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”シンガポール建国の父” 死去3月23日 5時36分
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シンガポールの建国の父と呼ばれ、初代首相を25年にわたって務めたリー・クアンユー元首相が、23日未明、死去しました。91歳でした。
リー・クアンユー元首相は先月5日から肺炎のためシンガポールの病院に入院し、集中治療室で治療を受けてきましたが、シンガポールの首相府によりますと感染症によって容体が悪化し、23日未明、亡くなりました。
リー元首相は1965年にシンガポールがマレーシアから独立したあと、25年にわたって初代首相を務めてシンガポールの繁栄の基礎を築き、建国の父と呼ばれました。
天然資源がない都市国家ながら、さまざまな優遇策によって外国から企業や人材を積極的に誘致することで、シンガポールを東南アジアの金融センターへと成長させました。
その一方でテレビや新聞などを政府の監視下に置いたり、法律でデモや集会を規制したりするなど言論を厳しく統制し、政治姿勢が強権的だとの批判を受けることもありました。
リー元首相は1990年に首相から退いたあとも上級相や顧問相として4年前まで閣内にとどまり、息子のリー・シェンロン首相を支えたほか、アジアのいわばご意見番として国際的にも存在感を示し続けました。
リー元首相は1965年にシンガポールがマレーシアから独立したあと、25年にわたって初代首相を務めてシンガポールの繁栄の基礎を築き、建国の父と呼ばれました。
天然資源がない都市国家ながら、さまざまな優遇策によって外国から企業や人材を積極的に誘致することで、シンガポールを東南アジアの金融センターへと成長させました。
その一方でテレビや新聞などを政府の監視下に置いたり、法律でデモや集会を規制したりするなど言論を厳しく統制し、政治姿勢が強権的だとの批判を受けることもありました。
リー元首相は1990年に首相から退いたあとも上級相や顧問相として4年前まで閣内にとどまり、息子のリー・シェンロン首相を支えたほか、アジアのいわばご意見番として国際的にも存在感を示し続けました。
「人材こそ資源」成長モデルの基礎築く
リー・クアンユー氏は1923年、イギリスの植民地だったシンガポールで裕福な商人の家に生まれました。第2次世界大戦中の日本の占領下で青年時代を過ごし、戦後、イギリスに留学して弁護士を経て政界に進出します。
1959年にイギリスから自治権を獲得したあと、初めて行われた選挙で35歳の若さで当選し、自治領の首相となりました。リー氏の指導の下、シンガポールは1963年にマラヤ連邦と統合してマレーシアが成立します。
しかし、シンガポールでは中国系の住民が多いのに対し、マレーシア全体ではマレー系住民が多数を占め、1965年に民族政策の違いから独立を余儀なくされ、リー氏は記者会見で涙を流します。
当時のシンガポールの人口は180万人余りで天然資源がなく、水すら輸入に頼る国だったため、リー氏は経済成長を最優先に掲げ、徹底した現実主義の下、国づくりの陣頭指揮を執ります。アメリカや日本などから資本と技術を呼び込み、政府主導で港湾や電力、工業団地などのインフラを整備して工業化を押し進めました。
また、リー氏は「人材こそが資源」だとして幼い頃から能力のある人材を選抜し、奨学金での海外留学を促進するなどエリート官僚を育成する教育制度を整えました。さらに、さまざまな優遇策によって外国から企業や人材を積極的に誘致し、シンガポールを東南アジアの貿易や金融の拠点へと成長させ、現在に至る成長モデルの基礎を築きました。
一方で、リー氏は経済成長のためには政治的な安定が不可欠だとして内政では言論を厳しく統制するなど強権的な政策を取り、批判的な言動に対しては名誉毀損で訴えるなどして野党勢力を弱体化させ、みずからが創設した与党「人民行動党」の事実上の一党支配を確立しました。
また、リー氏は日本をたびたび訪れ、高い勤労意欲や技術力、生産性を称賛し、日本の政治家や財界などとの交流も深め、両国の関係強化に努めました。
1959年にイギリスから自治権を獲得したあと、初めて行われた選挙で35歳の若さで当選し、自治領の首相となりました。リー氏の指導の下、シンガポールは1963年にマラヤ連邦と統合してマレーシアが成立します。
しかし、シンガポールでは中国系の住民が多いのに対し、マレーシア全体ではマレー系住民が多数を占め、1965年に民族政策の違いから独立を余儀なくされ、リー氏は記者会見で涙を流します。
当時のシンガポールの人口は180万人余りで天然資源がなく、水すら輸入に頼る国だったため、リー氏は経済成長を最優先に掲げ、徹底した現実主義の下、国づくりの陣頭指揮を執ります。アメリカや日本などから資本と技術を呼び込み、政府主導で港湾や電力、工業団地などのインフラを整備して工業化を押し進めました。
また、リー氏は「人材こそが資源」だとして幼い頃から能力のある人材を選抜し、奨学金での海外留学を促進するなどエリート官僚を育成する教育制度を整えました。さらに、さまざまな優遇策によって外国から企業や人材を積極的に誘致し、シンガポールを東南アジアの貿易や金融の拠点へと成長させ、現在に至る成長モデルの基礎を築きました。
一方で、リー氏は経済成長のためには政治的な安定が不可欠だとして内政では言論を厳しく統制するなど強権的な政策を取り、批判的な言動に対しては名誉毀損で訴えるなどして野党勢力を弱体化させ、みずからが創設した与党「人民行動党」の事実上の一党支配を確立しました。
また、リー氏は日本をたびたび訪れ、高い勤労意欲や技術力、生産性を称賛し、日本の政治家や財界などとの交流も深め、両国の関係強化に努めました。
「アジアで最も偉大な指導者の1人」
国連のパン・ギムン(潘基文)事務総長は22日、報道官を通じて声明を発表し、「リー氏はシンガポールを発展途上国から世界でも最も先進的な国へと引き上げ、国際的なビジネスの中心地に生まれ変わらせた。ことし独立から50年を迎えるシンガポールの建国の父はアジアの最も偉大な指導者の1人として後世に名を残すだろう」と述べ、リー元首相の功績を讃えました。