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【伝えたい近現代史】
戦前の「弾丸列車構想」が新幹線で甦る 零戦など旧軍の技術を結集
だが審議室の報告を受けた国鉄の理事たちの間には「狭軌による拡充をはかるべきだ」という反対論が強かった。
十河は国鉄内の説得にあたる一方、有力政治家に新聞記者並みの「夜討ち朝駆け」をかけて新幹線の必要性を訴えた。政治を動かし運輸省を動かすことで実現をはかろうとしたのだ。
この結果、「強力推進」をうたった運輸省幹線調査会の答申を経て33年12月、岸信介内閣は閣議で早期着工を了承、起工式にこぎつけたのだ。十河が「新幹線生みの親」と言われるゆえんである。
その十河の胸のうちに、戦前の「弾丸列車新幹線」計画があったことは間違いない。
昭和14年に決まった計画は、東京と山口県の下関の間に広軌による「新幹線」を敷設、満鉄の「あじあ号」に負けない「弾丸特急」を走らそうというものだった。戦線が拡大する中国大陸に兵員や物資を迅速に輸送することも目的のひとつで、東京-下関を9時間で結ぶ計画だったという。