2006年11月25日
日本の潜在自然植生は照葉樹とは限らない?
前回の宮脇昭伝を読んだ友人からメールが入った。
「日本の潜在自然植生林は、何もクスノキなどの照葉樹やシラカシなどの常緑広葉樹だけとは限らない。1万数千年前の旧石器時代は針葉樹が多かった。宮脇理論は必ずしも学問的に正しいとは言えない」と。
私もそうだと思う。
10年くらい前に、稲本正氏が作成した「木と文明の概念」という年表で、過去1万4000年にわたって日本に植生していた樹木の蓄材総量推移と、その中に占める落葉広葉樹、照葉樹、針葉樹の比率の推移を描いたグラフを見たことがある。
記憶はさだかでないが、たしかに1万4000年前は針葉樹が圧倒的に多く、残りが落葉広葉樹。照葉樹はごくわずかな比率を占めているにすぎなかったという気がする・・・。
そんなわけで、あわてて「森の形 森の仕事」(世界文化社、1994年刊)を探して5つの図書館を歩き、やっとくだんの年表を見付けることが出来た。
しかし、この年表は1万4000年にも及ぶ横に細長いグラフで、三枚折となっている。したがって残念ながらこの欄で紹介することが出来ない。
文章だけだと良く説明出来ない点が多いのを許して頂きたい。
この著書が出版されてから12年の間に各地で遺跡の発掘が進み、修正する必要があるのかもしれない。また学問的にどれだけの信憑性を持っているのかも分からない。江戸時代は日本の山林が荒らされて蓄材量では最悪の状態だったと指摘している学者もいる。
そういった最新情報はよく分からないが、ともかく12年前の年表をもとに宮脇理論を検証するという大袈裟なことではなく、ちょっとなぞってみよう・・・
稲本氏の概念年表によると、今から1億4000年前は針葉樹の比率が60%強、落葉広葉樹が40%弱、そして照葉樹は約3%となっている。
氷河期で地球上の平均温度が低く、寒さに強い針葉樹が日本の国土の6割を覆っていたということ。
しかし、地球の温度は次第に上昇し、1億2000年前頃に氷河期が終わったとされている。
この時点で針葉樹王国が衰退し、ブナを中心とした落葉広葉樹の時代になってきている。おおよその比率は落葉広葉樹が60%弱で針葉樹が40%弱と逆転し、照葉樹が約6%と倍加している。
地球の温暖化はさらに進み、大量の氷が溶け出し、海水面が上昇するというピプシサーマル現象が地球的な規模で起こり始めた。
大陸と陸続きだった日本は、海面上昇によって出来た日本海によって大陸と切り離された。
当然のことながら多くの平地は海没し、石器時代のご祖先は次第に山へ上がってゆくしかなかった。
そして、植生は大変化した。
温暖化につれて7500年前から照葉樹が急激に増え始め、ピークの6500年前には照葉樹全盛時代を迎えている。おおよその比率は照葉樹が60%弱、落葉広葉樹が30%弱、そして針葉樹はたったの20%弱にまで落ち込んでいる。
クスノキ、カシ、タブ、シイ、ツバキなどの照葉樹は平地が少なく山岳だらけとなった日本の国土を風水害などの災害から守るという意味では大きな役割を果たしてくれたであろう。しかし、こうした照葉樹林では林床に陽が射さず、キノコや山菜が育たず、餌が少ないため動物も生きられない。
このため稲本氏は、ご先祖は生きるために照葉樹を伐採し、食料となるクリやナラ、ブナなどの広葉樹を育林した。さらに三内丸山遺跡で見られるヒョウタン、ゴボウ、マメなどの植物の栽培を7000年前からはじめたのではないかと推測している。
針葉樹は固い年輪があるため石器では伐採出来ない。
日本で針葉樹が本格的に建築に使われだしたのは鉄器が入ってきた大和朝廷の時代からだという。
固くて伐採が困難だと思われる照葉樹だが、良質の黒曜石を木の柄に括りつけた石器だと比較的簡単に伐採出来るという。この智慧と技術が、気温が次第に低下したこともあって照葉樹のいたずらな繁殖を抑えた。そして、稲作農業の前にクリ林を中心にした定住生活を、日本のご先祖は世界に先駈けて果たしてきていた。
能登の真脇遺跡では6000年前から2000年前まで、4000年間にわたってクリを中心に定住していた跡があるという。
あの有名な青森の三内丸山遺跡。これもクリの大木による巨大建築で知られている。5500年前から4000年まで1500年間にわたって大村落で定住している。
そして、おそらく能登をはじめとして富山、新潟、山形、秋田、北海道で発掘されている大型住居址との交流も盛んだったのであろう。三内丸山遺跡からは地場で採れない黒曜石、ヒスイ、コハク、アスファルトなどが出土している。
鉄器と農耕の弥生時代になって定住がはじまったというのが世界の常識。それなのに日本では6000年も前の縄文時代から定住し、輝かしい広葉樹の木造文化を築き上げていた。
そして、照葉樹を伐採するといっても、急斜面や崖地、あるいは水源になるところを避け、出来るだけ平坦に近い場所を選んだと考えられる。
吾等がご先祖の山の民は、山の大きな木々に神様が宿っていると信じていた。
昔は、神様の宿るところが「神社」だった。
それは1200年前以降、大和朝廷が支配力を誇示するために建てた針葉樹のヒノキによる切り妻の大きな「神社」ではなく、照葉樹や落葉広葉樹による「杜」そのものであった。
このように、日本の山で針葉樹が主流を占めていた時期は、氷河期と江戸時代以降、とくに戦後においてのみであるということが分かる。
そして「杜」ということで考えるならば、鎮守の杜の宮脇説は決して間違っていない。
大陸から遅れてやってきた大和朝廷の歴史が日本の歴史だと私共は教えられてきた。今の天皇家の歴史こそが万世一系の祖先であると信じさせられてきた。
そして先住人よりも偉いのだという畏敬の念を植え付けるために神話の中で「ヒノキは宮殿づくりの用材だ」とアマテラスオオミカミに指定させている。
そうした意図で建立された豪華な出雲大社や法隆寺などのヒノキの神社仏閣建築こそが、世界に誇れる木造建築だとかたくなに信じさせられてきた。
しかし、その4倍も歴史が古い縄文時代に、日本人はクリの木による巨大木造建築物を建て、定住するという素晴らしい文化を持っていたのである。そして「杜」という自然を尊重し、尊敬するというエコロジーな多神教を発明していた。
大和朝廷は、神社だけでなく仏閣や仏像までヒノキで造るように命じた。しかし、小原二郎千葉大名誉教授の調査によると、たしかに近畿ではほとんどの仏像は針葉樹だが、関東地域は広葉樹が増え、東北では仏像の90%が広葉樹だという。
このように見てくると、日本の潜在自然植生林は何かと学問的には簡単に結論を出すことは難しい。
しかし、新しい概念で人々を説得し、多くの人の心と身体を動員し、世界に3000万本もの苗木を植えてきたという宮脇氏の業績は、いささかたりともその「光輝」を損なうことはない。
r2000plus at 07:47│Comments(0)