者にもまともな手当てをしなかった。しかも重病人以外は自分の食糧確保のための農作業と米軍用道路や基地建設工事にかり出しこき使った。一般住民も米兵のきびしい管理下で「捕虜」あつかいされ、劣悪な衛生環境のなかで多数の死者が出た。浦添村民の収容所では312人が死亡したが、それは浦添全体の死者の1割にのぼった。

□米兵の犯罪が多発 占領後の沖縄
米兵の犯罪は戦後もへることはなかった。
とくに射殺、刺殺、撲殺、強姦といった残虐な方法の殺害がめだった。傷害も強姦傷害、婦女暴行傷害、発砲による傷害が多く、真先に被害を受けるのは婦女子であった。
沖縄での米軍人・軍属による刑事事件は53年から71年までの18年間だけで1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)にのぼる。それは毎日2~3件という頻度。施政権が日本に返還された72年から95年の23年間だけでも検挙された沖縄の米兵犯罪は4657件にのぼっている。

戦後の犯罪で頻発した第一は米軍車両による人身事故やひき逃げであった。

45年9月には羽地村の39歳の母親が子どもを背負って野原でヨモギを摘んでいたところ、米兵4人がジープで来ていきなり車のなかに引きずりこまれた。そして(強姦の後に)ジープが猛スピードで曲がったときに親子は振り落とされ、背中の子は即死。母親は全身打撲で傷は完治せず足はびっこをひき、右耳は鼓膜障害で電話も使えない身となった。

さらに同月、当時小学校4年生だった安座間スミ子ちゃん(11歳)が勝連町の道路で8~9人の友達と遊んでいたところ、米兵四人の乗ったジープが近づきチューインガムやビスケットなどを路上に投げ、子どもたちが奪いあって拾うのを笑った。
スミ子ちゃんも背中に負ぶっていた親戚の娘をおろしお菓子を拾いはじめた。
ガムを投げたジープは走り去ったが、そこへ別のジープが疾走してきた。
子どもたちがいることを知っていながら速度を落とさず、米軍のジープがスミ子ちゃんともう1人の子をはね飛ばし走り去った。1人は近くの池に落ち軽傷だったが、スミ子ちゃんは右足大腿部を引かれ後頭部を強打し意識不明となった。だがまだ死んでいないのに米軍の病院は「軍隊は5時までしか病人の手当てはしない」と見殺しにした。そして6時ごろスミ子ちゃんは息をひきとった。

この年の11月当時8歳だった津波実義さんが路上でキャッチボールをしていたところへ米兵のジープが猛スピードで突っこんだ。すぐ病院に運ばれて命はとりとめたが強打した脳に傷害が残り、6年後しばしば卒倒を起こすようになり中学校を退学した。発作が起きるため仕事にもつけなかった。
67年には前原高校2年生がトレーニング中に米兵の車に引かれて即死した。家族にまともな補償もせぬ米軍にたいし怒りが噴出。抗議デモでは高校生が先頭に立った。
さらに米軍機やトラックによる轢殺である。
46年6月に国頭村の海岸で川蟹をとっていた9歳と14歳の少年を米軍機が急降下して襲った。9歳の少年は飛行機の車輪で頭を砕かれ即死。
14歳の少年がかかえ起こそうとしたとき再び飛行機が低空で近づいてきたためススキ原に逃げこみ夢中で部落に帰った。米軍機はトンボと呼ばれる偵察機で意図的な轢殺だった。

52年10月にはコザ中3年の花城安昇君(16歳)がいとこの花城安一君(8歳)を自転車のうしろに乗せて走っていると反対車線から疾走してきた
米軍ガードが道を横切ってわざと自転車に突入。安昇君は即死、安一君は病院で死亡した。犯人は逮捕され裁判にかけられたが無罪となり、無罪判決の3日後には帰国している。

以上引用終わり。

映画『プレデター
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スポーツハンティングをするために地球にやって来た異性人
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異性人により次々と頭蓋骨の剥製=コレクションにされていくアメリカ精鋭特殊部隊
米軍の残虐行為に対するアンチテーゼ?


以下は
日本軍と連合軍との戦死者・捕虜の違い
からの引用です。

米軍の残虐行為について、チャールズ・リンドバーグ(1902〜74)(ニューヨーク~パリ大西洋単独飛行で名を馳せる。日米開戦後、軍の技術顧問。南太平洋に赴任。1954年にピュリッツァー賞授章。1935年に人工心臓を開発)は日記に次ぎの事柄を書き記しています。

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以下リンドバーグの日記より抜粋。

*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。

*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。

*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。

*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。

*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。

*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。

*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。

*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。

*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。

*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。
ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、
日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。

以上で抜粋終わり。

しかも、各戦線でも自国の戦死者の遺体捜査は行うが、日本兵の遺体はそのまま放置。
硫黄島などでも見られるように遺体の片付けもしないまま飛行機の滑走路を造ったりしている。(現在も英霊がそこに眠っています。)
(中略)
日本兵の捕虜が少なく死者が多いのは「生きて虜囚の辱めを受けず」として捕虜になることを無理やり禁じた「戦陣訓」の為だったとする説がありますが、リンドバーグ日記を読むとそうばかりではないことが覗えます。

あまり知られてませんが、「戦陣訓」は日清戦争で清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことに由来し、(タコ注:人食い人種)中国軍の残虐性も垣間見れます。

以上引用終わり。

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米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。


こちらも
自作自演を繰り返しているアメリカの歴史

これらの蛮行の集大成が広島、長崎原爆とABCCです。
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広島、長崎原爆の遠因チャールズ・ダーウィン


以下は
「原爆ホロコースト」の実態 ~ 「原爆」と「冷戦」の舞台裏 ~
からの引用です。

●広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。


トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。 そして被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。

●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。

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写真はこちらから
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ー 被爆者である橋爪文さんが書いた
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少女・14歳の原爆体験記』 (中略) より。ー

「私は広島の生き残りのひとりです。〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。

あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

以下は
朝鮮戦争
からの引用です。

老斤里事件(ノグンリじけん)
7月26日、ヨンドン郡イムゲ里とジュゴク里の住民約500名に、米軍から避難勧告が出された。
安全なところに避難させるから南下しろ」との米軍兵士の言葉に従い,住民は荷造りをして避難の途についた。
米軍はこの時,避難民の荷物を検査し、芝刈り用のカマやノコギリなど武器になりそうなものはすべて押収したといわれる。
(中略)
第25師団長ウィリアム・B・キーン少将による7月26日の「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし発砲せよ」という命令に基づき行われた。 
(中略)
住民を指揮していた米軍兵士たちは、本部と無線連絡を取った後、その場を離れた。
すると間もなく
米軍のP51ムスタング戦闘機が現れた。
戦闘機は、鉄橋の上にいた避難民をめがけて機銃掃射を始めた。
逃げまどう避難民を、銃弾が容赦なく襲ったのだ。人々は先を争って鉄橋下の水路用トンネルへと駆け込んで行ったのだが、しかし、そこは避難所ではなく、彼らの墓地になってしまったのである。
米軍はトンネルの両側の出口に機関銃を設置し、そして一斉射撃を加えた。
逃げ場を失った避難民たちは、理由もわからないまま死体の山を築いていくしかない。
銃撃はその後も米軍が撤退するまで、3日間にわたって断続的に続けられた。
夜半の闇をついて逃げ出した一部の青・壮年を除いて,
老人と子ども,婦人たちのほとんどは殺されてしまった。

以上引用終わり。

これでも、山中 淑雄は

>目が笑っている、
>という言い方でアメリカ兵が殺戮を楽しんでいたことを示唆する種まき。
>恐怖に引きつった目と笑った時の目はどう違うのか。
>どれほどの低空飛行なら(ゴーグルをかけていたかもしれない)飛行士の目が見えるのか。
>軍事研究家を持ちだしたのは、
>種まきをしたのは他人としておく便法ではないのか。
>軍事研究家が言ったことが本当としたら、
>グラマン機の操縦士(射手が別にいるのかは知らない)は皆目が笑っていたことになるが、
>漫画としか思えない。


などとのたまうつもりなのか?

しかも、お前が何かしら慰安婦問題に貢献したとでも言うんか!!
この最低のウソつきに生きる神の速やかなる裁きがくだりますように!!