天国の父へ送る手紙

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「アナタはお腹の子が20歳になるまでは、生きられない。」

医師から父へと告げられた言葉。

 

お爺ちゃんはヤクザ屋さん。お婆ちゃんは当時日本に数人しか居なかった大型トラックの運転手。そんな家庭で5人兄弟の次男として産まれた父は、文武両道を貫く凄い人だった。

家の仕事を手伝いながら、勉強は勿論、バレーボールの選手としても一流。学生時代に年下の母親と出会い、大学卒業後は公務員となり出世街道を真っ直ぐ進む。結婚して数年後、子宝にも恵まれた父と母の人生。周りの誰もが2人の幸せな未来を疑わなかった。

 

妊娠検査から数日後、父の体が病に侵されている事が解る。病名はC型肝炎。

感染経路が実家の仕事だと言う事は容易に想像が付いた。お婆ちゃんはM病院の医療器具回収業務を行っていた。当時は規制も緩く、注射器の針が出たままの状態で捨てられている事が良くあった。その為、回収時に誤って針に触れてしまう事も珍しく無かった。

愛すべき妻との間に子供を授かり幸せの絶頂へと登った父は、数日で奈落の底へと突き落とされた。

 

「アナタはお腹の子が20歳になるまでは、生きられない。産むか?堕ろすか?」医師の問いかけに対して、「20歳までで構いません。子供が20歳になるまでで構わないから、私を生かしてください。」父は医師に頭を下げた。そこから想像を絶する闘病生活が幕を開けた。

 

 

15歳の秋、初めて父が病気だと知った。私の受験に影響が出ない様、ずっと先延ばしにしてきた入院だったが、状態の悪化が早く急遽入院。検査入院なのですぐに戻ると教えられた私は、最初の入院期間中1度も病室へ足を運ぶことは無かった。今思えば子供に見せられる状態では無かったのだろう。

当時の私はと言うと、市内有数の進学校に進ませて貰ったにも関わらず1ヶ月経たずに不登校。家にもロクに帰らず、世間から見れば宜しく無い人達との交流を深めていった。

 

 

17歳の春、「組を継ぐか?大検を取って大学へ行くのか?どちらか好きな方を選べ。」可愛がって貰っていたオヤッサンの口から出た強烈な二択を回避する為だけに大検を取得、受験資格を得られる18歳までは好き勝手しても良いというお墨付きを貰った。

 

この頃から、父親入院する頻度が加速。毎日病院へ出掛け、入院費を工面する為に深夜に内職をする母の姿を見て、父親の置かれている状況を初めて理解した気がした。

毎朝病院へ出掛ける母親を見送り、兄弟三人分のご飯を作る。少しでも家計を助けようと、無い頭を使って人脈をフルに活用。お金になる事ならなんでもやった。中には1件処理すれば数百万円の仕事にも手を出した。今思えばお金を工面するよりも他にするべき事があったと解るが、そんな事は父が死んだ事に対する結果論。当時の私には知るよしも無かった。

 

 

18歳の冬、一家6人が4~5年働かなくても暮らしていける程のお金を稼いだ私は、母親の負担を少しでも減らそうと普通車の免許を取った。初めて私の運転で病院にお見舞いに行った時、父親は凄く嬉しそうな顔をしていた。

この頃既に父親の両手両足は骨と皮だけになり、肝硬変から来る肝機能障害で腹水がお腹に溜まり、妊婦よりも大きなお腹をしていた為、許可が下りる訳も無いのだが、制止する医師の話も聞かず父は外泊許可を取得。私の運転で父と母を乗せてドライブへ行った。

「この道はネズミ取り多いから気を付けろよ。」

「カーブの上がりはアクセス踏めよ、スッと伸びて車が安定するから。」

「これで安心して家族旅行に行けるな。行きたい所ようさんあんねん。」

この時、父と話した内容は今でも忘れない。

 

 

19歳の夏、当時大学に籍を置きながら個人塾で講師をしていた私宛てに1本の電話が鳴った。電話の先で泣きじゃくる母親、声にならない声。状況はすぐに理解出来た。

我が家、病室問わず子供前では一切の弱みは見せず、顔を見れば決まって歯を見せて笑う父親。これからもずっと父親は元気。そんな幻想は一瞬で脆くも崩れ去り色々な事が頭を過ぎる。家の前には1台の救急車、車内に付き添えるのは1人だけ。母親の精神状態を考えると運転など出来る訳が無い。必死に平静を装い残った家族を自分の車に乗せて、緊急搬送先の病院へと向かった。

病院へ着いた時、1番始めに見たのは色々な誓約書にサインを書かされている母の姿。

その姿は一吹きで消えてしまうのでは無いかと思うほどに、小さく見えた。

 

 

数日後、一命を取り留めた父親だったが、医師から「長くて1ヶ月。」という診断結果が下った。

連日病室に泊まり込む母を家へ連れて帰る道中、母は泣いていた。常に明るく、常に前向きな母が弟妹の居る前では決して見せない本当の姿。泣きじゃくる母に「大丈夫、20歳までは生きるって約束してるから。」私にはそんな事しか言えなかった。

 

帰宅後に感じる違和感、当時飼っていた犬の様子がおかしい。すぐさま動物病院へ連れて行く。診断結果はまさかの腹水。父が生死を彷徨う最中、愛犬までもが同じ病気にかかってしまった。そして、愛犬は病気発覚から数週間後、家族に見送られ天国へ行った。

 

 

愛犬の死から数日後、奇跡が起きる。少し話が出来るまでに、父親の様態が回復した。愛犬が残りの寿命を父に託して、身代わりになってくれたのかも知れない。その日を境にどんどん意識レベルが回復していく父親。余命宣告から2ヶ月後、一時退院という形ではあるが退院する事が出来た。

 

 

迎えた成人式、父親にビシっと決めたスーツ姿を披露した。自分の力だけで立ち上がる事さえ難しい状態ではあったが、いつもと変わらず歯を見せてニコっと笑ってくれた。そして恐らく自分の死期を悟っていたのだろう。この頃から、父親は私にだけ弱音を吐くようになった。

大学にもロクに行かず、サクラで小銭を稼いで病院通いをする日々。私が1人で病院へ行くと、自分は病院食以外受け付けない体なのに父が必ず言う台詞「喫茶店にコーヒーでも飲みに行こ。」私に取っては生活のほんの一部の時間。しかし父に取っては入院生活における唯一無二の時間だったのだろう。

 

 

父が亡くなる半年ほど前、病院から帰った母が泣いていた。

20年以上闘病を続ける父の横にずっと付き添い、励まし続けてきた母に対して「これ以上何を頑張れば良いねん。どうやっても退院出来ひん。体は思う様に動かへん。もう楽になりたい。殺してくれ。」と父が言ったらしい。

翌日、私が病院を訪れるといつもよりも元気が無い父の姿がそこにあった。恐らく父も眠れなかったのだろう。「オカン泣いてたで。明日一緒に謝ろうな。」バツ悪そうに笑う父の姿を見て、まだ大丈夫と自分に言い聞かせた。

そして、父が少しでも外泊しやすい様にリフォームした家ではあったが、車椅子の問題がどうしてもネックになる為、電動の昇降機能付き車を買う方向で話を進めた。

しかし、日本のお金に纏わる法律はロクでも無い。不要な所にお金をばらまく癖に、病気による合併などから起こる障害に対しては、障害者認定が下りず一切の手当が無い。数百万円する車椅子昇降機をキャッシュで買う余裕はもう私には無く、年齢的に最悪の場合檻の中と言う事も理解した上で、金になる仕事を探した。

数年前から各所の規制が厳しくなり、中々即金で纏まったお金になる物が無い。そんな時、話を聞きつけたオヤッサンから連絡が入り、便宜上事務所と呼ばれる場所に向かった私。そして目の前に詰まれた現金500万円。何も言うな持って帰れというオヤッサンの行為を受け取る事が私には出来ず、背伸びせずに家族で賄える範囲で父に取って最良の方法を考えると伝え、事務所を後にした。

車椅子の昇降は兄弟全員で行えば出来ない事は無い。医師に一定間隔毎に外泊を許可する様に頭を下げに行き、様態が安定している間は定期的に外泊する許可を貰った。

 

 

定期外泊の許可が下りてからは本当に大変だった。病院の行き帰り、食事は勿論の事、お風呂に入るのも最低2人の補助。骨と皮だけの背中がベッドに直接触れ、長期の入院生活から床ずれが酷く眠れない父に付き添い、下の世話をする母親。望んでいたのは、こんな物だったのか?と自問自答を繰り返す私。毎回、病院には帰りたがらない父を「次は何日に帰れるから、迎えに行くから」と説得して病院へ送り届けた帰り道、皆疲れ切った顔をしていた。

死の意味を知った今ならお金を払ってでも、何度でもやってあげたいが、死の意味を知らない当時の私には自分がもっとシッカリしないと。そんな事しか考えられなかった。

 

 

定期外泊を重ねていたある日、母親が医師に呼ばれた。

「最近意識レベルが低い時間が多くなっています。そんなに長くは保たないかもしれません。」

父に取って三度目の余命宣告。今の状況を見る限り否定出来る要素は無く、「どうせまたすぐ復活して、家に連れて帰れ。って騒ぎ出すよ」という笑う母の目の奥は泣いていた。そして、この日を境に父の意識レベルはドンドン下がっていった。

 

 

宣告から数週間後、深夜に鳴り響く電話。

「お父さんの意識レベルが少し回復してるから、全員で会いに行こう」

せめて病院までの道中、家族を同様させない為についた母の嘘。

 

病室へ到着した私が見たのは、いつも体に付けられていた医療機器を外して、静かに眠る父の姿。泣き崩れる母と弟妹、しかし不思議と涙は出なかった。

 

 

父の死から数週間後、父が眠るお墓へひとり向かった。

子供達が美味しそうに食べてる姿を見て嬉しそうに笑う。

病院から帰ると言うと悲しそうに笑う。

退院したらお母さんも連れて旅行に行こうと笑う。

いつも子供の前では歯を見せてニカッと笑う。

そんな笑顔の裏でどれだけの激痛に耐えてるのかなど考えもせず、きっとまた来週には元気な笑顔で私を迎えてくれると、心のどこかで信じていた。でも父はもうどこにも居ない。

 

私の中でプツリと音を立てて何かが切れた。

父が死んだ日から今まで我慢していた思いが溢れ、日が暮れるまで、泣いた。

 

 

 

 

オトンへ。

「わしはもうアカンから、お母さんと弟妹の事よろしく頼むな。」

オトンのあんな悲しそうな顔を見たのは最初で最後やったね。

オレが弟妹の為にした事なんて、アイツ等の人生からすればほんの些細な事かも知れへんけど、オトンに比べたら未熟なオレなりに、オトンが居たらこうしてたと思う事は全部やったよ。ブラコンでシスコンでマザコンって、自分の事をもっと大切にしろって、何度も言われたけど。オトンの真似して全部を家族に捧げる覚悟で過ごしたよ。どんなけ稼いでもドンドン出て行くお金、お陰で貯金は全部無くなったけど家族の為に生きた7年は幸せな時間でした。

 

次男。

オトンの知ってる、なんでもオレの後ろに隠れてた次男の面影は今はもう全然無くて、少し寂しい気もするけど、オレに頼る事無く全部自分で解決してしまうくらい、もう立派な社会人でしっかりした旦那さん。

昔のイメージで相変わらずオレには意見を言いにくいみたいやけど、アイツらしい独特の感覚を生かして一番の稼ぎ頭やし、何も心配する必要無いよ。

 

三男。

ヤンチャ過ぎたから色々してくれて、どれだけの人間を動かしたか解らんけど良い女性に出会った事で、完全に先をこされてしまった感はあるけど今では良いお父さん。4月から新しい仕事にも就いて生活も安定して、頼りになる男になったよ。

また変な道へ行った時は強制的に連れ戻す準備もしてあるけど、オトンの血を継いでるから大丈夫。何も心配する必要無いよ。

 

長女。

去年、無事に成人式を迎えたよ。娘の晴れ姿を見るってことまでは、オトンの代わり出来ひんかったけど、兄弟各家庭多くの人に晴れ姿を見せられて嬉しそうにしてた。

オトンの言ってた「母親にとって最後の親友は娘」って言葉を聞いてたかのように、毎日ベタベタしてて、オカンも面倒って良いながら嬉しそう。

5月から岡山に引っ越して同棲を始めるらしく色々とバタバタしてるけど、出来る限り自分達でなんとかさせようと少し突き放してます。でもちゃんと岡山で何かがあった時でもすぐ人を動かせる環境は作ったよ。同棲する彼氏は部分的に頼りない所もあるけど、オレなんかより人間としてしっかりしてる男性やから、そこまで心配はしてません。

実際、オトンが生きてたら娘の彼氏と仲良くなるんかな?帰れって言いそうやな・・・笑

 

母親。

アナタが妻として選んだ女性は、本当に素晴らしい女性です。

アナタの死後、子供思いの母は1人でアナタの役割も果たそうと、一度も心体休まる暇は無かったと思います。息子娘が家を出ることで少し心にスキマが空き、肩の力が抜けた事で体調を崩さないかが心配でしたが、タイミング良く三男の子供が産まれ、今では立派なお婆ちゃんをしています。

 

長男。

オレは親兄弟の為に生きる。オトンが死んだ時にそう決めたから、自分は結婚しないと思ってたけど、とても素敵な女性に出会いました。去年結婚して7月には子供も産まれます。子供の名前は「雄」の字を貰おうと思ってるけど、中々良い名前が思いつきません。

仕事は約束通り真っ当な仕事を続けてます。嫁子供が食うに困らない限り、このまま頑張ってく行くつもりです。

アナタの思いを受け継いで、実家の土地と隣の土地を購入。理解ある妻と出会えた事もあり、5月末完工予定で二世帯住宅を建築中です。母親は女性なので中々勝手が違う所もあるけど、一緒に住む事で少しでも長い時間一緒に居てやれると思っています。

 

 

 

 

「もっと生きて欲しかった」なんてアナタには酷な話。

 

私を産んでくれてありがとう。

母を思い、多くの子供を残してくれてありがとう。

残された人生の全てを家族に捧げてくれてありがとう。

 

最後、旅行に連れて行ってあげられなくてごめんね。

激痛に耐えながら笑っていた事に気付いてあげられなくてごめんね。

良く出来た息子じゃ無くてごめんね。

 

歯を見せてニカッと笑うアナタの笑顔が大好きでした。

だから、私はこれからも家族の前で笑います。

 

 

次会った時は「良く頑張ってくれたな」って言って下さい。

 

アナタの子供に産まれて幸せでした。

ありがとう

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