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【大阪の20世紀】(21)焼き肉とホルモン 苦労が生んだ“日本食”
しかし、店近くの高島屋前に並ぶ闇市でも、肉類はなかなか手に入らなかった。江崎は、持ち前のバイタリティーと商才で、仕入れ先の肉屋を開拓した。
さらに、カンテキに網を載せて肉を焼き、タレにつけて食べるという、今ある焼き肉のスタイルを初めて店の営業に持ち込んだ。だから看板に「元祖」とうたった。
戦後を代表するスターだった歌手の美空ひばりやプロレスラーの力道山らが、お忍びでやってくるほど、カンテキでの食べ方は人気を呼び、焼き肉スタイルとして定着していった。
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「焼き肉の食べ方のスタイルは、庶民の生活レベルですでにあったんです。(在日韓国・朝鮮人の多く住む)鶴橋界隈では、そんな食べ方をしていた。それを見た父が、初めて商売に取り入れたというのが正確な言い方だと思います」
食道園二代目社長で長男の政雄(五七)は話す。
帰化
創業者の江崎光雄は朝鮮生まれで、十代のときに日本に渡り、林光植と名乗った。昭和七年に日本人の光子と結婚したが、戦前は東京、平壌、中国山西省・太原などで暮らした。
「死ぬまで(朝鮮人としての)民族の誇りを失わなかった」(光子)が、食道園を開業して五年後の昭和二十六年、自ら「日本国籍を取る」と言い出し、日本に帰化した。
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