僕たちあたしたちは、一体どうして望んでいないハゲの世界へ足を踏み入れてなくてはならないのだろうか。
「夢や希望のストーリーを頭の中で描いたとき、そこにハゲは何人歩いているかね?」
幼いころ、近所のおばちゃんに質問された。
「ハゲってなーに?」
幼い僕は、ハゲの概念がなかった為に、答えに窮してしまった。
「なんじゃ坊主。ハゲも知らぬのか? あれじゃよ、見てご覧なさい」
おばちゃんが指差す方を見やると、悪魔と天使が争った歴史を物語るような、殺伐とした脳天があった。
痩せこけた猛獣の唸り。そう思わずにはいられない細い残り毛が、風に吹かれながら僕を呼んでいる。
急いで行かなきゃ。
そう思ったのも束の間、「よそ様の生きた証を渇望してはならん」と首根っこをつかまれてしまった。
「日々の抜け毛の量が一定数を超えないうちはのう、土俵入りは許されんぞ」
そういって、おばちゃんは白い歯を見せた。
けれど、目は笑っていなかった。
それからというものの、僕はハゲに関する書籍をいくつも漁っては、街中でそれに類する人々を観察した。
時代の進化に流されながら、人はどのようにしてハゲるのか?
僕は答えを熱心に探し求めて止まなかった。
町外れにある寂れたビルディング街まで足を運び、ローカルな光を持つ者たちを、死にもの狂いで捕獲しようとしていたこともある。
当時小学生だった僕は、「ハゲた人々はどうして髪を生やさないのだろう? 学校だってあたたかくなれば夏の服を着ていくし、寒くなれば冬服だよ」と謎が沸き起こって耐えられなかった。
頭の中に出来た空白を埋めるために、いくつもの書店を回ることにした。
そうこうする内に、僕はある重大な事実に気づいてしまった。
『一貫性の法則』である。
人は変化に抗いたくない生き物なのだ。
僕だって、男子小学生に一般的な黒のランドセルを、まっピンクなものに取り替えられてしまったら発狂する。
「世の中は、着せ替え人形のようには行かないんだね」
あまりの興奮に荒くなっていた呼吸を抑えるため、僕は一つ深呼吸をしてから独り言を放った。
ハゲとて、思い入れがある。
その事実に気づいた僕は、もっと笑顔で見つめてあげなくてはいけないのだなと悟った。
いつだったか、十数人の女子高生が、昼飯後のデザートでも見るように、ハゲを舌なめずりしながら凝視していた。
僕よりいくつも年上の人たちの流行なんて、僕にはてんで分からない。
だから、「酸いも甘いも噛み分けたオヤジは、JKからすればスターなのかな」と適当に考えていた。
僕だって、大人と子供の中心で蠢く、半端な女の子にモテたい。
ひとたび生まれた欲望は、僕にバリカンとヒポクラテスの肖像画を持たせていた。
「覚悟が出来たようじゃな」
目をぎょろぎょろさせるおばちゃんは、援助交際を求めるオッサンのように忙しない声で聞いてきた。
「つるんつるんになるまで剃り続けてね。途中で躊躇したせいで出来上がった坊主は、小バエが何千匹も着陸したみたいで嫌だから」
瞬き一つせずに注文した。
おばちゃんは、ヒポクラテスの肖像画を抱え上げ、ニタリっと笑う。
でも、目は笑っていなかった。
丸っこい僕が誕生した。
四角い空間の中で、クラスメイトが三角の目で僕をちらちら見ている気配が伝わる。
その瞬間僕は、教室内にある全てのものに勝利した。
黒板、遮光カーテン、大三角定規、エアコン、スピーカー、スクールクッション、ブラウン管テレビ、蛍光灯、習字作品、時間割、給食袋、裁縫セット、多機能筆箱、机、椅子、鉛筆、埃、塵、教師、生徒。
人間が持つ高度な脳機能が、他の情報をかなぐり捨て、その上で僕のハゲ要素だけをキャッチしたのだ。
30代半ばの教師も、もちろん好奇の目を向ける生徒も、誰一人ハゲていない。
そして、誰一人褒めてくれなかった。
ハゲながら幾日も経過した。
僕を真似る生徒が続出すると予想……、否、そうあってほしいと願っていたが、一向に誰もハゲてはくれない。
それでも、廊下を歩くだけで、クソガキどもの騒ぎ散らしが、瞬間的に収まるのが嬉しくてしょうがなかった。
恐れおののくように僕を避けていた。
その度に、中枢神経系が高濃度のドーパミンを放出しているせいなのか、僕はハゲである自分を強烈に誇った。
人間は、高額な天体望遠鏡を用意してまで、星を眺めようとする。
しかし、いつまで経っても手にすることは出来ない。
僕は星になったのかもしれない、と思うようになった。
きっと、誰もが僕のハゲ頭に、気高いロマンを感じているのだ。
誰もが目を奪われ、今となっては一つの笑いもなしに、道をあけようとする。
複雑なものをシンプルにして提供するのは、ある種の才能が必要だ。
バリカン、頭を丸める言い訳、自動的に起こる未来想像。
こうした複数の事柄が連綿と連なることで、ノンハゲは身動き一つ出来なくなってしまうのだ。
「それぐらい俺たちだって出来るさ!」
負け犬はいつも、勝者の雄叫びよりも激しく吠える。
誰でも出来そうなことは、誰でも出来ないから、誰でも出来そうなまま残っている。
お笑い芸人のネタも、ラッパーのリリックも、ぽっと出作家のベストセラーも。
ハゲに向かうまでのプロセスには、死線を彷徨うような産みの苦しみが尽きないものだ。
どこで、どのように、どうすれば……、覚悟を持って一皮剥けられるのか。
ハゲてからの僕は、生まれて初めて孤独と向き合うことになった。
決して、ハゲのせいで友達がいなくなったからではない。
ハゲたことによって、人生とはなんなのか? 人間とはなんなのか? を考えるようになったのだ。
今までの僕は、宇宙の中にある地球の中にある学校の中にあるクラスの中にあるみんなの中にある自分。
このようにしか考えられなかった。
しかし、ハゲてからの人生が始まった途端にパラダイム転換が起きた。
まず僕がいて、僕が僕であることを認識するために他人が生まれ、その他人を生かすためにまた新たな他人が生まれ――
人生は、僕からスタートするドミノゲームであると気づいたのだ。
ハゲは周囲の人々だけでなく、何を隠そう僕自身までをも魅了していた。
ハゲは、無差別で野蛮なほどにキラーコンテンツであった。
そして、いつまでもいつまでも幸せなハゲとして暮らしたとさ、めでたしめでたし。
……、とはならなかった。
ハゲのおかげで、この世の心理に気づいてから数週間後、
「うわぁーーーー。小バエが着陸してるー!」「近づかないでよ害虫!」
冷や汗が止まらなかった。
僕は、右腕以外の機能を自主的に停止させ、ゆっくりと頭上に手の平を持って行く……。
次の瞬間。
ニタリっと笑うおばちゃんの顔が浮かび上がった。
すると不思議なことに、全身を滑り落ちていた汗はどこかへ消え去り、平常心を取り戻すことが出来た。
頭を触ればじょりじょりと音が鳴る。
冷静になれたところで、この先の未来は暗い。
僕は落胆した。
漠とした不安に包み込まれ、とうとうそれは、別な形で現実となってしまった。
「近所のおばちゃん。昨日亡くなったそうよ」
「え……、え」
微熱状態のときのように、頭も回らないし、顔のパーツも動かせない。
表情なく突っ立っていると、ママに紙袋を手渡された。
入っていたのは、ヒポクラテスの肖像画だった。
そして……、髪を失わせ、多くを与えてくれたバリカンが入っていた。
「あらっ? カードのようなもの入っているわよ」
失意の海へ身を投じるように、座り込んだ矢先、ママが一枚のカードを掲げた。
『Art is long,life is short』
アメリカ人でもない相手に、英語文を送りつけるなんて失礼じゃないか? と思った。
「僕が読めるはずのないものを見せつけないでよ。捨てといて」
「おばちゃんの心遣いが裏面にあるのよ。じゃじゃーん」
ママはやかましい声でいったのち、カードを裏返して地面においた。
『芸術は長く人生は短し』
僕は、直感的にも論理的にも、その言葉に込められた意味を知ることが出来なかった。
そんな僕を、ヒポクラテスは見ていた。
でもやっぱり、目は笑っていなかった。
人生は短く、術のみちは長い。機会は逸し易く、試みは失敗すること多く、判断は難しい。
(ヒポクラテス)