贅沢の敷居が低いのかもしれない。シゴト ケッコン の文字に人生を左右されている訳ではないけど、なんだか目標とかを設定しないとダメなのだろうか。生きているだけの贅沢、救いはあるだろうか?(自分でどうにかしなさいとは感じます。)
治安のマシな世界に生きれて幸せだとは思います。といっても少しの危険があれば、すぐ財布の中身も底をつき、
ただ食う寝が辛うじて出来る、日常にある怖さは消えない、これは贅沢なのだろうか?
昔の偉いひとのように言うと、2つは別のお話で、一つは自己実現欲求でもう一つは生存欲求。上に向かう三角形の欲。
でも僕は違うと思います。
現時点で本能すら幸せそうじゃない。平和なところなのに暗い顔してるのは、お猿さんとして生きてないからで、別物なんだと。幼少時代とか青春時代に『それようの人間』に別れていくんだと思う。
暗い顔した人間とお猿さんとして生きる人間が、将来は別の生き物になっていると、そう思います。
皆さんはどう思いますか?
「幸せになろう」と頑張ることは、はじめから矛盾を含んでいると思うようになりました。
なぜなら、「幸せ」は「感じる」ものであって、手に入れてズッと抱えておけるモノではないからです。質問者さんも言われているように、「安全な世界に生きられてラッキー」と思うときもあれば、「少しのことでグラついてしまう自分は駄目なやつだな」と落ち込むときもあります。
すべてのことは日々変わってしまいます。それと同じように、感情も常に形を変えて、良いときもあれば悪いときもあります。絶対的な幸せもなければ、絶対的な不幸もないというように私は考えます。きっと、それは健康に生きてるお猿さんもそうなのだと思います。彼らだって、恐怖におののいたり、毎日変わらない暮らしを退屈に思うことだってあるのではないでしょうか?
時おり「幸せだな」とか、「楽しいな」って感じられることがあれば、それはそれで十分なのだと思います。まぁ、中々難しいことではあるのでしょうが。例えば、「楽しさに浸っていたら、それが失われたときに傷ついちゃうんじゃないか」とか「期待するとガッカリするから、ちょっとだけ始めから諦めておく」とか。
それでも、自分を無防備にすることだとしても、やさしさをそのまま受け取ったり、明日に期待したり、喜びを満喫したりできたら、とても味わい深い生活になるのだろうなと思います。
結論から言えば、つまらない日があるあなたの人生も、それはそれで既に立派に成立しているということだと思います。
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