2005.05.29付紙面より
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写真=大学2年生の夏、静岡・つま恋に拓郎の野外ライブを見に行った。拓郎は、全身汗まみれになりながら朝まで歌い続けた。すごいエネルギーを感じた。あれから30年。偶然にも彼を取材することになった。来年還暦の拓郎は、以前より丸くなった感じがした。しかし、いざ仕事の話になると身を乗り出し、独壇場となった。またしても、エネルギーを感じてしまった。そして、この人には青春が永遠なんだ、と思った |
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(撮影・神戸崇利) |
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60歳でも少年拓郎
「30歳以上は信じるな」と煽(あお)ってきた男が来年、還暦を迎えようとしている。歌手吉田拓郎(59)。70年代に若者文化の頂点に押し上げられ、時代の先頭をラジカルに突っ走ってきたが、ここ数年はテレビでアイドルたちとワイワイやり、大病も患った。カリスマは変わったのか。今、自分の姿をどうみているのか−。2時間半、酒をくみかわしながら迫った。
「目覚めました」
都内の小料理店。拓郎はマネジャーが運転する外車でやってきた。顔色はよく、一昨年に肺がんを告知されたとは思えない。生ビールを一気に飲み干し「僕はね、タコとイカさえあればいいんですよ」「これ、頼んでみましょうよ」と意外なほど座持ち上手なところをみせながら、質問に答えていった。
−−来年還暦です
「性格かも知れませんが、ケジメがないんですよ、人生の。30歳も40歳もそうだったけど、そのたびにどうしようっていう焦りはあったけど、結局はないがしろで、気が付いたら60歳を迎えている。20歳の時は、30歳になったら音楽なんて辞めようとか、40づら下げてギター弾いているなんて不細工だとか思っていたけど、結局はギターをぶら下げている。ずるずるした人生で、お題目とか大テーマがないんです」。
−−50歳の前には、かっこいい50代はショーン・コネリーと高倉健だけだと
「50歳の時はやばいな、おれって。世間体も含めて、まずいところに来ちゃったなと。そこへいくと、60歳は開き直り。もう知らねえぞ、この野郎っていう。そうなると、高倉健なんて言っている場合じゃないんですよ。ショーン・コネリーみたいなハゲの方がいいとか思ってたんだけど、もうどうでもよくてね」。
−−でも六本木のお姉ちゃんにはもてたい
「それはない。それはないっていうのを、50歳ぐらいから体験しているから。何か違うの、彼女たちが僕を見る目が。絶対相手にされないという感じがあります。以前ほど相手にされない実感が寂しさとなってね。もういいやって」。
−−でもテレビでKinki Kidsとか若い人と楽しそうです
「50歳の時、渋谷を歩いている、当時の茶髪のやつらとかには蹴りを入れたいくらい、嫌いでした。番組をキンキとやるとなって、彼らは当時17歳だったけど、そういう連中とは嫌だなって思ってましたよ」。
−−意外にいいやつらだった
「そう、彼らの魅力に負けてね。教わることが多くて、僕の文明開化が始まったんです。ダメだ、このままじゃオヤジになっちゃうって気がして。楽屋で僕の知らない話ばかりして盛り上がっているのに、入っていけない自分が悲しいよね。それまでは、入っていけない自分が正しいと思っていたけど、入れない自分が寂しくなった。何の話をしてるんだいって、勇気をもって聞きにいったことから始まった」。
−−あの拓郎が
「勇気はいったよ。吉田拓郎っていうプライドもあったし。キンキなんて、バカ野郎、ただのジャニーズのタレントじゃねえかって。でも、聞きに行ったときに『知らないんですか?』とか言われたけど、次からは『こんなの知らないでしょ』って、若者の流行から何から、毎週教えてくれるようになって。それによって目が覚めましたね」。
「神田川は演歌」
柔和な笑顔で周囲と調和する姿は、一昔前のイメージとは一致しない。反戦、反体制を旗頭にしてきたフォークソングも、70年安保、ベトナム戦争が終えんを迎えると、内面的な叙情的な内容に変わりつつあった。それでも、拓郎は反体制のシンボルだった。それが“日本のウッドストック”=71年の中津川フォークジャンボリーで「結婚しようよ」を歌い、伝説の「帰れ」コールを浴びた。
「僕はバカだから、基本的に軽いんです。自分が関心を持ったりすると、そこに軽々しくいってしまうんです。みんな僕を勘違いしていてね。僕はコンピューター人間で、音楽の打ち込みなんて相当早くやっていたわけ。フォークの時代にいたから、げたをはいているんじゃないかって思っているらしいけど、はいてるわけないだろって」。
−−誤解でも時代のパイオニアだったのは事実です
「パイオニアよりは、パナソニックがいいってぐらいでさ。それぐらいの軽さで、大きな出来事に偶然、僕はいるんですよ。おれはそこに行くなんて一言も言ってない。本音を言うと、怖くて行きたくなかったぐらいだから」。
−−でもフォークの神様だった
「ずっと違うなと思っている。僕のつたない研究で言うと、日本にフォークソングなんてないんです。アマチュアが生業として歌っていないものを、米国ではトラディショナルフォークソングと呼んでいる。そうなると、僕なんかはフォークじゃないし『神田川』は演歌。ただ、その言葉を使うことによって、売れたことは事実ですけどね」。
襟裳岬「勝った」
75年には井上陽水、泉谷しげる、小室等とともにフォーライフレコードを設立した。30代の若者が従来の音楽界、芸能界のシステムに反逆したため、ライブドア騒動のようになった。
−−かなりハードな戦いでした
「僕らを認めない大手レコード会社が、レコード盤をプレスさせない。レコーディングしても、それをプレスできなかった」。
−−ポニーキャニオンが救世主に
「石田達郎というオヤジがね、業界を裏切ってもいいぞって。助かった。フォーライフとして最初の1枚を出すのが大変だった。それほど、音楽業界が本気で怒ったんです」。
−−芸能界も敵に回した
「70年代ごろは芸能プロダクションが強くて、なかなか勝てなかった。でも70年代中盤ごろから、大手プロもフォークとかニューミュージックに興味を持ちだしてくれたんです」。
−−それが「襟裳岬」
「そのときはスタッフと『勝ったな』って。おれたちの曲が、芸能界のレコード大賞をとったじゃないかって。その当時は僕たちがこっち側で、例えば沢田研二とかがあっち側。だから、かわいいアイドルから楽曲の依頼が来るようになって、またもや『勝った』と。でもそのうちに、僕らも向こうの方がいいなって思ってしまいました」。
−−全国ツアーのシステムも作った
「それまではね、いろんな人が一緒に出るスタイルで日本中を回っていたんです。さすがに違和感を持った。人の客の前で歌わなきゃいけなし、僕を目当てにしてない客もいっぱい入っている。ロスに行って、コンサートを見て回りました。照明やらPAから何から、自分の地元でつくって、リハーサルも繰り返して、そのまま地方に持っていくやり方だったんです。当時はびっくりして。これをやろうと決めたんです」。
−−気持ちいいことをやりたかったんですか
「大人たちがつくり上げた文化があまりにひどかった。小さい才能かもしれないけど、それすら発揮できない環境だった。例えば、僕たちがテレビ局にいっても、金のネックレスをしているプロデューサーが、僕らの話も音楽も聴いてくれず、出演させてやるから、おまえ言うことを聞けって感じ。絶対に大人たちは信用しないって思ってましたから。でも、今はおれたちがそう言われているんだよね」。
夢は世界ツアー
拓郎は03年の全国ツアーを休演した。肺がんを宣告された。手術を受けて復活。翌年には、念願のフルオーケストラを率いて全国ツアーを成功させた。
−−思わぬ大病でした
「いやあ、驚きました。何でおれがって。運命というのかな。だれかがこういう風に仕掛けたのでしょう。神様か何かが」。
−−告知は冷静に受け止めましたか
「何%の確率で生き残るかっていう数字が出るんです。もう任せるしかないと。決して理解できる話じゃない。すごく悲しくて、随分泣きました。おやじ、おふくろが死んだときよりもね。相当自己愛が強いなって思ったけど」。
−−もう誰にも会えないとか
「そりゃあ考えましたよ。迷惑かけた人にちゃんと謝っておかねばならないとか、悩んで。そういう人がいっぱい出てきて。それが元気になった瞬間に謝る気がなくなりましたね」。
−−人生観も変わった
「手術前はいろんなことを反省して、人の話をよく聞く人間になろうって思っていたんだけどね。成功した瞬間に一切、そんな気持ちは吹き飛んでしまいました。今、正直に言っておかなきゃいけないね。僕は誰にも謝らないって」。
その言葉を信じれば、本人の意思とは関係なく、周囲や時代に求められ、かつがれてきた男なのかもしれない。しかし、その言葉は昔も今も、少年のような率直さで聞く側の心に突き刺さってくる。拓郎の夢は裏方、バンドマスターとして拓郎バンドをつくり、世界一のバンドになって世界ツアーをすること。何歳になろうが、拓郎は拓郎なのだ。
◆吉田拓郎(よしだ・たくろう) 本名同じ。1946年(昭和21年)4月5日、鹿児島県大口市生まれ。55年に広島に転居。広島商科大卒。70年に上京し、同年「イメージの詩」でデビュー。72年「結婚しようよ」が大ヒット。「フォークの神様」と呼ばれた。74年に森進一に提供した「襟裳岬」が日本レコード大賞受賞。86年12月に女優森下愛子と結婚。血液型A。
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