こんにちは、ゲストさん。
ログインすると、すべてのコンテンツを
ご利用いただけます。
JR川崎駅西口から幸警察署に至る道路は、温泉通りと呼ばれているようです。歩いてみると温泉は見当たらないのですが、温泉通りと名づけられた由来を調査して頂きたいです。
むろさん
かつて、戸塚駅西口からタクシーにのって「第一分譲」というだけで、踊場を左折し汲沢7丁目あたりのほうに案内してもらえた記憶があります(ほかの「第○分譲」と間違えられて連れていかれそうになったことも)。こ...
iさん
京浜東北線を利用していると、関内駅の発音が気になります。最初の「か」にアクセントを置いて「か」んない、とアナウンスされるときもあれば、フラットに「か・ん・な・い」とアナウンスされることもあります。私は...
jiexさん
かつて新丸子は三業地として栄えていました。そのきっかけを作ったのが「へちま風呂丸子園」だったそう。当時の新丸子は現在とかなりイメージが違い、芸妓がたくさんいる色っぽい町だったようです。(ねこぼくさん)
「へちま風呂丸子園」は1924年開業した料亭で、ヘチマ柄があしらわれたお風呂があった。新丸子三業地は1945年ごろをピークとしてにぎわっていた
ライター:橘 アリー (2015/01/26)
粋な遊びとユニークな風呂!?
三業地とは、料理屋・待合茶屋・芸者屋の3業種が集まって営業している場所のことで、現在の言葉で言うと「歓楽街」である。
現在の歓楽街のイメージ(フリー画像より)
いまで言う歓楽街は「夜遊びする場所」という、どこか不健康なイメージもあるが、「三業地」の料亭などでの遊びは“粋なもの”とされていたそうだ。
新丸子三業地は、新丸子にあった“粋な遊び場所”であったのだろうか。
キニナル投稿によると、新丸子に三業地ができたきっかけとなったのが「へちま風呂丸子園」とのこと。
「へちま風呂」とは、とてもユニークで楽しそうな雰囲気の名前である。
“へちま”は体を洗うスポンジとして使われることもあるので、お風呂とは縁があるものだが、この「へちま風呂」とは、どのようなお風呂だったのだろうか。
“へちまスポンジ”で体を洗うお風呂なのか?
“へちま形のお風呂”なのか?
それとも、美容効果のある“へちまエキス”を入れたお風呂なのか?
へちまのイメージ(フリー画像より)
ちなみに、へちまの美容効果とは、美白・保湿効果、肌荒れ防止、日焼けのほてりを鎮める、
皮膚細胞の再生など。
そんな美容効果のあるお風呂だったとしたら、ぜひとも入ってみたいものだ。
“粋な遊び場所”と“ユニークな名前の風呂”がどんな様子だったのかとてもキニナル。
新丸子の三業地と丸子園
新丸子が三業地として栄えはじめたきっかけは、「丸子園」が開業した1924(大正14)年。同時期に、「玉屋」「鈴半」「柏屋」「三好屋」という飲食店なども開業した。
「丸子園」に多くの人がやって来るようになると、すぐに「菊ノ家」「もみじ」などの料亭が開店し、その後、次第に、飲食店や芸者屋などが増え、第二次世界大戦直前の1939(昭和14)年ごろまでにかけて、新丸子は「新丸子三業地」となって行った。
戦前には、芸妓の数は50人を超えるほどだったそうである。
昭和初期の芸妓さん(『かわさきのあゆみ』より)
『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』をはじめとする資料によると、正式名称は「丸子園」という料亭で、その中に「へちま風呂」と呼ばれた風呂があり、そのことから「へちま風呂の丸子園」と呼ばれ親しまれていたようだ。場所は現在の中原区上丸子八幡町。
1935(昭和10)年の「丸子園」の様子(『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』より)
経営者は、愛知県三河市出身の大竹静忠(おおたけ・しずただ)という実業家。
裸一貫からスタートしてパン屋を始め、日露戦争後に築地に「大竹製菓工場」を設立。1923(大正12)年の関東大震災後には、東京・六郷に第二工場を建設しているとのこと。
また、別の資料には、経営者は大竹幾次郎(おおたけ・いそじろう)とあった。この人物は、東京・京橋のアイスキャンディー屋「三河屋」の社長で「従業員の福利施設として『丸子園』を作り、一般にも開放していて、都心の旦那衆や社用族に利用されていた」とある。
同じ大竹姓だが、名前と職業が違う。
身内なのか、共同経営者なのか、後で調べることに。
そして、「丸子園」が作られたのは、関東大震災の翌年1924(大正13)年の7月13日のこと。
多摩川を利用した川遊びができ、敷地面積は約3000坪の料亭であったそうである。
ちなみに、敷地面積約3000坪は、畳に換算すると6000畳分になる。
大正時代の多摩川での屋形船遊びの様子(『かわさきのあゆみ』より)
そして、園内の様子はというと、百畳敷の大広間と大浴場があり、広々とした庭には離れが点々と立っていたようである。
百畳の大広間(『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』より)
離れ座敷(『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』より)
庭園もあったようである(『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』より)
なお、風呂のどこが“へちま”だったのかというと、
へちま風呂の浴室の一部(『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』)
写真で見る限り、へちまの形をしたお風呂では無いようだが、よく見ると、天井の模様の中に“へちま”の絵があるようにも見える。
黒い楕円形が、ツタでぶら下がる“へちま”のように見える・・・
お風呂に“へちまエキス”が入っていたかどうかは不明であるが、宿泊客には、へちま形の容器に化粧水を入れた土産をくれたそうである。
また、夏場には“へちま模様の浴衣”を着た宿泊客が、涼しい風に吹かれながら多摩川の河原を散歩していたとある。
「丸子園」があった近くの、現在の多摩川の河川敷の様子
どうやら、湯上りには、“へちま形の容器”に入った化粧水を付け“へちま模様の浴衣”を着るという、“へちまスタイル”であったようだ。
ところで、湯上りに浴衣姿で多摩川の河原を散歩するとなると、花火でも見たくなるところだが、何と、この「丸子園」は、多摩川の花火大会と大きな関わりがあるそうだ。
経営者が花火大会を始めたという丸子園
現在は二子玉橋の下流で行われている川崎の多摩川花火大会。
現代の花火のイメージ(フリー画像より)
この花火大会を始めたのは、「丸子園」経営者といわれる大竹氏であるそうだ。
大竹氏は、「丸子園」を開業した翌年の1925(大正14)年に、出身地の三河から花火師を呼び寄せて「丸子園」利用者や丸子三業地に訪れる人たちのために多摩川で花火大会を開いた。
これが、多摩川の花火大会の始まりである。
この花火大会は、1929(昭和4)年には東京急行電鉄によって受け継がれ、1937(昭和12)年まで行われたが翌年から戦争により中止になった。
戦後、再び東急の主催で1949(昭和24)年に復活し、1953(昭和28)年と1954(昭和29)年の2年間は地元の主催で行われたが思わしくなかったので1955(昭和30)年からは東急の主催で行われ、1972(昭和47)年には川崎市が政令指定都市となったことから川崎市制記念行事となった。
1950(昭和25)年当時の「丸子多摩川花火大会」ポスター(『写真で綴る中原街道と周辺の今昔』より)
自分で花火大会を始めてしまうとは、経営者の大竹氏は豪快で粋な人物だったのであろう。
丸子園と三業地の終焉
三業地にある店は、1945(昭和20)年4月15日と5月24日の大空襲により4~5軒を残し、全焼してしまったようだ。
戦後は、1945(昭和20)年12月に、一時期閉店していた「花本」という芸者屋が開店した。
これは許可不明のままで喫茶店として開店し、温泉マーク(h&)をつけていたという状態の開業だったようだが、1948(昭和23)年には営業の正式な許可がおり、1950(昭和25)~1955(昭和30)年ごろが最盛期であったようだ。
この最盛期には、「花本」のほかにも「菊家」「柳家」「北川」「一直」など25軒くらいの料亭があり、芸妓も100人を超えるほどだったようである。
しかし、1976(昭和51)年には、「一直」「丸子荘」「伏見」の3軒のみになり、芸妓の数も10人くらいになってしまい、次第にすたれていき、いつの間にか料亭は姿を消していった。
「丸子園」も、夏には花火大会も行われ、とてもにぎわっていたが、戦争のため1941(昭和16)年12月19日に、日本電気株式会社(NEC)に買収されて幕を閉じた。
日本電気は、母屋を独身寮、離れを家族寮として活用していたが、1968(昭和43)年になると、鉄筋5・6階建てのビルに建て替え「千草寮」として利用していたそうだ。
現在地と書かれている右側にあるのが「千草寮」
川崎の郷土史研究会の方や地域の方によると、この「千草寮」は女子寮で、若い女性が多くいたので、地元の男性にとっては、淡い憧れを感じる“花のある雰囲気の場所”であったようだ。
そんな「千草寮」も、2007(平成19)年になると売却され、駐車場や14階建ての高層マンションなどに変わっていった。
丸子橋交差点から見た「丸子園」の跡地の様子(写真の右側。道路の後方は丸子橋)
上の写真の右側のマンションの後方が「丸子園」の跡地で・・・
マンションや
駐車場などになっている
残念ながら、現在の様子からは、「丸子園」があった当時の面影は何も感じられない。
三業地だったころを知る人にお話を伺うことに・・・≫
【関連記事】