あれやこれやのなんやかんや

    多趣味というか関心のあるものが多いので、趣味のことから政治的なことまで書きたいことを書きたいように書いていきます。

    Category: スポンサー広告   Tags: ---

    スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

    Category: 映画 > 娯楽映画、劇映画、シネコン   Tags: 映画レビュー  

    Comment: 0  Trackback: 0

    『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』/両極点からの地球讃歌


    去年の年末に成田のIMAXで『ゼロ・グラビティ』を観てきました。

    評判通りの素晴らしい映画でした。
    ただ、いままでは感想を書く気になりませんでした。
    成田のIMAXについてはもういままでに何度かレポートしてるし、
    大ヒットしたハリウッド映画ということもあってネット上には同じような感想やレビューが溢れてるし、批判してる人はみんな誰もが気付くようなところを得意気につっこんでるしw
    高く評価してる人が書いてるのも、精子と卵子のメタファーとか、へその緒とか、胎児とか、生と死とか、再生の物語とか、だいたい同じだし。
    あと「ゼロはいらない」ってこととかね。
    あとは『2001年宇宙の旅』との比較とか。
    全部その通りだし同意もするんですが、ちょっと当たり前過ぎるんですよね。
    ハリウッド映画にしては説明的な描写が少ないとはいえ、意外にわかりやすい映画だったということでしょうね。
    自分もこの映画の宇宙描写の説得力やCGの素晴らしさ、宇宙でのパニック劇を描きながらも人間の内面を描写した深みのある物語、隠喩の多さやメッセージ性の強さなど、素晴らしいと思いました。
    ただ、観るのが遅過ぎましたね。公開直後に観ていれば上に書いたような、ありきたりのことを喜んで書いていたと思いますw
    でも完全に後続組になってしまったので、「言い尽くされていることを書いたってめんどくさいし、かといってそれと異なるオリジナルな視点や感想は持てなかったしな。」ということで、お蔵入りしてました。

    しかし!
    つい先日「笑ってコラえて!」で『かぐや姫の物語』の特集を見て触発されてしまい、その翌日の朝イチで『かぐや姫の物語』を観てきたんですがw、もうね、心底感動してしまいました!
    と、同時にエンドロールが終わってすぐ自然に『ゼロ・グラビティ』のことを思い出して、自分の中ではきれいに繋がってストンと腑に落ちて、二重に感動してしまったわけです。
    この感動はぜひ文章にして残しておきたいなと思ったので、書いてみたいと思います。
    でもひとつの記事で大作2作を同時に捌かないといけないので、アクロバチックでめんどくさくて長ったらしい文章になりそうなのでもう書くのやめたいですw。


    ++++両極点からの地球讃歌++++

    『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』は言うまでもなく、何から何まで対照的な作品である。
    実写とアニメ、ハリウッドとジブリ、最新の物語と最古の物語、最新のデジタル技術と恐ろしくローテクな職人技、91分と137分。
    宇宙と、地球。
    CGの極点と、アニメーションの極点。

    しかし、何もかもが対照的なこの2作品は、観終わった後であっけにとられてしまうほど、全く同じことについて描いている。
    そして、CGの極点とアニメーションの極点であるこの2作品は、ちょうど北極と南極のように、何もかもが対照的でありながら、何もかもが共通点に満ちているのだ。


    ◎『ゼロ・グラビティ』の狂気◎
    『ゼロ・グラビティ』は無重力空間のリアルな描写が素晴らしい。
    あの映像は、役者以外のほとんど全てが最新のCG技術によって作られている。
    あの地球もCGだし、スペースシャトルもISSもスペースデブリの衝突シーンも当然CGだ。
    そして驚くべきことにヘルメットのガラス面すらもCGで作られている。つまりヘルメットに映り込む地球も、呼吸によるヘルメット内のくもりまでもCGだ。

    この映画は、宇宙空間を描いたCG映像と、役者を捉えた実写映像を切れ目なく繋ぎ合わせることで作られている。
    そのためには、CG映像と役者の動きはもちろん、脚本や演出、照明やカメラアングルに至るまで、全てをあらかじめコンピュータ内で徹底的に計画しておく必要があった。

    役者の動きは何から何まであらかじめ全て決められていて、その通りにコンピュータ制御された革新的な12本ものワイヤー・システムによって360°どの方向にでも役者を自在に動かすことで、あの無重力状態での動きをリアルに再現することに成功したそうだ。
    サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーにとって、その撮影は相当に過酷なものだっただろう。
    さらにすごいのは、宇宙船内でのタンクトップとショーツという薄着でのワイヤーアクションすらも可能にしたことだ。

    無重力を表現するためのカメラも、あらかじめ構図やアングルが設定され、
    役者同様に複雑に動き回ったり回転したりする必要があった。
    そのために産業用ロボットの多関節アームのような装置を開発してもらったそうだ。

    宇宙空間を再現するための照明は非常に難題で、宇宙空間のハッキリとした陰影や、地球の照り返しなども含めて計算し、その複雑な光を忠実に再現する必要があった。そのために開発されたのが「ライトボックス」という装置。
    1枚60cm四方のパネルに4,096個ものLED電球がはめ込まれたものを196枚も使うことで、どんな光や色でも照射でき、それをどんな速度でも自在に変更することができる巨大な照明ボックスを作り上げたのだ。

    つまり、その巨大な「ライトボックス」の中でめまぐるしく変わる複雑な照明を浴びながら、12本ものワイヤーによって吊るされた役者が、全ての動きをミリ単位で制御された極端に自由度の低い状態で、あれほど高レベルでリアルな演技をやってのけ、それを多関節アームによってどんなアングルからでの撮影も可能にしたカメラで、あらかじめ決められた構図やアングルで寸分の狂いもなく捉える。
    その実写映像を、こちらも相当の手間と技術を要したであろう最新のCG映像と、寸分の狂いもなく繋ぎ合わせることで、この映画は作られているのだ。
    まさに、狂気じみている。
    この狂気じみた撮影方法によって、映画史上最も説得力のある、あの無重力描写が創り出されたというわけだ。
    ちなみにキュアロン監督はこの映画の企画段階で、ジェームズ・キャメロンとデイビット・フィンチャーに相談しにいったそうだが、二人とも「技術が開発されるまで待て」と言ったそうだw
    そして実際その通りになった。本作のためだけに様々な技術が開発されたが、その開発期間も含めると、この映画の製作にはトータルで4年半もの歳月がかかっているのだ。

    この映画のIMAX3Dは、前評判ほどの効果は感じなかったものの、スペースデブリが衝突して破片が飛び散って超高速で向かってくるシーンではビクッとして顔を何度か避けたw 隣に座ってた人は顔に穴が空いて即死してしまった。かと思ったw。
    またそのシーンなどで鳴らされる音楽も印象的だった。
    宇宙空間での音響効果というのはこれまた難題で、音(=振動)を伝える空気がないので、効果音はライアンの体を通して伝わってくるというように設定され、音楽は音響効果も併せ持つようなものをスティーブン・プライスに要求したそうだ。その結果、煽られてる感じがあってやや煩わしかったものの、スペースデブリの衝突シーンではまんまと緊張感をMAXにさせられてしまった。
    また、音響効果を併せ持つ音楽とはよく言ったもので、音楽はサラウンドにミックスされていて、初めは全方位から包み込むように鳴り響き、しだいに宇宙空間の暗い中心点へと吸い込まれていくように緊張感を高めていく。それが視覚効果と相まって、実際に自分もそこにいるような気分にさせてくる。
    宇宙空間の静寂を表現する「無音」の使い方も効果的だった。

    そしてなんと言っても、キュアロン監督の作家性が凝縮された驚異の長回し映像。
    それら全ての狂気的な要素が、キュアロン監督の確かな視線の先に高次元に重なり合い、長編としては短い91分という時間にギュッと凝縮された映画がこの『ゼロ・グラビティ』なのだ。

    このメイキング映像は圧巻かつ狂気に満ちているのでぜひ見て欲しい。

    ◎『かぐや姫の物語』の狂気◎
    『かぐや姫の物語』は、まさにアニメーションの極点と呼ぶに相応しい映画だ。
    これ以上のアニメーションはいままでなかったし、これからも作られることはないのではないか。
    『かぐや姫の物語』の大きな特徴は、スケッチ風かつ水彩画のような作画で、背景も人物も同じような筆致で描かれることで1枚の絵画がそのまま動き出すような、その作画の凄まじさにこそある。

    笑ってコラえて 140115 スタジオジブリ かぐや姫の... 投稿者 plutoatom1
    これはもう、この例の「笑ってコラえて!」の特集を観てもらった方が早い。
    しかしこの番組もすごいな。
    ジブリを捉えたドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』では、宮崎駿監督と鈴木プロデューサーが中心で『かぐや姫の物語』の制作風景についてはほとんど映されていなかったから(製作中にカメラを回していたら高畑監督に怒られたそうだw)、このメイキング映像はかなり貴重。
    高畑監督が敬愛する、あのフレデリック・バック氏との最後のシーンは感動的だ。
    フレデリック・バックがいたからこそ作られた映画がこの『かぐや姫の物語』であり、しかしそういうスケッチ風/絵画的な作画だからこそ製作に8年もの時間がかかり、完成した映画をようやくバック氏に見せることができたその僅か8日後に、偉大なアニメ作家フレデリック・バックは安らかな眠りについた。なにもかもが、奇跡の橋渡しを見ているようだった。

    そのうち動画が消されてしまう可能性もあるので、簡単に文章でも説明しておくと、
    アニメーションは「動かない背景」と「動く人物」で構成されていて、一般的には背景と人物はそれぞれ別の様式で描かれる。
    背景は動かないので、かなり自由な様式で細かく描き込むことができるが、動きのある人物などは全て繋がっている均質な線で絵を描きそこに色をはめ込んでいく。
    そのように単純化して描かなければ色を載せたままキャラクターをなめらかに動かすことができないからだ。
    しかしこの映画では、背景とキャラクターが一体化し、まるで1枚の絵画が動き出すようなアニメーションを実現している。
    作画は全てスケッチ風で、その描線の一本一本の太さも違えば、かすれ具合も違う。
    原画担当が描いたそのスケッチ風の絵を元に、アニメーター達はその描線の筆致を一本一本全て真似て、動画部分となる中割りを描き、スケッチ風の絵がそのまま動くように描かなければならない。
    背景はまるで一枚の絵画のようで、描かれない余白が残され、その空間が美しさや想像力を引き立てている。
    そしてその色彩は水彩画のように淡く優しく瑞々しい。

    ただし、これをアニメーションでやるとなると、とんでもないことになるわけだw
    スケッチ風の作画を動かすだけでも上述したような手間と技術を要するのに、そこに色をつけるためにはスケッチ風の絵を元に、色塗り用の塗線動画(全ての線が繋がった絵)をまた別に作画しなければならない。スケッチ風の絵は穴だらけで、塗りつぶす範囲をコンピュータが認識できないからだ。
    さらに、通常のアニメーションでは髪の毛は影の部分と光が当たる部分を分けて2色で塗りつぶすことで描かれるが、
    この映画では、かぐや姫の長髪が活き活きと舞う描写のために、髪の毛の濃淡までも色彩豊かに塗っている。
    そのためには平面的に塗りつぶさずに数種類の色を使って濃淡を出す必要があるが、その重ねる髪の毛や色だけをまた別に作画して重ねているのだ。
    さらにさらに、かぐや姫の服にはほとんどのシーンで花柄がついているが、これも囲い線がなく淡い色のみを載せる描き方なので、花柄だけの絵をまた作画して重ねなければならないのだ。
    その結果、重要なシーンでは1カットのかぐや姫を描くためだけに7枚もの作画が必要になったという。通常なら1枚なのにw
    しかしそのおかげで、あの桜の下ではしゃぐ姫のシーンでは、スケッチ風の強弱のある線で描かれた何本もの髪の毛の勢いある動きと、複数の色を使って黒髪の濃淡までも表現した色彩が見事に重なり合って動いている、というより生きている。そしてそれが背景の色彩豊かな桜の水彩画に見事に溶け込んでいるのだ。

    つまり、もうめっちゃくちゃめんどくさいことをしているわけだw。これはもう正気じゃないと言っていいw。
    ジブリはもともと手間をかけて高いクオリティのアニメを作っているので、他の作品の作画枚数もかなり多いが、それでも数万枚から十数万枚ほどだ。ちなみに『風立ちぬ』は約14万枚だそう。
    だがこの『かぐや姫の物語』の作画予定枚数は、なんと驚異の50万枚だったそうだw。もうアホやんw。まさに狂気w。 

    その結果こんなことになってるw こんな感じで137分だw
    ちなみに、スケッチ風の作画ばかりに目がいってしまいがちだが、この映画には1シーンだけCGを使って水面を描き出しているシーンもある。
    この映画に限らず、ジブリ映画は水面をCGで描くことがある。そのときの透き通った鏡のような水面とそこに映り込む光や色彩までを美しく描き切ったCGは、手描きの絵との対比も相まって息を飲むほどに美しい。

    そして、『かぐや姫の物語』は音や音楽にも妥協が一切ない。
    この映画では、豪華な声優人達の演技に制限を与えてしまわないために、
    絵に合わせて後からセリフを収録するアフレコではなく、先にセリフを収録してしまうプレスコという技法が使われている。
    当たり前だが、完成したアニメの動きにピッタリ合わせて人が演じるのと、人が演じたものにピッタリ合わせてアニメを作るのとでは、後者の方が尋常ではなく難しいし手間もかかる。
    しかし、このプレスコのおかげで、惜しくも亡くなってしまった地井武男さんの最後にして最高の演技を聴くことができる。
    また、この映画は音楽がかなり重要な位置を占めているが、中でも高畑監督自身が作詞・作曲を手がけた「わらべ唄」と「天女の歌」はとてつもない完成度だ。この人まじでバケモノだな。
    地上の唄である泥臭くて陽気な「わらべ唄」と、地上から月へ帰った天女が歌っていたという、高貴で美しいのに寂しさと地上への想いに満ちた「天女の歌」。
    そしてその2つの歌の謎を最後に解き明かして繋げてくれる、二階堂和美さんの「いのちの記憶」。
    「必ず、憶えてる、いのちの記憶で。」この最後の歌詞が、かぐや姫の最後の涙をより一層透明に輝かせるのだ。
    Blog. 「かぐや姫の物語」 わらべ唄 / 天女の歌 / いのちの記憶 歌詞紹介
    そして、劇中音楽はいまや世界的に有名な久石譲。
    上述の3曲がすでに揃っているという状態かつ、高畑監督の要求が「感情を表現しない」「状況にあわせない」「観客を煽らない」という映画音楽家泣かせのオンパレードな制約だらけの状況下で、あれだけの仕事をした久石譲は成熟した天才である。
    「笑ってコラえて!」でも紹介されていたかぐや姫が屋敷ではしゃぎ回るシーンでの、一歩引いた視点からの「タティタティティタ」も素晴らしいが、自分がもっとすごいなと思ったのはやはり最後の天人達が襲来するときに奏でている音楽だ。
    人間の視点から見れば敵としてやってくるのに、天人達が鳴らす音楽は驚くほど陽気で能天気だ。
    民族楽器を多用した音楽なのだが、それまで劇中で鳴っていた西洋的だったり日本的だったりする音楽とは、根底から異なる音楽を鳴らしている。これは映画を見ていてとても恐ろしく聴こえた。
    敵も味方なければ、怒りも喜びもない、ただただ陽気で能天気な音楽。価値観どころか存在からして異なっているのだ。

    もう、こうやって簡単に書き連ねるだけでも大変なほどの、多くの人の才能と努力と手間が惜しげもなくつぎ込まれて作られている『かぐや姫の物語』だが、やはりすごいのはそれだけの才能達を8年間も付き合わせてしまう高畑勲監督の力量なのだ。
    高畑監督は絵を一切描かないことでも知られている。アニメ監督なのに絵を描かないなら、一体何をするのか?一体何がすごいのか?
    確かに監督は絵を一切描かないが、監督の頭の中には「アニメーション」そのものが鮮明に描かれているはずだ。
    それも、脚本もセリフも背景も衣装も脚色も声も効果音も音楽も、ほぼ全てが備わった状態でだ。
    映画監督としてこれほど理想的なことはない。
    その絶対的な安心感と、それを具現化したときに一体何が起きるのか、その奇跡を見たいしその奇跡の一部になりたいという好奇心や欲求、そういう圧倒的な求心力が高畑監督にあったからこそ『かぐや姫の物語』は8年の歳月を超えて完成することができたし、アニメーションのひとつの到達点を示すことができたのだ。

    こうして、何もかもが対照的で、何もかもが異なるこの2作品は、
    まず第一に、製作の手法や技術や見せ方などの表層的な要素において、
    「映画創りにおける狂気の結集」という幸福な邂逅を果たす。


    ◇宇宙と死から、地球と生へ◇

    あぁ、ようやく内容に触れられるw(←どんな映画評だよw!)
    『ゼロ・グラビティ』は死と隣り合わせの宇宙空間をリアルに描くことで、地球のありがたみや素晴らしさ、そして地球上で生きる意味までも描き出す。
    サンドラ・ブロックが演じるライアン・ストーン博士は、娘を事故で失ったことで生きることに絶望していた。
    彼女は生きる意味を失い、無力感や虚無感を感じながら、ただ生きてきたのだろう。
    地上の賑やかさや煩わしさから逃れ、宇宙の静けさや孤独に心の平穏を求めていたようにも見える。
    誰よりも遠い場所まで行っているのに、宇宙に引きこもっていたのである(笑)。

    それに対してジョージ・クルーニー演じるベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキーは、飄々としていて陽気で明るい。
    宇宙兄弟に出てくるブライアン・ジェイの実写版のようだw。
    なんというステキおじさんだろう。
    しかし、スペース・デブリ(宇宙ゴミ)が自分たちのシャトルに迫ってるということを聞いてからの彼は、この上なく頼もしい。
    スペース・デブリ衝突の衝撃でアームごと宇宙空間に投げ出されてしまったライアンはパニックに陥ってしまう。
    体は多軸的に複雑に回転し続け、地球からはどんどん離れていく。
    そこには上も下もなく、空気も音もなく、重力もない。
    自らを繋ぎ止めるものがなにもないというのは、これほど恐ろしいことなのか。
    そしてそれは、コントロール不能な人生を暗喩しているようでもある。転がる石(ローリング・"ストーン")のよう。

    だが、彼女を繋ぎ止めるものは、まだひとつだけあった。それがマットだ。
    まるで精子と卵子のように(←結局書くんじゃんw)、あるいは万有引力のように、マットはライアンを引き寄せた。マットとライアンを結ぶホースはへその緒のようだ。(←こういうこと書いていきますよw)
    だがマットはライアンを物理的に繋ぎ止めただけじゃない。
    極限状態にも関わらずぺちゃくちゃと喋るそのたわいもない会話を通して、ライアンの精神を「地球と生」へ繋ぎ止めたのだ。自らの生を犠牲にしてまでも…。
    2人の演技も鬼気迫るものがある。あのメイキング映像を考えれば、この演技がどれほどすごいことかがわかるだろう。

    ISSの中に逃れ、宇宙服を脱いだライアンは胎児のように丸くなる。
    この薄着姿は『エイリアン』のラストシーンでのリプリーの下着姿へのオマージュでもある。
    鍛え上げられた肉体はムッキムキなので、すごいとは思ってもあまりセクシーさは感じないのが惜しいところw
    少し脱線するが、ここで書いておきたいのは「宇宙服なのにおむつを履いてない」とか「酸素がないのにムダな会話多すぎ」とか「そんな都合良くいくか」とかのツッコミ的な批判の生産性のなさだ。
    そんなこと作る側も見る側も99%の人がわかってるってw
    それでも、リアルさを犠牲にしたり、あるいは過剰に演出してでも、描きたい物語や伝えたいメッセージがあるからそう描くのであって、それこそが作家性なのだ。
    「ファンタジーではないが、フィクションである。」「フィクションであるが、ドキュメンタリーではない。」という位置にある創作物にしかできないことの可能性というのは、ものすごく大きいのだ。
    日テレのドラマも批判されて騒がれているみたいで、思うところがあったのでこれは書いておきたかった。

    そしてその結果、『ゼロ・グラビティ』は表面的には宇宙からのパニック脱出劇なのに、多くの暗喩に富み、非常に深く強いメッセージを帯びた傑作映画となり得たのだ。

    ライアンが実際に地上と繋がりを持つシーンもある。
    SOSの無線信号を発信していたら「アニンガ」と名乗る男との交信に成功するシーンだ。
    言葉も通じず、涙まじりに「メーデー」と繰り返しても「メーデー」という名前だと思われるw
    犬の鳴き声が聞こえ、二人で犬の泣きまねをする。子供の泣き声が聞こえ、亡くなった娘のことに想いを馳せる。
    あの状況でようやく繋がった交信で、言葉は通じず、感情の理解すらもしてもらえない悲壮感は尋常じゃない。
    しかし一方で、「言葉」「犬の鳴き声」「子供」という同じ認識で捉えることのできる共通点はあの宇宙空間にあってどれほど安心感を与えるものであったろうか。その共通点とはやはり「地球」であり「生」なのだ。
    ちなみに、この交信のシーンを地球側から描いたショートフィルムが公開されている。
    この映画の脚本を務めたキュアロン監督の息子でもあるホナス・キュアロンが監督して10人ほどのスタッフで低予算で作られたそうだ。題名は『アニンガ』(原題:Aningaaq)

    映画観た人にとっては衝撃だし、ラストシーンは素晴らしい。

    全てをあきらめて死を待つライアンだったが、最後に彼女を繋ぎ止めたのは、死んだはずのマットだ。
    最初は突然過ぎてポカーンとしたが、あの残留思念が具現化したかのような演出は素晴らしかった。
    マットは確かに彼女の中に生きていて、彼女を力強く「地球と生」へ向かわせる。
    「ここは居心地がいい。傷つけるものは周りにいない。静かで孤独な空間だ。
    だが、生きる意味がどこにある?
    君は娘を失った。これ以上の悲しみはない。大切なのは、今をどうするかだ。
    大地を踏みしめ、生きろ。」

    そして、「地球と生」への想いを取り戻したライアンは、いまできることを全力でやり、見事に地球への生還を果たす。
    宇宙船は無事に海か湖の水面に着地するが、水が入り込んできて、ここでも死にかけるw
    この水は羊水のようでもあり、すべての生命の根源でもある原始の海のようでもある。
    ライアンは必死で泳ぐが、体は重く水面までが遠い。軽快に泳ぐカエルや生い茂る水草が鬱陶しいw
    無事になんとか陸に辿りつき、土を握りしめ、「ありがとう」と口にする。
    この感謝は、マットをはじめとする自分を繋ぎ止めてくれた全てのことや偶然や奇跡、そして重力や水や酸素や土や命や地球そのものに対して、そして自分の生に対しての、とてつもなく重く深い「ありがとう」なのだ。
    ヘトヘトになりながらも力強く立ち上がった彼女の前には、残酷なまでに圧倒的な自然。
    そこで暗転し「GRAVITY」というタイトルが映し出されて終わる。
    最後のシーンで示されたのは、生きることの「重さ」。原題は『GRAVITY』であり、この映画は重力を描いた映画なのだ。
    その「重力」(生きる重さ)(他者や自然との繋がり)があるからこそ、この世界は美しく雄大で、生きる意味があるという普遍のメッセージ。
    そして、彼女は次の瞬間、力強く足を前に踏み出していくだろうという、確信と希望。

    人間が、地球上で、地球の恩恵を一身に浴びながら、自分の生を全うすることへの讃歌。
    そしてもっと大きな視点での、地球と地球上の全てのものへの讃歌。


    ◇地球の無常から、月の虚無へ◇

    『かぐや姫の物語』は『ゼロ・グラビティ』とは逆の構成で、もともと月(宇宙)の住人であるかぐや姫が地球での生活を送った後に月(宇宙)へ帰ってしまうことを通して、全く同じメッセージを照らし出している。

    かぐや姫は田舎の山中ですくすくと育つ。
    捨丸兄ちゃんや仲間達と共に野を駆け、山菜を採り、自然と共に生きていた。
    しかし、都に移り住むことになり、姫の運命は姫の意志を超えたところで転がりだす。
    まさに「コントロール不能な人生」だ。

    姫は最初は喜んではしゃいでいたが、しだいに姫としての振る舞いや慣習を求められることに窮屈さを感じるようになる。
    自分が望んだことではない現状に対する不満や寂しさ、そして心ない侮辱を聞いてしまった激しい怒り。
    貝殻を割り、十二単を脱ぎ捨てながら鬼の形相で疾走するシーンは圧巻だ。
    かつての自分の家に帰ると、そこには新しい親子が住んでいて、走りまくってボロボロになった姫は乞食と間違われて施しを受ける始末w(なんかここでの悲壮感も『ゼロ・グラビティ』の交信シーンと似たものがあるw)
    しかも、捨丸兄ちゃん達はすでに次の山へ移り住んでしまっていたのだ。
    この無常感はすごいものがある。姫の居場所はそこにはもう無くなってしまっていたのだ。

    かぐや姫は自分の運命を受け入れ都で生きることを決心するが、それでも姫としての制限を受け入れた中で、自分らしさをできる限り守って生きていこうと頑張る。その頑張りが、悲しくて愛おしい。
    贈り物の雀は逃がしてやるし、地位の高い5人の求婚者が来ても姫は無理難題をふっかけてそれを全て断る。
    だがその5人のうちの1人が、姫の要求に応えようとした際に事故死するという「コントロール不能の人生」の最悪の帰結として姫に襲いかかる。
    かぐや姫は罪を感じ「こんなものはニセモノよ!わたしもニセモノ!」といって里山を再現した庭園をめちゃくちゃにしてしまう。「みんな不幸になった。わたしのせいで...」と深く悲しむ。

    この映画では「竹取物語」をベースにしながらも、姫の内面を現代的にすごく丁寧に描いている。
    だからかぐや姫にものすごく感情移入できるのだ。
    そうして感情移入していくと、負の感情の方が圧倒的に多い。窮屈で閉塞感に溢れているし、無常観と悲しみに満ちている。他者とのすれ違いや価値観の違いをすごく感じてしまう。しかし、それでもこの世は確かに美しく、楽しいことや嬉しいことだってある。
    あの桜の木の下で姫が舞うシーンは、その直後の感情の激しい落差が観客に対してすごくイジワルな描き方でニヤッとしてしまうが、この世界の美しさや感情の高ぶりと同時に、この世界のめんどくささや自分の思うようにいかない憤りなどを見事に表現している。
    それはもう、月からやってきたかぐや姫を通して、この世界の現実を鏡のように映し出しているといえる。
    月が太陽の光を地球に照り返してくれるように、かぐや姫の存在は地上の暮らしを照らし出してくれる。

    帝に後ろからいきなり抱きつかれたことが決定打となって、姫は無意識に月に助けを呼んでしまった。
    その後、かぐや姫は翁と媼に、自分の正体や地球に来た理由、わらべ唄と天女の歌の謎についても告白する。
    わらべ唄と似た歌詞を違うメロディーで歌われるあの歌は、かつて地上にきたことがあった天女が口ずさんでいたものだったという。それは、わらべ唄をもとにした、天女のアンサーソングのようなもので、地上への想いを歌った歌だったのだ。

    「姫の犯した罪と罰。」というコピーだが、姫の犯した罪とは地球に憧れてしまったことで、その罰が地上での暮らしを一から体験させられることだったのだ。
    その罪と罰とは、あくまでも月(天上の世界)の住人の価値観によるものだ。
    では、本当にそれだけだろうか。あんな大々的なコピーが?
    自分はもうひとつの「罪と罰」があると考えている。それは地球の住人の価値観による罪と罰だ。
    かぐや姫は念願かなって地球上に生まれながらも、周りの環境に流されてしまい、最後まで自分らしく生きて幸せになることがかなわず、結果的に月に助けを求めてしまった。それが罪であり、地上のことを全て忘れて月に帰らなければならなくなったことが罰なのだ。
    実際に姫は捨丸との邂逅のシーンで「捨丸兄ちゃんとだったら、わたし幸せになれたかもしれない!」
    「生きている手応えさえあれば、きっと幸せになれた」ということを言っている。
    そして「天地(あめつち)よ、私を受け入れて」と飛び立つシーンがある。
    かぐや姫は、あのまま山で捨丸たちと一緒に「鳥、虫、けもの、草、木、花」という自然と共に泥臭く生きることができたなら幸せになれた。(でももう遅い)ということを言っているのだ。

    これは地球上で現代を生きる我々にとって、非常に考えさせる深いメッセージを含んでいる。
    地球上に生まれておきながら、自然をないがしろにし、自然と対立してしまっている人間に対する痛烈な皮肉をも含んでいるように自分は感じたのだ。(そしてこの皮肉は『ゼロ・グラビティ』でも感じたものだ。技術の進歩に伴って宇宙進出を果たした人類が、スペース・デブリという自ら引き起こした問題によって宇宙の過酷さに打ちのめされることになるからだ。また、地球に帰ってきたあとのシーンに人間や人間の建造物が全くなく、圧倒的な自然が描かれたことからもそう感じた。地球讃歌が第一義で、人間讃歌がメインではないのだ。)

    そして、ついに月からの使者が迎えにきて、全てを忘れてしまう羽衣を手に「この衣を被れば、この世の穢れ(けがれ)はすべて消え去ります」と言い放つ。
    かぐや姫は「この世は穢れてなんかいないわ。みんな彩りに満ちて、人の情けを...」と声を荒げるが、衣を被されて記憶が消えてしまい、抵抗を止める。

    上述したあの天人達の音楽が鳴り響く中、記憶が消え去ってしまったはずのかぐや姫の目には一筋の涙がこぼれる。

    それは「いのちの記憶」が流させる涙なのだ。
    天女の歌も「いのちの記憶」があるから歌えた歌なのだ。

    これほどの地球讃歌があるだろうか。これほど地球上の生物を祝福する物語があるだろうか。
    しかもそこには、コントロール不能の人生や無常などの一筋縄ではいかない現世の持つ深みを含み、
    さらには、文明の発展や自然の軽視に対する警鐘までも孕んでいるのだ。

    ラストシーンは月に浮かぶ赤ん坊のかぐや姫だ。
    「月が太陽の光を地球に照り返してくれるように、かぐや姫の存在は地上の暮らしを照らし出してくれる。」と書いたが
    、このラストシーンは「月を見るたびに、かぐや姫のことを思い出し、自分の暮らしを思い返してみなさい。」と言っているように映ったのだ。
    こんなもん感動しないはずがないw。とてつもない超傑作映画である。
    ちなみに「竹取物語ってこんなにすごい話だったんだ」という感想は間違っていると思う。誰もが知っている「竹取物語」を現代劇として再構築することで、高畑勲監督がものすごい奥行きと深みといのちを吹き込んでいるのだ。
    高畑勲、恐るべし。

    ++++まとめ++++

    つまり、
    『ゼロ・グラビティ』と『かぐや姫の物語』は、全く同じ時期に、全く異なる正反対の方法で、しかし同等レベルの映画的な完成度とビジュアルのかつてない美しさをもって、全く同じことについて描いているのだ。
    それは宇宙と地球、CGの極点とアニメーションの極点の、両極点からの地球讃歌であり、地球上で生きる我々へのメッセージでもある。


    さらに、ただ祝福するだけではなく、いまの我々自身の生き方を照らし出して振り返らせてくれる。
    祝福と同時に戒めを、戒めと同時に励ましを、励ましと同時に生きる力を与え、我々の人生すらも再生させてくれる。
    映画における新たな地平を開いたこの2作品は、我々の人生をも新たな地平へと導いてくれるのだ。



    この2作品は第一義的には、地球讃歌だ。地球とそこに生きる地球型生命体全てに対する壮大な讃歌。
    そしてその次に、我々に強く訴えかけてくる部分こそが、その地球上で生きる我々人間に向けられたエール。
    しかもどちらの物語も、地球上で生きることの苦難や障害や無常などの「生きることの重さ」について言及したうえで、「それでもこの世界は生きるに値する。」ということを言っている。
    ちなみに、もっと身近でより人間的なものになるが『風立ちぬ』も似たようなメッセージを含んでいる。
    同時公開しようとしてた鈴木プロデューサーも恐ろしいw もし同時公開だったらこの記事も『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』だったかもしれない。

    そして、もうひとつは、近代文明に対する警鐘と自然に対する感謝。
    これには異論がある人もいるかもしれないが、自分としては、地球を讃歌するということは必然的に近代文明の負の側面に警鐘を鳴らしているという点があるのではないかと思う。
    そしてそれを(自分は)この2作品の中の至る所で直接感じとった。

    簡単に言うと「地に足をつけろ」ということを言っているのだ。
    「GRAVITY」(重力)を踏みしめろ。「鳥、虫、けもの、草、木、花」を感じろ。と。

    そこから感じるのは今日性である。同時期に作られたということもあるが、これらの映画は時代が求めた映画であるように思えてならない。ものすごく現代を象徴し反映している物語なのだ。
    社会は成熟し、経済は行き詰まり、自然は破壊され続け、争いは絶えず、我々はただ何となく毎日を生きている。
    物があふれているが、心は満たされない。生きることには困らないが、何が幸せかも見えてこない。
    閉塞感を感じ、罪悪感を感じ、自分の存在すらも否定したくなる。
    そんな現代の地球を覆っている空気感を具現化しているように見えるのだ。

    それでいて、その絶望を優しく慰め、励まし、我々を再生させてくれる。
    それでも前を向いて生きる価値がこの世界にはあるのだ。と背中を強く押してくれる。

    このただでさえ奇跡的な2作品が、いまこの現代で、同時期に見ることができるという奇跡に、
    最後に「ありがとう」と言いたい。そしてこの喜びを「いのちの記憶」で憶えておきたい。


    スポンサーサイト

    テーマ : 映画館で観た映画    ジャンル : 映画

    Comments


    プロフィール

    Sohei.S

    Author:Sohei.S
    多趣味というか関心のあるものが多いので、政治的なことから趣味のことまで、書きたい事はなんでも書いていこうと思います。
    ちなみに主な趣味は映画、音楽、オーディオです。3つとも割とどっぷりいってると思います。あと最近、写真も趣味に加わりました。
    映画は単館系のドキュメンタリーから、シネコンの娯楽映画や映画音響やIMAXの話まで。
    音楽はジャズ/クラシック〜ポストハードコア/メタルコア〜エレクトロニカ/ポストロック/ポストクラシカルまで、かなり雑食にオールジャンル聴いてます。ドラムとパーカッションやってたので演奏や音楽史にも興味あります。あとミックスやマスタリングなどにも興味があります。
    オーディオはポータブルとホームオーディオ両方です。ケーブルとかポタアン自作したりもしてます。
    拍手、ツイート、コメントなど大歓迎です。
    それではよろしくどうぞ〜m(_ _)m。

    タグリスト

    LIVEレポ写真映画レビュー映画音響ポタアンヘッドホン祭り震災4K接続ケーブルアカデミー賞ポタ研10proリケーブルこのブログについて

    訪問者数
    つぶやきったー
    ブロとも申請フォーム
    exfm
    無料で音楽が聴ける、音楽系SNS。 プレイリストを作ってブログに貼ったりシェアしたりできる優れもの。

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。