ルミネCMは差別的ドラマではないと思う。

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(2話完結のドラマに「1話」「2話」というタイトルをつけるのはめったにないことなので、作り手は、2話完結ではなく、全部で5,6話くらいになるようなドラマを構想していたはず、という前提で書きます)


 ・「ドラマ」という表現ジャンルでは、「悪役」として描かれる人物の思想と、主人公が最終的に体現する思想は必ず対立している。そうじゃないと「ドラマ」にならない。
 ・「啓蒙ドラマ」の主人公がはじめから正しい行動をするということはほとんどない。
 ・「変わる」をテーマにしたドラマをつくるためには、「変わる前」と「変わった後」の描写が絶対に必要である。「変わる前」の描写なしに「変わる」を表現するドラマをつくることは不可能。


 「メガネ上司は悪役キャラである」というところではみんな一致してるわけですよね。だとしたらそれは、
 「作り手にはメガネ上司を悪役として描く意図があったことは明らか」
ということになります。
 「作り手はメガネ上司を悪役として描きたかった」としか解釈できないし、「メガネ上司の言葉を悪役の言葉として描きたかった」としか解釈できない、
なので、作中で最終的に表現される思想と、一話目のメガネ上司の言葉が同じということはありえない。
 

 じゃあなんで、主人公はメガネ上司の言葉になびいてしまうのかというとそれは、ルミネCM動画が「ドラマ」だからです。
 交通安全啓発ドラマの主人公がはじめから「安全運転を心がけよう」なんてこと言わないわけです。
 安全運転を軽視していた主人公がいろんな体験をして最終的に交通安全を心がけるようになる、という構造があるからこそ「ドラマ」になる。
 

 あと、「変わらなきゃ」というキャッチフレーズの使いどころがおかしい、みたいな批判があるけど、あれはようするに、アナ雪の「レット イット ゴー」のような効果を狙ってのことだと思います。
 物語前半で使った同じことばをエンディングにも使って、同じ言葉なのにそこに込められた意味が変化しているように感じられるという効果。
 それとか、シンケンジャーの2話目と最終話に、同じ「立てるよな」というセリフがでてくるんですけど、言葉自体はまったく同じなのに、意味が全然違って聞こえるんですよ。
 一話目のは、男性目線に捉われた「変わらなきゃ」だけど、話がすすんで、最終的には男性目線から解放された「変わらなきゃ」になる、という構想があったのだと思います。
   

 2話目は、「イケメンとデートができてうれしいはずなのに、微妙に違和感を感じる主人公」みたいな内容らしいけど、
 「このドラマは最終的に男性目線にとらわれた自分から解放されることを目指している」と仮定すると、1話目と2話目の描写のすべてのつじつまがあうと思います。
 「男性目線にとらわれない自分に変わらなきゃ」ということをドラマとして表現するためには、
「男性目線にとらわれた自分」を表現する必要がある。アフターをアフターとして表現するためには、ビフォーが絶対に不可欠。


 もちろん、あのCMドラマを差別的だと感じるひとが大勢いたということは事実なんだろうし、差別的に感じたものに抗議するのは当然のことだとも思います。