福沢諭吉の『学問のすすめ』ではありませんが、安倍総理のアメリカ上下両院の合同総会での演説で慰安婦問題や南京大虐殺、バータン死の行進等についての謝罪を入れろと、人喰い人種支那人と懇ろな米国与党民主党が要求しているとのこと。

支那の計略にまんまと乗ることになる
が、そんなことを要求するアメリカとは同盟解消!!

原爆2発を落として抹殺してやれ!!

というより、慰安婦問題同様、再び神様の天罰がアメリカ国民に下ることでしょう。
(^o^)/プゲラ
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今年も何人死ぬことになるやら…(^o^;)プゲラ

いや、ワクワク?
黒人とヒスパニック暴動で日本民間人虐殺アメリカ白人は皆殺しか?


以下は
茨木の空襲 ③ 逃げ惑う児童を校舎に追い詰め機銃掃射
からの引用です。

1945年(昭和20年)7月9日、第二次世界大戦におけるアメリカ軍最強の戦闘機P-51ムスタング(写真↓)約50機が、大阪へ侵入しました。主として豊中飛行場を攻撃し、そのほか周辺町村ならびに三島郡(味生村、玉島村、三箇牧村)、北河内郡、中河内郡の一部を攻撃しました。これが、茨木を襲った2回目の空襲ですが、白昼、逃げ惑う児童を追いかけ回し、逃げ込んだ先が校舎と分かっていながら、猛烈な機銃掃射を浴びせて殺す残虐さは言葉に出来ません。


この日は、夏の太陽がギラギラ照りつけるとても暑い日でした。小学6年生児童は、早朝から新聞を各家庭に配達するのが、銃後の守りとしての役割でした。そのあと、水筒と防空頭巾を肩に掛け、腰に弁当をくくりつけて学校に登校します。学校では、勉強らしい勉強はほとんどなく、荒れ地や堤防を開墾しサツマイモや大豆を植えたりして、食糧増産に一役かうことが小学生の大きな仕事でした。

この日も、朝から6年生約60名は開墾に出かけていきました。午前中の作業を終え、野々宮のお宮さんで、ほんのひとときの楽しみであった昼食をとっていました。


〔児童達が昼食をとっていた野々宮神社-現・乙神社)

その時、敵機の襲来を告げる警戒警報のサイレンがお宮の森に鳴り響きました。みんな「学校なら米軍が来ても安全」と思ったのでしょうか?あわてて学校へ向かって走りました。空襲警報のサイレンと同時に飛行機の爆音も聞こえ、学校をめがけて飛んでくる5,6機の編隊がはっきりと分かりました。米軍機にとっては、児童の動きは手に取るように見渡せるので、まるでウサギ狩りゲームでも楽しむかのように、どんどん後ろから追い立てるように迫ってくる。・・学校までわずか300m位の距離が、ずいぶん長く感じられました。校門をくぐり運動場を走っているとき、頭上に戦闘機が飛び交い機体の星のマークがやけに大きく見えるくらい低空飛行していました。

(当時の玉島国民学校=小学校↑)

やっとの思いで教室に入り、机の下にもぐり親指で耳を残りの指で目をしっかり押さえました(爆風で鼓膜が破れたり、目玉が飛び出さないように身を守るための処置)。また、極度の危機感の中で「もう助からない」と観念したのか、お経を唱える児童もいました(6月の空襲が激しかったときに、学校に行けず村のお寺で勉強したときに、お坊さんがお経を教えたくれた)。

しかし米軍機は、児童が校舎に逃げ込んだのを見届けたかのように、今度は機首をさらに下げて、校舎の屋根すれすれに急降下しながら機銃掃射を浴びせてきました。激しい爆音と、キャーッという悲鳴が教室中に響き、バリバリバリと耳をつんざくような銃撃の音が続きました。



一瞬、教室が静まりかえったかと思うと、そのうちあちこちから「痛い!」「助けて!」という悲鳴や鳴き声が聞こえ騒然となりました。米軍機が放った機銃の弾丸が、木造校舎の屋根を撃ち抜き、その下に身を隠していた児童に命中したのです。この朝、いつもの顔ぶれで元気よく登校した同級生の中から、2人の犠牲者と5名の重軽傷者が出ました。

◇仲ヤエさん(犠牲者の母)の話

7月9日昼過ぎ、壕のなかで心配していた。敵機が学校を襲ってきたからである。先生の連絡を受けて驚いた私は、裸足で家を飛び出した。学校に入ると定子はオルガンの傍に寝かせてあり、おしりに座布団が掛けてあった。(定子は)重傷であった。私は戸板に乗せて、家に連れて帰ることにした。しかし家にたどり着く前に、定子は息を引き取った。

息を引き取る前に定子は、口を開いて何か話しかけるようにもぐもぐさせていたので、私は水筒の水を注いでやった。するとそれを一口ゴクンと飲んだ後息絶えてしまった。哀れなかわいそうな、何とも言えない淋しい死であった。私は誰はばかることなく道の真ん中に座り込み、定子にしがみついて大声を張り上げて泣き叫んだ。

(参照:聞き取り集「茨木の空襲」/玉島小創立50周年記念誌/「茨木に埋もれた日本史」東實文男著)


以下は
「バターン死の行進」は生かす為の行進だった
からの引用です。

水間政憲氏「この人数の中でね、300人に一人くらいしか(日本兵が:筆者)いないんですよ。これで何で・・捕虜虐待して殺すなんて、あり得ないですよ」

水島社長「大体ね、アメリカの歩兵っていうのはトラックで移動してるから」


水間政憲氏「これがね、これ証拠になるんですよ。この写真。小さく映っちゃってるけど。捕虜を背にして鉄砲担いでるでしょ。日本兵。護送してる日本兵。こんなんで虐殺する雰囲気なんてあるわけないです。周りみんなアメリカ兵で。鉄砲担いでるんですから。」

水島社長「元々バターンで降伏した時、水も食料もなくなってた。このままほっとくと病気、日射病とかデング熱とか、で、そういう中でこのままバターンに置いておいたらみんな死んじまうと。で、もう一つ言うと鉄道もトラックも日本軍にはない。マッカーサーは逃げちゃった。」

水間政憲氏「逃げる時にまず日本軍に利用されないようにトラックはぶち壊したんですよ。バターン半島が陥落した後、コレヒドールの要塞の攻撃が残ってる。それをやりだすとね、捕虜にした一般住民もいるし、兵隊もいるし、そこに被害がね、巻き込まれる可能性があったから。あれ死の行進じゃなくて生きるための行進だった。」 

水島社長「そうそうそう。そういう事情ちゃんと分かっとかないとね。それからその前にコレヒドールも、バターンもそうなんだけど、その前にフィリピン兵は全部死んでる。アメリカ兵はまずフィリピン兵を最初に全部壁に出して全員殺させてからやっとアメリカ兵が出動して戦って負けたっていうね。」

水間政憲氏「本の中に書いてるんですけどね、コレヒドールの要塞作った、あの、陥落する10年前に。使った労働者、フィリピン人、こそこそこそこそ全員殺してるんだって。秘密を守るために。」 

水島社長「私コレヒドール2度ほど行ったことありますけどね。あのぅ、そういうとこですよ。フィリピン大学の歴史の学者けっこう知ってる。実はフィリピン人が200万人だか亡くなったっていうのはほとんどあれ米軍の爆撃とかで、日本軍の攻撃じゃないんだよ。」 

水間政憲氏「だってカトリック教会マニラに10数本あって、天守閣かなんか、それ爆撃で壊してしまったのアメリカだから。」 

水島社長「今言ったようにこういう検証一個一個やってかないとね。違うよって主張だけじゃだめだってことで。」

水間政憲氏「アメリカがね、そうやってロビイストにやられてるんで、これ復活、バターンが復活してくる可能性あると思うんですよね。これ大体1カ月半くらいで93円で電子版にしてくれるんで」

水島社長「もう一つ最後に言っておきたいのは、バターンと同じ人数だけ、山下大将降伏してから、これフィリピン大学の教授から聞いたんだけど、同じ数だけ日向に置かれて水も飲まされずに全部殺された。この人数分だけ日本兵降伏したのは日向に食糧も水もなく放り出されてみんな死んだ。それは全然歴史の中に出てないですよ。」

水間政憲氏「アメリカだとか朝日だとかがやりそうなこと、先回りしてやってますから。」

以上引用終わり。
以下は
ベトナム戦争当時、サイゴン(現ホーチミン市)に韓国軍の慰安所が存在したことが、アメリカの公文書によって初めて明らかになった
からの引用です。

日韓間に横たわる慰安婦問題に新たな視点を供する歴史的資料を発見したのは、TBSワシントン支局長の山口敬之氏。山口支局長は2013年9月から、約1年をかけて米国立公文書記録管理局のベトナム戦争に関する膨大な資料を調査。その中から、サイゴンの米軍司令部が、同じくサイゴンの韓国軍最高司令官・蔡命新(チェ・ミュンシン)将軍に送った「書簡」を発見した。

同書簡は1969年に書かれたもので、主題は韓国兵が関与した経済事件。その中で、同事件の舞台となったサイゴン市中心部の「The Turkish Bath」(トルコ風呂)について、以下のように記されていた。

「この施設は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所(Welfare Center)である」

(The Turkish Bath was a Republic of Korea Army Welfare Center for the sole benefit of Korean Troops.)

山口支局長が語る。

「韓国側はこれまで、日本軍の慰安所について国際社会で厳しく糾弾し続けてきました。ベトナム戦争当時、韓国軍の慰安所がサイゴンに存在した事がアメリカの公文書によって明らかになった今、韓国側がこの問題にどう対処していくのかが注目されます」

山口支局長の「韓国軍慰安所」に関するレポートは「週刊文春」に掲載される。

以上引用終わり。

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米英によるドイツ・ドレスデン大虐殺。

トンデモナイことに、これらの写真のあるものは、ナチスドイツによるユダヤ人強制収容所での大虐殺と入れ替え捏造されています。

これらの蛮行を隠すためにも
どうしても、シオニスト・プロテスタントやシオニスト・ユダヤ人はアウシュビッツでのガス室大量殺人を捏造しなければならないのです!!

あ!?( ̄▽ ̄;)!
話がブレた?(^o^;)

当ブログの
トンデモナイ大嘘


もどうぞ。