東山花灯路 狐の嫁入り行列 『狐火の正体』 

ねねの道を行く怪しげな行列を発見!

東山花灯路 狐の嫁入り行列

人力車に白無垢を着た狐さんが乗っていました。狐の嫁入行列です!

東山花灯路 狐の嫁入り行列

2009年の東山花灯路では『狐の嫁入行列』が行われました。
(残念ながら『狐の嫁入り行列』は今はやっていないのではないかと思います。)

新潟県東蒲原郡阿賀町津川地区では頻繁に狐火が出現したといわれています。
嫁入り行列と平行していくつもの狐火が見えることがあり、これを『狐の嫁入行列』といいました。

狐火とはいったい何なのでしょうか?

新潟県は古くから石油や天然ガスの産地でした。
「日本書紀」天智 天皇の7年(668)の記事に 「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」とあります。
燃える土、燃える水とは石油のことだと考えられています。

狐火は雨の日に出現するといわれていますが、油に水をかけるとよけいに勢いよく燃えるようになります。
なので天ぷら油や石油ストープが燃え上がっていても、決して水をかけてはいけないそうです。
狐火が石油だと考えると、雨の日に出現する理由がわかりますね。

東山花灯路 舞妓さんの舞

東山花灯路では舞妓さんの舞などもあって早春の京の夕べを楽しむことができます。 


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[2015/03/23 08:58] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

菅大臣神社 飛梅 『道真を慕って飛んできた梅の正体とは』 

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春な忘るな

平安時代、藤原時平の讒言によって菅原道真は大宰府に左遷されることとなりました。
大宰府に向かう前、邸宅の庭の梅との別れを惜しんだ道真は、このように歌を詠みました。

道真は梅のほか、桜や松との別れも惜しんだようです。
この道真の邸宅の梅・松・桜には次のような伝説があります。

桜は道真との別れを悲しむあまり、枯れてしまいました。
梅と松は道真の後を追って大宰府へ向かって飛んでいきました。
松は途中で力尽き、兵庫県神戸市須磨区板宿町の飛松岡に根を下ろしました。
梅は無事大宰府まで飛びきり、道真に会うことができました。


大宰府天満宮にはこの道真を慕って飛んできた飛梅と呼ばれる梅があります。
私は大宰府天満宮には行ったことがないので、ウィキペディアの写真をご覧ください。↓
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dazaifu_Tenmangu_Plum_Tree_2004-03-07.jpg

京都の菅大臣神社にも飛梅と呼ばれる木があります。 ↓

菅大臣神社 飛梅

菅大臣神社は道真の邸宅があった場所とされます。

菅大臣神社 飛梅


大宰府天満宮の飛梅は白梅ですが、菅大臣神社の飛梅は紅梅です。
いったいどうなっちゃってるの?
北野天神絵巻を見ても道真が別れを告げている梅の木は紅梅です。

さて今日は、『飛梅伝説は何かを比喩的に表現したものではないか』ということについてお話しします。
実際に梅が空を飛ぶなどということはありえませんので。

梅は男色を意味するものだとも言われます。
道真は梅のほか、菊も大変愛していたようですが、菊も男色を意味するとされます。
すると道真を慕う男色の相手が大宰府までやってきた、ということなのかも?

少年愛の連歌俳諧史―菅原道真から松尾芭蕉まで という本も出版されています。まだ読んでいないのですが~。
この本のタイトル見ると、菅原道真は男色をたしなんでいたかのように思われます。

菅大臣天満宮本殿のかたわらに白太夫社がまつられています。 ↓

菅大臣神社 紅梅

白太夫とは道真を慕い道真に従って大宰府にやってきた度会(わたらい)春彦のことです。

道真に従って大宰府にやってきた人物としては味酒保行もいます。
彼は道真の死後50年も道真の墓守をしたとされています。

度会春彦、または味酒保行が道真の男色の相手だったのではないかなあ、と思ったりします。



菅大臣神社・・・京都市下京区仏光寺通新町西入ル菅大臣町187-1


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[2015/03/21 06:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪天満宮 梅 『七本松伝説』 

大阪天満宮 梅

大阪天満宮は949年に創建された神社で、菅原道真を祀っています。

菅原道真が神として祀られるようになった経緯は以前の記事、北野天満宮 梅 『菅原道真の怨霊を畏れた村上天皇』 にも書いたのですが、もういちど書いておきますね。

菅原道真((845年~903年)は宇多天皇、醍醐天皇に重用され、右大臣にまで上り詰めました。
901年、これに嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、これを信じた醍醐天皇は道真を大宰府に左遷しました。
903年、道真は大宰府で失意のうちに亡くなりました。

その後、、藤原時平、醍醐天皇の皇子や孫王が相次いで病死しました。
また疫病が流行り、天災が相次ぎました。
930年には清涼殿で干ばつ対策会議を行っていたところに落雷があり、道真左遷に関わった人物が大勢死傷しました。
それらは道真の怨霊の仕業であると噂されました。

醍醐天皇はノイローゼとなって清涼殿落雷事件の3か月後に崩御されました。

京都の北野天満宮は道真を慰霊するために947年に創建されました。
大阪天満宮はその2年後の949年に創建されたわけです。

北野天満宮の創建は村上天皇の勅命によるものであるとは伝えられていないようです。
しかし、村上天皇は道真を大宰府に左遷した醍醐天皇の第十四皇子なので、
北野天満宮の創建には村上天皇の意志が働いているのではないかと私は考えています。

大阪天満宮は村上天皇の勅命を受けて創建されています。
ということは、北野天満宮の創建にも村上天皇の意思が働いていると考えるのが自然かな、と思います。


この地はもともとは大将軍社があったところで、901年、菅原道真はこの大将軍社にお参りをしてから大宰府に向かったと伝えられます。
道真の死後、949年のある夜、大将軍社の前に光り輝く七本の松が生えたそうです。
村上天皇は「これは菅原道真に縁のある奇端であるとして大阪天満宮を創建したとされます。
大阪天満宮の土地は大将軍社から借りているということで、元日に借地料を大将軍社に治めているそうです。

古代中国では金星を軍事をつかさどる星神として信仰していました。
これが日本の陰陽道に取り入れられたのが、大将軍です。
大将軍は金星の神といってもいいでしょう。

記紀神話では星の神は天津甕星(別名カカセオ)一柱しか出てきません。
ギリシャ神話には多くの星の神が登場するのに、日本の星の神は一柱しかいないなんて変ですね?
そういったことから、星の神を信仰する先住民族がいて、星の神は抹殺されたという説もあります。

そして天津甕星は『天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神』であるとされています。
どうも天津甕星は謀反人であるようです。
菅原道真はこの天津甕星や大将軍とイメージが重ねられ、星の神として信仰されたのではないでしょうか。
光り輝く7本の松とは北斗七星のことだと思います。

大阪天満宮 星合の池 梅

上の写真は大阪天満宮にある星合の池です。
この池の名前から見ても、この地に星の神への信仰があったことがわかります。

大阪天満宮・・・大阪市北区天神橋2-1-8

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[2015/03/19 06:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

清水寺 青龍会 『鴨川は三途の川に喩えられていた?』 

清水寺 青龍会


清水寺の青龍会の日程はこちら→ http://www.monzenkai.com/seiryue.html


東西南北をつかさどる四匹の聖獣、玄武・朱雀・白虎・青龍を四神といい、、玄武は北、朱雀は南、白虎は西、青龍は東の守護神とされています。
そして玄武は丘陵に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に、青龍は川に棲むとされ、北に丘陵、南に湖沼、西に大道、東に川がある土地のことを四神相応の地といいます。

平安京の北には船岡山が、南には小椋池(現存せず)が、西には山陰道が、東には鴨川があり、まさしく四神相応の地だったのです。

玄武・・・北の守護神・・・丘陵に棲む・・・船岡山
朱雀・・・南の守護神・・・湖沼に棲む・・・小椋池
白虎・・・西の守護神・・・大道に棲む・・・山陰道
青龍・・・東の守護神・・・川に棲む・・・鴨川

これはつまり、鴨川の東は平安京の外だったということです。


清水寺 青龍会 


平安京が建都された当時、平安京の中には官寺である東寺と西寺以外の寺院建設は認められておらず、多くの寺社は平安京の外に造られました。

古の人々は都の中をこの世、都の外をあの世に喩えていたそうです。

今でも鴨川の西は銀行やオフィスビルなどが立ち並び、人々の暮らしを支える商店街などもあって、生活感にあふれています。
しかし鴨川を渡った東側には八坂神社・知恩院・建仁寺・清水寺などの大きな神社仏閣が並び、神仏が住まう場所となっています。

また清水寺のあたりはかつては鳥辺野と呼ばれる風葬地で、清水の舞台から死体を投げ捨てていたとも言われています。

神仏や死者が住まう鴨川の東は、まさしくあの世というにふさわしい土地だったことでしょう。
すると、鴨川は三途の川に喩えられていたのではないかと思うのです。

951年、京都に疫病が流行り、鴨川の河原は死体で溢れかえるほどの惨状であったそうです。
京の人々はそのようすを見て、地獄を思い浮かべたにちがいありません。


清水寺 青龍会 


清水寺・・・京都市東山区清水1-294

[2015/03/17 06:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

清凉寺 お松明式 『摩耶夫人が投じた薬袋には何が入っている?』 

3月15日、清涼寺でお松明式が行われています。

この日は本堂を無料で拝観できるんですよ♪
本堂にはご本尊の釈迦如来が安置されていました。

1954年、この釈迦如来の胎内から、多くの胎内納入品が発見されました。
これらの納入品の中には絹で作った「五臓六腑」もあり、その複製が本堂に展示されていました。
こう言っちゃなんですが、絹でつくったマスコットみたいな感じで可愛らしかったです。

狂言堂では大念仏狂言の奉納もあります。

嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛

午後8時ごろ、松明に点火されます。

清凉寺 お松明式

3基の松明を早稲・中稲・晩稲に見立てて、火の燃え方で年の米の豊凶を占うそうです。

また本堂前13本の高張り提灯の高低によって米相場を決めるそうですが、写真の例だとどのような米相場になるんでしょうか?

清凉寺 高張り提灯

旧暦2月15日は涅槃会(釈迦入滅の日に行われる法要)で、現在では新暦の3月15日前後に涅槃会を行っている寺も多いです。
お松明式は涅槃会の行事なんですね~。

釈迦入滅の様子を描いたものを涅槃図といいます。
http://www.gyokusenzi.com/sanbukki/nehanz/nehanz.htm
↑ こちらのサイトの涅槃図がわかりやすいと思います。

お釈迦様の頭上に赤い包みがありますね。
上記サイトによるとこの赤い包みは、摩耶夫人がお釈迦さまのために投じた薬の入った袋で、お釈迦さまに届く前に木に引っかかったと説明されています。

私はこの赤い包みの中に入っている薬とは髑髏ではないかと考えています。

インドにマハーカーラ(大いなる闇)という神がいます。
マハーカーラは日本に伝えられ、大黒天として信仰されています。

マハーカーラは片手に 宝物の入った小袋、又は人間の生首を持っていたと聞いた記憶があります。
またマハーカーラは不老長寿の薬を持っているともされます。

日本に真言立川流という宗教がかつてありました。
立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊をつくり、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊が命をもって復活すると考えられていました。

おそらく立川流はインド密教をとりいれて成立したものだと思いますが、どうも髑髏は復活にはかかせない呪具であったように思われます。

マハーカーラが持っている不老長寿の薬とは生首(髑髏)ではないかと思えるのです。
すると大黒天の袋の中に入っているのも髑髏でしょう。
涅槃図に描かれた袋には薬が入っているといいますが、それは不老不死の薬=髑髏なのではないでしょうか。

米原子供歌舞伎 弁慶


↑ 上の写真は米原子供歌舞伎・旭山で演じられた『御所桜堀川夜討 弁慶上使の段』です。
手に紅白の包みを持っていますね。
詳しいいきさつは省きますが、この包みの中に入っているのはどちらも人の首なのです。

これを見て涅槃図の赤い包みを想いだしてしまった私です。

清凉寺・・・京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
お松明式…3月15日

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[2015/03/15 00:47] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

東大寺二月堂 修二会 お松明 『お松明と大仏の鍍金』 

二月堂 お松明

東大寺・二月堂で修二会が行われていますね。
修二会では3月1日より3月14日まで、二月堂の舞台上で11人の童子が大きな松明を振りまわして火の粉を散らすお松明と呼ばれる行事が行われます。
童子が松明を振りまわすと、舞台の下で行を見守る参拝者の頭上に火の粉がふりかかります。
この火の粉を浴びると、1年間無事に過ごせるといわれています。

また3月13日午前1時半頃には若狭井から観音さまにお供えするお香水を汲み上げる儀式、「お水取り」が行われます。

以前の記事、若狭神宮寺 お水送り 『お香水とは水銀のことだった?』  にも書いたのですが
この「お水取り」に先駆けて、若狭神宮寺では3月2日に『お水送り』の行事が行われています。

お水送り

「お水送り」は若狭の鵜の瀬からお香水を流す行事です。。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂の若狭井に届くと言われています。

この『お水送り』『お水取り』には次のような伝説があります。

若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は漁に出かけていて、修二会に遅刻しました。
遠敷明神がそのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると、二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出しました。


遠敷(おにゅう)や二羽の鵜とは丹生(ニュウ。丹とは水銀のこと)の意味ではないかとする説があります。

そして東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたといわれ,
二月堂のお松明の行事は、大仏に鍍金をほどこす様を再現したものではないかという説もあります。

水銀は昔は『みずかね』と呼ばれていました。
お水とりの水とは『みずかね』のことだったのかもしれませんね。

東大寺・・・奈良県奈良市雑司町
修二会・・・3月1日~3月14日 19時ごろより

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[2015/03/13 06:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

北野天満宮 梅 『菅原道真の怨霊を畏れた村上天皇』 

北野天満宮 梅

北野天満宮の梅が見ごろとなっているようです。
梅の開花状況 → http://www.okeihan.net/recommend/ume/migoro/

北野天満宮の御祭神・菅原道真は現在は学問の神として信仰されていますが、もともとは疫病や天災をもたらす怨霊として畏れられていました。

菅原道真((845年~903年)は宇多天皇、醍醐天皇に重用され、右大臣にまで上り詰めました。
901年、これに嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、これを信じた醍醐天皇は道真を大宰府に左遷しました。
903年、道真は大宰府で失意のうちに亡くなりました。

北野天満宮 梅

その後、、909年には醍醐天皇に讒言した藤原時平が39歳で病死しました。
923年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明親王が21歳で薨去しました。
保明親王の母親は藤原時平の同母妹の藤原穏子で、保明親王は時平の甥にあたります。
そこで醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としましたが、925年、慶頼王はわずか5歳で夭折しました。
また疫病が流行り、天災が相次ぐなどし、それらは道真の怨霊の仕業であると噂されました。

930年、清涼殿で干ばつ対策会議を行っていたところに落雷があり、道真左遷に関わった人物が大勢死傷しました。
この3か月後に醍醐天皇は崩御しましたが、道真の怨霊を畏れるあまりノイローゼになったことが原因であるといわれています。

947年、道真を御祭神とする北野天満宮が創建されました。
のちに、藤原時平の甥の藤原師輔が自分の屋敷を寄進して立派な社殿に作り直されたようです。

北野天満宮が創建される前年の946年、村上天皇が即位しています。
村上天皇は道真の怨霊を畏れてノイローゼとなって崩御した醍醐天皇の第十四皇子です。

私は北野天満宮の創建には村上天皇の意志も大きく働いていたと思います。

北野天満宮では年末に梅園でとれた梅を梅干しにしたものを『大福(おうぷく)梅』と称して授与しています。

北野天満宮 大福梅

京都では正月にこの大福梅を入れたお茶(大福茶)を飲む習慣があるのです。

この『大福茶』について、『都名所図絵雑談抄』は次のように記しています。
『(村上)天皇御脳にかかり給いしが、この茶を服し給えば御脳たち所に平癒す。
これより王服と称して毎年元旦にこの茶を服し給い、萬民これを倣い年中の疫病邪気を除き長寿幸福を得るなり。』

『大福』は『王服』に慶字をあてたものです。

『御脳にかかる』というのがよくわからないのですが(ご存じの方、教えてください!)
ノイローゼにかかった、という意味でしょうか?

なぜ村上天皇は御脳にかかったのでしょうか。
村上天皇は醍醐天皇の皇子であるので、道真の怨霊の祟りが自分にもあるのではないかと畏れたのではないでしょうか。

北野天満宮 梅

北野天満宮・・・京都府京都市上京区馬喰町

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[2015/03/11 12:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

道明寺天満宮 梅 『鶏が鳴かない村』 

道明寺天満宮 梅 

※さきほど、下書きにしたつもりで、写真も貼っていない記事をあげてしまいました。
すいませんでした。
それにもかかわらず拍手ボタンを押してくださった方、ありがとうございました。


道明寺天満宮の梅が見ごろを迎えているようです。

道明寺天満宮では、アメノホヒ、菅原道真、そして道真の伯母の覚寿尼を御祭神としています。

アメノホヒは土師氏の祖神ですが、菅原氏はこの土師氏の後裔です。
なので、アメノホヒは道真の遠い先祖にあたります。

901年、57歳のとき道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷されることになりました。
大宰府に向かう前、道真は一時、道明寺にいる叔母の覚寿尼を訪問することを許されました。

道明寺で道真は
鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もがな
と歌を詠みました。

鶏が鳴くのでもうお別れしなくてはなりません。鶏の鳴かない里の朝がうらやましい。
みたいな意味でしょうか?(自信ありません)

それで道明寺の人々は鶏を飼わないそうです。。

903年、2月25日、道真は大宰府で失意のうちに59才で死亡ました。

道真は鶏の声に驚いて道明寺を出立したのですが、記紀にも鶏が登場する有名な話があります。
『天岩戸隠れ』の物語です。

天照大神が機屋で衣を織っていた時、スサノオが機屋に逆剥にした馬を投げ込み、それに驚いた一人の織女が梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまいました。
堪忍袋が切れた天照大神は天岩戸に隠れてしまい、高天原も葦原中国も闇となりました。

事態を改善すべく、八百万の神が天の安河の川原に集まって会議を開き、オモイカネの発案に従って、様々な儀式を行いました。

①常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせました。
②八咫鏡と八尺瓊勾玉を造り、太占をし、賢木を根ごと掘り起こしたものに八咫鏡と八尺瓊勾玉をかけ、祝詞を唱えました。
③アメノウズメが岩戸の前でストリップダンスをし、八百万の神々が一斉に笑いました。
④不思議に思った天照大神は岩戸を少し開けて外を伺ったところ、アメノタヂカラオが天照大神の手を取って岩戸の外へ引きずり出しました。
⑤フトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、天照大神に「もうこれより中に入らないで下さい」と言いました。


一般に、逆剥の馬に驚いて、梭で陰部を刺して死んだ織女とは天照大神自身、そして天照大神が天岩戸に隠れたということは、死んで埋葬されたという意味だと考えられています。
鶏が鳴いたあと、天照大神は天岩戸から出てきましたが、これは死んだ天照大神が神として復活したということだと思います。

道真が鶏の鳴き声に驚いて道明寺をあとにしたという物語は、天岩戸神話をベースに創作したものではないでしょうか。

鶏が鳴くのは道真がのちに天神として復活することを意味しているのだと思います。

道明寺天満宮・・・大阪府藤井寺市道明寺1-16-40
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[2015/03/09 12:06] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

市比賣(いちひめ)神社 ひいなまつり『天児人形とイエス・キリスト』 



市比売神社の『ひいなまつり』は神社の近くにある『ひと・まち交流館』で行われました。
参観券は1000円ですが、抹茶に和菓子、お守りもついています。
また貝合わせや投扇興など伝統的な遊びを体験することもでき、長時間楽しめるのですごくお得感がありました!

市比賣神社 ひいなまつり

人雛が勢ぞろいしました。雅ですねえ~。

市比賣神社 ひいなまつり

お雛様が天児(あまがつ)人形に息を吹きかけています。

天児人形とは幼児の枕もとに置く身代わり人形でした。
幼児に変わって病気や穢れを吸い取ってくれる人形ですね。

市比賣神社 天児人形

↑ これは市比賣神社の境内に展示されていた天児人形です。
竹で作った人形に着物を着せてあります。

もう一度、お雛様が天児に息をふきかけている写真(2枚目)を見てください。
私には天児が十字架に見える~。

渡来人の秦氏は伏見稲荷大社や八幡神宮を創建するなど、日本神道に深くかかわっていると考えられています。
そして秦氏はキリスト教徒だったという説があります。

『日本書紀』(283年)には、「秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人々を率いて日本に帰化した。」と記されています。
しかし秦氏の居住地から発掘される瓦は『新羅系』がほとんどで、秦氏が百済からやってきたというのは疑問視されています。

またかつて中央アジアに弓月王国というキリスト教国があり、秦氏はこの弓月王国からやってきたという説もあります。
秦氏の本拠地である太秦(ウズマサ)はアラム語の『イシュ・メシャ(イエス・キリスト)』からくる、ともいわれています。

アラム語は紀元前500年~600年頃にシリア地方、メソポタミアでに用いられていたヘブライ語と同系統の言語です。

そして、イエス・キリストは人類の罪をかぶって死んでいったとされますが、これはイエス・キリストが人類の身代わりになったということです。

もしかして天児人形とは日本版・十字架にかけられたイエス・キリストなのではないでしょうか?

市比賣神社 ・・・京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入ル
ひいなまつり・・・3月3日

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[2015/03/08 00:10] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

淡嶋神社 雛流し 『なぜ雛人形は首が抜けるのか』 

淡嶋神社では3月3日に雛流しの行事を行っています。

境内には全国から奉納された雛人形やお面などが所せましと並べられ、異様な雰囲気。

淡嶋神社

淡嶋神社

雛人形を小舟に乗せ・・・

淡嶋神社 雛流し

行列を作って船を浜へと運びます。

淡嶋神社 雛流し


幣が風に乗って舞います。

淡嶋神社 雛流し

多くの参拝者が見守る中、雛人形を乗せた小船は沖へと向かっていきます。

淡嶋神社 雛流し


昔、人形とは息をふきかけたり、肌をすりつけたりして自らの穢れを移すための道具でした。
人形は穢れを移されたのち、川や海に流されました。

きぶねじんじゃ おおはらい

上の写真は貴船神社の人形流しのようすです。
風に乗って舞う白い紙が人形の形をしているのがわかりますか?

雛人形ももともとは紙で作られた簡素なもので、これに息を吹きかけて穢れを移し、川や海に流していました。

最近の雛人形はどうか知りませんが、昔の雛人形は首が抜けるようになっていたと思います。
人形の首を抜き、それから和紙で包んで箱にしまった記憶があります。

子供のころは収納の邪魔になるので首を抜くのかと思っていましたが、考えてみると気持ちの悪いことです。

川や海に流された人形は水底に沈んだり、折れたり、腐ったりしたことでしょう。
(淡嶋神社では不法投棄にならないよう、人形を乗せた小舟は回収して浜辺でお焚きあげしています。)

人形が水底に沈んだり、折れたり、腐ったりするというのは人形の死を意味していると思います。
人形とは、人の穢れをしょわされて、あげくのはてに殺されてしまうものだったのですね。

ところが豪華な人形はもったいなくて簡単に海に流すわけにはいきません。
そこで人形の首を抜くことで人形を殺して(魂を抜いて)から押入れの奥深くにしまうのではないでしょうか。

淡嶋神社・・・和歌山県和歌山市加太116

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[2015/03/06 11:29] 和歌山 | トラックバック(-) | コメント(-)