第二巻 涼宮ハルヒの溜息

【Volume 2 — Suzumiya Haruhi no Tameiki】


 

CONTENTS

 

プロローグ
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
エピローグ
あとがき

 

プロローグ

 

 悩みも何もないように見えるハルヒの唯一の悩みとは、一言で言うと「世界は普通すぎる」ってことである。

 では、こいつの考える「普通でないこと」てのは何なのかというと、これまた一言で言うとスーパーナチュラルであって、要するに「あたしの目の前に幽霊の一つも現れないとは何事か」などと考えていやがるのだった。

 ちなみに「幽霊」の部分は「宇宙人」とか「未来人」とか「超能力者」とかでも置換可能だが、言うまでもなくそんなもんが目の前をフラフラしているような世界はフィクションの世界であって現実にはなく、よってハルヒの悩みはこの世界で暮らす限り永遠に続くことになっている----はずだったのだが、実はそうとも言い切れないので俺も困り果てているところだ。

 なぜなら俺には宇宙人と未来人と超能力者の知り合いがいるからである。

 

「重要な話があるんだが、聞いてくれ」

「なによ?」

「お前は宇宙人か未来人か超能力を使うような奴がいて欲しいんだよな?」

「そうだけど、それがどうしたのよ」

「つまりだ、このSOS団とやらの目的は、そういう連中を捜すことにあるんだよな?」

「探し当てるだけじゃダメよ。一緒に遊ばないといけないの。見つけただけじゃ画竜点晴を欠くというものだわ。あたしがなりたいのは傍観者じゃなくて当事者だから」

「俺は永遠に傍観しておきたいがな……。いや、まあ、それはいいんだが、実は宇宙人も未来人も超能力者も、思いも寄らぬ身近にいるんだよ」

「へぇ。どこの誰? まさかとは思うけど、有希やみくるちゃんや古泉くんのことじゃないでしょうね。それじゃちっとも『思いも寄らぬ』じゃないもの」

「えー……あー……。実はそう言おうと思ってたんだけどな」

「バカじゃないの? そんな都合のいい話があるわけないじゃないの」

「ま、普通に考えたらそうだよな」

「それで、誰が宇宙人だって?」

「聞いて喜べ、あの長門有希は宇宙人だ。正確に言うと、なんつったけな。統合ナントカ思念体……情報ナントカ思念体だったかな? まあそんな感じの宇宙人みたいな意識がどうかしたとかいうような存在の手先だ。そう、ヒューマノイドインターフェースだった。それだよ」

「ふーん。で? みくるちゃんは?」

「朝比奈さんはだな、割と簡単だ。あの人は未来人だ。未来から来てるんだから未来人で合ってるだろ」

「何年後から来たのよ」

「それは知らん。教えてくれなかったんでな」

「ははあん、解ったわ」

「解ってくれたか」

「ということは古泉くんは超能力者なのね? そう言うつもりなんでしょ」

「まさしく、そう言うつもりだった」

「なるほどね」

 そう言ってハルヒは眉毛をびくびくさせながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。それから、次のように叫んだ。

「ふざけんなっ!」

 

 このように、ハルヒはせっかくの俺の真相激白を物の見事に信じなかった。無理もない。実際に三人が宇宙人モドキで未来人で超能力野郎であるという証拠を目の前に突きつけられた俺だって信じられないくらいだから、アレやコレやを目撃していないハルヒに信じろと言うのは無茶だったかもしれない。

 しかしだ。他にどう言えばいいんだ? 俺の言ってるのは掛け値なしの嘘偽りなしだぜ。これでも俺には嘘をついたところでどうにもならないときは正直にものを言う習性がある。

 確かに俺だってどこかの親切な奴が「お前がよくご存じの誰それさんは実は……」なんて言い出したら、「ふざけんな」と言うところである。もしそいつが真面目に言っているのだとしたら、そいつの脳にタチの悪い虫が湧いているのか、あるいは毒性の電波を受信しているのかと逆にいたわってやりさえするかもしれん。どちらにせよ、あまり接点を持たないようにはするだろうが。

 うむ? つまりその「そいつ」というのは、今の俺のことなのか?

「キョン、よーく聞きなさい」

 ハルヒは眼球の表面積一杯に赤く燃える炎を浮かべながら俺を睨みつけた。

「宇宙人や未来人や超能力者なんてのはね、すぐそこらへんに転がってなんかはいないのよ! 探して見つけて捕まえて首つかんでぶらさげて逃げ出さないようにグルグル巻きにしないといけないくらいの希少価値があるものなのよ!適当に選んできた団員が全員そんなのだなんて、あるわけないじゃないの!」

 高説、まことにもっともである。ただし一人は除いてくれ。他の三人は確実に超自然現象のたまものだが、俺だけは地上でまともな進化を遂げてきた普遍的中庸な人類の同類だ。それから、やっぱり団員を適当に選んでたのか、こいつは。

 しかし、このアホ女はどうして変な部分で常識的なんだ? すんなり信じておけば、今より物事が簡単になっているだろうに。少なくとも、SOS団とかいう変態組織は解散できるに違いない。これはハルヒが宇宙人やら(以下略)などの不思議的存在を探すための謎団体なんだからな。見つかっちまえば用無しだ。あとはハルヒ一人でそいつらと遊んでいればいい。俺はたまに混ぜてもらうくらいでちょうどいいな。クイズ番組で司会者の横で無意味に笑って立っているだけのアシスタント役で俺は満足するね。合いの手打ってるだけでギャラもらえるようなポジションに俺も早く立ちたいものだ。現在の俺は、どうやら動物。バラエティに出てきて芸を強要される雑種犬みたいなもんだからな。

 もっとも、ハルヒがすべての現象を自覚してしまえば、この世界全体がどうなるか知れたものではないのだが。

 

 ちなみに冒頭の会話は参加人数二人でおこなった第二回「SOS団、市内ぶらぶら歩きの巻(仮称)」の日、駅前の喫茶店における俺とハルヒの会話である。俺は心おきなくハルヒの払いであることを確信し、ストロングコーヒーを啜りながら余裕たっぷりに解説してやり、ハルヒはまるで信用せず、そりゃそうだ、やっぱりどう考えても信じるほうがどうかしていると言える。

 俺は俺で詳細を説明するわけにもいかず、だいたいこういうもんは、細かいディテールを説明すればするほど頭を疑われると相場が決まっているからな。最初に長門のマンションに連れ込まれて長々と意味不明な銀河規模の電波話を聞かされた俺が言うんだから間違いない。

「あんたの面白くないアホジョークはもういいわ」

 ハルヒは緑黄色野菜ジュースをストローで吸い上げきった後にそう言い、

「じゃあ、行くわよ。今日は二手に分かれるわけにもいかないから二人で隅々まで回るのよ。それからあたし財布忘れてきたから、はい伝票」

 俺が計八百三十円を表示している紙切れを見つめて抗議の声の内容を考えている隙に、ハルヒはテーブル上に置いてあった俺のコーヒーを一息で飲み干し、どんな文句も受け付けないといった感じの一睨みを俺にくれると、大股で喫茶店を出て行って自動ドアの前で腕組みをした。

 

 それがもう半年前の出来事である。思えば、変なことばかりあったような気のする半年間だった。相変わらずSOS団の正式名称は「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」という寒気を催す団名のままで、この団の活動でいったい世界のどこがどう盛り上がったのかさっぱり不明。だいたい盛り上がってるのはハルヒただ一人じゃないのかと思うし、その存在意義と活動方針も例によって謎であって、宇宙人と遊んだり未来人を拉致したり超能力者と共闘するというようなことを目的としているらしいのだが、今のところハルヒ的にはそれは成功していない。

 なんせハルヒは宇宙人も未来人も超能力者ともまだ出会っていないと思い込んでるんだからしようがない。親切にもSOS団に所属する俺以外の団員たちの正体を教えてやったと言うのに事実を信じないのであるから、だからこれはもう俺の責任ではなかろう。

 よってSOS団は目的を果たして存在意義を失い、円満に解散したりすることもなく、今日もまた学校サイド非承認組織として部室棟の一角に存在し続けるのであった。

 当然、俺含む団員計五人は文芸部の部室にパラサイトしたままだ。生徒会執行部はあらゆる意味でSOS団を無視することにしたらしく、俺の提出した創部申請書をはね除けたかわりに部室の不法占拠にも何も言わなかった。本来唯一の文芸部員だった長門有希が何も言わないからかもしれないが、ハルヒに何か言うくらいなら見て見ぬふりをしたほうが全体的にマシであると判断したからだと俺は推理している。

 誰しも「これは踏むと爆発します」と万国共通文字でネオンを光らせている爆発物を踏みたくはあるまい。俺だってごめんだ。そうと知っていたら俺は入学したばかりの教室で、後ろの席で仏頂面している女に話しかけたりはしなかったってなもんだ。

 うっかり時限爆弾の起動スイッチをいれてしまったばかりに、爆弾抱えて右往左往するマヌケ役を押しつけられた一般人的高校生。それが今の俺の置かれた立場である。しかも「涼宮ハルヒ」と書いてあるこの爆弾には爆発予定時刻までのカウントダウンが表示されないのである。

 いつ何時炸裂するのか、どのくらいの被害をもたらずのか、中に何が詰まっているのか、それ以前にこれは本当に爆弾なのか、誰かが爆弾と言ってるだけのガラクタなのか、それすら解らないのだ。

 そこらを探しても危険物専用のダストシュートを発見できるわけもなく、それはつまり、この人的危険物はセメントでも塗りつけてあったかのように俺の手を離れないということでもあった。

 ほんと、どこに捨てたらいいんだろうな、これ。

 

第一章

 

 一般論として、学校にはイベントが付き物だ。そう言えぱ俺の高校でも先月は体育祭が実施された。競技の合間のクラブ対抗リレーなるエキシビションマッチにSOS団も参加するなどとハルヒが言い出したときにはまさかと思ったが、そのまさか、本当に我がSOS団のメンバーでバトンリレーして陸上部をぶっちぎりラグビー部を蹴散らしアンカーハルヒが二着に約十三馬身差でゴールテープを切ってしまうとは思いもしなかった。おかげで以前から囁かれていた我々(俺以外)の変態性が、まるで誰かが授業中にイタズラで押した非常ベル並みに学内に鳴り響くことになっちまったのには頭が痛む。言い出しっぺのハルヒに最大の責任が課せられるのは言うまでもないが、第二走者の長門にも問題があるよな。よもや瞬間移動としか思えない走りを見せるとは、さすがの俺も予測しなかった。前もって言ってくれよ、長門。

 いったいどんな魔法を使ったのかと訊いた俺に、この笑わない宇宙人製の有機アンドロイドは、「エネルギー準位」とか「量子飛躍」とかいう単語を使って説明しようとしてくれたが、すでに理系の道をあきらめて文系へと進賂を決めていた俺にはまったく関係なく、理解もできず、したくもなかった。

 そんな狂乱の体育祭が終わって、やっと月が変わったと思ったら今度は文化祭なるものが待ち受けていた。現在、このチンケな県立高校はその準備に追われている。追われているのは教師陣と実行委員会とこんな時くらいしか腕の振るいようもない文化部くらいかもしれないけどな。

 もちろん部活動以前に、部活として認定されていないSOS団が何らかの創造的な作業に追われるいわれはない。なんなら近所の野良猫を捕まえて檻にでも入れて「字宙星獣」とかいう看板を付けた上に見世物小屋を営業しても俺は構わないが、シャレの解らない客は構うだろうし、解る奴でもせせら笑う。それによく考えるまでもなく出し物を考える必要性などどこにもない。やる気もない。現実的な高校の文化祭なんてものは実に現実的だ。嘘だと思うなら、学祭やってるとこならどこでもいい、ちょろりと覗くがいい。それが数多ある学校行事の一つでしかないことが如実に理解できるだろう。

 ところで俺とハルヒの所属クラス、一年五組が何をするかというと、アンケート発表とかいう適当企画でお茶を濁すことになっている。春先に朝倉涼子がどっかに行っちまって以来、このクラスでリーダーシップをとろうなどという頭のおかしい高校生は存在しない。この企画モノだって、気詰まりな沈黙が延々続いていたLHRの時間に担任岡部教師がムリヤリひねり出して来たアイデアで、反対賛成両方の意見も皆無なまま、時間切れで決まった。何をアンケートして発表するのか、そんなことをして誰が楽しいのか、たぶん誰も楽しんだりはしないだろうが、まあそんなもんだろう。がんばってやってくれ。

 というわけで、俺はアパシーシンドローム並みの無気力さで、今日もまた部室へのこのこと向かうのだ。なぜ向かうのか。その答えは俺の横で威勢よく歩いている女がこんなことを喋っているからにほかならない。

「アンケート発表なんてバカみたい」

 そいつは間違って納豆にソースをかけてしまったような顔でそう言った。

「そんなことをして何が楽しいのかしら。あたしには全然理解できないわ!」

 だったら何か意見を言えばよかったじゃないか。お通夜みたいな教室で困り切った岡部教諭の顔を、お前も見てただろうに。

「いいのよ。どうせクラスでやることなんかに参加するつもりはないから。あんな連中と何かやったって、ちっとも楽しくないに決まってるのよ」

 その割には、体育祭ではクラスの総合優勝に貢献していたような気がするけどな。短・中・長距離走とスウェーデンリレーの最終走者で登場し、そのすべてで優勝していたのはお前だと思ったが、ありゃ別人か。

「それとこれとは話が別よ」

 だからどこが違うんだよ。

「文化祭よ文化祭。違う言葉で言えば学園祭。公立の学校はあんまり学園と言わないような気がするげど、それはいいわ。文化祭と言えば、一年間で最も重要なスーパーイベントじゃないの!」

 そうなのか?

「そうよ!」と、そいつは力強くうなずいた。そして宣告した。俺に。次のようなことを。

「あたしたちSOS団は、もっと面白いことをするわよ!」

 そう言った涼宮ハルヒの顔は、第二次ポエニ戦争でアルプス越えを決意したばかりのハンニバルのような、迷いのない晴れやかな輝きを放っていた。

 

 放っていただけだったが。

 ハルヒの言う「面白いこと」というものが俺にとって愉快な結果を生んだことは、この半年で一度もない。それは大概において疲労するだけで終わる。少なくとも俺と朝比奈さんは疲労するのだが、それだけまともな人種であるというごとだ。俺の見る限り、ハルヒが全然まともでないのは世界の常識だとして、古泉も普通の人間的な精神をしているとは思えず、長門に至っては人間ですらない。

 そんな奴らに混じってしまって、いったい俺はいかにしてこの異常の極致のような高校生活を切り抜けていけばいいんだろう。半年前に俺がしなければならなかったようなことだけは、もうゴメンだ。あんなアホみたいな軽挙妄動は二度としたくないね。思い出しただけで----誰か銃を貸してくれ----自分のこめかみを撃ち抜きたくなる。あの時の記憶が納まっている脳細胞を抽出して燃やしたいくらいだ。ハルヒはどう考えているか知らんけど。

 そうやって過去の記憶をふっとばす方法を考えていたせいか、横のうるさい女が何か言っているのを聞き逃した。

「ちょっとキョン、聞いてるの?」

「いや聞いてなかったが、それがどうした」

「文化祭よ、文化祭。あんたももうちょっとテンションを高くしなさいよ。高校一年の文化祭は年に一度しかないのよ」

「そりゃそうだが、べつだん大騒ぎするもんでもないだろ」

「騒ぐべきものよ。せっかくのお祭りじゃないの、騒がないと話にならないわ。あたしの知ってる学園祭ってのはたいていそうよ」

「お前の中学はそんなに大層なことをしていたのか」

「全然。ちっとも面白くなかった。だから高校の文化祭はもっと面白くないと困るのよ」

「どういう感じだったらお前は面白いと思うんだ」

「お化け屋敷に本物のお化けがいるとか、いつの間にか階段の数が増えてるとか、学校の七不思議が十三不思議になるとか、校長の頭が三倍アフロになるとか、校舎が変形して海から上がってきた怪獣と戦うとか、秋なのに季語が梅だとか、そんなんよ」

 さて、俺は途中から聞くのをやめていたので階段以降の演説が何だったのか知らないが、よかったら教えてくれ。

「……まあ、いいわ。部室に着いてからじっくり話してあげるから」

 機嫌を損ねてむっつりと黙り込んだハルヒは、すっかたすっかたと歩を刻み、あっというまに部室の扉を前にした。その扉には貼りつけられた「文芸部」のプレートの下に「withSOS団」とぶっきらぼうな字体で書かれた紙切れが画鋲で留めてある。「もう半年もここにいるんだもの。この部屋はあたしたちの物と言っても誰も文句はないわよね」という身勝手な占有権を主張してプレート自体を貼り替えようとしたのはハルヒで、止めたのは俺だ。人間、程度ある慎み深さが肝心なのさ。

 ハルヒはノックもぜずに扉を開き、俺は部屋の中に妖精さんが立っているのを見た。彼女は俺と目が合うなり、百合の花の化身と見まがうばかりの微笑みを浮かべ、

「あ……。こんにちは」

 メイド衣装に身を包み、箒を持って掃き掃除していたのはSOS団の誇るお茶くみ係、朝比奈みくるさんだった。彼女はいつも通り、部室に住む妖精のような微笑みで俺を迎えてくれた。本当に妖精か何かかもしれない。未来人と言うよりはそっちのほうが似つかわしいもんな。

 団創設時、「マスコットキャラが必要だと思って」という意味不明な理由を口走るハルヒによって連れてこられた朝比奈さんは、これまたハルヒによって無理矢理メイド服に着せ替えられ、以来そのままSOS団付きのメイドさんとして毎日放課後ここで完璧なメイドさんになりきっていた。頭のネジがオカシイ人だからではなく、こちらが涙ぐみそうになるくらい素直な人なのだ。

 バニーやらナースやらチアガールにもなってくれた朝比奈さんだが、やっぱりメイドさん衣装が一番よいね。はっきり言えぱ、こんな恰好には何一つ意味もなければ伏線にもなってないと思うのでここはそういうもんだと思っておいて欲しい。ついでに断っておくが、ハルヒのやることに意味があったほうが少ない。

 しかし何かの原因になっていることはけっこうある。それで俺たちはよく困ってるんだからな。どうせなら委細全部いっさい無意味であったほうがどれだけかマシなんだけども。

 そんなハルヒがおこなった数少ないマシなことが----というかこれしかないのだが----、朝比奈さんメイドバージョンだった。あまりにも似合っていて眩暈を覚えるほどだ。こればっかりはハルヒの思いつきを評価せざるを得ないね。どこでいくらで買ってきたのかは知らないが、ハルヒの衣装センスはなかなかのものだ。もっとも、朝比奈さんなら何を着ても極上のモデルになるだろう。中でもメイドは俺のお気に入りで、つまるところ俺の目を喜ばせるという意味で有意義なのさ。

「すぐにお茶淹れれますね」

 可愛らしく囁きかけた朝比奈さんは、箒を掃除用具入れにしまうと、ちょこまかと戸棚に駆け寄って各自専用の湯飲みを取り出し始めた。

 脇腹を硬い物が突いていた、と思ったら、ハルヒが肘打ちを喰らわせていた。

「目が糸みたいになってるわよ」

 朝比奈さんの愛らしい仕草に感激するあまり、自然と目を細めていたらしい。誰だってそうなるさ。可憐に優雅に恥じらう朝比奈さんを前にしたらな。

 ハルヒは「団長」と書かれた三角錐の載った机の上から「団長」と書かれた腕章を取り上げて装着し、パイプ椅子にふんぞり返ってから、ぐるりと部室内を睥睨した。

 もう一人の団員が、テーブルの隅っこで分厚い書籍を読んでいる。

「……………」

 ただひたすら黙々と顔も上げずにじっとページを見つめているのは、ハルヒにしてみれば「部室をぶんどったらオマケでついてきた」みたいな文芸部の一年生、長門有希だった。

 大気中の窒素のように存在感が希薄なくせに、メンツの中では最も奇妙キテレツなプロフィールを持つ同級生である。設定のキテレツさ加減ではハルヒ以上とも言える。ハルヒは最初から最後までワケ解らんが、長門は中途半端に解るだけ余計な混乱を誘うのだ。長門の言うことを信じるならば、この無口・無表情・無感情・無感動のないない四拍子がそろい踏みしたショートカットの小柄な女子生徒は、人間ではなく宇宙人によって製造された対人間用コミュニケートマシンなのである。なんじゃそりゃ、と言われても困る。本人がそう主張しているのだからツッコミようもないし、どうやら本当にそうらしい。ただしハルヒには秘密だ。今んとこ、ハルヒは長門のことを「ちょっと変わっている読書好き」としか思っていないからな。

 客観的に考えても「ちょっと」ではないだろうと思うのだが。

「古泉くんは?」

 ハルヒは朝比奈さんに鋭い視線を注いだ。朝比奈さんは一瞬びくうっとなってから、

「さ、さあ。まだです。遅いですね……」

 茶筒から慎重な手つきで急須にお茶っ葉を入れている。俺は部室の隅のハンガーラックを見るともなしに見物した。様々な衣装が演劇部の楽屋みたいな感じで掛かっている。左から順に、ナース服、バニー、夏用メイド服、チアリーダー、浴衣、白衣、豹の毛皮、カエルの着ぐるみ、何だかよく解らないヒラヒラでスケスケの服、エトセトラ、etc。

 どれもこれも、この半年間で朝比奈さんの肌の温もりを知った衣類の数々である。はっきりさせておこう。それを朝比奈さんに着せることに何の意味もない。ただハルヒが自分の満足度を深めただけだ。子供の頃のトラウマかなんかのせいかもな。着せ替え人形を買ってもらえなかったとかそんな感じの。それでこの歳になって朝比奈さんで遊んでいるってわけだ。おかげで朝比奈さんのトラウマは現在進行形で進み、そして俺は眼福を得て幸福になるという仕組みである。まあ、トータルで言えば幸せになった人間のほうが多いような気がするので、俺も何も言わないことにしている。

「みくるちゃん、お茶」

「は、はいっ。ただいまっ」

 朝比奈さんは慌てた動作で「ハルヒ」とマジックで署名してある湯飲みに緑茶を注ぐと、お盆に載せてしずしずと運んだ。

 受け取ったハルヒはズズズと熱い茶を啜ってから、弟子の不手際を責める華道の師匠のような声を出した。

「みくるちゃん、前にも言ったと思うけど、覚えてないの?」

「え?」

 朝比奈さんは思いっきり不安そうに盆を抱きしめて、

「なんでしたっけ?」

 昨日食べた麻の実の味を思い出そうとしている桜文鳥のように首を傾げる。

 ハルヒは湯飲みを机に置くと、

「お茶持ってくるときは三回に一回くらいの割合でコケてひっくり返しなさい! ちっともドジッ娘メイドじゃないじゃないの!」

「え、あ……。すみません」

 細い肩をすくませる朝比奈さん。そんな取り決めをしていたとは俺には初耳だ。こいつは何か、メイドとはドジでしかるべきだと考えているのか?

「ちょうどいいわ、みくるちゃん。キョンで練習してみなさい。湯飲みが頭の上で逆さになるようにね」

「ええっ!?」

 そう言って朝比奈さんは俺を見る。俺はハルヒの頭に穴を空けて中身を入れ替えてやろうと電動ドリルを探したが、残念ながら見つからず、代わりにため息をついた。

「朝比奈さん、ハルヒの冗談は頭のおかしい奴しか笑えないんですよ」

 そろそろ学習してください、と後に続けたかったのだがやめておく。

 ハルヒは目を吊り上げて、

「そこのバカ、あたしは冗談なんか言ってないわよ! いつも本気なんだからね」

 だとしたら余計に問題だな。一度CTスキャンでも撮ってもらえばいい。それにお前にバカと言われると非常にムカつくのは俺がジョークのセンスに欠けているからかな。

「いいわ。あたしが見本を見せてあげるから、次はみくるちゃんね」

 パイプ椅子から飛び上がったハルヒは、あうあう言ってる朝比奈さんの手から盆をひったくって急須をかかげ、俺の名前入り湯飲みにどばどばとお茶を注ぎ始めた。

 呆れて見ているうちに、ハルヒは盛大にお茶をこぼしながら湯飲みを盆に置いて、俺の立ち位置を捕捉、うなずいて歩き出そうとしたところで俺は横から湯飲みを奪い取った。

「ちょっと! 邪魔しないでよ!」

 邪魔も何も、熱湯を頭からぶっかけられようとしているのに黙って突っ立っている奴がいたらそいつはよほどのお人好しか保険金詐欺師だ。

 俺は立ったままハルヒの淹れた緑茶を飲んで、どうして同じ茶葉なのに朝比奈さんの注いでくれたものとこうも味が違うのかと考えた。考えるまでもない。愛情という名のスパイスの差だな。朝比奈さんが野に咲く白バラなんだとしたら、こいつは花を咲かせずトゲしかない特殊なバラだ。当然、実を付けることもないだろう。

 ハルヒは、黙って湯飲みを傾ける俺を咎めるような目で見ていたが、

「ふん」

 髪をふいっとなびかせて、団長机に戻った。ズズズ。沸騰させた苦い飲み薬を飲んでいるような表情だ。

 朝比奈さんはホッとしたように給仕を再開し、長門のマイ湯飲みにお茶を淹れて読書少女の前に置いてやっている。

 長門はピクリともせずに、ただ黙々とハードカバーに挑んでいた。少しは有り難がれよ。谷口なら飲み干すのに三日くらいはかけるぜ。

「………」

 パラリとページを繰るだけで、長門は顔も上げやしない。それもまたいつもの調子だから、朝比奈さんも気を損なうことなくメイド活動、自分用の湯飲みをスタンバイ。

 そこに、第五の団員が来なくても誰も気にしないのに来やがった。

「すいません。遅れました。ホームルームが長引きましてね」

 いかにも人畜無害そうなスマイル光線を放ちながらドアを開げたのは、ハルヒいわく謎の転校生、古泉一樹だった。俺に恋人がいたとしても友人として紹介する気分になれないツラに微笑を浮かべ、

「僕が最後みたいですね。遅れたせいで会議が始まらなかったのだとしたら謝ります。それとも何か奢ったほうがいいですか?」

 会議? なんだそれは。俺はそんなもんをするとは聞いてないぞ。

「言うの忘れてたわ」

 机に頬杖をついたハルヒが言う。

「昼のうちにみんなには知らせといたんだけどね。あんたにはいつでも言えると思って」

 どうして他の教室に出向くヒマがあるのに、同じ教室の前の席にいる俺に伝える手間を省くんだ。

「別にいいじゃないの。どうせ同じ事だし。問題はいつ何を聞いたかじゃなくて、いま何をするかなのよ」

 言葉だけは立派のような気がしたが、ハルヒが何をしようとも俺の気分がすぐれなくなるのは周知の事実と言えよう。

「と言うより、これから何をするのか考えないといけないのよ!」

 現在形なのか未来形なのかはっきりしてくれ。それから主語が一人称単数なのか、複数形なのかもついでにな。

「もちろん、あたしたち全員よ。これはSOS団の行事だから」

 行事とは?

「さっきも言ったじゃないの。この時期で行事と言えば文化祭以外に何もないわ!」

 それなら、団でなくて学校全体の行事だ。そんなに文化祭をフィーチャーしたいのなら実行委員に立候補すればよかったのによ。くだらん雑用が目白押しに詰まっているだろうさ。

「それじゃ意味ないのよ。やっぱりあたしたちはSOS団らしい活動をしないとね。せっかくここまで育て上げた団なのよ! 校内に知らない者はいないまでの超注目団体なのよ? 解ってんの?」

 SOS団らしい活動って何だ? 俺はこの半年間におこなったSOS団的活動を思い起こして軽くブルーになった。

 お前は単なる思いつきを口走るだけだから楽だろうが、俺や朝比奈さんの苦労はどうなるんだよ。古泉はやけに如才なく笑っているだけだし、長門はプレストの役にはまったく立たないし、少しは一般人たる俺のことも考えて欲しいもんだ。ああ、朝比奈さんもあまり一般的ではないかもしれないが可愛いからオールオッケーだ。そこにいてくれるだけで目の肥やしとなり、俺の荒んだ精神を癒してくれるからな。

「期待に応えるくらいのことはしないといけないわね」

 ハルヒは難しげな顔つきで呟いているが、いったいどこの誰がSOS団のやることに期待を持っているのか、それこそアンケートでも採るべきだろう。育て上げたという割にはSOS団は未だに同好会以下の存在から昇格していないし部員も増えていない。増えたところでややこしいことになるだけだから、いなくていいのだが、これではいつまで経っても脱輪したハルヒ特急は線路の脇をどこまでも横滑りしていくに違いない。そして乗客は俺たち五人しかいないってわけだ。せめて俺の代わりを務めてくれるスケープゴートが欲しいところだね。何なら時給を払ってもいいぞ。百円くらいなら。

 一杯目を三十秒でカラにしたハルヒは、朝比奈さんに二杯目を要求しつつ、

「みくるちゃんとこは? 何すんの?」

「えー……と。クラスでですか? 焼きそば喫茶を……」

「みくるちゃんはウェイトレスね、きっと」

 朝比奈さんは目を丸くして、

「どうしてわかるんですか? あたしはお料理係のほうがしたかったんですけど、なんかみんなにそう言われちゃって……」

 ハルヒはまた考える目つきをした。例によってロクでもないことを考えているときの目の色をしている。その目がハンガーラックのほうを向いた。そういえば朝比奈さんにまだウェイトレスの衣装を着せていないことを思い出したような目つきだった。

 ハルヒは思慮深そうな顔をして、

「古泉くんのクラスは?」

 古泉はひょいと肩をすくめた。

「舞台劇をするまでは決まったのですが、オリジナルを演るか古典にするかでクラスの意見が二分されてましてね。もう文化祭まで時間がないというのにいまだに揉めています。激論を戦わせていたのですけど、決定にはまだかかりそうです」

 それはまた、活気のあるクラスでいいことだな。面倒そうだが。

「ふーん」

 浮遊するハルヒの視線が、まだ一言も発していない残りの団員へと向けられる。

「有希は?」

 読書好きの宇宙人モドキは、雨の気配を感じ取ったプレーリードッグのように顔を上げ、

「占い」

 相も変わらずの平坦な声で答えた。

「占い?」

 思わず訊き返したのは俺だ。

「そう」

 長門は皮膚呼吸すらしていないような無表情でうなずく。

「お前が占うのか?」

「そう」

 長門が占いだって? 予言の間違いじゃないのか。俺は黒いトンガリ帽子とマントをまとった長門が水晶球に手をかざしている様子を想像し、カップル客二人を前にして「あなたたちは五十八日三時間五分後に別れることになる」と真正直に語っている風景を幻視した。

 少しは優しい嘘も混ぜといてくれよ。ま、長門に未来予知が出来るかどうかはもう一つ確かではないが。

 朝比奈さんが模擬店で、古泉が演劇で、長門んとこが占い大会か。どこも俺たちのクラスの無気力アンケートよりは何段階かは楽しそうだな。そうだ、こういうのはどうだろう。全部あわせて観劇占いアンケート喫茶をやるというのは。

「アホなこと言ってないで、さくっと会議を始めるわよ」

 ハルヒは俺の貴重な意見を一蹴すると、ホワイトボードに歩み寄る。ラジオのアンテナみたいな指し棒を伸ばし、バンバンとボードを叩いた。

 何も書いていないのだが、どこを見ればいいんだ。

「これから書くのよ。みくるちゃん、あんた書記なんだからちゃんと言うとおりに書きなさい」

 いつから朝比奈さんが書記になったのか俺は知らなかった。誰も知らないだろう。たった今、ハルヒが決めたらしいから。

 お茶くみ兼書記となった朝比奈さんが、水性フェルトペンを持ってホワイトボードの脇に控えてハルヒの横顔を上目遣い。

 そしてハルヒは、いきなり勝ち誇った声で言った。

「あたしたちSOS団は、映画の上映会をおこないます!」

 

 いったいハルヒの頭の内部でどのような変換がおこなわれたのか解らない。それはいいとしよう。いつものことだ。だが、これでは会議ではなくてお前一人の所信表明演説じゃねえか。

「いつものことでしょう」

 古泉が俺に囁きかける。その表情は落書きしたくなるほどのグッドテイストスマイルだ。端整な唇を優しげに歪めたまま古泉は、

「涼宮さんは最初から何をするか決めておいたようですね。話し合いの余地はなさそうです。はて、あなたが何か余計なことでも言ったのではないのですか?」

 映画にまつわるあらゆるトークと今日は無縁だったはずだがな。昨日の深夜にローバジェットのC級映画でも観てあまりのくだらなさにやるせない気分になったんじゃねえの。

 しかしハルヒは、自分の演説が聴衆を残らず感動させたと信じて疑わない上機嫌さで、

「つねつね疑問に思っていることがあるのよね」

 俺はお前の頭の中身が疑問だ。

「テレビドラマとかで最終回に人が死ぬのってよくあるけど、あれってすんごく不自然じゃない? なんでそうタイミング良く死ぬわけ? おかしいわ。だからあたしは最後のほうで誰かが死んで終わりになるヤツが大嫌いなのよ。あたしならそんな映画は撮らないわ!」

 映画かドラマかどっちなんだ。

「映画作るって言ったでしょ。古墳時代の埴輪でももっとちゃんとした耳穴持ってるわよ。あたしの言葉は一言一句間違えずに記憶しておきなさい」

 お前のイカレポンチセリフ集を暗記するくらいなら、近所を走ってる私鉄沿線の駅名を端から覚えたほうが遥かに有意義だよ。

 朝比奈さんが元書道部とは思えない丸まっちい字で「映画上映」と書くのを見て、満足げにうなずいていたハルヒは、

「というわけよ。解った?」

 梅雨明けを確信した天気予報士のような晴れやかさで言いやがった。

「何が、というわけ、なんだ?」

 俺は訊く。当然の疑問だろう。映画を上映することしか解らんぞ。配給元はどこにする気なんだ? ブエナビスタインターナショナルに知り合いでもいるのか?

 しかしハルヒは無闇に黒い瞳を爛々と輝かせ、

「キョン、あんたも頭の足りない奴ね。あたしたちで映画を撮るのよ。そんで、それを文化祭で上映するの。プレゼンテッド・バイ・SOS団のクレジット入りでね!」

「いつからここは映画研究部になったんだ?」

「何言ってんのよ。ここは永遠にSOS団よ。映研になんかなった覚えはないわ」

 映研の奴が聞いたら気を悪くするような言葉を吐いて、

「これはもう決まったことなの。一事不再理なのよ! 司法取引には応じないから!」

 SOS団の陪審員団長殿がそう言うのなら二度と意見は覆らないのだろうな。いったいどこのどいつだ、ハルヒを長のつく役職に押し上げたのは……と考えかけ、そういやこいつは勝手になっちまったんだった。どこの世界でも声のデカイ奴とシキリ野郎がいつの間にか偉くなってしまっているのは本当のことだからな。おかげで俺や朝比奈さんのような流されやすい善人が迷惑を被るってのが、冷酷非情な人類社会の矛盾点であり真理でもある。

 俺が理想的な社会制度とは何かという深遠な命題について考えていると、

「なるほど」

 古泉が何もかも解ったような声で言った。俺とハルヒに等分に微笑みかけ、

「よく解りました」

 おい古泉、ハルヒの言いっぱなしボムをまともに受け止めるなよ。お前には自分の意見というものがないのか?

 古泉は前髪をちょいと指で弾いて、

「つまり我々で自主製作映画を撮影し、客を集めて上映しようと、そういうことですね」

「そういうことよ!」

 ハルヒがボードにアンテナを叩きつけ、朝比奈さんがびくんとすくむ。それでも朝比奈さんは勇気を振り絞るように、

「でも……、どうして映画にしたんですか?」

「昨日の夜中ね、ちょっとあたしは寝付きが悪かったのよ」

 ハルヒはアンテナを顔の前でワイパーのように動かしながら、

「それでテレビ点けたら変な映画やってたの。観る気もなかったけど、することもないから観てたのね」

 やっぱりか。

「それがもう、すんごいクダラナイ映画だったわ。監督ん家に国際電話でイタ電しようかと思ったくらいよ。それでこう思ったの」

 指し棒の先が朝比奈さんの小作りな顔に突きつけられた。

「こんなんだったら、あたしのほうがもっとマシなモノを撮れるわ!」

 自信満々に胸を反らすハルヒである。

「だからやってやろうじゃないと思ったわけ。何か文句あんの?」

 朝比奈さんは脅えたようにふるふると首を振る。たとえ文句があったとしても朝比奈さんは口にしないだろうし、古泉はイエスマンだし、長門はただでさえ何も言わないので、こういう時に何かを話さなけれぱならないのは必然的にいつも俺になる。

「お前が一人で映画監督を目指そうがプロデューサーを志そうが、そんなことはどうでもいい。お前の進路だ、好きにすればいいだろうさ。で、俺たちの希望や意思も好きにしていいんだろうな?」

「何のこと?」

 と、ハルヒはアヒル口。俺は辛抱強く言い聞かせる。

「お前は映画を作りたいと言う。俺たちはまだ何も言っていない。もし俺たちがそんなのイヤだと言ったらどうするんだ? 監督だけじゃ映画にならないぜ」

「安心して。脚本ならほとんど考えてあるから」

「いや、俺の言いたいのはそうではなくてだな……」

「何も気にすることないわ。あんたはいつも通り、あたしについてくればいいの。心配の必要はまったくなしよ」

 心配だ。

「段取りは任しといて。全部あたしがやるから」

 なおのこと心配だ。

「ごちゃごちゃうるさい奴ね。やるって言ったらやるのよ。狙うのは文化祭イベントベスト投票一位よ! そうすれば物わかりの悪い生徒会もSOS団をクラブとして認めるかもしれない----いいえ! 絶対認めさせるのよ。それにはまず世論を味方につけないといけないわ!」

 世諭と投票結果が正比例するとは限らないぜ。

 俺は抵抗を試みる。

「制作費はどうするんだ?」

「予算ならあるわよ」

 どこに? 生徒会がこのアングラ組織のくせに大っぴらに公称している団などに予算を配分してくれるとは思えないが。

「文芸部にくれたぶんがあるのよね」

「だったらそれは文芸部の予算だろうが。お前が使っていいもんじゃねえ」

「だって有希はいいって言ったもの」

 やれやれだ。俺は長門の顔を見る。長門はじわじわという動きで俺を見上げると、何も言わないまま、じわじわと読書に戻った。

 本当に文芸部への入部希望者は他にいないんだろうな。訊くつもりはないが、あらかじめ長門が手を回して廃部寸前に追い込んでたとしても不思議はない。こいつはハルヒがやってくるのを最初から知っていたらしいし。もし文芸部に入ろうと心を決めていた新入生がいたなら気の毒なことだ。ぜひハルヒの手から本来の文芸部を奪い返すようがんばってもらいたい。

 そんな俺の心も知らず、ハルヒはアンテナを振り回しながら、

「みんな解ったわね! クラスの出し物よりこっち優先よ! 反対意見があるなら、文化祭が終わった後に聞くわ。いい? 監督の命令は絶対なのよ!」

 そう叫んでいるハルヒは、真夏に氷塊をプレゼントされた動物園のシロクマのように他の物など目に入らないようだった。

 団長の次は監督か。最後には何になるつもりなんだ。……神様とか言わないでくれよ。

「じゃあ、今日はこれで終わり! あたしはキャスティングとかスポンサー関係を色々考えないといけないからね。プロデューサーには仕事がいっぱいあるのよ」

 プロデューサーってのが何をする役職なのかはよく知らないが、それはともかくこいつは何をするつもりなんだろう。スポンサー?

 ぱたん。

 乾いた音がして振り返ると、長門が本を閉じたところだった。今やその音はSOS団本日の営業終了の合図ともなっている。

 詳しい話は明日ね、と言い残して、ハルヒは缶詰を開ける音を耳にした猫のように走り去った。あまり詳しく聞きたい話にはなりそうもないが。

「よかったじゃないですか」

 こういうことを言い出すのは決まって古泉である。

「宇宙怪獣を捕まえて見世物小屋をするとか、UFOを撃墜して内部構造を展覧するとか、その手の物でなくて僕は安心しています」

 どっかで聞いたようなセリフだな。

 この微笑み超能力者は、ふふっと口を開けずに笑い、

「それに僕は涼宮さんがどんな映画を作るつもりなのか興味があります。なんとなく、想像はつくような気もするのですけどね」

 湯飲みを片づける朝比奈さんを横目で見ながら古泉は、

「楽しい文化祭になりそうです。興味深いことですね」

 つられて俺も朝比奈さんに視線を向ける。ぴょこぴょこと揺れるカチューシャを眺めていると、

「あ、な、なんですかぁ?」

 野郎二人の目が自分に集中しているのに気づいた朝比奈さんは、手を止めて頬を赤くした。

 俺は胸中で呟く。

 いえ、何でもありません。次にハルヒがどんな衣装を持ってくるのか、それを考えていただけですよ。

 帰り支度を終えた----と言っても本を鞄にしまうだけだったが----長門が音もなく立ち上がり、開きっぱなしの扉から音もなく出て行った。ひょっとしたらさっきまで長門が読んでいたのは占い関係の本だったのではなかったろうか。洋書だったので俺には知るよしもないが。

「しかしまあ」と俺は呟く。

 映画……。映画ね。

 正直言うと、俺も多少の興味はあった。古泉ほど深くはない。せいぜい大陸棚くらいの水深だが。

 せめて俺くらいは期待を持ってやったほうがいいかもしれん。

 どうせ誰も期待してなどいないだろうからな。

 

 早くも前言撤回、期待なんぞしてやるんじゃなかった。

 翌日の放課後、俺は苦虫を噛んで味わうことになる。

 

・製作著作……SOS団

・総指揮/総監督/演出/脚本……涼宮ハルヒ

・主演女優……朝比奈みくる

・主演男優……古泉一樹

・脇役……長門有希

・助監督/撮影/編集/荷物運び/小間使い/パシリ/ご用聞き/その他雑用……キョン

 

 こんなことが書いてあるノートの切れ端を見て、俺が思うことは一つだ。

「で、俺は何役こなせばいいんだ?」

「そこに書いてある通りよ」

 ハルヒは指し棒を指揮者のように振って、

「あんたは裏方スタッフ。キャストは見ての通り。ぴったりなキャスティングでしょ?」

「あたしが主演なんですかぁ?」

 か細い声で問いかける朝比奈さんは、今日はメイド服でなく普通に制服を着ている。ハルヒが着替えなくていいと言ったのだ。これから朝比奈さんを連れてどこかに出かける肚らしい。

「あの、あたし出来ればあまり目立たないような役が……」

 朝比奈さんは困惑の面持ちでハルヒに訴えかける。

「だめ」

 ハルヒは答え、

「みくるちゃんにはじゃんじゃん目立ってもらうからね。あなたはこの団のトレードマークみたいたもんだから。今のうちにサインの練習をしといたらいいわ。完成披露試写のときに観客総出で求められると思うし」

 完成披露試写? そんなもんどこでするつもりだ。

 朝比奈さんはとても不安そうに、

「……あたし、演技なんか出来ないんですけど」

「だいじょうぶよ。あたしがバッチリ指導してあげる」

 朝比奈さんはおどおどと俺を見上げ、悲しそうに睫毛を伏せた。

今ここにいるのは俺たち三人だけである。長門と古泉は、それぞれクラスでやる出し物の打ち合わせとやらで遅れていた。放課後居残ってまで考えることでもないように思うね。適当にやってりゃいいのに、真面目なクラスが案外多いんだな。

「それにしても、有希も古泉くんも不真面目ね」

 ハルヒは憤懣やるかたないといった口調で俺に矛先を向けた。

「こっち優先って言っておいたのに自分のクラスの都合で遅れるなんて、厳重注意が必要だわ」

 長門と古泉は俺とハルヒよりも教室に帰属意識が働いているんだろ。この時期にこんな場所にいる俺たち三人のほうがどっちかと言えばおかしいのさ。

 俺はふと思いついて、

「朝比奈さんは、クラスの会議に参加しなくていいんですか?」

「うん、あたしは給仕係なだけなので、あとは衣装合わせくらいです。どんな衣装になるのかな。ちょっと楽しみ」

 照れつつ微笑む朝比奈さんは、どうもすっかリコスプレ慣れしているようだ。SOS団絡みで無意味な衣装を無意味に着せられるより、ちゃんとふさわしい場でそれなりの恰好をするのがいいのだろう。焼きそば喫茶店にウェイトレスがいても何の不思議もない。文芸部室にメイドがいるよりは格段に合理的だ。

 だがハルヒはどのような拡大解釈をおこなったのか、

「なぁに、みくるちゃん。そんなにウェイトレスになりたかったの? 早く言えばいいのに。そんくらい簡単よ、あたしがコスチュームを揃えてあげるわよ」

 あっけらかんと言い放つのはいいが、文芸部室にいる部員が制服以外のいかなる恰好をしてもそれは場にそぐわないだろう。この前のナースはどうかと思ったし、それならばやっぱりメイドが一番いい……ってのは単なる俺の趣味か。

「まあ、それはいいわ」

 ハルヒは俺へと向き直り、

「キョン、あんた映画作りに一番必要なものは何か解ってる?」

 さて。俺はこれまでの人生で感銘を受けた映画の数々を思い描いて参考資料とした。しばしの思考を終え、やや自信を持ちながら、

「斬新な発想と製作にかけるひたむきな情熱じゃないかな」

「そんな抽象的なものじゃないわ」

 ハルヒはダメ出しをして、

「カメラに決まってるじゃないの。機材もないのにどうやって撮るのよ」

 そうかもしれないが、そんな即物的なことを俺は言いたいのではなく……。まあいいか。反論しなければならないほど、俺には斬新な発想もひたむきな情熱も映画理論の持ち合わせもない。

「そういうわけだから」

 ハルヒは指し棒を引っ込めて団長机に放り投げると、

「これからビデオカメラの調達に行きましょう」

 がたん、と椅子のずれる音がしたので横を見ると朝比奈さんが青ざめていた。青ざめもするだろうね。現在この部屋に鎮座しているパソコン一式は、ハルヒのデタラメな強奪作戦によってコンピュータ研からパクってきたものだ。その際、犠牲となったのが朝比奈さんだった。

 栗毛を小刻みに震わせる朝比奈さんは、桜貝みたいな唇をわななかせながら、

「ああああの、すす涼宮さん、そう言えばあたし用事があって今すぐ教室にもどら」

「黙りなさい」

 ハルヒ恐い顔。腰を浮かせていた朝比奈さんは、「ひ」と小声を漏らしてかくんと椅子に舞い戻った。ハルヒは突如としてニカッと笑うと、

「心配しないで」

 お前が心配するなと言って、本当に心配するようなことがなかったためしがない。

「今度はみくるちゃんの身体を代金代わりにすることはないから。ちょっと協力してもらうだけよ」

 朝比奈さんはトラックに乗せられる寸前の仔牛のような目で俺を見た。俺はドナドナを唄う代わりにハルヒに言った。

「その協力の内容を教えろ。でなけりゃ俺と朝比奈さんはここを一歩も動かんぞ」

 ハルヒは、こいつらはいったい何を気にしてるのかしらと言いたげな表情で、

「スポンサー回りをするの。主演女優を連れて行ったほうが心証がいいでしょ? あんたも来なさいよ。荷物運びのためにね」

 

第二章

 

 今はもう秋のはずなのに、なぜだかちっとも涼しくない。地球はいよいよバカになったようで、秋という季節を日本に到来させることを忘れてしまっているようだった。夏の暑さは無限の延長戦に入ったみたいにせっせと続き、誰かがサヨナラ打を打たない限り収まりそうもなかった。収まる頃には秋をすっ飛ばして冬になっているような気もするけど。

 遅くなるかもしれないわね、とハルヒが言うので俺たちは鞄を持って学校を後にした。長い坂道をずんずん降りていくハルヒの向かう所はどこだろう。高校の文化祭用自主映画に制作費を拠出してくれるようなスポンサーなんかいるとも思えない。映研ならまだしも、俺たちは何のために集まっているのか半年経ってもまだ誰にも解らない零細謎団体なのだ。門前払いが相応だ。

 山を下った俺たちは私鉄のローカル線に乗り、三駅ほど移動することになった。いつぞや、俺と朝比奈さんが二人きりの散策を堪能した桜並木に近いあたり。でかいスーパーマーケットや商店街がある、割に人出のある地域である。

 ハルヒは俺と朝比奈さんを背後に従え、まっすぐ商店街の中に入っていった。

「ここ」

 ようやく立ち止まったハルヒの指差す先には、一軒の電器店があった。

「なるほどね」と俺は言った。

 この店から映画撮影に使用するための機材をせしめるつもりらしい。

 どうやってだ。

「ちょっと待ってて。あたしが話をつけてくるから」

 鞄を俺に預けると、躊躇なくハルヒはガラス張りの店内へ。

 朝比奈さんは俺の後ろに隠れるようにして、照明器具のディスプレイ群で眩い店内を恐る恐るうかがっている。引っ込み思案な小学生の女の子が友達の家を初めて訪ねたみたいな雰囲気だ。俺は今度こそ朝比奈さんを守る気満々となり、店長らしきオッサンに身振り手振りで話しかけているハルヒの背中を観察した。少しでもハルヒが胡乱なことをやろうとしたら、このまま朝比奈さんを小脇に抱えて遁走しよう。

 ガラスの向こうでは、ハルヒが何か喋りながら展示品を指したり自分を指したりオッサンを指したりしている。オッサンも、なんかふんふんうなずいているが、そんな奴の言うことに安易に首を縦に振らないほうがいいと忠告してやるべきだろうか。

 やがてハルヒはパッと振り返り、ガラスドアの外でいつでも逃げ出せる態勢をとっている俺たちを人差し指で示し、ワライタケを喰ったみたいな笑顔をつくり、また手を。バタバタさせつつ演説を続けた。

「何をしてるんでしょう……?」

 朝比奈さんが俺の斜め後ろで顔を出したり引っ込めたりしながら疑問の声を出す。

 未来から来た朝比奈さんに解らないものが俺に解るわけもない。

「さあ。どうせこの店で一番高性能なデジタルハンディビデオカメラを無償貸与せよ、とか言ってるんじゃないでしょうか」

 それくらいのことを平然という女だ、アレは。ヘタすりゃ世界の中心に立って地球を回しているのは自分だと信じているような奴だからな。

「困ったもんだ」

 ちょっと前のことだが、似たような疑問を長門に訊いてみたごとがある。

 ハルヒは己の価値基準や判断を絶対的なものだと信じ込んでいる。他人の意思や意識が自分のものとは違う場合もある、むしろ違ってばかりであるということが解っていないに違いない。超光速航法を実現したいなら、ハルヒを宇宙船に乗せてやればいい。やすやすと相対性理諭を無視してくれるだろう。

 そんなようなことを長門に言ったところ、あの無口な宇宙人モドキは、

「あなたの意見は、おそらく正しい」

 と、長門にしては意味のある文章を喋った。冗談がシャレにならない存在、それが涼宮ハルヒであった。

「あ、話終わったみたい」

 朝比奈さんの密やかな声で俺は回想シーンから戻ってきた。果たして、ハルヒはご満悦の表情で電器店から出てきた。両手で小振りの箱を抱えている。

 有名電機メーカーのロゴがでっかく踊る横にプリントされている商品写真、それは俺の見間違えでない限り、ビデオカメラの形状をしていた。

 

 いったいどういう脅し文句を使ったんだ?

 よこさないと放火するとか、不買運動するとか、一晩中イタズラFAXを流し続けるとか、今すぐここで暴れ出すとか、予告なしで自爆するとか----。

「バカじゃない? そんな脅迫まがいのことをするわけないじゃないの」

 ハルヒは機嫌良く、商店街の天蓋の下を歩いている。

「これで初めの一歩は成功ね。順調だわ」

 俺はビデオカメラの入った箱を持たされて後をついて行っている。ハルヒの背中で揺れるストレートヘアを見ながら、

「だから、どうやったらタダでこんな高そうなもんをくれるんだよ。あの親父はお前に何か弱みでも握られていたのか?」

 そう、店を出てきたハルヒは開口一番、「もらった」と宣言しやがったのだ。くれるんだったら俺だって欲しい。決めゼリフを教えてくれ。

 振り返ったハルヒは、ニマアっと笑いつつ、

「べっつにー。映画撮りたいからちょうだいって言ったら、いいよってくれたのよ。何の問題もないわ」

 今はなくとも後々問題になりそうな気がしているのだが、これは俺が心配性だからか。

「いちいち気にしないの。あんたは大らかにあたしの下僕として働いていればいいんだから」

 あいにく俺は、今年の春から船体横にタイタニックと書いてある船にうっかり乗り込んでしまったような気分を今もって味わっている最中だ。どこかにSOSを打電したくもあったが残念ながらモールスを知らない。それ以前に、下僕とか言われて大らかになれるほど俺は根性がすわってないぞ。

「さあ、次の店に行くわよ!」

 買い物客の波の中で、ハルヒは元気よく手足を動かして歩き出す。俺は朝比奈さんと顔を見合わせ、競歩みたいなスピードで遠ざかるハルヒの後ろ姿を追った。

 

 次にハルヒの訪問を受けたのは模型ショップだった。

 またしても俺と朝比奈さんを外に置き去りにして、ハルヒは一人で交渉人をやっている。だんだん解ってきた。ガラス越しに俺たちを指差すとき、ハルヒの人差し指は朝比奈さんを正確に示しているのだ。値段ぶんの働きをどういう形でか朝比奈さんがすることになりそうな具合だ。それに気付かず、朝比奈さんは店頭に展示してあるジオラマのケースを物珍しそうに覗き込んでいた。教えたほうがいいのかな?

 待つこと数分、出てきたハルヒは、またまた身体の前にかさばりそうな箱を抱えていた。今度は何だ。

「武器よ」

 ハルヒは答えて俺に荷物を押しつける。よく見ればプラモデルか何かの箱だった。それもピストルだかの銃器の類である。何すんだ、こんなもん。

「アクションシーンに使うのよ。ガンアクションよ。派手な撃ち合いはエンターテインメントの基本なの。できればビルを丸ごと爆破したいくらいなんだけど、ダイナマイトってどこで売ってるか知ってる? 雑貨店にあるかしら」

 知るか。少なくともコンビニやネット通販では売ってないだろうな。どっかの採石所に行けば置いてあるんじゃないか----と言いかけて、俺は踏みとどまった。こいつのことだ、夜中に信管とTNT火薬を盗みに行きかねない。

 ビデオカメラとモデルガンの箱を地面に置いて、俺はハルヒに向けて首を振った。

「それで、この大荷物をどうするんだ?」

「いっぺん家に持って帰って、明日また部室まで持ってきて。これから学校に戻るのは面倒だから」

「俺が?」

「あんたが」

 ハルヒは腕組みをして実にいい顔をした。教室では滅多に見られない、SOS団専用スマイルだ。そして、こんなふうにハルヒが笑うと、回り回って俺に災難を回収する役割が巡ってくることになっている。逆藁しべ長者か。

「あのう」

 朝比奈さんが控えめに片手を挙げる。

「あたしは何をしたら……」

「みくるちゃんはいいのよ。もう帰っちゃっていいわ。今日は用済みだから」

 ぱちくりと瞳を瞬かせ、朝比奈さんは狐に化かされた仔狸みたいな表情になった。朝比奈さんが今日したことと言ったら、俺と共にハルヒの後ろをビクビクしながら歩いていただけだったからな。何のためにハルヒが自分に同行を強制したのか理解不能だろう。俺にはなんとなく読めていたが。

 ハルヒは今にもラジオ体操第二を踊りそうな勢いで、最寄りの駅へと俺たちを誘った。本日のハルヒ的活動はこれで打ち止めらしい。敏腕ネゴシエーターでも左側に寄りそうな手腕で入手したのはビデカメ一台と小銃数丁。かかった費用は無料、つまリタダだ。

 昔の人はよく言ったものだ。タダより恐い物はない。問題は、ハルヒがそれを全然怖がっていないことだった。と言うか、こいつの恐がりそうなものがあったら是非俺までご連絡いただきたい。

 

 翌日、俺が鞄以外の余計な荷物を抱えてえっちらおっちら坂を上っていると、

「よ、キョン。何背負ってんだ? どっかの良い子たちへのプレゼントか?」

 俺の横に追いついてきたのは谷口だった。俺とハルヒのクラスメイトで単純単細胞バカの、間違いなくそこらに転がっている普通の同級生の一人である。普通。いい言葉だ。今の俺の立場からすれば貴重ですらある。そこには現実的な言霊が宿っているからな。

 俺はしばらく迷ってから、二つのスーパーの袋のうち軽い方を谷口に押しつけた。

「なんだこりゃ、モデルガン? お前、こんな暗い趣味があったのか」

「俺じゃない。ハルヒの趣味だ」

 それから一応フォローしておくが、暗い趣味と言い切るのは間違いだと思うぞ。

「涼宮が一人でグロックの分解掃除してる姿なんざ想像できねえな」

 俺もできないから、これを分解したり組み立てたりするのはハルヒ以外の誰かになるのだろう。ちなみに俺はガキのころ某モビルスーツを組み立てようとしてどうしても右肩のジョイントが嵌らず投げ出した過去を持つ男だ。

「お前も大変だな」

 谷口はちっとも大変だとは思っていないような声で、

「涼宮のお守り役が勤まるのは古今東西探し回ってもお前くらいのもんだぜ。俺が保証してやる。だからさっさとくっついちまえ」

 何て事を言いやがる。俺はいかなる意味でもハルヒと接着するつもりはない。俺がくっつきたいのは、むしろ朝比奈さんのほうだ。誰がどう考えてもそうだろ?

 谷口は、ケケケと妖怪じみた笑い声を上げた。

「ああ、そりゃダメだ。あの人は北高の天使様、男子学生の心の拠り所だからな。全校生徒の半分からフクロにされたくなかったら妙な真似はしないこった。お前だって逆上した俺に後ろから刺されたくはないだろ?」

 じゃあ次点の長門にしておくよ。

「それもまた無理だな。あれはあれで隠れファンが多いんだ。なんで眼鏡やめたんだろうな。コンタクトにしたのか?」

「さあな。本人に訊いてくれ」

「聞いた話じゃ、いまだに何を話しかけても無視されるそうだぜ。なんでも長門のクラスでは、あいつが一言でも喋るとその日はいいことか悪いことかのどちらかが起こると信じられているらしい」

 長門を竹の花みたいに言うな。いつの時代の吉兆占いだ。あいつは確かに普通ではないかもしれないが、それなりに普通であるところも----まあ、あんまりないな。

「つまりお前には涼宮が似合ってんのさ。あのアホとまともに話が出来るのはお前だけで、被害者は少ないほうがいい。なんとかしてやってくれ。そういやそろそろ文化祭だが、今度は何をやってくれんだ?」

「だから俺に訊くな」

 俺はSOS団渉外担当要員ではない。しかし谷口は平然と、

「涼宮に訊いてもわけの解らんことを言うだけだろ。突っつき具合を間違えると暴れ出す恐れがあるしな。長門有希はどうせ何訊いても何も言わねえ。朝比奈さんは近寄りがたい。もう一人の男は話していると何かムカつく。だからお前に訊いてんのさ」

 妙な理屈をこねる野郎だ。それではまるで俺が単なるお人好しのようじゃないか。

「違うのか? そっちに歩いていけば崖に落ちると解ってんのに一緒になって歩いている付き合いのよすぎる男に見えるけどな、俺には」

 校門が見えてくる。俺は憮然たる面持ちで谷口からスーパー袋を奪い返した。

 ハルヒ的獣道の行き着く先に何があるのかは知らないが、ロクでもないものが待ち受けているだろうなとは、そりゃ俺だって思っている。だが、一緒に歩いているのはハルヒと俺だけじゃなく、解っているだけで他に最低三人はいるのだ。そのうち二人は放っておいても大丈夫だろうが、朝比奈さんは危なっかしい。未来人とは思えないほど、自分の身に起こる何かを全然予測できていないのだ。ま、それがいいんだけど。

「だからな」と俺は言ってやる。「誰かが守ってやらんといかんのだ」

 おお、我ながら主人公みたいなセリフだな。守ると言ってもハルヒの行き過ぎたセクハラの魔手からだけどさ。

 俺はいい調子で、

「せっかくだから俺が守る。全学年の男連中が何を言おうと俺は知らん。勝手に紳士同盟でも作っていやがればいい」

 谷口は、またコナキジジイのようにケケケと笑い、

「ほどほどにしとけよ。新月の夜が月に一回は必ずあるんだからな」

 通り魔予告みたいなことを言って、門をくぐった。

 

 俺が荷物とともに教室の前の廊下を歩いていると、ハルヒが自前の荷物を自分のロッカーに押し込んでいるところに出くわした。

 俺も電気機器とプラモの箱を俺の出席番号の書かれたスチールロッカーにしまい込む。

「キョン、今日からいそがしくなるわよ」

 おはようも言わずにハルヒはロッカーのフタを音高く閉めると、俺に小春日和のような笑顔を向けた。

「みくるちゃんも有希も古泉くんもね。ガタガタ言わせたりしないわ。映画のシナリオはあたしの頭の中でバッチリ煮詰まっているのよね。ぐつぐつ言ってるくらいよ。後は形にするだけよ」

「あっそう」

 俺は適当に答えて教室に入った。俺の机は数えて後ろから二番目にある。一学期から何度も席替えをしたが、未だに一番後ろの席を引き当てたことがない。なぜなら、俺の後ろには毎回ハルヒが座っていたからだ。そろそろ偶然と考えるのは不自然だと思えるようになってきたが、それでも俺は偶然を信じている。俺が信じてやらないと偶然のほうが自信喪失するような気がするんでね。これでも俺は気配りの人なのだ。ハルヒなんかと付き合っていたら誰でもそうなるぜ。ルーズボールをチェックに行く守備的MFみたいなもんさ。なんせハルヒはオフサイドラインの遥か向こうでひたすらボールを待っているだけのような超攻撃的FWだからな。敵キーパーより後ろにいるかもしれない。そこにパスしても線審の旗が上がるのは確実なのだが、それはハルヒにすればひたすら誤審に過ぎないのである。そんなルールがあるほうがおかしいとハルヒは大まじめで言うだろう。そのうちボールを手に持ってゴールポストに飛び込んでもそれは一点なのだと主張しかねない奴なのだ。だったらラグビーをやれという提案は通用しない。

 走る傍若無人の対処法は、何もかも聞かなかったことにしてさり気なくその場を離れるか、すべてをあきらめてこいつの言うとおりにするほかにない。俺以外の同級生はとっくにそうやっている。

 だからその日の六限が終わるなりハルヒが教室から姿を消し、終わりのホームルーム時に俺の真後ろが空席になっていても、担任岡部教師も他の誰も何も言わなかった。気付いていないか、気付かなかったフリをしているのか、気付くだけ無駄だと思っているのか、まあ放っておくのが一番なのでどれだって同じなのさ。

 俺は予感めいたものを感じながら部室棟に向かい、何個もの箱が入った袋を両手にぶらさげたまま文芸部室の前で立ち止まった。

 なんか聞こえてくる。きゃあとか言ってるのは朝比奈さんのいたいけな声で、ぎゃあとか喚いているのはハルヒのイタい声だ。またやってる。

 ここでドアを開けると実に絵的によろしいシーンを見ることができそうだが、常識人たる俺はストイックにも妄想を堪えつつ、じっと待ちの態勢である。

 五分ほどして、内部でのささやかな闘争は収まった。どうせハルヒが勝ち誇った顔で両手を腰に当てているに違いない。ウサギが巨大アナコンダに勝てないのと同じ理屈で、朝比奈さんが勝つとは思えないからな。

 俺のノックに、

「どーぞっ!」

 ハルヒの勇ましい返答。俺は朝に見かけた紙袋の中身は何だったのかと思いつつ、扉を開けて部室に入った。まず目に入ったのはやはりハルヒの勝ち誇った顔だった。が、そんな顔なら俺はもう見飽きている。俺はハルヒの前のパイプ椅子に座っている人物へと視線を向けて、激烈かつ熱烈に注目した。

ウェイトレスがそこにいて、俺に涙目を向けてくれた。

「………」

 やや髪を乱しているウェイトレスさんは長門の真似みたいに黙り込み、つつっとうつむいた。その背後では、ハルヒが彼女の豊かな栗色の髪をツインテールに結っている。珍しくも長門の姿はない。

「どう?」

 ハルヒはふふんと笑いながら俺に訊いた。どうしてお前が自分の手柄みたいな顔をするんだ? 朝比奈さんの可愛さは朝比奈さんのものだぞ。……とは言え。

 まあね? 俺はいいと思うんだけどね? 朝比奈さんはどうなのだろうね? いやいや俺には異議はないよ? しかしこのスカート丈はちょっと短すぎるんじゃないかなあ?

 完全無欠100%フルーツ果汁なまでにウェイトレスの扮装をした朝比奈さんは、ぴったり揃えた膝小僧に両手の握り拳を置いて固まっていた。

 それがもうあなた、異様に似合っていた。カエアン製の衣装かと思ったほどだ。おかげで三十秒くらい無言で朝比奈さんを見つめ続けていた俺は、後ろから肩を叩かれて飛び上がりかけることになった。

「やあどうも。昨日はすいませんでした。今日は今日とて脚本でモメそうだったのですが、僕は早々に切り上げさせてもらったんですよ。堂々巡りには付き合い切れません」

 古泉がニヤケハンサムな顔で俺の肩越しに部室を覗き込み、

「おや」

 愉快そうに微笑んで、

「これはこれは」

 古泉は俺の横を通り過ぎるとテーブルに鞄を置き、パイプ椅子に腰を落ち着け、

「よくお似合いですよ」

 そのまんまな感想を述べた。そんなもん見りゃ解る。解らないのは、なんで喫茶店でもファミレスでもないのにウェイトレスがこの薄汚い小部屋にいるのかってことだ。

「それはね、キョン」とハルヒ。「みくるちゃんにはこのコスチュームで映画に出てもらうからよ」

 メイドじゃ不都合なのか?

「メイドってのは大金持ちの屋敷とかにいて個人的奉仕活動するのが仕事よ。ウェイトレスは違うわ。街角のどっかの店で時給七三〇円くらいで不特定多数にサービスを提供するのが目的なの」

 それが高いのか安いのかは知らんけど、どっちにしろ朝比奈さんは屋敷勤めやバイトをするために毎回こんな恰好をしちゃいないだろう。ハルヒの金で雇っているのなら別だが。

「細かいことは気にしないでいいの! こういうのは気分の問題なのね。あたしは気分いいわ」

 お前はよくても朝比奈さんはどうなんだ。

「すす、涼宮さん……。これちょっとあたしには小さいような……」

 朝比奈さんはよほど気になるのか、しきりにミニスカートの裾を押さえっぱなしだ。その微妙な動きがもどかしく、ついつい俺もそっちを見てしまうじゃないか。

「こんぐらいがちょうどいいのよ。ジャストフィットって感じだわ」

俺はムリヤリ視線を引きはがし、ハルヒの密林に咲く派手な花みたいな笑顔に固定した。ハルヒは真っ直ぐ前しか見ていない瞳を俺に照準、

「今回の映画のコンセプトが」

 朝比奈さんの丸まった背中を指差す。

「これなのよ」

 これ、と言われても。茶店でバイトする少女の日常ドキュメンタリーフィルムでも撮るつもりか。

「違うわよ。みくるちゃんの日常を隠し撮りしたってちっとも面白くもなんともないわ。普通の日常を記録するだけで楽しい物語になるなんてのはね、よっぽどエキセントリックな人生を送っている人だけよ。ただの高校生の一日を撮影したって、そんなの自己満足にすぎないの」

 別に朝比奈さんは満足しないと思うし、第三者的にはそれはそれで需要があるような気もするし、だいたい朝比奈さんの日常はけっこうエキセントリックなものである感じもするのだが、ここは黙っておこう。

「あたしはSOS団代表監督として娯楽に徹することに決めたの。見てなさい、観客を残らずスタンディングオベーションさせてみせるからね!」

 よく見るとハルヒの腕章の文字は、いつの間にか「団長」から「監督」に変わっていた。用意周到な奴である。

 一人で盛り上がっている女監督と、盛り下がっている主演女優、曖昧な笑みで見物人みたいに一歩退いている主演男優を見回したのち、俺がどうしたものかと考えていると、部室の扉が音もなく開いた。

「………」

 何が登場したのかと思った。俺の長くもない人生に早くもお迎えが来たのかと一瞬ビビリが入る。モーツァルトにレクイエムを発注しに来たサリエリが出演する映画の楽屋を間違えたんじゃないかと疑ったくらいだ。

「………」と、得意の三点リーダを連続させながら足音もなく入ってきたのは、長門有希のいつもより白い顔だった。顔しか露出していない。後は真っ黒だ。

 絶句しているのは俺だけでなく、ハルヒと朝比奈さんも同様で、古泉さえも微笑みに驚きの色を消費税分くらい混ぜ込んでいる。さもありなん、長門は朝比奈さんもびっくりの奇抜な衣装をまとっていた。

 暗幕みたいな黒いマントで全身をすっぽり覆い、頭に同色の鍔広なトンガリ帽子をかぶっていて、ほとんど寸足らずのバンパイアハンターである。

 俺たちが見守る中、死神みたいな恰好をした長門は、黙々と自分の定位置である隅っこの席に着き、マントの裾から鞄とハードカバー本を取り出してテーブルに置いた。

 そして俺たち四人の驚愕をあっさりと無視し去ると、淡々と読書を開始した。

 

 文化祭でクラスがする占い大会の衣装なんだそうだ。

 絶句から最速で立ち直ったハルヒの矢継ぎ早な質問に答える長門の単語を繋げていくと、そういう答えになる。長門にこんな愉快な恰好をさせるとは、こいつのクラスにはなかなか才能豊かなスタイリストがいそうじゃないか。

 それにしても、この悪いてるてる坊主みたいな衣装で教室からここまで歩いてくるとは、長門は長門なりに朝比奈さんに対抗意識を燃やしでもしているのか? ハルヒ以上に考えのつかめない女だな、こいつは。

 そんな何とも言えない気まずい空気が漂う中、ハルヒだけが大喜びしていた。

「有希、あなたも解ってきたじゃない! そう、それよ!」

 長門はゆっくりと目をハルヒに向け、またぺージに戻した。

「あたしの考えていた配役にぴったりの衣装だわ! あなたにそれ着せた人を後で教えてちょうだい。この感謝の気持ちを電報にして打ったげたいわね」

 やめてやってくれ。お前から祝電でも来た日には、何か裏があるんじゃないかと疑心暗鬼にかられるのが関の山だ。もう少し周囲の自分への評価を客観視してくれよ。

 すっかりご機嫌さんになったハルヒは、鼻歌でトルコ行進曲を奏でながら自分の鞄を開けて数枚のコピー用紙を取り出す。それを手早く俺たちに配布して、ツキノワグマを土俵際に転がした金太郎みたいな表情をした。

 しょうがないので俺はその紙切れに目を落としてみる。

 次のような文章が乱暴に書いてあった。

 

『戦うウェイトレス朝比奈ミクルの冒険(仮)』

☆登場人物

・朝比奈ミクル……未来から来た戦うウェイトレス。

・古泉イツキ……超能力少年。

・長門ユキ……悪い宇宙人。

・エキストラの人たち……通りすがり。

 

 …………まあ、なんだ。あれだ。

 呆れ果てるのを超越して、こいつはいったい勘がいいのかどうなのか、それとも当てずっぽうがなぜか的中するのか、もしやワザと知らんぷりしてんじゃないかと思わされるくらいである。何なんだ、この変なところで発揮される奇怪な鋭さは。

 唖然としていた俺は、脇から聞こえるクスクス笑いに我に返った。こんなふうに笑うのも、やはり決まって古泉である。

「いや、これは……」

 楽しそうで羨ましいぜ。

「何と言いますか、さすがと言うべきでしょうね。本当に、涼宮さんらしい配役です。素晴らしいですね」

 俺に微笑みかけるな。気持ち悪い。

 A4コピー紙を両手で握って読んでいた朝比奈さんはぴくぴくと華奢な手首を震わせている。

「わ……」

 小声を漏らして、俺に救いを求めるような顔を向ける。と思ったら、とても悲しそうな、非難するような眼差しだった。まるで歳の離れた親戚の優しいお姉さんがイタズラのすぎた幼児を諭しているような……と、俺はやっと思い出した。そう言えば、半年前の事件後、俺がハルヒに三人の正体を教えてやったことを。

 うげ。マズい。これは俺のせいか。

 慌てふためいて長門を見ると、黒マントに黒帽子をコーディネイトした対人間用ヒューマノイド・インターフェースとやらは、

「………」

 黙って本を読んでいた。

 

「とりたてて問題はないでしょう」

 古泉が楽観的に主張している。俺はもう一つ笑えない。

「笑うこともないでしょうが、悲観することでもありません」

「どうして解るんだ」

「なぜなら、たかが映画の配役だからです。涼宮さんは本気で僕が超能力少年だと思っているわけではありません。あくまで映画というフィクション内で、僕が演じる古泉イツキなる少年が超能力者だと設定しているだけですからね」

 古泉は記億力の足りない生徒に向かう家庭教師のように、

「現実にこうして存在する僕、古泉一樹と、このイツキくんは別人も同然ですよ。誰だって映画の中の登場人物と演じている俳優を混同したりはしないでしょう? もし混同する人がいるんだとしても、それは涼宮さんには当てはまりません」

「なんだか、あんまり安心できないな。お前の言うことが正しいという保証はない」

「もし彼女が現実とフィクションをごっちゃにしているんだとしたら、この世の中はとっくにファンタジックな世界になっているでしょうからね。前にも言いましたが、涼宮さんはあれでも現実的な思考の持ち主なのです」

 それは解る。ハルヒの現実的思考なるものが中途半端に神懸かっているせいで、俺はけったいな事件の数々に巻き込まれているのだからな。しかも肝心のハルヒが全然無自覚なうちにだ。

「証拠を見せつけるわけにもいきませんから」

 古泉はサラリと言う。

「もしかするとそんな事態にならざるを得ないときが来るのかもしれません。でもそれは今ではない。幸いなことに、朝比奈さんや長門さんの勢力も同意見のようです。僕は永遠にこのままでもいいと思いますけどね」

 俺だってそう思うさ。世界がしっちゃかめっちゃかになるのは見たくない。来週発売のゲームソフトをとことんやり込んでからでないと未練を残しそうだ。

 古泉は微笑みくんのまま、

「世界を心配するより、あなたは自分のことをもっと注意して見守るべきですね。僕や長門さんの代わりは他にもいるかもしれませんが、あなたにアンダースタディはいませんので」

 俺は複雑化した胸の内を気取られないように、手元の銃のガス入れに熱中しているフリをした。

 

 この日のハルヒは朝比奈さんに衣装をあてがい、役名を発表しただけに終わっていた。本当はウェイトレスコスの朝比奈さんを引き連れて校内を練り歩いたあげく大々的に製作発表記者会見をしたかったらしいのだが、朝比奈さんが本気で泣きかけたため俺が断念させた。もともとこの高校には新聞部も報道部も宣伝部もない。そう言う俺を見てハルヒは唇を水鳥状態にしながらも引き下がり、

「それもそうね」

 驚くべきことに、うなずいたりした。

「内容はギリギリまで秘密にしておいたほうがいいわね。キョン、あんたにしては気が利くじゃない。よそにパクられたら困るもんね」

 ハリウッドや香港映画のアイデアじゃあるまいし、誰がそんなお前の頭ん中で煮えているだけのストーリーボードを欲しがると言うんだ。

「じゃあキョン、その銃、今日中に使えるようにしておいて。明日がクランクインなんだからね。それから、カメラの取り扱い方も覚えておかなきゃダメよ。あ、そうそう。映像データはパソコンに移して編集するから必要なソフトをどっかからかっぱらってきなさい。それから----」

 という具合に散々宿題を押しつけ申しつけて、ハルヒは『大脱走』のテーマを口ずさみながら帰ってった。

 機嫌がよくても悪くてもどっちにしろ面倒事を生み出す奴だな、まったく。

 そして今、俺と古泉は男二人で顔つき合わせモデルガンからBB弾が出るように説明書と首っ引きで奮戦しているところだった。

 着替えの終了した朝比奈さんは肩を落としてとぼとぼと帰宅、長門はサバトに招待された魔女みたいな恰好のまま鞄も持たずにどこかに行った。どうも長門は自分の扮装を俺たちに見せに来ただけのようだった。あいつのことだから何か意味があるのかもしれないし、単なる顔見せかもしれない。たぶん今頃は自分の教室で何かしてるんだろう。水晶占いの予行演習か、そんなのをな。

 

 一日ごとに校内のざわつき加減が微増している感覚はあった。放課後になるたび鳴り響く吹奏楽部のヘタクソなラッパは徐々に間違い箇所が減っていってるし、校庭の陰でベニヤやバルサをギコギコ切っている奴もいるし、長門のように変な恰好をした生徒も少しずつだが増え始めた。

 が、しょせんは地味な県立高校のお祭り行事、まったくハメを外しそうにないごくごくおとなしい文化祭になりそうだ。見た感じ、楽しむための努力を放棄していないのは学校全体でもせいぜい半分と言ったところだな。ちなみに俺たち一年五組は楽しむこと自体を放棄している。文化系のクラブに所属していない奴らは当日、けっこうなヒマを持てあますに違いない。その帰宅部の代表格みたいなのが、谷口と国木田だ。

「文化祭と言えば」

 谷口が言い出した。

 昼休み、俺とこの端役二人は三人で弁当箱を囲んでいる。

「文化祭と言えば?」

 国木田が訊き返す。谷口は古泉の上品なそれとは比較するのも気の毒になるような無様な二ヤリ笑いを浮かべて、

「スーパーイベントだ」

 ハルヒみたいなことを言うな。谷口は急激に表情から笑みをぬぐい去り、

「だが、俺には関係のないイベントだ。つか、腹立たしい」

「何で?」と国木田。

「俺が全然楽しくもないのに、楽しそうにしている奴らがめちゃめちゃ目障りだ。特に男女二人組なんか、殺意を覚えるぜ。え? 何なんだ?」

 逆恨みという奴だろう。

「このクラスも何だ? アンケート? はっ! つまらん。どうせあなたの好きな色は何ですかとか、そんなだろ? そんなもん集計して何か楽しいんだ?」

 だったらお前が名案を提案すればよかったじゃねえか。そしたらハルヒも映画がどうのとか言い出さなかったかもしれないのに。

 谷口は弁当のウィンナーを一口で飲み込み、

「俺はそんな面倒なことを言い出したりはせん。いや、言うのはいいが、シキリをさせられるのはイヤだからな」

 国木田は、そうだねえと言いつつ、だし巻き卵を刻む手を休めて、

「こんな時に手を挙げて発言するのは、よほどのお調子者か責任感の強い生徒くらいだもんね。朝倉さんがいればなあ」

 カナダに引っ越したことになっている元クラスメイトの名前を挙げた。その名を聞くたびに俺の心は若干の冷や汗を生じさせる。朝倉を消したのは長門だが、その原因となったのは俺だったからだ。放っておけば消えていたのは俺のほうだったので、心を痛めていてもどうしようもないが。

「ああ、惜しいことをしたな」谷口が言った。「よりによってAAランクプラスがいなくなっちまうとはついてねえ。このクラスになってよかったと思った唯一のことだったのによう。くそ、今からクラス替えしてくんねえかなあ」

「どこのクラスがいい?」国木田が問いかける。「長門さんのクラスとか? あ、そういや昨日、魔法使いみたいな恰好で歩いてるの見たけど、何あれ」

 さあね。俺は知らん。

「長門ねえ……」

 谷口は数学の抜き打ち小テストを前にしたような顔を俺に向け、さも今思い出したみたいな口調で、

「いつだっけ? お前とあいつが教室で絡み合っていたのはよ。どうせあれだって、涼宮のシナリオだろ。俺をドッキリさせようって計画だったんだろ? そうはいかねえな」

 勝手に勘違いしてくれて俺は肩の荷が下りた気分だ。……待てよ、あんときお前は忘れ物を取りに来たんじゃなかったか? どうやったらあらかじめお前が戻ってくることを俺たちが知れたのか----なんてことは当然、俺は言わんわけである。谷口はアホであり、アホな奴をアホと言っても何ら俺の心は痛まないわけである。よかったよ、こいつがアホで。感謝したいくらいだ。

「それにしてもつまんねえな」

 谷口が慨嘆し、国木田は弁当に集中し、俺は自分の背後を見た。ハルヒの机は空席。さて、今頃どこを練り歩いてるんだか。

 

「学校でロケができそうな所を探してたのよ」

 と、ハルヒは言った。

「でも全然なかったわ。やっぱり近場ですまそうとしてたらダメね。外に行きましょう」

 学内の雰囲気が気に入らないのかもしれない。しかし今ひとつ盛り上がりに欠けるからといってわざわざ外部に遠征して盛り上がるための場所を探さなくともいいのに。どうやっても騒ぎ倒したいらしいな。

「えー……。あ、あたしも行くんですか?」

 ヒキ気味の声で訴えるのは朝比奈さんだった。

「当然でしょ。主役がいないと話にならないもの」

「こここの服で、ですかー?」

 ハルヒがどこからか持ち寄った扮装、昨日に引き続きウェイトレスの制服を着せられて小さくなって震える朝比奈さんである。

「うん、そう」

 ハルヒはあっさりうなずき、朝比奈さんは自分の身体を抱きしめるようにしてイヤイヤをする。

「いちいち着替え直すのも面倒でしょ? それに現場に着替えるとこないかもしれないしね。ならいっそ最初から着替えておけばいいんじゃない? でしょ? さ、出かけましょう! みんなでね!」

「せめて上から羽織る物を……」

 懇願する朝比奈さんに、

「だめ」

「だって、恥ずかしいですよう」

「恥ずかしいと思うから変な照れが出るのよ! そんなのじゃゴールデングローブ賞は狙えないわよ!」

 狙うのは文化祭イベント投票ベスト1ではなかったのか。

 今日の部室には団員が全員雁首揃えて集まっていた。舞台劇の台本問題が解決したらしい古泉もいて、ハルヒと朝比奈さんの一方的なやりとりをにこやかに眺めている。長門もいた。そして、その長門がちょっと問題だった。

「………」

 黙りこくっているのはいつもの通りでまことにけっこうだが恰好が怪しい。なぜか長門は、昨日見せに来たあの魔女的ルックを今日も身につけているのだ。そんなもんは文化祭当日に着ればいいだろうに何だって今からスタンバっているんだ。

 ハルヒなんかすっかり長門の黒マントとトンガリ帽子が気に入ってしまったようで、

「あなたの役どごろは『悪い宇宙人の魔法使い』に変更するわ!」

 と、さっそく脚本をねじ曲げてしまった。アンテナ型指し棒の先にクリスマスツリーのてっぺんにあるような星形を付け、長門に持たせて悦に入っているハルヒと、その棒を握ってじっとしている長門を見ていたら、なんだか俺でさえ、この無口な読書マニアが宇宙人的魔法使いであることに異論がなくなりそうな案配である。情報生命体の端末ってよりはそっちのほうが端的に長門の特徴を明示しているかもな。魔法みたいな力を持っているのは確かだ。この目で見たから間違いない。

 長門は黒帽子の縁を不意に上げ、相変わらずの無機質な目で俺を見た。

「………」

 他クラスの用意した衣装を勝手に撮影用コスチュームにしてしまっていいのか一抹の疑問は発生するが、ハルヒの眼中にはどんなクエスチョンマークも存在しないようだ。

「キョン! カメラの用意はいいわね! 古泉くんはそっちの荷物お願いね。みくるちゃん、なんで机にしがみついてんの? こら、さっさと立って歩きなさい!」

 か弱き朝比奈さんの抵抗は儚いものだった。ハルヒは非力なウェイトレス少女の首根っこをつかんで引きはがすと、ひええとか言ってる小柄な身体をずるずる引きずってドアへ向かった。その後を長門が黒マントの裾を引きずりながらついて行き、最後に古泉が俺にウインクをかまして廊下へと消えた。

 さて俺も行かないといけないのかなと考えていると、

「こらーっ! 撮影係がいないと映画になんないでしょうがっ!」

 ハルヒが開いた扉の陰から上半身を見せて顔の半分を口にして叫び、俺はハルヒの左腕にある腕章の文字が「大監督」になっているのを認めて、暗澹たる思いに駆られた。

 どうやら本気らしいぞ、この女。

 まだ一つも映画を撮っていない自称大監督を先頭に、美少女ウェイトレスが顔を地面に向けたまま続いて、その後を闇色の魔法少女が影のように歩き、古泉が紙袋を抱えて爽やかに微笑しつつ……という奇怪な一団と可能な限り距離を置いて俺は最後尾にいた。

 校舎を移動していた時点ですでにもう注目度満点だったが、ハロウィンパーティみたいな一行は校門の外でも人目を集め、中でも視線独り占め状態に置かれた朝比奈さんは二分くらい歩いたところでうつむき始め、三分で赤くなり、五分くらいした今では精気が抜けたような虚ろな足取りでロボット歩きしている。

 天変地異の前兆みたいな機嫌の良さで『天国と地獄』のサビをハミングしているのは先導を務めるハルヒである。いつの間に用意したのか右手に黄色のメガホン、左手にディレクターズチェアを提げて意気揚々、まるで草原を西進するモンゴル軍騎兵のような勢いだ。そのままどこに突撃するのかと思ったら辿り着いたのは駅だった。人数分の切符を買って来たハルヒは、俺たちに配り終えると、当然のような顔をして改札へ進軍する。

「待て」

 言葉を失っている朝比奈さんに代わって俺が異議申し立てをおこなった。俺は通行人の好奇の眼差しを独占しているミニスカウェイトレスと、その横で付き人のように控えているチンチクリンの黒衣娘を指してから、

「この恰好で電車に乗せるつもりなのか?」

「何か問題あるの?」とハルヒはしらばっくれる。「素っ裸なら捕まるかもしれないけど、ちゃんと服着てるじゃん。それより何? バニーガールのほうがよかったの? なら先に言いなさいよ。『戦うバニーちゃん(仮)』でもあたしなら全然かまわないわよ」

 わざわざウェイトレス衣装を持ってきた奴の言うセリフじゃねえ……ってより、今度のコンセプトはこれだとか言ってなかったか? よく知らないが、コンセプトってのはそう簡単に変更してしまってもいいものなのか。

 俺がクリエイターの心情を垣間見るべく脳ミソを働かせていると、

「一番大切なのは臨機応変に対応することなの。地球の生き物はそうやって進化してきたんだからね。環境適合ってやつよ。ぼんやりしてたら淘汰されるだけなのよ! ちゃんと適合しないといけないのっ!」

 何に適合すればいいんだろうな。環境に意思があるなら真っ先にハルヒを大気圏の外に放り出しそうだが。

 古泉はニタニタ笑っているだけの荷物持ちと化し、長門は例の調子で無言続行、朝比奈さんは声を出す気力もないようで、つまり俺以外の全員が沈黙を守っている。

 どうにかして欲しい。

 ハルヒはその沈黙を自分の言葉があまりの感銘を生んだからだと解釈したようで、

「ほら、電車来たわ。きりきり歩くのよ、みくるちゃん。本番はこれからなんだからねっ」

 同情すべき動機で人を殺してしまった女犯人を連行する刑事のように、朝比奈さんの肩を抱いて改札へ歩き出すのだった。

 

 で、だ。降りたところは一昨日と同じ駅で、向かった先も同じ商店街である。もしやと思っていたら訪問する店も同じだった。ハルヒが交渉の末にビデオカメラをゲットした電器屋さん。

「約束通り来ましたーっ!」

 元気よく入店したハルヒが叫び、奥からオッサンがのっそり出てきて、朝比奈さんに目を留める。

「ほうほう」

 オッサンはそれだけでセクハラになりそうな笑みを広げて我等が主演女優を見た。朝比奈さんは必殺技を出し終えた格闘ゲームキャラみたいに硬化中である。オッサンはさらに、

「それ、一昨日の子? 見違えたね。ほうほう。じゃあ、よろしく頼むよ」

 何を頼むつもりなんだ。俺は反射的にビクっとする朝比奈さんを背後にかばおうとして前進しかけたところをハルヒに押し戻された。

「はいはい、打ち合わせるから、みんなちゃんと聞きなさい」

 そしてハルヒは、体育祭のクラブ対抗リレーで優勝した直後と同じような笑顔を咲かせて宣告した。

「これからCM撮りを開始します!」

 

「こ、ここの店は、えーと、店長さんがとっても親切です。それにナイスガイです。現店主である栄二郎さんのお爺さんの代からやってます。乾電池から冷蔵庫までなんでも揃います。えー、……あとは、えーと」

 ウェイトレス朝比奈さんが引きつりまくった笑顔で必死の棒読みをしている。その横には「大森電器店」と書かれたプラカードを掲げた長門が直立していて、その二人の姿は俺が覗き込んでいるビデカメのファインダーに映っていた。

 朝比奈さんは見事なギコチナイ作り笑いをして、どこにも繋がっていないマイクを持っていた。

 俺の横には古泉がいて、微苦笑しながらカンペを掲げ持っている。カンペはついさっきハルヒが深く考えもせず殴り書きしたスケッチブックだ。古泉は朝比奈さんのセリフ回しに応じてそれをめくってやっている。

 電器店の店頭で、商店街のまっただ中である。

 ハルヒはディレクターズチェアに腰掛けて足を組み、難しい顔をして朝比奈さんの演技を観察していたが、

「はいカット!」

 掌にメガホンを叩きつけた。

「どうも感じが出ないわね。イマイチ伝わってこないのなぜかしら。なんかこう、グッと来るものがないのよ」

 そんなことを言いながら爪を噛んでいる。

 俺はやれやれとばかりにビデオカメラを停止させた。マイクを両手で握りしめている朝比奈さんも停止している。長門は元から停止しっぱなしで、古泉は微笑みっぱなし。

 背後、商店街を行く通行人たちは何事かと、ざわめきっぱなしだった。

「みくるちゃんの表情が硬いのよね。もっと心から自然な感じで笑いなさい。なんか楽しいことを思い出すの。ってゆうか、いま楽しいでしょ? あなたは主役に抜擢されてるのよ? これ以上の喜びはあなたの人生でも二度とないくらいなのよ!」

 いい加減にしろと言いたいね。

 昨日のハルヒと店長の対話を二行で表現すると、以下のようになるようだ。

「映画の途中にこの店のCM入れてあげるからビデオカメラちょうだい」

「いいとも」

 そんなハルヒの口車に乗った店長もどうかしているが、CM入り白主映画を作って上映しようなどと考えたハルヒはどうかしすぎである。上映の真っ最中に主演女優がCMまでこなす映画なんて聞いたこともない。せめて映画の舞台としてさり気なく背景に映すならまだしも、これでは完全にコマーシャルフィルムだ。

「わかったわ!」

 ハルヒが一人で大声を上げている。頼むからお前は何も解るな。

「電器屋さんにウェイトレスがいるのが引っかかるのよ」

 お前が持ってきた衣装だろうが。

「古泉くん、その袋貸して。そっちの小さいやつ」

 ハルヒは古泉から紙袋を受け取ると放心している朝比奈さんの手をつかんだ。そして店内にずかずか入っていき、

「店長ー、奥で着替えできそうな部屋ある? うん、どこでもいいわ。なんならトイレでも。そう? じゃあ倉庫借りまーす」

 そんなことを言いながら平気で上がり込み、店の奥へと朝比奈さんを連行して消えた。可哀想な朝比奈さんはもはや抵抗の気力も残っていないらしい。ハルヒのバカ力につんのめりながら、おとなしくついていく。この衣装が脱げるのなら何でもいいと考えたのかもしれないな。

 残された俺と古泉、長門はすることもなくただ立っていた。黒装束の長門は身じろぎもせずにプラカードを構えたまま、ハンディカメラを見つめている。よく手が疲れないもんだ。

 古泉が俺に微笑みかけた。

「このぶんでは僕の出番はなさそうですね。実はクラスの舞台劇でも僕は役者になることになってしまいましてね。多数決で。ですからセリフ覚えに四苦八苦しているのですよ。こちらでは出来るだけセリフの少ない役がいいのですが……。どうです? あなたが主演をしてみては」

 キャスティング権を握っているのはどうせハルヒだ。そういう注文は奴につけてくれ。

「そんな畏れ多いことが僕に出来ると思いますか? プロデューサー兼監督に一介の俳優が口出しするなんて、僕にはおよびもつきませんね。なにしろ涼宮さんの命令は絶対のようですし、背いた後にどんなしっぺ返しを喰らうかなんて想像したくありません」

 俺だってしたくない。だからこうやってカメラマンなんかをやってるんじゃないか。しかも撮ってるのは映画じゃなくて個人営業店舖のローカルCFだ。地域密着にもほどがあるぜ。

 今頃店の奥では、例のどたばたが繰り広げられているのだろうな。嫌がる朝比奈さんを好きに剥いているハルヒの絵面。今度は何を着せているのかは知らないが、どうせならあいつが着ればいいんだ。ルックス的に朝比奈さんといい勝負ができるだろうに、自分が主演するという発想はあいつにはないのか?

「お待たせ!」

 出てきた二人組のうち、当然のごとくハルヒは制服のままだった。もう一人の姿恰好を見るや、俺の脳裏に走馬燈がよぎった。ああ、もうあれも半年前の出来事だったんだなあ。月日の経つのは早いもんだよなあ。この半年間いろんなことがあったんだよなあ。草野球とか孤島とかあれとかこれとか、今となってはいい思い出かもなあ。……な、わけねえだろ。

 懐かしの朝比奈みくるコスプレ第一弾、ハルヒとともに校門に出没し、全校の話題をさらい朝比奈さんの精神に外傷を負わせた露出過多のコスチューム。

 非の打ち所のない完全にして無欠のバニーガールが頬を染めつつ目を潤ませつつ、よろりとしながらハルヒの横でウサ耳を揺らしていた。

「うん、これでバッチリ。やっぱ商品の紹介にはバニーよね」

 わけの解らないことを言いながらハルヒは朝比奈さんを上から下まで眺め回し、満足げな笑顔満開、朝比奈さんは哀愁全開で半開きの口から魂が出かかっている。

「さ、みくるちゃん。最初からやり直しね。そろそろセリフも覚えたでしょ。キョン、初っぱなから巻き戻して」

 このぶんでは誰もセリフを聞くことはないだろう。上映の最中、朝比奈さんのバニー姿に釘付けになるに違いないね。スクリーンに穴が空かなければいいのだが。

「じゃ、テイク2!」

 ハルヒが高らかに叫び、メガホンをばっちんと叩いた。

 

 半泣き半笑いの朝比奈さんをハルヒが思うままに操作する電器店CMが何とか終了した。まるで悪徳マネージャーに操られる外人レスラーのようなアングルだ。

 しかし、ここで俺たちが訪れたスポンサーとやらはもう一軒あったことを思い出さねばならない。思い出すまでもないか。ハルヒは最初からそのつもりだったんだな。

「ひぃ」とか「ぴぃ」とか可愛らしい悲鳴を漏らすバニー朝比奈さんを引きずって、ハルヒは商店街のど真ん中を歩いている。その背後霊になっている長門はとことん無感動に魔女ルックのまま、俺と古泉は並んでブラブラと。

 せめてもの慰めとして、朝比奈さんの肩には俺のブレザーがかかっている。かえって目立っているかもしれない。なんかもう、特殊な趣味の世界である。断っておくが俺の趣味ではないぜ。

 到着した二軒目の模型店でも似たようなことが繰り返された。衆人環視の中、朝比奈さんは涙目を俺----つまリカメラ----に向けながら、

「こ、この模型店さんは、山土啓治さん(28)が周囲の反対を押し切り、去年脱サラして開店オープンしました。趣味がこうじたばっかりに……やっちゃったって感じです……。案の定、思うように売上げは伸びず、今年度前期は昨年対比で伸長率八十%、折れ線グラフは右肩下がり……なのでえ! 皆さんどんどん買いに来てあげてくださぁい!」

 朝比奈さんの語尾は完全に裏返っている。にしても、こんなナレーションに山土店主はオーケーを出したのか? どうもヤケになってるとしか思えないな。こんなこと高校生に思われたくもないだろうが。

 バニーガールは強引に持たされたアサルトライフルの銃口を上に向け、

「人に向けて撃ってはいけませーん。空き缶でも撃って我慢しましょうっ」

 その後ろでは、長門がどこを見ているのか解らない目で「ヤマツチモデルショップ」と書かれたプラカードを捧げている。シュールな光景だった。朝倉涼子は普通に感情のある人間に見えたから宇宙人製人造人間が全員こんなロボットみたいな奴ばかりではないらしく、長門が無感情なのはそういう仕様なのだろう。

 さらに朝比奈さんはライフル銃を地面に置いた空き缶に向けて乱射しつつ、

「ひええっ。当たったらとても痛いと思いますっ。ひょええっ」

 怯えながらアルミ缶を蜂の巣にするという模範射撃までおこなって、野次馬たちのどよめきを誘っていた。命中したのは一割くらいのもんだったが。

 こんな映像をDVカセットに録画してると申しわけない気分になってくるね。朝比奈さんにも、このビデオカメラの開発設計者にも。こんなことをするために世に出てきたわけではあるまいに。

 

 そんなこんなで、この日はマヌケなCM撮りだけで終わった。

 俺たちはいったん学校まで舞い戻り、部室にて次の撮影スケジュールをハルヒから聞いているところだ。

「明日は土曜日で休みだから、朝から全員集合ね。北口駅前に九時には来ていること。いいわねっ!」

 ところで、コマーシャルシーンだけですでに十五分以上費やしているわけだが、本編はどれくらいの長さになるんだ? 三時間もの大作を文化祭で流しても誰も最後まで観てくれそうにないぞ。回転率も悪そうだしさ。

 それに、と俺はひしゃげた朝比奈さんを見ながら考えた。行きはウェイトレス、帰りはバニーガールで電車にまで乗った朝比奈さんはやっとのことで制服に着替え終え、ぱたりと倒れるようにうずくまった。このままの調子で撮影が進んだら主演女優が途中で寝込んでしまう恐れがある。

 俺はテーブルに額を当ててくったりしている朝比奈さんの代わりに古泉が淹れた玄米茶を飲み干してから、

「なあハルヒ、朝比奈さんの恰好だがもうちょっと何とかならないか? もっとこう、戦うんであれば戦いそうな衣装があるだろうよ。戦闘服とか迷彩服とか」

 ハルヒは星マーク付きアンテナ棒をちっちっと振った。

「そんなんで戦っても意外性がないじゃない。ウェイトレスが戦うから、おおっ----と思わすことができるのよ。ツカミが肝心なの。コンセプトよ、コンセプト」

 コンセプトの意味解って言ってるんだろうか。俺は嘆息するしかない。

「まあ……。それはいいけどさ。なんでわざわざ未来から来たことにするんだ? 別に未来人じゃなくてもいいじゃねえか」

 ぴく、と突っ伏す朝比奈さんの肩が揺れ動いた。ハルヒは気付かずへこたれない。

「そんなもんはね、後から考えればいいのよ。ツッコマれたときに考えたらすむことだわ」

 だから俺が今ツッコンでるんじゃねえか。答えろよ。

「考えても思いつかなかったら無視しときゃいいのよ! どうだっていいじゃないの。面白ければなんだっていいのよ!」

 それは面白かった場合だけの話だろうが。お前の撮ろうとしている映画が面白くなる確率はどれほどのものなんだ? 面白がるのが監督のみなんてのを撮っても仕方がないだろ。ゴールデンラズベリー賞シロウト部門ノミネートでも狙ってるのか?

「なにそれ。狙うのは一つよ。文化祭イベントベスト投票一位よ! それに、できたらゴールデングローブも。そのためにもみくるちゃんにはそれなりの恰好をしてもらわないと困るの!」

 誰も困りはしないと思うのだが、どうやらハルヒが観て激怒した映画とやらはいつの年かは知らないがゴールデングローブ賞受賞作らしいな。

 もう一度ため息をついて、ふと横を見る。黒装束の長門は部室に入るなり隅の方に引っ込んでお馴染みの読書にふけっていた。こいつはあれか、この部屋にいるときは本を読んでないと死ぬのか?

「待てよ」

 本好き宇宙人を見ているうちに思いついた。

「おい、脚本をまだもらってないぞ」

 それどころかストーリーすら知らされていない。解っているのは朝比奈さんが未来ウェイトレスで古泉がエスパー少年で長門が悪い宇宙人の魔法使いという設定だけだ。

「だいじょうぶ」

 ハルヒは何のつもりだろう、いきなり目を閉じて、棒の星マークの先で自分のこめかみを突っついた。

「ぜーんぶ、こん中にあるから。脚本も絵コンテもバッチリドンドンよ。あんたは何も考えなくていいわ。あたしがカメラワークを考えてあげるから」

 随分な言いぐさだな。お前こそ何も考えずにぼんやり窓の外でも眺めてりゃいいんだ。マシな表情さえしてれば、その様子だけで朝比奈さんとチェンジできるぜ。

「明日よ、明日! みんな、気合い入れていくわよ。栄光を勝ち取るにはまず精神諭からよ。それがお金をかけずに勝利する手っ取り早い方法なの。心のタガが外れたとき、自分でも知らなかった潜在能力が覚醒して思わぬパワーを生み出すわけよ。そうよね!」

 そりゃバトルマンガの逆ギレ合戦的展開ではそうかもしれないが、いくら精神論とナショナリズムを振りかざしたところでサッカー日本代表がW杯で優勝するにはまだ時間がかかりそうだぞ。

「じゃ、今日は解散! 明日をお楽しみにっ! キョン、カメラとか小道具とか衣装とか、荷物忘れちゃダメよ。時間厳守!」

 言い残し、ハルヒは勇ましく鞄を振り回して出て行った。廊下を遠ざかる『ロッキー』のテーマを聞きながら、俺はうずたかく積まれた荷物とやらを恨めしく眺めた。この監督の横暴をどこの組合に訴え出ればいいのだろうか。

 

 実際のところ、この日までの俺たちの学園ライフは、ハルヒが異常なまでの情熱を映画にかけて、かけたついでに段々脱線していくというだけの、単なる平凡な日常が連続しているにすぎなかった。全国の学校をくまなく調査でもすれば、似たようなことをしている一団は俺たちの他にもいるだろう。早い話が、『普通』なのだ。

 俺は長門の親類に襲われたりしてないし、朝比奈さんと時を駆けてもいないし、発光性の青カビみたいな巨人野郎も出てきていないし、バカみたいな真相が待ち受ける殺人事件も起こっていない。

 めちゃ普通の学園生活だ。

 迫り来る文化祭という祭り事カウントダウンに踊らされ、いささかハイになったハルヒがアドレナリンをせっせと分泌して頭に飼っているハムスターを鞭でシバきたて輪っかをマッハで回しているようなものだ。

 要するに、いつものことなのだった。

 

 ----この日まではな。

 

 思うに、これでもまだハルヒは自分なりにセーブしていたんだろう。よく考えたら、まだ映画なんて一コマも撮っていない。デジタルビデオテープに記録してあるのは、朝比奈さんがバニースタイルで地元商店街の電器店とプラモ店を紹介するというスポンサー対策にすぎない。ハルヒ総指揮総監督によるSOS団プロデュース映画作品の全貌はまったく明らかになっておらず、片鱗すら出てこず、ストーリーラインすら不明なのであった。

 不明のままのほうがよかったな。

 上映するのは朝比奈さんの商店街リボート映像集でかまやしない。と言うか、そっちの方が客を呼べるんじゃないか? 地域振興策にもなって一石二鳥だろうさ。いやもう、いっそのこと朝比奈みくるプロモーションビデオクリップにしてしまえよ。俺はそのほうが嬉しいそ。撮影担当としての、これは俺の本音だ。

 しかしながら、ハルヒがそれで満足などしないのも解りきっていた。こいつは言い出したことは必ず完遂する。やると言ったらやるのだ。途中で投げ出したりなんかはしないのだ。なんと迷惑な有言実行だろうね。

 てなわけで、この翌日からまたまたけったいな事態に俺たちは陥ることになったのだが、いやまったく、何と言うべきかな。ハルヒは何と言ってたっけ?

 心のタガが外れたとき、自分でも知らなかった潜在能力が覚醒して思わぬパワーを生み出して----とかだったか。

 なるほど。

 でもなあ、ハルヒ。

 よりにもよって、お前が覚醒することはないじゃないか。

 それもお前の自覚なしにさ。

 

第三章

 

 土曜。その日。

 俺たちは駅前に集合した。家にあった一番でかいリュックにあらゆるものを詰め込んで駅まで歩いていった俺を、他の四人が勢揃いして待ち受けていた。

 ハルヒがカジュアル、朝比奈さんがフェミニンスタイルで並んでいる姿は遠くからでも目を引く。全然似ていない姉妹みたいな感じ。上級生のはずなのに妹みたいに見える朝比奈さんは、服装だけが少し年上の装いだ。

 変人三人に囲まれていた朝比奈さんは、俺を見つけると、幾分ホッとしたように会釈して小さく手を振ってくれた。うむ。

「おっそいわよ!」

 叫んでいるがハルヒは今日も上機嫌だった。こいつが手ぶらなのはメガホンと監督用折りたたみ椅子が俺の荷物に含まれているからである。

「まだ九時前だぜ」

 俺は仏頂面で言って、両脇を見る。長門の陶磁器顔と、古泉のさわやかスマイル。それにしても学校でもないのに長門が制服なのは普段と同じだが、古泉までもが制服姿なのはどうしたことだ。

「これが僕の撮影衣装なんだそうですよ」

 と、古泉は答えた。

「昨日そのように言われましてね。役の上では、僕は一介の高校生に身をやつした超能力者ということになっていますから」

 そのまんまじゃねえか。

 俺がカメラやら小道具やらでかさばるバッグを降ろして額を拭っていると、ハルヒが遠足前の小学生みたいな笑顔で、

「キョン、あんた一番後に来たから罰金ね。でもまだいいわ。これからバスに乗るから。バス代くらいはあたしが出したげる。必要経費ってやつよ。あんたは全員に昼ご飯を奢りなさい」

 勝手に決めつけ、片手を振りながら、

「さあみんな! バス停はこっちよ! さっさとついてきなさい!」

 その腕の腕章が「超監督」になっているのを俺は見逃さなかった。ついにハルヒの中では大監督すらも超越してしまったらしい。よほど凄い映画にするつもりなんだろう。重ねて言うが、俺は朝比奈さんのPVを撮っていたほうがよっぽど楽しいのだが。

 

 バスに揺られて三十分、山の中にある停留所で降りて、それからさらに三十分。俺たちはハイキングコースをえっちらおっちら登っていた。

 どこにでもありそうな森林公園だった。生まれも育ちもこの辺で暮らしている俺には昔から馴染みの場所だ。小学生の頃は毎年のように遠足と言えば近場の山登りだったからな。

 公園とは名ばかりで、山の中腹にムリヤリ開けた空間を作り適当な噴水があるような、何を好きこのんでこんな所まで登らねばならんのだと苦言の一つでも呈したくなるほどの、何にも無いところである。喜んでいるのは、まだ娯楽のなんたるかを知るすべもないガキどもくらい、そのガキどもを連れてきたと思しき家族連れの姿を何組も見かけることが出来る。

 俺たちは噴水を中心とする広場の片隅に陣取って、そこを撮影基地とすることにした。手ぶらのハルヒは元気を有り余らせていたが、俺はすっかりへばっていた。山道の途中で古泉に半分くらいの重量を押しつけなければ、マジで行き倒れていたかもしれん。俺がワンゲルの装備みたいなバッグに凭れてゼイゼイ言ってると、

「あの、飲みます?」

 目の前に小さなペットボトルが差し出され、そのボトルは朝比奈さんの手に握られている。

「あたしの飲みかけでよければ……」

 神のウーロン茶だ。おそらく天上の味がするに違いないね。良いも悪いもない。飲まないと天罰が下ると言うものだ。俺が遠慮なく受け取ろうとしたとき、邪悪な悪魔の手が天使の腕を払いのけた。朝比奈さんからウーロン茶をひったくったハルヒが、

「後にしなさい、後に。みくるちゃん、今はこんな雑用係に水分補給させてる場合じゃないの。急がないと、絶好の天気が翳ってくるかもしれないんだからね。さっさと撮影を始めるわよ」

 朝比奈さんは、おっとりと目を丸めた。

「え……? ここ撮るんですか?」

「当たり前じゃないの。何しに来たと思ってるのよ」

「じゃあ、あたし着替えなくていいんですね? ここ、着替える場所ないし……」

「場所ならあるわよ。ほら、周り一面がそうよ」

 ハルヒが指でぐるりと示した場所には、緑の木々に囲まれた山並みが整列していた。

「ちょっと奥に行けば誰も来やしないわ。天然の更衣室よ。さ、行きましょ」

「ひひ、ひゃあーっ。た、助け」

 助けるヒマもなく、ハルヒは森の奥に朝比奈さんを引きずって消えた。

 

 再登場した朝比奈さんは、撮影コスチュームであるところのピチピチウェイトレス服を身体に貼りつけ、何だか毛先があちこち飛び跳ねたややこしい髪型をして潤みきった瞳を道ばたに生えている秋の花に向けていた。

 その片方の目の色が比喩ではなく違っている。左目だけが青い。なんだこりゃ。

「カラーコンタクトよ」

 ハルヒが解説する。

「左右の目の色が違うっていうのもけっこう重要なのね。ほら、たったこれだけのことでググっと神秘性が増すでしょ。これさえしてれば間違いはないの。記号よ、記号」

 背後から朝比奈さんの顎をつかんで、小さな顔を傾けさせる。されるがままの朝比奈さんは茫洋たる目つきである。

「この青い目には秘密があるわけ」とハルヒ。

「そりゃまあ、意味もなく色が違っていても話にならんからな」

 今にも倒れそうな朝比奈さんの疲れた顔だけでもググっとくるけどね。

「それで、どんな秘密があるんだ、そのカラーコンタクトに」

「まだ秘密」

 ハルヒはにんまりしながら答え、

「ほら、みくるちゃん。いつまでグンニャリしてんの。しっかりしなさい。あなたは主演なのよ。ブロデューサーと監督の次に偉いのよ。しゃんとするのしゃんと!」

「ふえー」

 悲しい声を出して、朝比奈さんはハルヒの命ずるままにポーズを取る。ハルヒは朝比奈さんに拳銃(モデルガンだよ)を握らせ、

「女暗殺者みたいな感じを出しなさい。いかにも未来からきた感じで」

 などと無理な注文をつけている。朝比奈さんはおずおずとグロックを構えて、精一杯の流し目を----カメラだな----にくれた。このいかにも無理してる感が堪らなくいいんだ、これが、いやマジで。

 

 それにしても意味もなくアクティビティ溢れる奴だ。観た映画がつまらんと思うことは俺だってよくあるが、なら自分がやったほうがマシだとばかりに映画を撮ろうなんてことは思いもしないしやり方だって解らん。仮に撮ったとして、それが本当にマシなものになるとも思っていない。しかしハルヒは真剣に自分に監督の才があると思い込んでいるらしい。少なくとも深夜にやってたマイナー映画よりは素晴らしいものを作る気でいることは確かだ。その自信は何に裏打ちされているのだろう。

 ハルヒは黄色いメガホンを振り回しながら叫んでいる。

「みくるちゃん! もっと照れをなくしなさい! 自分を捨てるのよ! 役にハマってなりきればいいのよっ! 今のあなたは朝比奈みくるじゃなくて朝比奈ミクルなのっ!」

 ……もちろん、ハルヒの自信が何の裏付けもないのは知れたことだ。根拠もなく自信満々で周囲の秩序をカオス化するのが、こいつ、涼宮ハルヒの持って生まれた機能なのだ。でなければ大それた腕章なんかつけて偉そばるわけがない。

 監督ハルヒの指示の下、記念すべきシーン1の撮影が始まった。

 つっても、広場をひたすら走っている朝比奈さんを横から撮っているだけだ。これがオープニングなのだという。せめて脚本でも書いてくるのかと思ったか、ハルヒはそんなもんはないと断言しやがった。

「ヘタに文書にして内容が漏れるとマズいじゃない」

 というのがその理由である。どうやらこの映画は香港形式で進められるようだった。なんかもう、すげーぐったりして来た俺だったがカメラレンズの向こうで二丁拳銃を握りしめ、女走りで息を切らしている朝比奈さんよりはまだマシかもな。

 俺たちが見守る中、朝比奈さんは右に左にふらふらしながら走り続け、テイク5でようやく監督のオッケーが出た途端にへたり込んだ。

「ひい……ひい……」

 両手を地面について背中を上下させるウェイトレスを顧みず、ハルヒは脇に控える長門に指示を送った。

「じゃ、次は有希とみくるちゃんの戦闘シーンね」

 長門はお気に入りの黒装で、つつつとカメラの前まで移動する。制服の上から暗幕みたいなマントを被りトンガリ黒帽子を頭に載せるだけだから、朝比奈さんのように茂みに連れ込まれることがなかったのは幸いなことだった。もっとも長門ならどこでも平気な顔で着替えの一つぐらいしそうではある。配役を交換してみてはどうかな。長門がウェイトレスで、朝比奈さんが魔法使い。どっちも不思議と似合いそうだぞ。

 ハルヒは朝比奈さんと長門を三メートルくらい離れて向かい合わせに立たせ、

「みくるちゃん、有希を思うさま撃ちなさい」

「えっ」と朝比奈さん。走ったおかげで乱れた後れ毛を揺らしながら、「でも、これ人を撃っちゃダメなんじゃ……」

「だいじょうぶよ。みくるちゃんの腕じゃどうせ当たるわけないし、仮に当たりそうでも有希なら避けるわ」

 長門は黙ったまま、星付きアンテナをじっと持って立っていた。

 それはまあ、俺だってそう思う。長門なら銃口を額に押し当てられた状態で引き金を引いても素で避けそうだ。

「あの……」

 恐い料理長に割った皿の報告をする新米メイドのような顔で、朝比奈さんは長門をこわごわと見上げる。

「いい」と長門は応えた。そしてアンテナをくるりと回し、「撃って」

「ほら、いいって。じゃんじゃか撃ちなさい。言っとくけど同時に撃つんじゃなくて交互に撃つのよ。それが二丁拳銃の基本だから」

 

 古泉がレフ板を頭上に構えている。ハルヒがどこからかは知らないが持ってきたのだ。今頃写真部あたりが盗難届を出しているかもしれない。しかし古泉、お前主役じゃなかったのか?

「環境には臨機応変に適合しませんとね。僕は撮影される側にいるより、こっちのほうが性分に合っているんですよ。このまま裏方になれないものかと、昨日から考えているんですが……」

「えいっ」

 朝比奈さんは重そうにモデルガンを構え、目をつむって連射した。その様子を俺が横から撮影する。BB弾の軌跡はよく見えなかったが、長門が表情一つ変えずに突っ立っているところを見ると、本当にまったく命中していないようだった。魔法で避けているからか……と思い始めた頃に、長門はゆっくりと指し棒をあげ、顔の前でちょろりと振った。こつんと音がして地面に弾が転がり落ちる。眼鏡なしになったのに凄い視力も相変わらずだな。

 長門は瞬きしないで銃口を見ている。いつもだってあんまりしないが、それだって「たまには瞬かないと不自然だから」と言いたげな瞬きで、そっちのほうがよほど不自然である。瞳孔開きっぱなしで歩こうが天上をぶち破ろうが瞬間移動しようが、もう俺はちっとも驚きやしないだろう。だから今も驚いていない。

 長門は壊れたワイパーみたいな動きで、たまに指し棒を振り、その度にBB弾がパラ……バラ……と落っこちた。

 それにしても単調な戦闘シーンだ。長門は棒しか動かさないし、朝比奈さんは二丁のグロックだかベレッタだかをぷしゅぷしゅ撃っているだけだし、しかも当たってないし、だいたいハルヒは「思うさま撃て」と言っただけでセリフを教えていない。聞こえてくるセリフは朝比奈さんの「ひっ、ほわっ、こわっ」という小さな嬌声だけである。

 なんだか、闘いの前にお互い致命傷は避けようぜと打ち合わせておいたハブとマングースのようなやる気のないバトルシーンだった。

「うん、まあこんなもんかしら」

 朝比奈さんの拳銃が弾切れになったところで、ハルヒがメガホンで肩たたき。俺はハンディビデオを降ろして、ディレクターズチェアの上に胡座をかいているハルヒに近寄った。

「おいハルヒ。これのどこが映画だ。何の話なんだかさっぱり解らねえぞ」

 涼宮超監督はチラリと俺を見上げ、

「いいの。どうせ編集段階で切ったり繋げたりするつもりだし」

 誰がするんだ、その切ったり繋げたりをさ。俺の役職の所に「編集」とか書いてあったような気もするが。

「せめてセリフだけでも入れろよ」

「いざとなれば音声は消してアフレコするわ。効果音とかBGMも入れないといけないしね。今は深く考えなくていいのっ!」

 考えようにも、ストーリーがお前の頭の中にしかないんだから俺たちが考えることなど何もない。せめて俺は朝比奈さんに対するハルヒのセクハラを最小限にするべく注意するくらいだった。俺以外の男のボディタッチ厳禁。それが俺の基準である。文句はないよな?

「それじゃ次のシーンね! 今度は有希の反撃よ。有希、魔法を使ってみくるちゃんをいてこましちゃいなさい!」

 長門は黒帽子のひさしの影の中から、衣装より黒い瞳を俺に向けた。俺にしか解らないような角度で首を傾げる。なんとなく伝わった。長門は「いいの?」と訊いているようだ。

 もちろん答えは「ノー!」だ。魔法はともかく、朝比奈さんを痛めつけるようなことは許可できないね。ほら、朝比奈さんが青くなってぶるぶる震えているじゃないか。

 当然ハルヒは長門が不可解なタネ無しマジックを使えるとは知らない。こいつが言ってるのは、あたかも魔法を使っているような演技をしろということだろう。

 長門もちゃんとわきまえてくれたようで、「………」と無言をセリフとしながら、アンテナ棒を持ち上げてユラーリユラリと、まるでコンサートで観客がサイリウムを振るみたいな動作をおこなう。

「まあ、いいわ」とハルヒ。「このシーンにはVFXを使うから。キョン、あとで有希の棒から光線が出てる感じでお願いね」

 どうやったらそんなビジュアルエフェクトがかませるのか、俺にそんな技術はないぞ。ILMから社員と機材を借りてくる予定があるなら別だが。

「みくるちゃんはそこで悲鳴! そして苦しそうにぶっ倒れなさい」

 しばらくオロオロしていた朝比奈さんは、「……きゃ」と呟くように言ってパタリコと前向きに倒れた。両手を投げ出して倒れ伏す朝比奈さんの傍らで、その魂を入手したばかりの死神のような長門が立っている光景。それを撮影する俺に、俺の横でいつまでもレフ板上げっぱなしの古泉。

 そろそろ周りの家族連れの視線が痛くなってきた。

 

 慈悲深くも、しばしの休憩時間をハルヒが与えてくれたため、俺たちは車座で地面に座り込んでいた。

 ハルヒは俺が撮った映像を繰り返し再生しては、もっともらしい顔でうーんとか唸っている。

 朝比奈さんと長門の間には、ちょこちょこと寄ってきた子供が数名いて、「これ何のテレビ?」とか訊いていた。朝比奈さんは弱々しく微笑むだけで首を振り、長門は完全に無視して大地と一体化していた。

 いったい自分の撮っている映像が何のシーンなのかハルヒが明かさないものだから全然解らんのだが、次に超監督は近くの神社に行こうと言い出した。もう休憩終わりか。

「鳩がいるの」

 なのだそうだ。

「鳩がバサバサ飛び立つのを背景に歩いているみくるちゃんを撮るのよ! できれば全部白い鳩にしたいんだけど、この際どんな色でも目をつむるわ」

 土鳩しかいないと思うけどな。すでにヨレヨレになっている朝比奈さんの腕に自分の腕を絡め(逃げないようにだろう)、ハルヒは森林公園内を横断して県道に向かうようだ。俺は古泉と機材を分け合い、ジャングルの取材に訪れた撮影スタッフの現地人シェルパみたいな面持ちで後をつけて、着いたところが山の中のでっかい神社だった。久しぶりに来たなあ。それこそ小学生時の遠足以来だ。

 境内の「エサやり禁止」という看板の前で、ハルヒは枯れ木に花を咲かそうとするがごとく堂々とパン屑をまいていた。日本語が読めないとしか思えない。

 たちまち地面を埋め尽くす勢いで鳩の群れが押し寄せ、後を絶つことなく空から舞い降りてくる。鳩色になった神社の境内は、よく見るまでもなくかなり不気味だ。その鳩のカーペットの中に朝比奈さんが一人で立たされている。足元をつつき回されて唇を震わせるウェイトレス。その姿を俺が正面から撮っていた。何やってんだ、俺。

 画面の外ではハルヒが朝比奈さんから取り上げたイーグルだかトカレフだかの拳銃を携え、すちゃっとセイフティを解除した。何をするのかと思っていたら、いきなり朝比奈さんの足元に向かって射撃、

「ひえええっ!」

 鳩に豆鉄砲を喰らわす絵面がリアルで拝めるとは思わなかった。動物愛護協会がすっ飛んできそうな蛮行に、平和の象徴たちは一斉にグルッポとか鳴きながら舞い上がる。

「これよ! この絵が欲しかったのよね。キョン、ちゃんと撮ってなさいよ!」

 一応カメラは回っているから撮れているだろ。右往左往して飛び回る鳩の渦の中央で、朝比奈さんは頭を抱えてしゃがみ込んでいる。

「みくるちゃんコラーっ! 何座ってんの!? あなたは飛んでる鳩をバックにゆっくりとこっちに歩いてくるのよ! 立ちなさあい!」

 そんなシーンを悠長に撮っている場合ではなさそうだ。俺が覗いているファインダーの最奥から、動物愛護協会の代わりに神社の神主らしきジーサンがすっ飛んできたからである。袴姿だから神主の関係者で合ってると思う。俺が説教の一つでも覚悟していると、ハルヒは躊躇うことなく最終手段に出た。

 手にしていたCZだかSIGだかいうモデルガンを、そのジーサンに向けて撃ち始めたのである。灼けた鉄板に立たされたような踊りを見せる神主(多分)。シルバーサービス振興会から抗議が来そうな振る舞いだった。

「撤収ーっ!」

 やおら叫んだハルヒは、身を翻して走り出した。いつ移動したのか、長門はとっくに遠く離れた鳥居の下で俺たちを待っている。放っておけば逃げ遅れそうな朝比奈さんを、俺と古泉が両脇から抱えて荷物と一緒に持ち上げた。

 監督が逃げ出したんだ。主演女優をスケープゴートにするわけにはいかんだろ。

 

 十分後、俺たちは道沿いにあったドライブインみたいな食事処の一角にいた。俺がなぜか奢ることになっている昼飯である。

「惜しいことをしたかもしんないわね。あの老神主を敵役にしてボコったほうがアドリブとしてはよかったんじゃないかしら」

 ハルヒが犯罪ギリギリなことをほざいている。

 朝比奈さんはざる蕎麦を三本ほど啜った後、テーブルに突っ伏していた。

「みくるちゃん。あなた小食ねえ。そんなんじゃ大きくなれないわよ。胸ばっかり育ってもコアなマニアに喜ばれるだけよ。ちゃんと背も伸ばさないと」

 言いつつ、ハルヒは朝比奈さんの蕎麦を横取りしてずるずると喰っていた。

 俺は知っている。あと何年後かは知らないが、朝比奈さんは顔もボディもミス太陽系代表に選出されるくらいの成長を遂げるのだ。本人も知らないみたいだけどね。

 古泉はずっと苦笑していた。長門は黙々とミックスサンドを口に運んで頬を膨らませている。

 俺は喰い終えたミートソースの皿を脇に押しやって、二人前の昼食を平らげているハルヒに言った。

「あの神主が学校に苦情でも入れたらどうするつもりだ。古泉の制服で、俺たちの正体はバレバレだぞ」

「だいじょうぶじゃないかしら」

 ハルヒはどこまでも楽観的である。

「距離あったし、よくあるブレザーだし、何か言われてもトボケときゃいいのよ。他人の空似よ。BB弾だけじゃ証拠になんないわ」

 俺は証拠の詰まっているビデオカメラを見た。この映像を上映なんかしたら一発でネタバレすると思うのだが。神社まで来て鳩に囲まれているウェイトレスがこの近隣に二人以上もいるとは思えない。

「それで、次はどこに行くんだ?」

「もう一度公園の広場に戻りましょ。よく考えたらあれだけじゃ戦闘になってないわ。観客のハートを鷲づかみにするには、もっと激しいアクションが必要ね。うん、イメージが湧いてきたわ。森の中を必死に逃げるみくるちゃんと、それを追う有希。そしてみくるちゃんは崖から落ちてしまうの。そこにたまたま通りがかった古泉くんが助けるっていう展開はどうかしら」

 行き当たりばったりの展開だな。こんな山の中をたまたま通りかかる制服姿の男子高校生ってのは何者だ。それだけで怪しすぎるぞ。それにハルヒのことだから本当に朝比奈さんを崖から突き落とすかもしれない。つーかハルヒ、お前が落ちろ。朝比奈さんのスタントとしてこの衣装を着込め。まあ、少し胸が足りないかもしれないが……。

 そんなことを考えている俺を、ハルヒは眉を吊り上げて流し目での一睨み。

「あんたなんか想像してる? まさかあたしのウェイトレス姿を妄想してるんじゃないでしょうね」

 実に的確に言い当てて、

「あたしは監督なんだからね。そんな嬉しがって表に出たりはしないのよ。二匹のウサギを追いかけていたら切り株につまずいてコケるだけなの」

 おまえはブロデューサーも兼ねてるんじゃなかったっけ。

「裏方スタッフは何役兼ねてもいいのよ。でもまあ、カメオ出演みたいに一瞬だけチラッと映るのはいいかもね。お遊びも入れといたほうがマニア心をくすぐるから」

 どこのマニアが対象になっているんだろう。朝比奈さんマニアか? 今までのところ朝比奈みくるコスチュームプレイ集にしかなってねえぞ。……考えてみれば、それで充分だが。

 古泉はホットオーレを優雅な仕草でテーブルに戻し、

「登場人物は僕たち三人だけなのですか?」

 ばか、余計なことを訊くな。

「そうねえ……」

 ハルヒは口をアヒルにして考え込むふうである。それくらいあらかじめ考えておけ。

「やっぱり三人だけじゃ少ないかしら。うん、少ないわね。脇が光ってこそ主役も生きるというものだわ。古泉くん、いいことを気付かせてくれたわ。お礼に出番を増やしてあげる」

「それは……どうも」

 古泉は笑みを浮かべたまま、しまった、と言いたげな顔になった。ざまを見るがいい。俺なんか藪をつつけばマムシが出てくると知ってるから何も言わないのだ。

 しかしどこから新たな登場人物を連れて来るつもりだろう。こいつがアトランダムに連れて来る人間は、七十五%の確率で変態的な裏設定を持っていることになっている。順番から言えば今度は異世界人が来そうだ。そして俺はそんな奴にこの世に来て欲しくないと考えてもいる。

「ボスを倒す前にはザコをたくさんとっちめないといけないのよね。ザコ、ザコ……」

 唇の下に指を当てるハルヒは俺をチラリ見する。

「あいつらでいいだろ」

 俺もハルヒの考えを読み取った。谷口と国木田。連れて来てももうまったくどうでもいい奴と言えば、あの二人くらいだ。完全な脇役以下、ザコ中のザコキャラである。単独で出現したホイミスライムより無害であるのは間違いない。

「それでいいわ」

 もう一人くらい欲しそうな監督の顔から目を逸らし、俺はテーブルにほっぺたをつけて目を閉じる朝比奈さんを盗み見た。やっぱり寝顔も可愛いね。寝たフリもな。

 俺はソーダ水をちゅうちゅう吸っている長門の死神衣装に目を遣って、その無感動ぶりを心ゆくまで鑑賞してから、

「で、次は? 何を撮るんだ?」

 ハルヒは蕎麦湯をどぼどぼ注ぎ、それをすっかり飲み干すまでの時間を稼いだ。それから、

「とにかくみくるちゃんにはヒドイ目にあってもらうとするわ。可哀想な少女がとことん酷いコトされて、最後に逆転ハッピーになるってのが、この映画のテーマだから。みくるちゃんが不幸になればなるほどラストのカタルシスも。パーンと弾けるってものよ。安心して、みくるちゃん。これはハッピーエンドだからね」

 ハッピーなのは最後だけだろうな。その間、朝比奈さんはひたすらハルヒ監督の暴虐にさらされるというわけだ。さて、どんなシナリオをハルヒは用意してるんだろう。ブレーキ役は俺だけみたいだし、ここは一つ注意して見守らないとな。ところでカタルシスって何だ?

 朝比奈さんは、閉じていた目蓋を半分だけ開けて、俺のほうを救いを求めるような目で見つめてくれた。左目だけが碧眼のヘテロクロミア。が、すぐに薄い吐息をして、ゆるゆると閉じる。なんですか、俺が頼りになりそうにないっていう意思表示ですか。

 古泉と長門が何の防波堤にもなりそうにない現在、俺だけですよ、あなたの味方は。

 もっとも、俺が何かしようとしてもハルヒを押し留めることのできた例もまた、この半年間皆無だったけどさ。俺の騎士道精神的意気込みだけでもくみ取って欲しいね。風車に槍を投げてるような虚しさを感じないでもないけど。

 

 正直言うと、別に止めることはないと思っていた。半年前、俺はハルヒを羽交い締めにしてでもSOS団創設を断念させるべきだったと考えたのだが、そんなもんは結果論で、俺がボヤボヤしているうちにハルヒは部室と団員を用意してしまい、なし崩し的に俺も団員その一にされていた……ってのが現実的な結果だ。

 しかし、もし俺がこの女の後頭部を背後から棍棒で殴るなり闇討ちするなり不意打ちするなりして制止できていたら、朝比奈さんや長門や古泉たちと出会わずにすんだかもしれない。あるいは、もっと別の形で出会えたかもしれない。つまり宇宙人だとか未来人だとかいうような信じがたい設定を知らされることなく、普通の同級生とか上級生とか赤の他人とかで廊下をすれ違うだけだったかもしれない。

 どっちがよかった? などと訊くなよ。俺はすでに団員三人の白己PRを聞いちまったし、長門の変な力やもう一人の朝比奈さんや赤玉になる古泉を目撃しているんだからな。たぶんどっかのパラレルワールドに行けば、ハルヒや以下の三人と会話一つしたことのない俺がいるだろうから、そいつに訊けばいいことさ。俺は知らねえ。

 知らねえと言っていられないのは、この俺の今の状態だ。映画作り。うむ。適度に文化祭っぽい展開だ。何もおかしくはないだろう。おかしいのはハルヒの頭の中くらいだが、それはとっくに解りきったことなので今更誰も驚かない。いきなり映画を作ると言い出したところで、こいつがアホなことを言い出すのも今更なので俺にしてみれぱ定期的なルーチンワークだ。適当にやってりゃ何とかなるだろ----。

 と、そう考えた。だから映画撮影を止めることもしなかった。監督でも何でも好きなことをやれ。好きなだけ周囲を振り回してくれ。それでお前の気が晴れるなら、俺も内心のため息を押し殺して付き合ってやるさ。お前と二人っきりで得体の知れん空間に閉じこめられるのは金輸際願い下げだからな。

 張り切るハルヒとヨレた朝比奈さんと微笑み古泉と仮面みたいな長門の無表情を眺めながら、俺はそう思っていたのだ。

 

 止めときゃよかったと後悔する時が来るとも知らずに。

 

 俺たちはまた森林公園広場に舞い戻った。なんとかならないのか、この段取りの悪さは。神社に行く前にまとめて撮っておけよ。脚本がハルヒの頭にしかないのがそもそもの問題だ。やっぱり文書化は大切だよな。文字情報偉大なり。

「やっぱ銃はやめにするわ。もっと凄い弾が出ると思ってたのに、ハデな炎も音もないし臨場感がないもの。あんまり効いてる気がしないのよ。レプリカだとダメね」

 ヤマツチモデルショップの赤字経営を後押しするようなことを言いつつ、ハルヒは運動靴の爪先で地面に二つのペケマークを書いていた。朝比奈さんと長門の立ち位置を。バミっているらしい。

「みくるちゃんはこっち、有希はここ」

「ふみゅう」

 朝からハルヒに引っ張り回されている朝比奈さんは、すでに一日分のカロリーを全消費したようなおぼつかない脚の動きで抵抗の余地もなく、エロいウェイトレス姿でウロツキまわる精神的疲労度がよほどキているらしい。羞恥の思いを超えて幼児退行化しているのかと思うくらいのお人形さんぶりだった。

 長門は元からの人形ぶりで、黙々とバミり位置に移動して黙々と立ちつくす。黒マントが吹き下ろしの山風にそよそよとなびいている。

 ハルヒは朝比奈さんからもぎ取ったモデルガンを指先でくるくる回しながら、

「この位置を動かないでね。向かい合って睨み合っているシーンを撮りたいから。古泉くん、レフ板用意して」

 それからディレクターズチェアに戻ってきたハルヒは、銃を天に向けてぶしゅんとぶっぱなして、

「アクション!」

 と叫んだ。

 俺は慌ててカメラを構えたが、もっと慌てたのは朝比奈さんだろう。アクションて。ハルヒは立ってろとしか言っていないぞ。どんなアクションをせよと言うのか。

「………」

 長門と朝比奈さんは無言で相手の顔色をうかがい合っている。

「あの……」

 先に朝比奈さんが視線を逸らす。

「………」

 長門はじっと朝比奈さんを見つめ続けている。

「………」

 朝比奈さんも沈黙する。

 そのまま、そよそよと風が吹いているだけのお見合い場面が延々と続けられた。

「もう!」

 ハルヒがなぜかキレた。

「そんなんじゃバトルにならないでしょー」

 立ってるだけだからな。

 拳銃からメガホンに持ちかえたハルヒは、つかつかと朝比奈さんに近寄ると、自分が結った柔らかそうな栗色の髪をぽこんと叩いた。

「みくるちゃん、いい? あのね、いくら可愛いからってそんだけで安心してちゃダメよ。可愛いだけの女の子なんて他にも腐るほどいるのよ? 安穏としてたらすぐに下から若いのがどんどん出てきて追い越されちゃうの」

 何が言いたいんだ?

 頭を押さえる朝比奈さんに、ハルヒは言い聞かせるように言った。

「だからね、みくるちゃん。目からビームくらい出しなさい!」

「ふえっ!?」

 朝比奈さんは驚きに目を見開いて、

「無理ですっ!」

「その色違いの左目はこのためのものなのよ。無意味に青くしてるんじゃないのよ。凄い力を秘めているっていう設定なの。つまりそれがビームなの。ミクルビームよ。それを出すの」

「で、出ませんっ!」

「気合いで出せ!」

 及び腰になる朝比奈さんにヘッドロックをかまし、ハルヒは黄色メガホンで旋毛をぽこぽこ叩いている。

 いたいいたいと泣き声を上げる朝比奈さんがあんまりにもあんまりだ。俺は、レフ板を置いて面白そうにその光景を眺めている古泉にカメラを渡し、ハルヒの首根っこをつかんだ。

「やめろ、バカ」

 小柄なウェイトレスから暴虐超監督を引きはがす。

「まともな人間が目からビームなんか出すかい。アホか」

 両手で頭を押さえている朝比奈さんを見ろ、可哀想に涙ぐんでいるじゃないか。その通り、つぶらな瞳から出るものと言えば真珠の涙くらいなのだ。

「ふん」

 襟首をつかまれたまま、ハルヒは横を向いて鼻を鳴らす。

「解ってるわよ、それくらい」

 俺は手を離す。ハルヒはメガホンで首筋を叩きながら、

「ビーム出すくらいの気合いを入れろって言いたかっただけよ。主演とは思えない覇気のなさだったから。あんたも冗談の解らない奴ね」

 お前の冗談は冗談にならないから困るんだ。朝比奈さんに本当にビーム発射機能があったらどうするんだ。

 ……ありませんよね?

 不安になって朝比奈さんに流し目を向ける。朝比奈さんはオッドアイみないな涙目で、きょとんと俺を見上げた。パチパチ瞬きして小首を傾げる。どうも俺のアイコンタクトは朝比奈さんには通用しないみたいだな。と思っていると、古泉がしゃしゃり出てきてハルヒに諫言した。

「そのへんは撮った後でCG処理するなりして何とかできるでしょう」

 ティッシュの箱を手にした古泉は親切めかした詐欺師的笑みを浮かべ、それを朝比奈さんに手渡して、

「涼宮さんも最初からそのつもりだったのではないですか?」

「そのつもりだったわ」とハルヒ。

 怪しいもんだ、と思う俺。

 朝比奈さんはティッシュペーパーで涙を拭い、ちんと鼻をかんでから、挙動不審な仕草でハルヒを見たり俺を見たり。

 長門は目立ちすぎの黒子みたいな恰好で黙ったまま風にそよがれている。早く陽が暮れないもんかな。光量不足につき撮影続行不可になる時間が待ち遠しいね。

「今のはNG、もっぺん撮り直し」

 ハルヒが言って、朝比奈さんと決めポーズの打ち合わせを始めた。

「ミクルビームっ! って叫びながら手をこうするの」

「ここ、こうですか……?」

「違う、こうよ! それから右目は閉じといて」

 左手で作ったVサインを左目の横に置いてウインクすると目からビームが出る仕組みらしい。

「みくるちゃん、言ってみて」

「……ミミミ、ミクルビームっ」

「もっと大きな声で!」

「ミクルビームっ!」

「照れずに大声でっ!」

「ひ……ミクルビー……ムっ!」

「腹から声を出せっ!」

 何のコントだ。

 真っ赤になって絶叫する朝比奈さんに腹式発声を強いるハルヒ。広場をちょろついていたヒマなガキどもや家族連れたちの目が痛い。見せ物ではないと言いたいところだが、俺たちの撮っているのは映画らしいのでまさしく見せ物だ。このメイキングシーンを撮っておくだけでいいんじゃないかね。ハルヒ式ハッピーストーリーがどれほどのものかは知らんが、朝比奈みくるプロモとしてはもう充分すぎるほどだぞ。

 やがて朝比奈さんと長門はさっきのバッテンマークの上に立ち、古泉は脇でレフ板を持ってバンザイ続行、その横でハルヒがふんぞり返り、俺は長門の背後に回って黒い背中から二メートルくらい離れ、その肩越しに朝比奈さんを撮ることになった。これもハルヒ指示によるカメラアングルだ。

 突然の変化はこの直後に起こった。

「はい、そこでビーム!」

 ハルヒのかけ声に、朝比奈さんは自信なさそうにポーズを取った。

「みっ……ミクルビーム!」

 ムリヤリなカメラ目線でヤケ気味のファルセット、可愛く叫んでへたっぴなウインク。

 その瞬間、俺の覗いているカメラのファインダーが突然真っ暗になった。

「あ?」

 何が起こったのか理解が追いつかなかった。カメラの故障かと思ったほどだ。俺はハンディビデオを目から外して、目の前に立つ不吉な衣装のトンガリ帽子を見た。

「………」

 長門が俺の目前で握り拳を作っている。レンズを覆って暗くしたのは長門の右手だ。

「え?」とハルヒも口を開け放している。

 ハルヒの描いた×マークは俺の二メートルほど前方にある。ついさっきまで確かに長門はそこに立っていた。ハルヒのアクションコールで朝比奈さんが声を上げた時、ビデオカメラには長門の黒い後ろ姿もちゃんと写っていた。それから一秒もしないうちにななぜか長門は、俺の顔の前で何かを握るように片腕を上げて静止している。ワープしたとしか説明できない。

「あれっ」とハルヒも言った。「有希、いつの間にそんな所にいるの?」

 長門は答えず、ビー玉みたいな瞳を朝比奈さんに向けていた。その朝比奈さんも目を見開いて驚愕の表情、そしてゆっくりと瞬きを----。

 再び長門の手が光速くらいのスピードで動いた。まるで飛んでいる蚊を捕まえるように空中をつかむ。持っていたはずの星付きアンテナ棒はどこだ?

 ん? 今なんか微かに変な音がしたぞ。火の点いたマッチをどぶ川に落としたような、そんな音だ。

「えっ……?」

 戸惑っているような声を出したのは朝比奈さんだ。状況が解らないのだろう。俺だって解らない。長門はいったい何をしているんだ?

 朝比奈さんは救いを求めるように、視線を横に向け----不自然な音が古泉のほうから響いた。

 聞き違いを疑いようのない、パンクしたタイヤから空気の抜けるような……。

 古泉が頭の上で持っていたレフ板----発泡スチロールの板に白い厚紙を張っただけのチープなシロモノだ----が、斜めに切断されていた。珍しく絶句する古泉が、ぽろりと落下するレフ板の上辺を眺めて茫然としている。だが、そんな貴重な光景をゆっくり眺めている余裕は、俺にもなかった。

 長門が動いていた。長門だけが。

 黒い影が地を蹴って、ふわりと舞い降りた先は朝比奈さんのすぐ前だ。長門はマントの下から伸ばした右手で、朝比奈さんの顔面を鷲づかみにした。細っこい指が朝比奈さんの目を覆うように、こめかみに指をめり込ませている。

「あぎゃっ……ななな長門さ……!」

 構わず長門は大外がりをかけて主演ウェイトレスを地面に押し倒した。豊かな胸の上に馬乗りになる死神装束。朝比奈さんは悲鳴を上げて、アイアンクローをかけている長門の細腕を握りかえした。

「ひえええっ!」

 やっと俺は我に返った。なんだなんだ? 長門が瞬間移動して撮影を妨害したかと思うと、古泉のレフ板が二つに割れ、宇宙人が未来人に襲いかかっている。ハルヒはいつの間にこんな演出を二人に伝えた----わけでもなさそうだ。監督も俺と古泉と一緒になって唖然としていたからだ。それは二人の演技があまりに真に迫っていたからではないだろう。

「……カットカット!」

 ハルヒは腰を浮かしてメガホンを椅子に叩きつけた。

「ちょっと、有希、何してんの? そんなの予定にないわよ」

 白い太ももの大半を露わにしてバタついている朝比奈さんの上で、長門は黙々として乗っかって顔をつかんだままだ。

 小声で呟くような声を聞いて俺がそっちを向くと、古泉がレフ板の切り口を見つめて唇を歪めていた。その目が俺に気付いて、奇妙な目配せをしやがった。何の真似だ、それは。

 いや、古泉の意味ありげな目線などどうでもいい。今はなぜか総合格闘技を始めた長門をなんとかしないと。俺はカメラを携えて組んず解れつしているウェイトレスと黒ずくめの魔法使いに駆け寄った。

「何をやってるんだ、おい長門」

 鍔広帽子がゆっくりとこちらを向いた。長門のブラックホールみたいに黒い瞳が俺を見上げ、小さな唇が開きかけ、

「………」

 何か言うのかという俺の期待は封じられた。長門は話す内容にふさわしい言語がないとでも言うような顔で無言のままに唇を閉ざし、ゆるゆるとマウントポジションを解いて立ち上がった。黒マントの右肩が動き、衣装の下に手が引っ込む。

「ひぃ……ひぇぇ……」

 ひたすら脅えているのは仰向けに転がっている朝比奈さんだ。そりゃ恐いと思うね。長門が例の無表情で迫ってきて、地面に引き倒されたら俺だってビビる。なんせ長門の今の恰好はあまり夜道の曲がり角とかで鉢合わせしたくない黒魔道士だ。気の弱い幼稚園児なら失禁は免れそうにない。

「………」

 ぶかぶかのトンガリ帽子を目深にかぶった長門は微動だにせず、真っ直ぐ俺を見つめていた。

 俺はがくがくする朝比奈さんの肩を支えて起きあがるのにカを貸した。泣き虫が目に止まったと見えて、朝比奈さんは鳴咽を漏らしながらポロポロと涙をこぼしていた。長い睫毛に縁取られた瞳が濡れたおかげでさらなる魅力度アップに……あれ?

「もう、何やってんのよ二人とも。台本にないことしないでちょうだい」

 台本も書いていない監督がやって来て、俺と同じく「あれっ?」と怪訝な声を上げた。

「みくるちゃん、コンタクトどうしたの?」

「えっ……」

 俺の腕にしがみついて泣いていた朝比奈さんは、指を左目の下に当てて、

「あれっ?」

 三人で不思議がっていてもしかたがない。こういうときは事態を把握していそうな奴に訊くに限る。

「長門、朝比奈さんのカラーコンタクト知らないか?」

「しらない」

 長門は平然と答えた。嘘だと思う。

「さっきの格闘で落っこちたのかしら」

 ハルヒは見当違いのことを言って地面を見回している。

「キョン、あんたも探しなさいよ。安いもんじゃないのよ。けっこうしたんだから」

 這いまわるハルヒに付き合って、俺も四つん這いになった。無駄だと悟ってもいたがな。朝比奈さんの上から退いた長門の右手が、そっと何かをつかんで引っ込められたのを俺は見たように思っていた。そして、組み敷いていた長門がつかんでいたのは朝比奈さんの顔面だ。

「なんでどこにもないのよ」

 口を尖らせているハルヒには悪いが、俺は真面目に探していなかった。振り返って見ると、古泉は分離したレフ板の切り口を合わせたり離したりして遊んでいる。お前も探すフリをしろよ。

 古泉は微笑んで、

「風で飛んでいったのかもしれませんね。軽いものですから」

 いい加減なことを言い、俺にレフ板の残骸を見せつけた。起きあがったハルヒがそれを奪い取る。

「どうしたの? 割れちゃったの? ふーん、安物だったのね。ま、うちの写真部だからそんなもんよね。古泉くん、裏からガムテープでも貼っといてちょうだい」

 こともなげに言って、ぽかんとした表情をして涙を止めた朝比奈さんに、ワニみたいな目を向けた。

「カラーコンタクトがないと映像が繋がんないなあ。どうしようかな」

 考えているらしい。やがて頭に豆電球くらいの光が走ったのか、ハルヒは指を鳴らした。

「そだ。目の色が変わるのは変身後にしましょう!」

「へ、へんしん?」と朝比奈さん。

「そうよー、ふだんからそんなコスチューム着てるのはどうやってもリアリティがないもんね。その衣装は変身後の扮装で、いつもはもっとまともな恰好をしてるのよ」

 フィクションにリアリティを求める奴のほうがどうかしていると思うが、ハルヒの意見をその通りに聞くと、コスプレウェイトレスがマトモでないことを自ら露呈したも同じである。朝比奈さんも大きくうんうんと首を前後に振った。

「い、いいですね、それ。まともな恰好をしたいです、すごく」

「というわけで、みくるちゃんの普段着はバニーガール!」

「ええっ!? ななななんでっ?」

「だってそれしか持ってきてないもん。本当の普段着じゃあ画面がちっとも華やかでないわ。待って! 設定なら今考えたから。つまりね、みくるちゃんの通常形態は商店街の客引き。バニーガールなのよ。危機を感知するとすかさず変身! 戦うウェイトレスになるってわけ。どう、完壁でしょ」

 さっきリアリティがどうとか言ってなかったか?

「じゃあ、さっそく」

 ハルヒは口を三日月の形にして危険な微笑、朝比奈さんの腕を背中に回して手首を固定すると、「あの、ちょっと、いたたた」と小さな悲鳴を上げ続けるウェイトレスを森の中に連れ込んでいった。

 うーん。

 ……まあ、それはいいんだ。朝比奈さんには合掌するしかないが、ハルヒが消えてくれたのは好都合だ。あなたの犠牲は無駄にしません。バニーも楽しみです。

 ……まあ、それもいいんだ。俺は長門に問いたださねばならないことがある。

「それで、あれは何のアドリブだったんだ」

 無感動に長門はちょんとトンガリ帽子の鍔を左手で押さえた。顔の大部分を影の中に仕舞い込みながら、ゆるりと右手を出してくる。制服の上からすっぽり被っているだけなので、袖はセーラー服のものだ。長門は右手の人達し指だけを上向けていた。その指に青いコンタクトレンズが載っている。

 やっぱりお前がスっていたか。

「これ」

 長門はそう呟き、

「レーザー」

と言って、口をつぐんだ。

 ………。

 なあ、いつも思うんだがな、お前の説明は必要最小限にも達していないんだよ。せめて十秒くらいは話してくれ。

 長門は自分の指先を見つめて、

「高い指向性を持つ不可視帯域のコヒーレント光」

 非常にゆっくり喋ってくれた。なるほど、高いシコウセイを持つフカシタイ……。

 すまないが、もっと解らなくなった。

「レーザー?」と俺。

「そう」と長門。

「それは驚きですね」と古泉。

 古泉はコンタクトを指でつまみ上げ、光に透かすように観察して、

「普通のレンズにしか見えませんが」

 いかにも感心したみたいなことを言っている。俺は何を驚いていいのかが解らないから、当然感心もできない。

「どういうこったよ」

 古泉はふっと微笑んで言った。

「右の掌を見せてくれませんか。いえ、あなたではなく、長門さんですよ」

 黒衣の少女は俺に視線を送り込み、まるで許可を待っているように見えたから俺はうなずいた。それを確認してから、長門は人差し指以外握りこんでいた他四本も広げ、そして俺は息を飲んだ。

「………」

 俺たちの三人の間に沈黙の風が一陣ほど舞った。俺は寒気を覚えて、やっと悟った。そういうことか。

 長門の簡単な手相の右掌、そこに黒く焦げた小さな穴が何個か開いている。赤く灼けた火箸を突き刺したならこんな感じの穴が開くんじゃないだろうか。五つほどあった。

「シールドしそこねた」

 そんな淡々と言うなよ。見るからに痛そうだぞ。

「とても強力。とっさのこと」

「レーザー光線が朝比奈さんの左目から放出されたんですね?」と古泉。

「そう」

 そう、じゃねえだろ。古泉もだ。状況把握以外にすることがあるだろうが。

「すぐに修正する」

 その言葉通り、俺たちが覗き込んでいる間に、長門の手に開いた穴は極めて迅速に塞がれて元の白い肌に戻った。

「なんてことだ」

 俺は呻くしかない。

「朝比奈さんは、マジで目からビームを出したのか」

「粒子加速砲ではない。凝集光」

 どっちでもいい。レーザーでもメーサーでもマーカライトファーブでも素人目には似たようなもんだ。荷電粒子砲と反陽子砲の違いだって知るものか。怪獣に効果があれば裏付けなんかいらん。

 ここで問題とすべきは、怪獣も出てきてないのに朝比奈さんが熱線を出しちまったということだろう。

「熱線ではない。フォトンレーザー」

 だからどっちでもいいんだよ、そんな科学考証は。

 長門は黙り込み、右手を仕舞った。俺は頭を抱え、古泉はコンタクトを指で弾きつつ、

「これは朝比奈さんに元から備わっていた機能なのでしょうか?」

「ない」長門はあっさり否定、「現在の朝比奈みくるは通常人類であり、それ単体では一般人と何ら変化はない」

「このカラーコンタクトに何か仕掛けがあるのでは?」古泉が食い下がるが、

「ない。ただの装飾品」

 そうだろうな。コンタクトを持ってきたのはハルヒなわけだしな。と言うか、それが最大の問題なんだよな。誰でもない、あいつが持ってきた、というこの事実が。

 極めつけなこともある。もし長門が防いでくれなかったら、朝比奈さんの目から出たレーザー光線はビデオカメラのレンズを通過して、俺の目玉も貫通し、その他色んなものを焼いたあげく後頭部から出て行ったことだろう。特に脳味噌が焦げ臭くなったであろうことは間違いない。やばいだろそれは。

 にしても俺は長門に命を救われてばかりだな。立つ瀬がない。

「となると」

 古泉は顎を撫でながら笑みを苦み走らせる。

「これは涼宮さんの仕業ですね。彼女がミクルビームがあって欲しいと思ったから、現実がそのように変化したと、そういうことです」

「そう」

 保証する長門はあくまで感情無しだ。俺はそう落ち着いてはいられない。

「待てって。そのコンタクトには何の魔法もかかっていないんだろ? ハルヒがそう願ったとして、なんで殺人光線が出るんだよ」

「魔法や未知の科学技術などを涼宮さんは必要としませんよ。彼女が『在る』と思えば、それは『在る』ことになるのですから」

 そんなクソ理屈で俺が納得すると思うなよ。

「ハルヒは本気でビーム撃てとか言ってるわけじゃねえだろ。それは奴の映画の中での設定だ。あいつだって言ったじゃねえか、冗談だってさ」

「そうですね」

 古泉もうなずいた。そんな簡単に反論を受け入れるな。俺の言葉が続かんだろ。

「涼宮さんが常識人なのは我々も知るところです。ですが彼女にこの世の常識が通用しないのもまた事実です。今回も何か特異な現象が働いているのでしょう。それは……おっと、戻って来られましたよ。この話はまた後ほどに」

 さり気なく、古泉はコンタクトをシャツの胸ボケットに滑り込ませた。

 

 困ったもんだった。

 世界の破滅を何かと戦ってトンチと機転で防ぐとか、問答無用でとにかく悪い奴を叩きのめすとか、こぢんまりした世界観の中で制限付き超能力合戦を真面目にするとか、その合間に適当な感情ドラマが挿入されるとか----。

 実のところ、そんなののほうが俺は好みなのだ。どうせならそういうハナっから嘘くさい設定の物語に巻き込まれていたい。現実から乖離していればいるほどいい。

 なのに今の俺といったらどうだ。一人の同級生に声をかけてしまったことが災いし、なんだか全然設定の解らない奴らに囲まれて、なんだか全然意味の解らないことばかりをやっている。目からビーム? なんだそりゃ、何の意味がある?

 考えてみれば、だいたい朝比奈長門古泉の謎設定トリオからして今一つ正体が明らかでない。全員が全員、好き勝手な自己紹介をしてくれたが、あんなものを信じるには俺の頭はまともすぎる。いくら信じざるを得ないような体験を伴っていたとしてもだ。物事には程度ってものかあり、俺はちゃんと自分の物差しを持っている。目盛りは少々あやしくなってきたが。

 本人たちの主張によれば、まず朝比奈さんは未来から来た未来人である。西暦何年から来たのか教えてもらっていないが、来た理由だけは知ってる。涼宮ハルヒの観察だ。

 長門は地球外生命体に作られたヒューマノイド・インターフェースである。「何それ?」と言われても困る。俺だってそう思うのだからフィフティフィフティだろ。何でまたそんなのが地球にいるのかというと、情報統合思念体とかいう長門の親玉がどうも涼宮ハルヒに興味があるからのようだ。

 そんで古泉は『機関』という謎組織から派遣された超能力者である。こいつが転校してきたのはその任務の一つであって、役割は涼宮ハルヒの監視である。

 そして肝心のハルヒだが、これだけ異様なプロフィールを持つ三人がかりでも、未だに存在自体がなんだかよく解らない奴なのである。朝比奈さんによると『時空の歪みの原因』で、長門は『自律進化の可能性』と言い、古泉はシンプルかつ大仰にも『神』と呼んでいた。

 ホントもう、みんなご苦労さんと言いたい。

 苦労ついでに早くハルヒをどうにかしてやってくれ。でないとこの女団長はいつまで経っても謎のまま、中性子星みたいな引力で俺を重力圏に搦め捕ったままだろうからな。今はまだいいさ、でもな、十年後くらいを考えてみろよ。その時になってもハルヒがこのハルヒのままだったらどうするんだ? かなリイタイことになるぜ。部室を不法占拠したり、街中を鵜の目鷹の目で練り歩いたり、無意味に騒いだり怒ったり情緒不安定になったりが許されるのはギリギリ十代までだ。いい歳こいてまでやるもんじゃない。そんなのただの社会不適合者だ。そうなっても朝比奈さんや古泉や長門はハルヒに付き合って何かしてやるつもりなのか?

 俺なら先に謝っておこう。すまん、そんなつもりは毛頭ない。なぜなら時間が許さないからさ。人生のリセットボタンは手軽に落ちてたりはしないし、セーブポイントがどこかの路地裏にマーキングされているわけもないんだぜ。

 ハルヒが時間を歪めてたり情報を爆発させていたり世界を壊したり創ったりしているのかどうかなんて関係ない。俺は俺で、こいつはこいつだ。いつまでも子供のママゴト遊びに付き合ってはいられない。たとえそうしていたくても帰宅時間は確実に来るんだ。それが何年、何十年先のことだろうと、確実にな。

「いつまでゴネてるのよ! もうとっくに見られ慣れしてるでしょ?」

 木々の間から、ハルヒが朝比奈さんを運んでくるのが見えた。

「女優らしくしなさい。潔い脱ぎっぷりはブルーリボン新人賞への早道なのよ! 今回の撮影では脱いでもらうことはないけどね。出し惜しみはしとかないと」

 仕留めたウサギを持ってくる猟犬みたいな勢いだ。ハルヒは土の地面を歩きにくそうにしているハイヒールのバニー朝比奈さんを伴って、くしゃみが出そうなくらいに明るい笑顔で戻ってくる。

「この映画が成功を収めたら、その収益でみんなを温泉に連れて行ってあげるわ。慰安旅行よ、慰安旅行。みくるちゃんも行きたいでしょ」

 だが……、まあ、そうだな。それまでは俺も付き合っていてやるよ。俺が混ざりたかったのは、お前が撮っている映画の設定みたいな話の中だったんだけどな。古泉イツキ的ポジションだったらなお万全なのだが、俺にはどうやら秘められた力はないみたいだしさ。

 ここでおとなしく、お前のツッコミ役をやらせてもらうさ。

 あと何年かしたら「そう言えばあんときはそんなこともあったなあ」なんて、笑って誰かに話したり出来るようになるだろう。

 

 たぶん。

 

 バニーガール朝比奈さんは、ウェイトレス以上に恥ずかしそうに歩いていた。ハルヒだけが得意満面だ。お前が得意がってどうするんだ。

 俺はビデオカメラのピントを調整するふりをして、朝比奈さんの胸元をアップにした。ほらアレだ、一応確認しとかないと。

 朝比奈さんの白い左の胸元には、小さなホクロがあって、それはよーく見ると星の形をしている。確認終了、この人は確かに俺の朝比奈さんだ。ニセモノじゃない。

「何してんの?」

 レンズの前に、ぬうと現れたのはハルヒの顔だ。

「あたしの指示以外のものは撮っちゃだめよ。これはあんたのホームビデオじゃないんだからねっ」

 解ってるさ。それを証拠に録画ボタンは押していない。眺めてただけだ。

「はいはいはいみんな注目! そして用意して! これからみくるちゃんの日常風景を撮るからね。みくるちゃんは自然な感じでそこらを歩いてて。それをカメラが追うわけ」

 日常でバニーガールやっててこんな森林公園に出没する少女ってのはいったい何なんだ。

「いいのよ、そんなの。この映画の中ではそれが普通なの。フィクションに現実の尺度を当てはめるほうがおかしいの!」

 それは俺がお前にこそ言いたいセリフだぞ。お前の場合は現実にフィクションの尺度を持ち込んでいるから逆ではあるが。

 その後、朝比奈さんは自分が目から殺人レーザーを放ったとは知らず、ハルヒの演技指導のもと、公園の花を摘んだり、枯葉をつまんで吐息で飛ばしたり、芝生の上で跳んだり跳ねたりを繰り返しては、どんどんへロへロになっていった。

 トドメはハルヒの、

「うーん。山を背景にするとどうしても浮いちゃうわね。バニーガールで山歩きしたりは、さすがにしないわよね。街に行きましょう!」

 自分が先だって言ったセリフをあっさり覆した一言で、これで再びのバス移動が決定した。

 

 今のところ照明係しかしていない主演男優古泉は、ガムテ補強したレフ板と俺が押しつけた荷物半分を脇に抱えて吊革につかまっていた。

 俺もその横に立っていて、さらにその横に長門が黒い影となっている。ガラすきの座席に座っているのはハルヒと朝比奈さんだけだ。俺からカメラを奪い取ったハルヒは、二人掛けの椅子に腰掛けて真横から朝比奈さんを撮っていた。

 朝比奈さんはずっとうつむいて、ハルヒの問いかけにボソボソと何か答えている。どうやら監督による主演女優インタビューの体らしかった。

 バスは山道をうねくりながら住宅地へと降りていき、俺は運転手がルームミラーばかりを見ていることがないように心の中で手を合わせる。ちゃんと前を向いて運転しててくれよな。

 その祈りが通じたか、バスは無事に終点の駅前まで辿り着いた。その頃には車内にも乗客がわんさといて、ほぼ全員の視線がハルヒと朝比奈さんと長門に向いていた。ぴょこぴょこするウサ耳と、背後からは白い肩しか見えないお姿が凶悪だ。どうも朝比奈バニーバージョンは北高のみならず全市内にその噂を広めそうな気配だった。

 ハルヒの狙いがそれかもな。「昨日、バスに別嬪のバニーガールが乗っててさ」「あ、俺も見たよ」「なんだい、あれ?」「なんか北高にあるSOS団とかにいるらしい」「SOS団?」「そうSOS団」「SOS団ね、覚えておこう」とか、そんな展開になることを期待しているんじゃなかろうな。朝比奈さんはSOS団の広告塔じゃないんだぜ。では何かと言えば決まってる、お茶くみ及び俺の精神安定担当だ。本人だってそう望んでいると思う。きっと。

 無論、ハルヒにとっては誰かの望みなんか馬耳東風以前に届きもしないのである。自分に不都合な他人の言葉は、ハルヒ驚異のメカニズムによって鼓膜の外で弾かれるからだ。浸透圧の関係かもしれないな。この仕組みを解明できたらノーベル賞審査委員会が生物学賞の審査対象くらいにはしてくれるかもしれん。誰かやってみないか?(なげやりに言うのがコツだ)

 

 この日は陽が落ちるまで、朝比奈さんはバニーガールであり続けた。やったことと言えば、そこら中をこの姿で歩き回っただけである。これではいつもの不思議探索パトロールと変わりがないが、人目を気にするぶん余計に疲れるし、いつ警察を呼ばれるかとヒヤヒヤもんだ。ハルヒに撮影許可とかいう概念はないようで、どこで何を撮ろうがそれはハルヒの自由であり、その自由はインノケンティウス三世時代のローマ教皇権のように侵しがたいものなのである----のだそうだ。自由の意味をはき違えている。

「今日はこんなもんね」

 ようやくハルヒが仕事を終えた顔をしてくれて、長門を除く俺たちは安堵の表情を作った。長い一日だった。日曜の明日はゆっくり休みたいね。

「じゃあ、また明日ね。集合時間と場所は今日と同じでいいわ」

 あっけらと言う奴だ。振り替え休日を用意してくれるんだろうな。

「何それ。撮影が押しているのよ? 悠長に休んでいるヒマはないの! 文化祭が終わってから思う存分休めばいいじゃないの。それまではカレンダーに赤い日付はないと思いなさい!」

 撮影二日目で早くも時間配分を間違えているのも何とかならないのか。押しだって? つーことは、今日俺が撮った何時間もの映像はほとんど使われないのか? それともハルヒは大河ドラマを撮ってるつもりででもいるのか? 帯番組じゃないんだぜ。一発ネタの文化祭自主映画なのによ。

 しかしハルヒは何一つ気に病むことはないようであった。俺にすべての荷物を押しつけると、自分は腕章を携帯するだけの極上の笑みを振りまき、

「それじゃあ明日ね! この映画は絶対成功させるのよ。いいえ、あたしが監督やってる以上、成功はもう約束されてるの。後はあなたたちのがんばりにかかってるのね。時間通りに来るのよ。来ない人は私刑の上に死刑だからねっ!」

 そんなことを宣告し、マリリン・マンソンの『ロック・イズ・デッド』を口ずさみながら歩き去った。

「朝比奈さんには僕から伝えておきますよ」

 帰り際、古泉が耳元で囁いた。朝比奈さんは古泉のブレザーを頭から被っている。これが冬ならコートでも持参していたのに、残念ながら季節は晩夏あたりで停滞していた。俺は足元に積まれた荷物の数々をうんざりと眺めて、

「何を伝えるって?」

「例のレーザーのことをですよ。目の色さえ変えなければ変な光線も出ません。涼宮さんの法則ではそうなっているようですから、カラーコンタクトを入れなけれぱいいのです」

 レフ板持ちの主役野郎は、俺に保険の外交員みたいな業務用スマイルを見せた。

「念のため、一つ保険を作っておくとしましょうか。彼女なら協力してくれるでしょう。何にせよ、ビームは危険ですので」

 古泉が歩み寄ったのは、カラスを擬人化したような黒衣姿の長門へだった。

 

 大荷物を抱えて自宅に戻った俺を、妹が変な生き物を見る目で出迎えてくれた。キョンとかいうマヌケな俺のニックネームを周囲に広める元凶となったこの小学生は、「それビデオカメラ? わあ撮って撮って」などとほざいたが、俺は「ドアホ」と答えて自室に引っ込んだ。

 何にせよ、俺は疲れ果てていて、これ以上似合わないカメラマン行為をする意欲はとっくに蒸散している。朝比奈さんならともかく、何が悲しくて妹なんぞをビデオ映像として記録に残さねばならんのだ。ちっとも楽しかねえ。

 俺は部屋にバッグやらリュックやら紙袋を置くと、ベッドに倒れ込み、晩飯を食わせようとするオフクロの使命を受けた妹がエルボースマッシュで起こしに来るまで、つかの間の安らぎを得た。

 

第四章

 

 翌日再び飽きもせず、俺たちは駅前に集まった。ただ昨日と違うのは人員が入れ替わっている点だ。SOS団以外の人間三名ほどが新顔として俺の前に立っている。ハルヒ言うところのザコキャラたちである。

「おいキョン、話が違うぞ」

 抗議するように言い出したのは谷口だ。

「麗しの朝比奈さんはどこだ? あの方が出迎えてくれるって言うから来たんだぜ。いねえじゃねえか」

 その通り、朝比奈さんは定刻になっても来なかった。たぶん自宅の部屋で出勤拒否をしているに違いない。昨日も一昨日も散々な目にあっていたからな。

「俺は目の保養に来たんだぞ。それがどうだ。今日はまだ涼宮の逆ギレした顔しか見てねえぞ。詐欺だ」

 うるさいな。長門でも眺めてりゃいいじゃないか。

「それにしても長門さん、やけに似合ってるなあ」

 のんびりと言うのは国木田だ。谷口に続くザコニ号である。昨夜、俺が風呂に入ってたらハルヒから電話がかかってきた。妹から受話器を受け取り、頭を洗いながら聞いたのが、

「谷口のアホと、もう一人……名前が思い出せないけど、あんたの友達よ。その二人を明日連れてきなさい。ザコキャラで使うから」

 だけで切りやがった。挨拶の一つくらいしやがれってんだ。ものを頼むときは命令調でなくて哀願調で言ってくれ。朝比奈さんみたいにな。

 風呂上がり、さて谷口と国木田の休日予定はどうなんだろうと思いつつ携帯にかけると、このヒマな端役二人はあっさり承諾の返事をよこした。お前ら普段、休みの日に何してんだ?

 男二人だけでは絵にならないと思ったのか、ハルヒはもう一人のエキストラを用意していた。そのお方は鍔広帽子を目深に被る長門の顔を、御辞儀するように覗き込んでいる。長い髪の毛をさらりと垂らし、彼女は長身を伸ばして俺に笑顔を降り注いだ。

「キョンくんっ。みくるどうしたのっ?」

 元気よくおっしゃるその女性は、鶴屋さんと言って、朝比奈さんのクラスメイトだ。朝比奈さん曰く「この時代で出来たお友達」だそうだから、この人には変なプロフはないと思う。六月頃にハルヒが「草野球大会に出る」と言い出したときの助っ人として朝比奈さんが連れてきた一般的な高校二年生女子である。そういやそん時にも谷口と国木田がいたな。ついでに俺の妹も。

 鶴屋さんは健康的な白い歯を惜しげもなく見せつけながら、

「それでさっ、何やんのっ? ヒマなら来てって言われたから来たけどさー。涼宮さんの腕に付いてる腕章は何て読むのあれ? そのハンディビデオをどうするの? 有希ちゃんのあの恰好なに?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。俺が答えようと唇を開きかけた時には、鶴屋さんは古泉の前に移動しており、

「わお、一樹くんっ! 今日もいい男だねっ」

 せわしない人だった。

 しかしその鶴屋さんと元気さではハルヒだってタメを張れる。よくまあ朝からこんな大声が出せるなという声で携帯電話とケンカしている。

「何言ってんのよ! あなたは主演なのっ! この映画の成功は三十%あなたにかかってるの! 七割はあたしの才能だけどね。それはいいの! なんですって? お腹痛い? バカっ! そんなイイワケが通用するのは小学校までよ! すぐ来なさい三十秒で!」

 どうやら朝比奈さんは突発的ヒキコモリ症候群にかかっているようだ。是非もない。今日もあんな目にあうと思ったら精神的腹痛に罹患しても不思議はない。気の小さそうな人だからな。

「もうっー!」

 憤然と携帯を切ると、ハルヒはテーブルマナーのなっていない子供を叱りつける寸前の執事頭のような目つきをした。

「お仕置きが必要だわ!」

 そう言ってやるな。朝比奈さんはお前と違ってひっそりと生活したいんだよ。せめて学校のない日曜くらいは、と俺だって思うぜ。

 もちろんハルヒは主演女優のワガママなど聞いてやったりはしないのである。ギャラを払ってるわけでもないのに主役に厳しい女流監督は、

「あたしが迎えに行ってくるから、ちょっとその荷物貸して」

 衣装の入ったクリアバッグをひったくると、タクシー乗り場までダッシュした。そして停まっていたタクシーの窓をガンガン叩いてドアを開けさせ、飛び乗ったあげくにどこかへと走り去ってしまった。

 そういや俺は朝比奈さんがどこに住んでるのか知らないな。長門の家には何回か訪問したことはあるが……。

「朝比奈さんの気持ちもよく解りますよ」

 いつの間にか俺の隣にいた古泉だった。鶴屋さんは、俺のクラスのマヌケコンビに「やあっひさしぶりっ」とか言って、奴らにペコペコ頭を下げさせている。それを微笑んで眺めながら古泉は、

「なんせこのまま行くと本物の変身ヒロインになりそうな雰囲気ですからね。いくら何でもレーザー光線はやりすぎですよ」

「やりすぎでないものと言えば何なんだ」

「そうですねえ。口から火を噴くぐらいでしたら仕込みもしやすいのですが……」

 朝比奈さんは怪獣でも芸人でも悪役レスラーでもないんだ。あの愛らしい唇に火傷でもさせてしまったらどうする。責任の取りようがない。まさかお前、率先して責任を取ろうとか考えているんじゃねえだろうな。

「いえ。僕が責任を感じるのだとしたら、それはあの〈神人〉の暴走を許してしまった時くらいですよ。幸いにしてそのような事態に陥ったことは……ああ、一回ありましたっけね。あの時はありがとうございます。あなたのおかげで何とかなりました」

 半年くらい前にハルヒのおかげでクルクルパーになりかけた世界は、俺の粉骨砕身たる努力と精神的消耗の果てに命脈を保つことになったのだった。各国首脳は俺に感謝状の一枚でも送っておかしくないと思うのだが、まだどこの国からも大使館員は来ていない。まあ、来ても困るだけだから求めているわけでもないけどな。前回俺のもらった報酬は、涙目の朝比奈さんが抱きついてくれたくらいのもので、よく考えたらもはや俺はそれで充分だ。古泉に礼を言われても別に嬉しかない。

「その朝比奈みくるですが」

 呼び捨てにするな、不愉快だ。

「失礼。朝比奈さんですけどね、とりあえず怪光線を出すことは何とか回避できそうです」

 どうやってだ? カラーコンタクトの予備をハルヒが用意していないとでも楽観視しているのか?

「いえ、それは折り込み済みですよ。長門さんに協力してもらいました」

 俺は駅の売店を見つめたまま凝固しているベタ塗り娘へと目を遣って、また古泉に戻した。

「朝比奈さんに何をした?」

「そんなに目くじらを立てなくとも。レーザー照射をなくしただけです。僕もよく知りません。長門さんは他のTFEI端末と違って全然喋ってくれませんからね。僕は危険値をゼロにするよう依頼しただけです」

「TFEIって何だ?」

「我々が勝手に付けてる略語です。知らなければならないものでもないですよ。ですが、僕が思うに長門さんは『彼ら』の中でも一際異彩を放っているような気がしますね。彼女には単なるインターフェース以外に何か役割があるのではないかと、僕は考えてもいます」

 あの無口な読書娘にハルヒを観察する以外の何があるってんだ。まだ朝倉涼子のほうが消えて惜しまれる存在だったぜ。俺は惜しんでなどいないがな。

 

 待つこと三十分、ハルヒを乗せたタクシーが戻ってきた。同乗しているのはウェイトレス朝比奈さんであり、昨日に続いて暗く沈んだお顔をしていらっしゃる。ハルヒは運転手から領収書をもらっていた。タクシー代を経費で落とすつもりかもしれない。

 それを見ながら谷口と国木田が何かを言っていた。

「この前なんだけどよ、夜にコンビニまで行った帰りにタクシーとすれ違ったんだ」

「へーえ」

「でさ、ふと見るとそのタクシーの『空車』のランプが『愛車』に見えちまってよ」

「それはビックリだね」

「けど、見直す前にタクシーは行っちまった。そん時気付いたんだ。俺に今不足しているのは愛なんじゃないかってことに」

「本当に『愛車』って書いてあったんじゃないかなあ。個人タクシーだよ、きっと」

 こんな会話をしているバカニ人に助勢を仰がねばならんとは。人材の払底もここまで来たかという感想を抱かざるを得ない。谷口と国木田がニッケル合金なんだとしたら鶴屋さんはプラチナだ。ロケット花火とアポロ11号くらいの違いは余裕であるね。

「やっぽー。みくるーっ、タクシーで来るなんてキミ誰?」

 鶴屋さんのテンションも高かったが、ライトなマイルドハイテンションだ。ハルヒのイカレたナチュラルハイとは一線を画していると言ってもいいだろう。まだしも鶴屋さんは常識世界の範疇に所属していると言える。

「うわスゲーっ! エロい! みくるそれどこの店でバイトしてんの? 十八歳未満お断りだねっ。あれ? キミまだ十七じゃなかった? あっそか、客じゃないからいいのかっ」

 泣きはらした後の目の色をしている朝比奈さんは両目とも自然色をしている。カラーコンタクトは品切れだったらしい。

 ハルヒは小柄なグラマラスウェイトレスを引っ張り出して、

「仮病を使おうったってそうはいかないんだからね! どんどん撮影するわよ! これからがみくるちゃんの見せ場の本場なの。すべてはSOS団のため! 自己犠牲の精神はいつの世でも聴衆の感動を呼ぶのよ!」

 お前が犠牲になれ。

「この世にヒロインは一人しかいらないわ。本当ならあたしがそうなんだけど、今回は特別に譲ってあげる。少なくとも文化祭が終わるまではね!」

 てめーがヒロインだなんて世界の誰も認めてねえ。

 鶴屋さんは朝比奈さんの肩をぽこぽこと叩いて咳き込ませ、

「これなに? レースクイーン? 何かのキャラ? あ、そうだっ。文化祭の焼きそば喫茶、これでやりなよっ! すんげー客くるよっ!」

 朝比奈さんのヒキコモリ化もよく解るね。つるべ打ちを喰らうのが目に見えているのにマウンドに立ちたがるピッチャーはいない。

 ゆるやかに顔を上げ、朝比奈さんは救いを求める殉教者みたいな目で俺を見て、すぐ逸らした。もわもわとしたため息をゆっくりと漏らして、それでも気丈に微弱な笑みを見せ、ッッッっと俺のほうまで来た。

「遅れてごめんなさい」

 俺は目の前に下げられた朝比奈さんの頭頂部を見ながら、

「いや、俺はかまいませんけど」

「お昼はあたしの奢りですね……」

「いやいや、気にしなくていいですよ」

「昨日はごめんなさい。あたし、知らないうちに光学兵器を発射してたみたいで……」

「いやいやいや、俺は無事でしたし……」

 ささっと窺う。長門は星付きアンテナを持ってぼんやりしている。その俺の様子に、朝比奈さんはただでさえ細くか弱い小声をさらにひそめて、

「噛まれちゃいました」

 左手首をさすっている。

「何にです?」

「長門さんに。なんだか、ナノマシン注入がどうとかって……。でも、目からは何も出なくなったみたい。よかった」

 おかげで俺が輪切りになる恐れもない……か。しかし長門が朝比奈さんに噛みついている風景はなかなか想像しにくい。で、何を注入?

「昨日の夜です。古泉くんと一緒にあたしの家に来て……」

 荷物番をしている古泉はハルヒと何やら話し合っている。ぜひ俺もついていきたかったね。

 こういう時こそ呼べよな俺を。閉鎖空間なんぞに誘われるよりは朝比奈さんお宅訪問のほうが楽しいに決まっている。

「なに内緒話してんのう?」

 鶴屋さんがしなやかな片腕を朝比奈さんの首に絡めた。

「みくる可愛いなあっ。家で飼いたいくらいだね! キョンくん、仲良くしてやってるーっ?」

 それはもう。

 谷口と国木田のへっぽこコンビは、半口開けて朝比奈さんを観賞している。見るな。減ったらどうする。と思っているとハルヒが叫んだ。

「場所が決まったわよ!」

 何の場所だ。

「ロケの」

 そうだったな。ともすれば俺たちの撮っているのが映画だってことを忘れがちになってしまうね。というか忘れたいね。アイドルタレントの安上がりDVD製作現場のほうが言い得て妙のような気もしているし。

「古泉くんの家の近くに大きめの池があるらしいの。とりあえず今日はそこで撮影することから始めましょう!」

 早くもハルヒは「撮影隊一行」と手書きされたビニール製の旗を掲げて歩き出している。俺は、まだ朝比奈さんに失礼な視線を浴びせる谷口と国木田を呼び寄せて、鞄やら袋やらを仲良く分け合った。

 

 三十分くらい徒歩で移動し、着いたところは池の畔だった。丘の中ほどにある、ほぼ住宅街の真ん中である。池と言ってもけっこう広い。冬になれば渡り鳥がやってくるほどのデカさであり、古泉が言うところによるとそろそろ鴨だか雁だかがやってくる頃合いだそうだ。

 池の周囲には鉄製フェンスが施され、侵入禁止を明示している。それ以前に常識問題だろ。躾の問題かもしれない。最近は小学生でもこんな所を遊び場にしようとはしないぜ。よほどのアホを除いてな。

「何してんの、さっさと乗り越えなさいよ」

 こいつがよほどのアホであることを忘れていた。ハルヒは監督自らフェンスに脚をかけ手招きする。朝比奈さんが短いスカートを押さえながら絶望的な顔色に変化して、横にいる鶴屋さんがケラッケラッ笑いながら、

「え? ここで何かすんの? とわっはは! みくる泳ぐの?」

 ぶるぶる首を振り、朝比奈さんは緑色の水面を血の池を見るような目で眺めた。ため息。

「乗り越えるにはちょっとこの柵は背が高いですね。そう思いませんか」

 古泉が語りかけているのは俺ではなくて、長門だった。そいつに日常会話をしむけても無益なだけだぞ。イエスかノーか、それとも理解不能な一人喋りを始めるかだ。

「………」

 しかし長門は黙ったままではあるが珍奇にもリアクションをした。フェンスの柱になっている鉄の棒に指をかけ、チョイと横に引いたのだ。強固なはずの鉄柱はなぜか炎天下で放置していたキャラメルみたいにぐにゃりと曲がり、そのまま曲がった状態で常態を固定した。

 あいかわらず器用な真似をする。余計なことでもあったかもしれないが。俺は慌ててその他大勢へと視線を走らせる。

「へえ、古くなってたんだね」

 国木田が訳知り顔で言い、

「だから俺は何をすればいいんだ。カッパ役か?」

 ぶつぶつと谷口が隙間の空いた鉄柵に身体をくぐらせて池の波打ち際へと降り、

「このへん家の近所なんだよねっ。昔は柵なんかなくてさあ、よくハマったよっ」

 鶴屋さんも後に続いた。彼女に手を繋がれている朝比奈さんも、嫌々のようにハルヒの待ち受ける池の縁へと向かう。

 細かいことを考えない端役三人組だった。助かることこの上ない。

 古泉が俺と長門に均等に微笑みを見せながら柵の内側に身体を滑り込ませて、黒魔法使いとなっている長門も幽霊みたいに俺の前を通り過ぎた。

 しょうがないな。ささっと撮影して、パパッと退散しよう。公共物破壊を誰かに見咎められないうちに。

 

 またもや朝比奈さんと長門が向かい合って立っている。またまた戦闘シーンらしい。本当にハルヒはストーリーを考えているんだろうな。いったいいつになったら古泉の出番はあるんだ。今日も制服姿の古泉は、俺の後ろで反射板係をやっている。

 ぬかるみ気味の地面にディレクターズチェアを置き、ハルヒはスケッチブックにセリフと思しき文章を書き殴っていた。

「このシーンはね、いよいよミクルが窮地に立たされているところなわけ。青目ビームはユキに封じられちゃったわけね」

 フェルトペンを止めて、自画自賛の顔をする。

「うん、いい感じだわ。そこのあんた、これ持って立ってて」

 そういう具合に谷口がカンペ係になった。演じる二人はふてくされ顔の谷口の手元を見て、

「こここんなことではっあたしはめげないのですっ! わわっ悪い宇宙人のユキさん! しんみょうに地球から立ち去りなさいっ……。あの……すみません」

 思わず謝る朝比奈ミクルのセリフに、長門ユキなる悪い宇宙人の魔法使いは、

「…………そう」

 気を悪くしたふうもなくうなずいた。それからハルヒの指示通りのセリフを棒読み。

「あなたこそこの時代から消え去るがいい。彼は我々が手に入れるのだ。彼にはその価値があるのである。彼はまだ自分の持つチカラに気付いていないが、それはとてもきちょうなものなのだ。そのいっかんとしてまず地球を……侵略させていただく」

 ハルヒが指揮者みたいに振り動かすメガホンに合わせ、長門は星アンテナで朝比奈さんの顔を示した。

「そそそそんなことはさせないのですっ。この命にかえてもっ」

「ではその命も我々がいただこう」

 フラットな長門の言葉に朝比奈さんは著しくビクリとした。

「カットーっ!」とハルヒが叫んで立ち上がる。二人の間まで駆け寄って、

「だんだん気分が出てきたじゃない。そうそう、その調子よ。でもアドリブはなしでお願いね。それからみくるちゃん、ちょいこっち来て」

 俺たちを残して監督と主演女優は背を向ける。ビデオカメラを降ろして俺は首をこきこきと鳴らした。何の打ち合わせだろう。

 すかさず鶴屋さんが堪えていた笑い声を盛大に上げてケラケラと、

「これ何映画? ってゆうか映画なのっ? わはは、むっちゃ面白いよ!」

 面白がっているのはあなた以外ではハルヒくらいみたいですげどね。

 谷口と国木田は「俺たち何のために呼びつけられたんだ?」という顔でボサッと突っ立っているし、長門は一人で知らんぷり、古泉は自然体で恰好をつけながら池の果てを眺望している。俺はそろそろ録画で満杯になってきたテープを抜き取って新しいDVカセットの封を切った。ゴミを増やしているとしか思えない。

 鶴屋さんが俺の手元を興味深そうに覗き込んできた。

「ふうん。最近のビデオってこんなん? これにみくるのコッパな画像がいっぱいなの? 後で観せてくんないっ? 爆笑できそうだねっ」

 笑いごっちゃない。以前のバニーでビラ配りは一日だけで済んだが、このバカ映画撮影は最悪、文化祭前日あたりまで続く恐れがあるのだ。撮影拒否がそのうち登校拒否に発展するかもしれん。そうなったら困るのは俺だ。美味しいお茶が飲めなくなるからな。長門の淹れたお茶は味気ないし、ハルヒのは物理的に不味い。古泉は論外で、俺は自分で茶を滝れるくらいなら水道水で我慢するね。

「お待たせ!」

 ああ待ったね。待ったとも。そろそろ帰ろうぜ。これ以上池付近の自然を踏み荒らしたくないからな。

「本格的なのはこれからよ。ほら、見なさい!」

 ハルヒがぐいと押し出したのは朝比奈さんである。見ろってお前、言われなくとも毎日のようにジロジロ見ているさ。ほら、いつもと変わりなく美しく可愛らしく見目麗しい朝比奈さんは……。

「えあ?」

 片方の目の色が違っていた。今度は右目。銀色の瞳が申しわけなさそうに俺と地面を往復している。

「さあみくるちゃん、そのミラクルミクルアイRから何でもいいわ、不思議なものを出して攻撃しなさいっ!」

 よせ、と言うヒマもなかった。あったとしても俺はダルマ落とし的輪切りになるくらいだったろうが、にしても何もかもが突然すぎた。ヤバイ命令をしたハルヒも、驚いてうっかり瞬いてしまった朝比奈さんも、それから----。

 朝比奈さんを池辺で押し倒している長門の暗幕姿も。

 昨日の再現だった。リプレイシーンを見ているようだ。長門が得意の瞬間移動を見せていた。瞬間、帽子だけが元の位置にあって、そこからふわりと地面に落ちる。それを被っていた本体は、瞬き一回分の時間(たぶんゼロコンマニ秒くらいだろ)に数メートルの距離を移動して朝比奈さんに乗っかっていた。こめかみにアイアンクロー。

 湿地でレスリングを始めた女優二人を全員が唖然として見守っていた。

「ななな長門さっ……、ひいいいっ!」

 無言無表情の長門はそんな悲鳴をものともせず、ほんの少しショートヘアを乱しただけで朝比奈さんに跨っている。

「ちょっとお!」ハルヒがいち早く自分を取り戻した。

「有希! あなたは魔法使いなのよ! 肉弾戦は不得意って設定なの! こんなところで泥んこプロレスしても----」

 しかしハルヒは途中で口を閉ざし、三秒ほど考えてから、

「ま、これでもいいか。売りになりそうね。キョン! ちゃんと撮って! せっかくの有希のアイデアなんだから」

 アイデアではないだろう。反射的な行動だ。コンタクトレンズをどうにかするための防衛措置なのだ。朝比奈さんもそれを解っているはずだが、恐怖のあまりか小悲鳴をあげつつ脚を。バタバタ。キワドい。いや、そんなサービスショットを狙っている場合ではないのだ。

 その時、ガシャンと音がして二人を除く全員が背後を振り向いた。

 ハルヒが乗り越え、俺たちが隙間を通ってきた池のフェンス。その空間がポッカリと開いている。Vの字型に切り取られたフェンスが道路に横倒しになっていた。それこそ誰かが不可視のレーザーでも当てたように。

 ややあって目を戻すと、貧血気味の吸血鬼みたいに長門が朝比奈さんの手首に噛みついていた。

 

「うかつ」

 意外にも長門は自己批判するようなことを言い、

「レーザーは拡散し無害化するように設定した。今度は超振動性分子カッター」

 息を吐いてないような口調で呟く。拾い上げた黒帽子を差し出しながら古泉が言った。

「モノフィラメントみたいなものですね。しかしその単分子カッターは目にも見えなければ、質量もないのですね?」

 帽子を受け取った長門は、それを無造作に頭に乗せた。

「微量の質量は感知した。十の四十一乗分の一グラム程度」

「ニュートリノ以下ですか?」

 長門は何も言わず、朝比奈さんの目を見つめている。ウェイトレスさんの右目はまだ銀色のままだ。

「あの……」

 噛まれた手首をさすりつつ、朝比奈さんはびくびくと、

「今度はあたしに何を、その、注入したので、ですか……?」

 トンガリ帽子の先端が五ミリ動くくらいの顔の動き。俺にはそれが困惑の表現に見える。どう説明したものかと悩んでいるんだろう。案に違わず長門は、

「次元振動周期を位相変換し重力波に置き換える作用を持つ力場を体表面に発生させた」

 という意味不明なことを苦し紛れっぼく言った。どうやったらそれが透明殺人ワイヤーを無効としたことになるのか理解できんが、不可解なことに俺以外の二人はそれなりに納得したようだ。古泉などは、「なるほど。ところで重力は波動なんですか?」とか関係ないことまで訊いている。長門も関係ないと思ったんだろう、何も答えないからな。

 古泉は決めポーズのような仕草で肩をすくめる。

「しかし確かにうかつでしたね。これは僕の責任でもあるでしょう。てっきり目から出るのはレーザービームくらいだとしか思いませんでした。何でもいいから不思議なものを出せ、ですか。涼宮さんの思考は他者の追随を許しませんね。すごい人です」

 追いつくどころか全人類を周回遅れにしているようなものだからな。それも3ラップくらいのぶっちぎりで、また後ろに迫ってきている圧迫感を後頭部に感じるほどだが、パッと見では同一周回を走っているとギャラリーに勘違いさせるのがミソだ。こればっかりは同じサーキットを走らされている奴にしか解るまいし、ハルヒが速いのはS字だろうがデグナーだろうが立体交差だろうがおかまいなしに直進しかしないからでもある。おまけに一人だけエンジンはパサードラムジェットを使用、いつまでもどこまでも走っていく。追随したくてもできないルールを自分で作り上げているわけで、しかも本人に八百長の意識がゼロときている。天然で片づけられる範疇を超えたタチの悪さだ。

「まあ幸いにして」と古泉。「フェンスの件は老朽化を放置していた地方自治体の管理不行き届きとして皆さん、納得しているようですし、大事に至らなくて何よりでした」

 俺は帽子に隠れた白い顔を一瞥する。さっき見せてもらった長門の掌は、カマイタチのつかみ取りでもしたのかというくらいに裂けまくっていた。痛い話が苦手な奴に聞かせたい具合にだ。今は嘘みたいに治っているけど。

 俺は離れたところにかたまっている第二集団を眺めた。ハルヒと脇役デコボコトリオは、ハンディの映像を見て何やら嬌声を上げている……のは鶴屋さんだけか。

「どうするよ? このまま撮影続行すると何だか惨事を生むような気がするぞ」

「しかし中止するのもままなりませんね。我々が強引に映画撮影を拒否すると涼宮さんはどうなります?」

「暴れ出すだろうな」

「そうでしょう。仮に本人が暴れないようなことがあっても、あの閉鎖空間で〈神人〉に大暴れさせることは確実です」

 けったくその悪いことを思い出させるなよな。俺は二度とあんな所にも行きたくないし、あんなことをしたくもない。

「おそらく涼宮さんは、今の状況が楽しくてしかたがないのですよ。想像力を駆使して自分だけの映画を撮るという行為がです。まさに神のように振る舞えますからね。あなたももうご存じの通り、彼女はこの現実が思い通りにならないことに対し常々苛立っていました。実はそうでもなかったわけなのですが、気付いていないのですから同じ事です。しかしですね、映画の中では彼女の思う通りに物語は進みます。どんな設定であっても可能でしょう。涼宮さんは映画という媒介を利用して、一つの世界を再構築しようとしているのです」

 つくづく自己中心派だ。思い通りになる事なんて相当の金か権力を持ってないと無理だ。政治家にでもなればいい。

 俺がしかめ面を何種類か試している中、古泉は一種類の笑顔で話し続けている。

「もちろん涼宮さんにそんな自覚はないでしょう。あくまで映画内フィクションとしての世界を創っているつもりです。映画制作にかけるひたむきな情熱ですよ。その熱中のあまり、無意識のうちに現実世界に影響を及ぼしているのだと考えられます」

 どっちに転んでもマイナスの目しか出ないサイコロだ。撮影を続けてハルヒの妄想が暴走してもダメ、やめさせて機嫌を損ねさせてもダメ、バッドエンドまっしぐらの二択だな。

「それでもどちらかに転ばないといけないのだとしたら、僕は続行の道を選びますね」

 根拠を言ってみろ。

「〈神人〉狩りもそろそろ飽きてきましたし……というのは冗談です。すみません。ええとですね、ようはこういうことです。世界が丸ごとリセットされるよりは、多少の変化を許容するほうがまだ生存の道は開けるからですよ」

 朝比奈さんがスーパーウーマンになるような現実を許容しろってのか?

「今回の現実変容は〈神人〉に比べると小規模です。長門さんがしてくれたように防御修正することだって可能でしょう。世界がゼロからやり直しになることに比べたら、単発的な異常現象をなんとかするほうが簡単のような気がしませんか?」

 どう考えてもどっちもどっちだ。ハルヒを後ろからぶん殴って文化祭が終わるまで気絶させておいたらどうだ?

「畏れ多いことです。あなたが全責任を負ってくれるのならば止めはしませんが」

「俺の双肩に世界は重すぎるな」

 そう答えながら朝比奈さんを見ると、ウェイトレスコスチュームから生乾きのドロを指で落としているところだった。なにやら諦めきった顔をしていたが、俺の視線に気付くと慌てたように、

「あ、あたしならだいじょうぶです。何とか乗り切ってみせるから……」

 いじらしいね。顔色はあんまり良くないけど。そりゃあ何かあるたびに長門に噛まれることにはなりたくないよなあ。いくらあっと言う間に噛み跡を消してくれるとはいえ、不気味なものは不気味だ。なんせ今の長門は柄の長い鎌を持たせたらタロット十三番目のカードのモチーフにしたいくらいの死神娘か、年齢不詳のスペースバンパイアだ。どっちだろうとあの世行きは当確している。

 朝比奈さんは吸引じゃなくて混入させられたみたいだが。しかし、うかつと言えばどうも朝比奈さんは未来人にしては危機意識がないように思えるな。本心を俺に伝えていないからかもしれんけどさ。なんせ禁則だらけみたいだし。

 まあそのうち教えてくれることもあるだろう。その時はもちろん二人きりで、どこか狭い所とかでという状況がいいな。

 

 ようやく谷口と国木田、鶴屋さんの出番が訪れた。

 ハルヒは三人に映画での役割を申し渡し、これにより三名は名も無きチョイ役であることが判明した。役どころは『悪い宇宙人ユキに操られて奴隷人形と化した一般人』。

「つまりね」と、ハルヒは気味の悪いニコニコ顔で説明する。「ミクルは正義の味方だから一般人には手を出せないわけ。ユキはその弱点をついたのね。普通の人間を催眠魔法で操作するの。そうやって襲ってくる一般人に抵抗できず為す術なく、ミクルはボロボロになっちゃうの」

 もうすでにボロボロになっている朝比奈さんにこれ以上何をしようと言うんだろう、と俺が思っているとハルヒは、

「手始めに、みくるちゃんを池に叩き込みなさい」

「ええっ!?」

 驚きの声を出すのは朝比奈さんきりで、鶴屋さんはゲラゲラ笑い。谷口と国木田は顔を見合わせてから、次に朝比奈さんへと困惑顔を向けた。

「おいおい」

 妙な半笑いで言ったのは谷口だった。

「この溜め池にかよ? えらく温いかもしらんが、もうとっくに秋だぜ。水質だってお世辞にもキレイとは言えねえが」

「すっすっす涼宮さん、そのせめて温水プールとかに……」

 朝比奈さんも泣きそうな顔で懸命の反論を敢行する。国木田ですら朝比奈擁護に回ったようで、

「そうだよ。底なし沼だったらどうするんだい? 二度と浮かび上がってこれないよ。ほら、ブラックバスだっていっぱいいるしさ」

 朝比奈さんを卒倒させるようなことを言うな。それに、抵抗すればするほどハルヒは意固地になるのはすでに実証済みである。ハルヒは例によってアヒル口となり、

「黙りなさい。いい? リアリズムの前には多少の犠牲は付き物よ。あたしだってこのシーンのロケにはネス湖かグレートソルトレイクを使いたかったわよ。でもそんなところに行く時間もお金もないの。限られた時間内に最善を尽くすのが人類の使命なわけ。だったらこの池を使うしかないでしょうが」

 なんちゅう理屈だ。どうあっても朝比奈さんは水責めの刑になることが前提なのか。別のシーンに差し替えるとか、そういう考え方はできないのかこの女。

 俺も止めに入るべきかと考えていると、背後から肩を叩かれた。振り返ると古泉の野郎が薄く笑いながら無言で首を振る。解っているさ。へたにハルヒをいじくると奇怪な事態がまた発生するかもしれないってことはな。朝比奈さんの口からプラズマ火球が出ちまうようなことになれば、ヘタすりゃ自衛隊を敵に回さなければならん。

「あああ、あたしっ、やりますっ」

 悲痛な声で朝比奈さんが宣言した。断腸の思いというやつだろう。世界の平和のために自分の身を犠牲にする可憐な少女の一丁上がりだ。ベッタベタに手垢まみれな展開だが、メイキングビデオではここが一番の盛り上がる部分だろうね。ビデオ回してないけど。

 単純にハルヒ大喜び。

「みくるちゃん、イイ! 今のあなたはとっても恰好いいわ! それでこそあたしの選んだ団員よ! 成長してきたわね!」

 成長ではなく、学習した結果だろうと思うね。

「じゃあ、そこの二人はみくるちゃんの手を持って、鶴ちゃんは脚を抱えちゃって。せーの、で行くわよ。せーので勢いよく池に放り込むの」

 ハルヒが指示したのは次のようなシーンであった。

 チョイ役三人は、まず長門の前に整列して、黒衣の魔法使いがふらふら動かすアンテナ棒の前で頭を垂れた。まるで神社でお祓いを受けているようだ。御幣を振るように指し棒を操っている長門の無表情は、そう言えば何となく巫女っぽい香りがしないでもない。

 その後、無言で朝比奈さんを指し示した長門の指令電波を受信した三人は、新鮮な生肉を求めるゾンビのような動きで硬直するヒロインへと歩き出した。

「みくるーっ。ごめんねえ。こんなことしたくないんだけど、あたし操られちゃってるからぁ。ほんと、ごめんよう」

 楽しんでるとしか思えない鶴屋さんが猫型バスみたいな口をしながらウェイトレスににじり寄った。いざというときに小心者になる谷口は迷うフリをしつつ、国木田は頭をぽりぽり掻きながら、青くなったり赤くなったりする朝比奈さんへと迫るのだった。

「そこのアホ二人! もっと真剣に演じなさい!」

 アホはお前だ、という言葉を飲み込んで俺はカメラを覗き続ける。朝比奈さんはへっぴり腰で、じりじり水辺へと後退していた。

「かくごしろ~」

 明るく言いながら鶴屋さんは朝比奈さんをかくんとコカすと、露わになった太ももを両脇に抱えた。何というか、もう実にアブナイ。

「ひっ……ひえっ」

 本気で怖がっている朝比奈さん。谷口と国木田がそれぞれ片手ずつを持ってぶら下げられる。

「ちちちちょっとその、やっぱり……こここ、これ必要なんですかあ~?」

 悲痛な叫びの朝比奈さんを一顧だにせず、ハルヒは重々しくうなずいた。

「これもいい画を撮るため、ひいては芸術のためなのよ!」

 よく聞く言葉だが、こんなデタラメ自主映画のどこに芸術が関係しているのだろう。

 ハルヒが号令をかけた。

「今よ! せーのっ!」

 ざぼーん。水しぶきが盛大に上がり、池で暮らす水棲生物たちの日常を掻き乱した。

「ひ、あぶぅっ……はわぁ……っ!」

 溺れている演技が巧いね、朝比奈さん……ではなく、シリアスに溺れているような気がするのだがどうだろう。

「足がっ……届かなっ……あぶっ!」

 ここがアマゾン川流域でなくてよかった。こんなふうにバシャバシャしてたらピラニアの恰好の目印になる。ブラックバスは人を襲わないだろうな----と俺がファインダー越しに思っていると、水しぶきを立てているのは朝比奈さんだけではないことを発見した。

「うげえっ! 水飲んじまった!」

 谷口も溺れていた。どうやら朝比奈さんを放り出す勢いで自分まで落っこちちまったらしい。こちらは安心して放っておくことにする。

「何やってんのあのバカ?」

 ハルヒも同意見だったらしく、アホ一匹をほったらかしのままメガホンで古泉を指した。

「さ、古泉くん、あなたの出番よ! みくるちゃんを助けてあげなさい」

 照明係に徹していた主演男優は、優雅に微笑んでレフ板を長門に渡すと、池の水辺に歩み寄って手を差し伸べた。

「つかまってください。落ち着いて。僕まで引っ張り込まないようにね」

 大海原の遭難者が流木にしがみつくように、朝比奈さんは古泉の手をしっかりと握りしめる。軽々とずぶ濡れ未来ウェイトレス戦士を引っ張り上げ、古泉はその身体を支えるように寄り添った。近寄りすぎだぞ、コラ。

「大丈夫ですか?」

「……うう……つめたかったあ……」

 ただでさえピッタリしていたコスチュームが濡れたせいで最早スケスケ状態である。俺が映倫にいれば躊躇なくこの映画は十五歳未満入場禁止にするね。正直に言おう、ある意味マッパよりヤバイ。なんか捕まりそうな勢いだ。

「うん、バッチリ!」

 ハルヒがメガホンを打ち鳴らして絶賛の雄叫びを放った。俺はまだ池を泡立てている谷口を無視し、ビデオカメラの停止ボタンを押した。

 

 無駄なものは露天商を開けるくらいあるくせに、タオルの一枚もないとは何事か。

 鶴屋さんのハンカチで顔を拭ってもらいながら朝比奈さんはじっと目を閉じている。俺はハルヒが真面目くさった顔をして映像チェックしている隣で息を潜めていた。

「うん、まあまあね」

 朝比奈水難シーンを三回も繰り返して観ていたハルヒがうなずいた。

「出会いのシーンとしてはまずまずだわ。この段階でのイツキとミクルのぎこちない感じがよく出てる。うむうむ」

 そうか? 俺は普段通りの古泉にしか見えなかったけどな。

「次は第二段階ね。ミクルを救い出したイツキくんは彼女を自宅にかくまうことにするのよ。次のシーンはそっから撮るわ」

 って、お前。それじゃ全然繋がらないぞ。谷口たちを操っていた長門はどこに行ったんだ? 谷口たちは? どうやって撃退されたんだ? いくらザコキャラとはいえ、描写なしじゃ観客は納得しないぞ。

「うるさいわね。そんなの撮らなくてもちゃんと観ている人には伝わるのっ! つまんない箇所は流しちゃっていいのよ!」

 このやろう、ただ朝比奈さんを池に突き落としたかっただけか。

 俺が義憤にかられていると、鶴屋さんが挙手して発言した。

「あのさーっ。あたしの家がすぐ近くなんだけどさっ。みくるが風邪引きそうだから着替えさせてやっていいかなっ?」

「ちょうどいいわ!」とハルヒは輝く目を鶴屋さんに向けた。

「鶴ちゃんの部屋を貸してくんない? そこでイツキとミクルが仲良くしてる所を撮りたいから。なんて潤滑な展開かしら。この映画はきっと成功するわね!」

 御都合主義が人生のメインテーマらしいハルヒにとっては、なるほど確かに思うとおりの提案なのかもしれないが、ひょっとしたらハルヒがそんなことを考えたから鶴屋さんのこの発言に至った疑惑もぬぐい去れない。ハルヒがザコキャラ認定するくらいだから、鶴屋さんは俺と同じ一般人のはずだけど。

「えーと、僕たちは?」

 国木田の質問である。横で谷口が脱いだシャツを雑巾みたいに絞っていた。

「あんたたちはもう帰っていいわ」

 ハルヒは無情に告げて、

「ご苦労さん。じぁあね、さよなら。二度と会うことはないかもね」

 それきりハルヒの頭からは同級生二人の名前と存在は消え失せたようである。呆れた顔つきの国木田と、犬みたいに髪から雫を飛ばしている谷口を見ることは再びなく、ハルヒは鶴屋さんをガイド役に指名して、すたすた歩き始めた。よかったな二人ともお役御免で。お前らはどうやらハルヒ的には使用済みBB弾くらいの価値しかないみたいだぞ。それは実はけっこう幸せなことなんだぜ。

 なぜかノリノリの鶴屋さんは嬉しそうに、

「はーいっ。みなさーんっ、こっちでーす」

 先頭に立って旗を振っていた。

 

 ハルヒのワガママ独壇場は今に始まったことではなく、たぶん生まれついての性質なんだろうし、生後すぐに天地を指して八文字熟語を絶叫したなんていう言い伝えが後五百年もしたら涼宮ハルヒ語録の一つとして民間伝承となり流布されていたりするのかもしれないが、まあそれはどうでもいいことだ。

 集団の先陣を切って歩くハルヒと鶴屋さんは、いつの間に意気投合したのか馬鹿デカい声でブライアン・アダムスの『18tillIdie』のサビだけをリフレインして唄っていた。後を歩いている者として、一応の知り合いとして非常に恥ずかしい。

 黙々歩きの黒長門とレフ板持ち&主演の古泉はよく他人のフリもせずについて行けているな。少しは肩を落として俯き加減にしょんぼり歩いている朝比奈さんを見習うがいい。それから俺の背負っている荷物を少しは肩代わりしてくれ。さっきから続くのは坂道ばかりで、俺はそろそろ坂路調教中の競走馬の気持ちが解りかけようとしているぞ。

「はーい、到着っ。これ、あたしん家」

 声を張り上げて鶴屋さんが一軒の家の前で立ち止まった。声も大きな人だったが自宅もデカかった。いや、たぶんデカいんだと思う。なぜなら門から家が見えないので判断できん。しかしそれこそまさに判断材料だ。門から見て取れないほど遠くに家屋があるということは、そこまで相当な距離があるということで、ついでに左右を見回してみるとどこの武家屋敷かと思うほどの塀が遠近法に従って延々と続いていた。どんな悪いことをすればこんな余分な土地を持つ家に住めるのだろう。

「どぞどぞ、入って入ってっ」

 ハルヒと長門は遠慮という言葉を知らないのか、自分の家みたいな顔をして門をくぐった。朝比奈さんも来たことがあるようで、たいして驚きもなく鶴屋さんに背中を押されるように入っていく。

「なかなか古風な旧家ですね。この幽玄の佇まい、趣があるとはこれを指して言うのでしょう。時代を感じさせますねえ」

 古泉が感嘆しているふうを装って感情のこもらない声で言っている。安物のレポーターか、お前は。

 三角べースボールが出来そうなスペースを縦断して、やっと玄関まで辿り着いた。鶴屋さんは朝比奈さんを風呂場まで連れて行ってから、俺たちを自室に招き入れた。

 何だね、自宅の俺の部屋が猫用の寝室に思えるね。だだっ広い和室に通されて、どこに座っていいものやら悩むくらいだ。だが、悩んでいるのはどうやら俺一人で、ハルヒをはじめとする長門と古泉も何も恐れ入ることはないようだった。

「いい部屋ね。ここでロケができそうなくらいよ。そうだ、古泉くんの部屋だってことにしましょう。みくるちゃんとのツーショットシーンをここで撮るのよ」

 座布団の上でハルヒが指で作った四角形の中を覗いている。鶴屋さんの部屋は卓袱台しかない簡素な畳敷き和室だった。

 俺は隣りに座る長門の真似をして正座していたが、三分と保たずに足を崩させてもらう。ハルヒは最初から胡座をかいて、鶴屋さんに何やら耳打ちしていた。

「くふっ! あ、それ面白いねっ! ちょっと待ってて!」

 鶴屋さんは朗らかかつ高らかに笑い声を上げると、そっから部屋を出て行った。

 俺は考える。鶴屋さんは一般人で正しいんだろうな。こうまでハルヒと仲良しさんになれるのは常軌を逸した人間か人間以外の何かだと相場が決まっているのだが、どこかに波長の共通するものがあるのかもしれない。

 待つこと数分、鶴屋さんは戻って来た。おみやげは朝比奈さんである。それもただの朝比奈さんではない。風呂上がり朝比奈さんだ。彼女はどうやら鶴屋さんの物らしいぶかぶかのTシャツを着ていた。というか、Tシャツしか着ていなかった。

「あ……。お、お待たせを……」

 濡れ髪上気肌の朝比奈さんは、鶴屋さんの後ろに隠れるようにして部屋に入り、正座して縮こまる。なんせ裾も袖も朝比奈さんには長すぎるので、Tシャツと言ってもワンピースみたいに見える。それがまた素晴らしい効果を発揮していた。外し忘れの右目が銀色のままなのは危ういが、ビームもスパスパワイヤーも出ないようなので一安心である。帽子も取らずにかしこまっている長門をどこかの摂社で奉ってやりたいくらいだ。

「はいこれ。飲んじゃって」

 鶴屋さんが床に置いた盆には、人数分のグラスが載って橙色の液体で満たされていた。鶴屋さんから渡されたそのオレンジジュースを朝比奈さんは半分くらい一瞬で飲んだ。今日一番動きが多かったからな、水分を消耗していたんだろう。

 俺も有り難く頂戴し味わいつつ飲んでると、一口で飲み干したハルヒが残った氷をかみ砕きながら、

「さ。せっかくだし、この部屋で撮影しましょう」

 ろくに休むこともなく始まったのは次のようなシーンだった。

 気絶した演技をする朝比奈さんを、古泉がお姫様抱きで部屋に入ってくる。なぜかすでに布団が敷かれていて、古泉はそこに朝比奈さんを横たえると、じっとその寝顔を眺めるのだった。

 朝比奈さんの顔はかなり紅潮、睫毛がぴくぴくしている。その無防備な身体に古泉はそっとタオルケットをかぶせ、腕を組んで枕元に座った。

「うーん……」と朝比奈さんが寝言のようなことを呟き、古泉は口元を緩めた顔で注視し続ける。

 ここでは出番のないらしい長門は、俺と鶴屋さんの背後でまだオレンジジュースをちびちび飲んでいた。俺はファインダーを覗きながら朝比奈さんの寝顔をアップにする。ハルヒが何も指示しないものだからこのあたり、俺の趣味の世界である。しかしハルヒは主演二人にはリアルタイムで指示を出し続けていた。

「みくるちゃん、そろそろ起きて。セリフはさっき言った通りよ」

「……ううー」

 朝比奈さんはゆっくり目を開け、妙に潤んだ目つきで古泉を見上げる。

「気が付きましたか?」と古泉。

「はいー……。ええと、ここは……」

「僕の部屋です」

 むくりと上半身を起こした朝比奈さんは、なぜか熱っぽい顔で視点の定まらない目をしている。なんかやけに色っぽいが、これは演技なのか?

「あ……ありがとうございます、う」

 すかさずハルヒ指示、

「そこで二人! もっと顔を近づけて! でもってみくるちゃんは目を閉じて、古泉くんはみくるちゃんの肩に手を回し、もういいから押し倒してキスしちゃって!」

「ええっ……」

 どういうわけかトロンとした目つきで朝比奈さんは口を半開きにして、古泉が言いつけ通りに朝比奈さんの肩を抱いたところで、俺の我慢が限界に達した。

「待てこら。いろいろ端折りすぎだぞ。ってより、なんでこんなシーンがある? なんだこれは?」

「濡れ場よ濡れ場。ラブシーン。時間帯またぎにはこういうのを入れておかないと」

 アホか。これは夜九時から始まる二時間ドラマか。古泉も、何を乗り気な顔をしてやがるんだ。こんなものが上映されたら、次の日からお前の下駄箱には百単位で呪詛の手紙が舞い込むぞ。少しは考えろ。

 誰かのケラケラ笑いが聞こえて振り向くと、畳の縁に爪を立てるように身体を折って、鶴屋さんが爆笑していた。

「ひひーっ、みくる、おかしーっ」

 おかしくない……と言いたいのだが、明らかに朝比奈さんは通常ではなかった。さっきから首が据わってないし、目が潤みっぱなしの頬染めっぱなし、しかも古泉に肩抱かれても無抵抗にされるがままになっている。面白くない。

「うー……。こいすみくん、あたしなんだかあたまがおもいのねす……ふ」

 ネズミに花束を捧げたくなるようなことを言いながら、朝比奈さんは身体をぐらぐらさせている。薬でも盛られたのかという感想を持ち、俺は気付いた。視線が空のグラスへと自然に向き、鶴屋さんが笑いつつ、

「ごっめーんっ。みくるのジュースにテキーラ混ぜといたの。アルコールが入ったほうが演技に幅が出るかもっていわれてさっ」

 ハルヒの悪巧みか。俺は呆れるより怒りそうになった。そんなもん黙って混入するな。

「いいじゃん。今のみくるちゃん、すごく色っぽいわよ。画面映えするわ」とハルヒ。

 もはや演技どころではなく朝比奈さんはすでにフラフラになっていた。閉じた目の下が赤く染まっている。色っぽいのはいいが、古泉にもたれかかっているのは不愉快だ。

「古泉くん、いいからキスしなさい。もちろんマウストゥマウスで!」

 ダメに決まっているだろう。前後不覚になっている人間にやっていいことではないぞ。

「やめろ、古泉」

 監督とカメラマンのどちらの言葉に従うか、古泉はしばらく考える真似をした。殴るぞこの野郎。どのみち俺はハンディを降ろしている。そんなシーンを撮るつもりも撮らせるつもりもない。

 古泉は俺を安心させるように微笑んで、フラつく主演女優から離れた。

「監督、僕には荷が重すぎますよ。それに、朝比奈さんはもう限界のようですし」

「……あたしならたいじょうふすよ?」

 そう言う朝比奈さんは見るからに大丈夫ではなかった。

「もう。しょうがないわねえ」

 ハルヒは唇を尖らせて、酔いどれ娘へとにじり寄った。

「あら、コンタクトつけたままだったの? ここはハズしとかないといけない場面よ」

 朝比奈さんの後頭部をぽかりと叩く。

「いっ……いたい」と朝比奈さんは頭を押さえる。

「ダメじゃないのみくるちゃん! こうして頭を叩かれたら目からコンタクトを飛び出させないと。じゃあもう一度、れんしゅう」

 ぽかり。

「いたっ」

 ぽかり。

「……ひい」と朝比奈さんはぎゅっと目を閉じる。

「やめろバカ」と俺はハルヒの手を握って制止した。「なにが練習だ。これのどこが演出なんだ? 何が面白いんだよ」

「なによ、止めないでよ。これも約束事の一つなのっ!」

「誰との約束だそれは。ちっとも面白くない。つまらん。朝比奈さんはお前のオモチャじゃねえぞ」

「あたしが決めたの。みくるちゃんはあたしのオモチャなのよ!」

 聞いた瞬間、俺の頭に血が上った。視界が赤く染まったような気すらした。本気で頭に来た。一瞬で衝動が思考を凌駕する、それは無我の境地での反射的行動だと言って差し支えない。

 俺の手首を誰かが握っていた。古泉の野郎が目を細めて小さく首を振っている。古泉が俺の右手を止めているのを見て、俺は初めて自分が握り拳を振りかざしていることに気付く。俺のこの右手は、今まさにハルヒをぶん殴ろうとしていたようだった。

「何よっ……!」

 ハルヒはプレアデス星団みたいな光を瞳に宿しつつ、俺を睨みつけていた。

「何が気に入らないって言うのよ! あんたは言われたことしてればいいの! あたしは団長で監督で……とにかく反抗は許さないからっ!」

 再び俺の目の前が真っ赤になった。このクソ女。放せ古泉。動物でも人間でも、言って聞かない奴は殴ってでも躾てやるべきなんだ。でないとこいつは一生このまま棘だらけ人間として誰からも避けられるようなアホになっちまうんだ。

「やや……やめてくらさぁいっ!」

 飛び込んできたのは朝比奈さんだった。ろれつの怪しい声で、

「だめだめですっ。けんかはだめなのです……っ」

 俺とハルヒの間に身体を割り込ませた朝比奈さんは、赤い顔のままずるずると崩れ落ちた。ハルヒの膝に抱きつくようにして、

「うう……っぷ。みんなはなかよくしないといけません……。そうしないと……んー。ああこれきんそくでしたぁ」

 くたりと朝比奈さんは、何かモゴモゴ言いながら目を閉じた。そして、すうすう寝息を立てながら眠り込んでしまった。

 

 俺と古泉は坂道を下りながら歩いていた。眼下に広がっているのは先ほどの溜め池である。

 女優が使い物にならなくなったので撮影は中止になった。眠る朝比奈さんを鶴屋さんに任せて俺と古泉、長門は大邸宅を辞去することにしたのだが、なぜだかハルヒだけは一人で残ると言い張って俺からビデオカメラを取り上げ、すぐに背中を向けた。俺も何も言わず、雑多な荷物だけを抱えて鶴屋さんの見送りを受けることとなった。

「ごめん、キョンくん」

 鶴屋さんは申しわけなさそうに、しかしすぐに笑顔となって、

「あたしもちょっと調子に乗り過ぎちゃったよ! みくるのことは心配しないで。後で送っていくか、なんなら泊めるからっ!」

 長門は門を出てすぐテクテク立ち去った。何の感想もないようだ。長門はそうだろうよ。あいつはいつだって無感想なのさ。

 そして肩を並べての帰り道、黙然と五分ほど歩いたところで古泉が口を開いた。

「あなたはもっと冷静な人だと思っていましたが」

 俺もそのつもりだったさ。

「すでに現実がおかしくなっているのに、さらに閉鎖空間まで生みかねない真似は慎んでいただきたいですね」

 俺の知ったことか。『機関』だか何だかいうインチキくさい秘密結社はそのためにあるんだろうが。お前たちが何とでもしたらいい。

「さっきの一件ですが、なんとか涼宮さんの無意識は自制してくれたようですね。閉鎖空間はどこにも出ていないようです。僕からのお願いです、明日には仲直りしてくださいよ」

 どうしようと俺の勝手だ。お前に言われてハイそうですかと返答できるわけもない。

「まあ、それより今は、現在に彼女が影響を与えている現実空間をどうにかすることを考えましょうか」

 白々と、古泉は話の舳先を変えた。俺もそれに乗ることにする。

「考えるってもな。何がどうなってこうなっているのか、俺には解らんぞ」

「簡単な理屈です。涼宮さんが何かを思いつくたびに、この現実は揺らぐのです。今までもそうだったじゃないですか」

 俺は灰色の世界で破壊の限りを尽くしていた青い巨人を思い出す。

「涼宮さんが何かを言い出し、我々がそれに対処する。なぜかと言えば、この世界でのそれが我々の役割だからですよ」

 赤く光る球体の数々を俺は覚えている。古泉はゆったり歩きながら確信を込めたような声で言う。

「我々は涼宮ハルヒのトランキライザー、精神安定剤です」

「そりゃあ……おまえはそうだろうが」

「あなたもですよ」

 元・謎の転校生は崩れない微笑を作り続けている。

「我々は閉鎖空間が主な作業場ですが、あなたはこの現実世界担当です。あなたが涼宮さんの精神を安静にしてくれていれば、閉鎖空間も生まれませんからね。おかげさまでこの半年、僕のアルバイト出動数も減ってきています。お礼を言っておくべきでしょう」

「言わなくていい」

「そうですか。なら言いません」

 坂を下り終えて県道に出る。古泉の沈黙もそこまでだった。

「ところでこれから付き合ってもらいたい所があるのですが」

「いやだと言ったら?」

「すぐに着きますし、そこで何をするわけでもありませんよ。もちろん閉鎖空間へのご招待でもありません」

 古泉が不意に片手を挙げた。俺たちの真横に停まったのは、どこかで見たような黒塗りのタクシーだった。

 

「話の続きですがね」

後部座席のシートに背をあずけ、古泉が言っている。俺は運転手の後頭部を眺めていた。

「現在、涼宮さんとあなたを取り巻く状況はパターン化しています。涼宮さんの気まぐれを、あなたや僕たち団員が具体化して形にするという枠組みが出来上がっているのですよ」

「迷惑だ」

「でしょうね。ですが、このパターン化した現状がいつまで続くかは解りません。同じような事態の繰り返しは、おそらく涼宮さんが嫌うものの一つでしょうから」

 今は楽しんでいるようですがね、と言って緊迫感に欠ける笑顔になった古泉は、

「涼宮さんのハメ外しが映画の内部だけに留まるように、何とか努力しなければなりません」

 野球選手になるためにはバットの素振りや走り込みから始めればいいし、棋士を目指すなら将棋や囲碁のルールを覚えることからスタートすべきだし、期未試験でトップをとるには徹夜で参考書を睨む志を持つところから開始すればいいかもしれない。つまり努力するための方法論が人それぞれだろうが存在するわけだ。しかし、ハルヒの脳内妄想を削除するにはいったいどんな努力を払えばいいんだ?

 やめろと言ったらむくれてクソいまいましい灰色の空間を増殖させるだろうし、かと言って、このままホイホイと奴の妄想に付き合っていたらその妄想が現実になりそうな気配なのだ。

 どっちを取っても両極端だな。あいつには中庸という概念がないのか。まあ、ないからこそ涼宮ハルヒはまさに涼宮ハルヒ以外の誰でもないわけだが。

 車外の風景は徐々に緑が多くなってきた。蛇行した山道をタクシーは駆け上がっている。すぐに解る。昨日はバスで辿った山へ続く道だった。

 やがて停車したのは、がら空きの駐車場。神社の参拝客専用だ。昨日ハルヒが神主と鳩に銃口を向けるという暴挙をおこなった、あの神社である。おかしいな。日曜の今日なら、もっと人がいてもよさそうなものだが。

 タクシーから先に降りていた古泉が、

「涼宮さんの昨日の言葉を覚えていますか?」

 あんな妄言の数々をいちいち覚えていられるか。

「行けば思い出しますよ。どうぞ境内へ」それから言い足した。「今朝にはもうこの状態だったようですよ」

 角石を積み重ねて作られた階段を上がっていく。これも昨日来た道だ。ここを上がると鳥居があって、本殿に続く砂利道があり、そこには土鳩の群れが……。

「………」と俺は沈黙する。

 わらわらいたのは確かに鳩だった。移動式絨毯のように地面をつつき回している鳥類の一群。

 しかし昨日と同じ鳩たちなのかどうかは自信がない。

 なぜなら、一面に広がる鳩連中の羽根が一羽残らず真っ白に変わっていたからだった。

「……誰かにペンキでも塗られたのか」

 それもたった一夜で。

「間違いなく、この白い羽根は鳩の身体から生えている彼等自前のものです。染められたのでも脱色でもありません」

「昨日のハルヒの銃撃かよほどの恐怖だったんだな」

 それとも誰かが大量の白鳩を持ってきて、先住の土鳩と入れ替えたんじゃないのか。

「まさか。誰がそんなことをする必要があります?」

 考えてみただけだ。結論はもう俺の中にある。口にしたくないんだよ。

 昨日、ハルヒはこんなことを言っていた。

『できれば全部白い鳩にしたいんだけど、この際どんな色でも目をつむるわ』

 つむってねえじゃねえか。

「そういうことです。これも涼宮さんの無意識のなせる業でしょう。一日の誤差があったのは幸いですね」

 エサをくれるとでも思ったか、ざわめく鳩たちか俺たちの足元に寄ってくる。他に参拝客はいない。

「このようにですね、涼宮さんの暴走は着実に進行中なわけですよ。映画作りの弊害が、現実世界に押し寄せてきているのです」

 朝比奈さんの目から光線やらワイヤーを出させただけでは充分ではないのか。

「ハルヒを麻酔銃で撃つとかして文化祭が終わるまで眠らせておいたらいいんじゃないか?」

 俺の提案を、古泉は苦笑でもって応えた。

「できなくはないでしょうが、目覚めてからのアフターフォローをしてくれますか?」

「いいや」

 そんなサービスは俺の業務の中に入っていない。古泉は肩をすくめた。

「ではどうしましょうね」

「あいつは神様なんだろ。お前ら信者がなんとかしろよ」

 わざとらしく古泉は驚く様子を演じた。

「涼宮さんが神ですって? さて、誰がそんなことを言ったのですか?」

「お前じゃねえか」

「そうでしたね」

 こいつこそ、ぶん殴るべきだろう。

 古泉は笑い、お決まりのセリフ、「冗談です」と言ってから、

「実際、涼宮さんを『神』と定義しても問題ないだろうとは思いますね。『機関』内の意見は大勢において彼女を『神』視しています。もちろん反対意見もありまして、個人的には僕も懐疑論者の一派です。と言いますのは、もし彼女が本当に神ならば、その自覚もなしにこの世界の内側に住んでいるわけがないと思えるからです。創造主というモノはどこか遠くの上の方で、我々を鳥瞰しながら奇蹟の数々を自在におこない、我々が慌てふためく様を冷徹に観察していることでしょうから」

 俺はしゃがみ込んで落ちていた羽毛を拾った。そのままの姿勢で羽根を指先で回す。鳩の動きが大きくなった。すまないな、パン屑の用意はないんだ。

「僕はこう考えます」

 古泉は一人で喋っている。

「涼宮さんは神のごとき能力を誰かから与えられ、しかしその自覚は与えられていません。神たる存在がいるのだとしたら、涼宮さんこそがその神に選ばれた特殊な人間ということになります。あくまで人間ですよ」

 あいつが人間だろうが人間外だろうが俺には大して思い入れはない。しかし、なんでハルヒにそんな無意識タネ無しマジカルパワーが、鳩を白くしたり出来る能力があるんだ。何のために。誰のために。

「さあねえ。解りませんね。あなたには解るんですか?」

 こいつは誰にケンカを売っているんだ。

「これは失礼を」と微笑みつつ、古泉は言葉を継いだ。

「涼宮さんは世界を構築するものであり、同時に破壊するものでもあります。もしかしたら我々のこの現実は失敗作なのかもしれない。その失敗した世界を修正する使命を持った者が、涼宮ハルヒという存在なのかもしれない」

 言ってろ。

「となれば、つまり我々が間違っているのです。正しいのは常に涼宮さんで、彼女の行為を邪魔する我々こそが、この世界の異分子、それどころか涼宮さん以外の全人類が間違っていることになる」

 ふーん。それはたいへんだねえー。

「問題は間違った側にいる我々です。世界が正しい世界に再構築されたとき、我々は果たしてその世界の一部になることができるのでしょうか? バグとして排除されるのでしょうか? 誰にも解りません」

 解らんのなら言うな。しかも解ったような口調でな。

「しかしある意味で、今までの彼女があまり巧く世界を構築できていないのも確かです。それはですね、彼女の意識が創造の方向に向いているからですよ。涼宮さんは非常にポジティブな人です。ですが、これが逆方向へ向かえばどうなるでしょう」

 黙る気はないらしい。あきらめて俺は訊いてやった。

「どうなるんだ」

「解りません。ですが、何であろうとも創るよりは壊すほうが簡単なのです。そんなものは信じないから消え失せろ、それだけでいいのですよ。そうすれば何だろうと『無い』ことになるでしょう。すべてをキャンセルできてしまいます。たとえどんなに強大な敵が現れようと、涼宮さんはその連中を否定するだけで消滅させることができます。魔法だろうと高度な科学技術だろうと、何が相手でもね」

 だがハルヒは否定しないだろう。それはあいつが切に待ち望んでいるものだろうからな。

「それが困りものなんですよね」

 古泉は困ってない声で囁くように、

「涼宮さんが神なのか神に似た何かなのかは解りようもないと僕は考えますが、ただ一つ言えることがあります。もし彼女が自由に自分の力を振るって、その結果世界が変化したとしても、変化したことに誰も気付かないだろうということです。これはちょっと凄いですよ。なぜなら、その変化は涼宮さん本人でさえ気付きようがないでしょうから」

「なぜだ」

「涼宮さんもまた世界の一部だからです。これは彼女が造物主ではないという傍証の一つですね。世界を創りたもうた神ならば、世界の外側にいるはずです。しかし彼女は我々と同じ世界で生きている。あげく半端な改変しかできないのは不自然、非常におかしな話です」

「俺にはお前のほうがおかしく見えるぜ」

 古泉は無視して続きを語る。

「ですが、僕は今まで暮らしてきたこの世界が割と好きなんです。様々な社会的矛盾を秘めていたりはしますが、それは人類がいつかどうにか出来ることでしょう。問題なのは、天動説が正解で太陽は地球の周りを回っている、みたいな改変が起きることです。涼宮さんにそんなことを信じ込ませないように、僕たちは何とかしようとしているのです。あなたもそう思ったから閉鎖空間から戻ってきたのでしょう?」

 さあ、どうだったかな。忘れちまったよ。思い出したくない過去は封印することにしているのさ。

 古泉は口先だけで笑った。自嘲のような笑みだった。

「柄にもないこと言ってしまいましたね。まるで自分たちが世界を守っていると勘違いした正義側人間のような言いぐさでした。これは失礼を」

 

第五章

 

 月曜の朝は、すでにもう文化祭まで一週間を切ってるってのに相変わらずユルい空気だった。

 本当に文化的な祭りをする気があるのかこの学校は。もっとバタバタしててもいいんじゃないか? いくらなんでも悠長すぎるような気配だ。おかげでこっちはタルい。しかも教室へと歩いている途中に、さらにタルくなりそうな場面が俺を待ち受けている。

 俺の教室の前で、古泉が壁にもたれて立っていた。昨日あれだけ喋っといて、まだ何かあると言うのか。

「九組の演目、舞台稽古が早朝からありましてね。ここにはたまたま通りかかったんですよ」

 朝からお前のニヤケ面を見たりしたくはなかったが。

「どうした。あのマヌケ空間がやっぱりまた発生したとか言うんじゃないだろうな」

「いえ。昨日はとうとう出ませんでした。どうも今の涼宮さんはイライラするより、しょんぼりすることに忙しいみたいですよ」

 なぜだろう。

「解っておられるはずですが……。なら説明しましょう。涼宮さんは、あなただけは何があろうと自分の味方をすると思っていたのです。いろいろ文句を付けつつも、あなたは彼女の肩を持つわけです。何をしでかしたとしても、あたただけは許してくれるだろう、とね」

 何が、とね、だ。あいつのすべてを許せるのは、とうの昔に殉教した歴史上の聖人くらいだぜ。言っておくが俺は聖人でも偉人でもない、常識的な凡人だ。

「涼宮さんとはどうなりました?」

 どうもなってたまるか。あのままだ。

「元気を出すように言ってもらえませんかね? 白い鳩ならまだ可愛いものです。このまま涼宮さんの気分が沈み続けると、神社の鳩がもっと鳩らしからぬモノに入れ替わってしまうかもしれませんよ」

「何にだよ」

「それが解ったら苦労はなしです。ネトネトして複数の触手で這い回るようなものの大群が境内を蠢いていたら不気味でしょう?」

「塩を撒けばいい」

「それでは根本的な解決にはなりませんね。現在の涼宮さんは宙ぶらりんです。今までは映画撮影を通して積極的に現実を変容させてしまったわけですが、昨日のあなたとの一件で、いきなりベクトルが逆走してしまいました。ポジティブからネガティブへです。それで事態が収まればいいのですが、このままではより一層酷いことになりそうなんですよ」

「それで。俺にあいつを慰めろって言うのか?」

「そうややこしい話でもないでしょう。元の鞘に戻ってくれればいいだけですから」

 元も何も、俺はそんな鞘に収まっていたことなんかないぞ。

「はて。あなたの頭も冷えている頃合いだと思っていたのですが、見込み違いでしたか?」

 俺は押し黙った。

 昨日カッカきちまったのは、朝比奈さんへの暴虐を見かねた俺の善良なる心がそうさせた----とも限らない。カルシウムが不足していただけたのかもな。昨日の晩に牛乳一リットルほど飲んで寝て起きたら、不思議と治まったからな。プラシーボ効果かもしれないが。

 かと言って、なぜ俺のほうから歩み寄らねばならんのだ。誰がどう判断したって、あいつはハシャギ過ぎだったろうが。

 古泉はえづいた猫みたいに喉を鳴らす笑い声を漏らし、俺の肩をハタいた。

「よろしく頼みますよ。距離的に、あなたが一番近い場所にいるのですから」

 

 真後ろに座るハルヒとは俺が振り向かない限り目を合わすことがない。今日は一段と空模様が気になるようで、ハルヒはほとんど窓の外を眺めていて、そのままの状態を昼休みまで続けていた。

 加えて、どういう伝染病なのか、谷口までもがご機嫌斜めだった。

「何が映画だ。昨日は行って損した」

 昼休み、弁当を喰いながら谷口は憎まれ口を叩いていた。休み時間のハルヒは滅多に教室におらず、今もそうだ。いたらこいつもそんなことを言えないだろう。気の小さい奴に限って安全圏では声が大きいのさ。

「涼宮のやることだ。その映画とやらもどうせゴミみたいなものになる。決まってるぜ」

 誰に言われたっていい。俺は自分が偉い人間だとは思ってないし、歴史に名を刻むこともしそうにない。片隅のほうで一人ブツブツ呟いているような人間だ。自分じゃ料理も出来ないのに母親の作った食い物にイチャモンをつけるようなことが得意だ。

 だがこれだけは言っておきたい。ので、俺は言った。

「お前にだけは言われたくないぜ」

 谷口、お前は何をやっている? 少なくともハルヒは文化祭に参加して何かをしようとしている。迷惑千万なことにしかならないだろうが、少なくとも何もしないで文句だけ言ってる奴よりマシだ。このアホめが。全国の谷口さんに謝るがいい。貴様と同じ名字であることはお前以外の谷口さんたちにとって不愉快でしかないぞ。

「まあまあキョン」

 国木田が間に入った。

「彼はスネてるんだよ。ほんとは涼宮さんたちともっと遊びたいんだ。キョンがうらやましいんだよ」

「んなこたぁねえ」と谷口は国木田を睨んだ。「俺はあんなアホ集団の仲間入りをする気はねえ」

「誘われたらついていくクセに? 昨日だって喜んでたじゃん。どっか出かける予定をキャンセルしてまでさ」

「言うな、バカ」

 谷口が不機嫌なのはそのせいだったのか。せっかくの予定をすっ飛ばして来たと思ったら、ほとんど写してもらえないまま退場を宣告されたのだからな。池にまで落ちていた。なるほど、同情に値するかもしれない。だが俺はそんな気にはなれないね。なぜなら、俺は俺で腹を立てていたからだ。

 ハルヒの映画が目も当てられないほど下らないものになるのは俺にも解っている。いつもの後先考えない全力疾走をやってるわけだから、その日その時間に撮りたいと思ったことを撮っているだけ、繋がりも演出も何にもなしだ。それで凄い映画が出来上がったりしたら、それは天才の仕業で、そして俺の見たところハルヒに監督の才はない。だからと言って、それを他人から指摘されるのは----さて、なんで腹立つのかと言うと……。

「どうしたのさキョン。今日は涼宮さんもいつもより機嫌悪そうだしさ。何かあったの?」

 国木田の声を聞きながら俺は考えていた。

 俺も谷口と同じだ。ハルヒの言うがままにへいこらしてはブツブツ言ってるだけだ。俺がこいつに感じたことは、そっくり俺自身にも当てはまる。ハルヒのやることなすことにツッコミを入れて回りうんざりする気分になるのは……、だから俺の仕事である。俺だけの役割だ。他人に譲るつもりがないのではなく、そういうことになっているのだ。

 むしゃくしゃした気分で喰う飯のなんと美味くないことか。これでは作ってくれた母親に悪い。くそ、谷口のゲロハゲ野郎。お前が余計なことを言うからだぞ。だから、俺はこれからのちのち後悔するようなことをしたくなってきたじゃねえか。

 俺は何をしたか。

 弁当箱にフタをすると、そのまま教室を飛び出したのだ。

 

 ハルヒは文芸部室にいて、ビデオカメラとパソコンを繋いで何かをやっているようだったが、俺がいきなり扉を開けたのを見て、驚いたように顔を上げた。左手に持ってるのはカレーパンか。

 そのパンを慌てたように放り出し、後ろに手を伸ばして髪を触っている----と思ったら、はらりと黒髪がほどけた。理由は知らないがくくっていた後ろ髪を慌てて解いたらしい。よく見ていなかったし、そんなことは後で考えればいいことだ。俺は今言わなければならないことを言った。

「おい、ハルヒ」

「なによ」

 ハルヒは戦闘態勢に移行しつつある猫のような顔でいる。その顔に、俺は言ってしまった。

「この映画は絶対成功させよう」

 勢いというやつだ。一年に二回くらいは俺だってハイになる時がある。昨日頭に来たのだってそのせいだ。たまたまそれにかち合ってしまったのだよ。それが今日は古泉の妙な話やら谷口のアホ面やらハルヒの鬱顔が何かこう、こんがらがって俺もガタガタになってしまっていたのだ。この衝動を放っておけば教室のガラスを叩き割って歩いてしまうかもしれないので、ここで解消しておくことにしたわけだよ。なんで俺はこんな言いわけをしているんだろうね。

「む」

 と、ハルヒは言った。そして、

「当然よ。あたしが監督するんだからね。成功は約束されているの。あんたに言われるまでもないわよ」

 何という単純さ。少しは殊勝な顔でも見せるかと思ったが、ハルヒの意味不明なまでに爛々と輝く瞳は、どこから充填したものか再び自信の炎が見え隠れするようになっていた。簡単すぎる。高レベルの回復魔法を延々自分にかけ続ける中ボス程度の厄介さだが、俺は気にしない。必要なのはバランスだ。弱々しい奴を一撃で葬り去ってオワリみたいなゲームは……何と言ったっけ、そう、カタルシスとやらがないのさ。意味はよく解らないしそもそも意味なんてないわけで、すなわち俺は、元気のないハルヒなんか不気味なので見たくはないのだ。こいつは常に果てしなく無意味かつ根拠なし目的地なしの脳内千メートルダッシュしているくらいがちょうどいい。変に立ち止まると余計にわけわっからんことを無意識にやっちまうみたいだしな。それだけ。

 ……と、この時の俺は思っていたらしい。

 

 その日の放課後である。

「もう少し他に言い様はなかったのですか?」と古泉は言い、

「すまん」と俺は答えた。

「元気づけるとしてもですね、もっとこう……当たり障りのないものにして欲しかったんですが」

「……すまん」

「元に戻ったと言うより、さらにパワフルになってますよ?」

「………」

「これでは隠しようがありませんね」

 反省しきりの俺に、古泉は穏やかな色を浮かべた目を向けた。非難しているわけではなさそうだが、その声はどことなく憂いの音階を帯びている。そうだろうな、事態は確実に悪化しているようで、どうもそれは俺のせいらしい。

 なんでかって? 知るか。

 桜が満開になっていた。ここは川沿いの桜並木通り、朝比奈さんが俺に正体を明かしてくれたあの遊歩道だ。再確認しておこう、今は秋だ。確かにまだ残暑の名残が消え去っていないとはいえ、普通に考えて日本ではソメイヨシノは春に咲くものだ。少々のフライングならば許してやってもいいが、半年ばかり早い。太陽のバカさ加減に桜まで付き合うことはないだろう。

 花吹雪が舞う中で、ハルヒ一人がエンジン全開だった。キワキワウェイトレス姿の朝比奈さんがよちよちわたわたしているのは、時季外れの花見客がそこら中にいるせいだな。

「なんて都合がいいのかしら! なんとなく桜の画が欲しいなあって思っていたのよ。素晴らしいタイミングの異常気象ね!」

 ハルヒは口角泡を飛ばし、朝比奈さんに無体なポージングを強制していた。

 ダメだね、やっぱり。人間、一時の感情で何かやってしまうとそれは必ず未来の自分に跳ね返ってくるもので、現に俺はこの半年間ずっと似たようなことばかり反省している気がする。

「あの時ああすればよかった」ではなく「するんじゃなかった」という実に後ろ向きな一人反省大会だ。誰か銃を貸してくれ。モデルガンじゃないやつを。

 桜の木々は昼すぎに蕾を膨らませ、夕方には満開になっていたそうだ。秋の椿事として、地元のローカル局が中継にまで来ている。たまにはこんなこともあると思ってもらいたいね。近年の地球規模な異常気象が遠因だ。そういうことにしておけ。な?

「涼宮さんはそう思っているようですね」

 少し前まで朝比奈さんと肩を並べて川縁を歩いていた古泉が言う。外面だけはいいこいつとすべてがいい朝比奈さんのツーショットは、世の男性にとっては苛立たしくなる効果しかないだろうと思えるくらいのハマリ役であって、俺を不機嫌にさせた。

 長門は花吹雪にさしたる感想もなく、また表情もなく、体内時計の狂った桜たちを漠たる目で眺めている。黒マントの上にピンクの花びらが数枚くっついて、ほんの少しのアクセントを演出していた。白鳩のことをこいつは知っているのだろうか。

「そだ! 猫を捕まえましょう!」

 突然、ハルヒが言い出した。

「魔女に使い魔がいるのよ。それは猫が一番しっくりくるわ! どこかに黒い猫落ちてない? 毛並みのいいやつ」

 待てよな。長門の初期設定は悪い宇宙人じゃなかったか?

「いいから猫よ! あたしのイメージではそうなってるのよ。猫のいそうな場所ってどこかしらね」

「ペットショップだろうよ」

 俺のおざなり返答に、ハルヒは珍しく妥協するようなことを言った。

「野良猫でいいのよ。売り猫や飼い猫は借りたり返したりするの面倒だしね。どこかの空き地に行けば猫がたまっている場所があるんじゃない? 有希、知らない?」

「知っている」

 長門は僅かなうなずきを返し、俺たちを約束の地に導く宗教的指導者のような足取りで歩き始めた。長門に知らないことなんかないんだろう。五年くらい前に俺が失くした小銭入れの在処も訊いたら教えてくれるかもしれんな。当時の俺の全財産で、五百円くらいは入っていたと思う。

 徒歩で十五分ほど移動した後の到達地点は、長門が一人暮らしをしている豪華マンションの裏だった。手入れの行き届いた芝生が広がり、周囲を植木が覆って外からの視線を遮断している。そこに何匹もの猫たちが群れていた。野良猫らしいが人慣れしている奴らばかりで、近寄っても逃げようとしない。エサでもくれると思ったのか、足元にまとわりついてくるほどである。そのうちの一匹をハルヒは持ち上げた。

「黒猫いないわねえ。いいわ、この猫で」

 三毛猫で、貴重なことにオスだった。しかしハルヒはそれがどのくらい珍しいのか知らないようで、無作為抽出の結果に驚くこともなく、

「さあ、有希。これがあなたの相棒よ。仲良くしなさいね」

 ハルヒの抱き上げた三毛猫を長門は黙って受け取った。路上でティッシュを渡されたような無感動ぶりで、猫のほうも無感動に渡されている。

 すぐさまこの場で撮影が再開された。マンションの裏側だ。もう場所なんかどこでもいいらしい。俺のビデオカメラに詰まっているのは、ブツ切れの思いつきカットばかりとなっている。これを編集してまともな一本の話にするのは、さて俺の仕事なんじゃないだろうな。

「有希、みくるちゃんに攻撃よ!」

 ハルヒの指令に、長門は変な姿勢のままうなずいた。猫を左肩に乗せている黒い衣装の魔法使いである。どう見ても猫のほうが重量オーバーだった。三毛猫がおとなしく長門にしがみついているのはいいが、長門は首だけでなく身体全体を傾けて猫が落ちないようにバランスを取っていた。その不自然な体勢を保ちつつ、朝比奈さんに棒を振る。

「くらうがいい」

 多分このシーンでは長門の棒から不可思議な光線が出ていることになっているのだろう。

「……ひー」

 と、朝比奈さんは悶える演技。

「はいカット!」

 満足そうにハルヒは叫び、俺は録画停止。古泉はレフ板を降ろす。

「その猫、喋ることにするわ。魔法使いの飼い猫だもの、皮肉の一つくらいは言うわよね!」

 とんでもない。

「あなたの名前はシャミセンよ。ほらシャミセン、何か話しなさい!」

 話すわけない。と言うか、話さないでくれ。

 俺の願いが天に届いたのか、シャミセンなる不吉な命名を受けた三毛猫は突然日本語を喋り出すことなく、尻尾の毛繕いを始めてハルヒの命令をシカトしていた。当たり前のことなのだが、ホッとする。

「順調ね」

 今日撮った映像を再確認しながら、ハルヒは満足げに笑っていた。午前中までの表情が嘘のようだ。切り替えが早いってのはいいことだよな。それだけは感心してやっていい。

「キョン、その猫の世話はあんたに任せるわ」

 ディレクターズチェアを折り畳み、無体なことを俺に命じた。

「家に連れ帰って歓待してあげなさい。これからの撮影に必要だからね、ちゃんと手なずけておくのよ。明日までに芸の一つを仕込んでおいて。そうね、火の輪くぐりとか」

 長門の肩に乗ってじっとしてるだけでも、猫としては上出来な部類に入るだろう。

「今日はここまでね。明日から大詰めよ! いよいよクライマックスへ撮影快調、体調は万全だわ! みんなゆっくり休んで明日に備えなさい」

 メガホンを振りつつ解散を宣言したハルヒは『ブレードランナー』のエンディングテーマをハミングしながら一人で帰っていった。

「ふー」

 ため息でユニゾンを奏でる俺と朝比奈さんである。他の二人、古泉はレフ板を小脇に抱えて帰り支度を始め、長門はシャミセンに、インクの切れたボールペンを見るような目を落としていた。

 俺は腰を曲げて三毛猫の頭を撫でてやる。

「ごくろうだったな。後で猫缶を奢ってやるよ。それとも煮干しがいいか?」

「どちらでも構わない」

 朗々たるバリトンがそんなセリフを吐いた。この場にいる誰の声でもない。俺は古泉と朝比奈さんがポカンとしているのを見て、長門の無表情を見た。三人とも、同じ所に視線を向けている。俺の足元に。

 そこには三毛猫がいて、丸い黒目で俺を見上げていた。

「おいおい」と俺は言った。「今のは長門か? 俺はお前に訊いたんじゃないぞ。猫に訊いたんだ」

「私もそのつもりだった。故に返事をした。私は何か間違ったことを言ったのだろうか」

 

 と、猫が喋った。

「弱りましたね」

 これは古泉である。

「びっくりです。猫さんが言葉をしゃべるなんて……」

 これは朝比奈さんである。

「………」

 長門は沈黙していて、シャミセンを抱えて立っている。そのシャミセンは、

「私にはキミたちがなぜ驚いているのかが解らない」

 とか言って、長門の肩にしがみついていた。

 化け猫、猫又の類だ。何年生きたらこうなるんだっけ。

「それも私には解らない。私にとって時間の感覚など存在しないに等しい。今がいつなのか、いつが過去なのか、私には興味のないことだ」

 猫が喋り出すだけでも相当アレなのに、微妙に観念的なことをほざいている。肉球付きの分際で生意気な。三味線屋はどこにあるのだろう。タウンページに載ってるかな?

「確かに私はキミにとってヒトの言葉に聞こえるかのような音を出しているかもしれん。だが、オウムやインコの類でもそれくらいのことはするではないか。何をもって、キミは私が言葉通りの意味をこめた音声を発しているのだと確認するのか」

 何言ってんだ、こいつ。

「そりゃあれだ。ちゃんと俺の問いかけに答えているからだ」

「私が発している音声が、たまたま偶然にもキミの質問に対する応答に合致しているだけかもしれないではないか」

「そんなのがまかり通れば、人間同士でも会話が成立していない場合があることになるじゃねえか」

 俺はなんで猫相手にこんな真面目なことを言ってるのかね? 三毛野良シャミセンはぺろりと前脚を舐め、耳の下を掻く。

「まったくその通りだ。キミとそちらのお嬢さんかあたかも会話しているかのような行為を働いてたとして、それが正しい意思伝達をおこなっているかどうかなど、誰にも解らないのだ」

 やたら渋い声で言うシャミセンだった。

「誰しも本音と立て前を使い分けていますからね」と古泉。

 お前は黙ってろ。

「言われてみればそうです……よね」と朝比奈さん。

 すみませんが、あなたも黙っていてくださいませんか。

 芝生に転がっていた猫どもを一匹一匹取り調べてみた。シャミセン以外の猫たちは「みい」や「にゃあ」や「うー」くらいしか話さないことが判明し、どうやらこのオス三毛猫のみがなぜか唐突にヒト言語発生能力を獲得したらしいのである。なぜか?

 あのバカのせいだ。

 

「現況は、あまりよろしくないようですね」

 優雅にマグカップを口元に運びながら古泉が口火を切った。

「僕たちはまだまだ涼宮さんを過小評価していたようです」

「どういうことですか?」と朝比奈さんが忍び声。

「涼宮さんの映画内設定が世界の常識として固定される恐れが出てきたのですよ。彼女が思い描く映画の内容が現実化し、そのままそれが普通の情景になってしまうのです。朝比奈さんがレーザーを出したり猫が喋り出したりね。もし彼女が『巨大隕石が落下してくるシーンを撮りたい』と思えば、本当に実現するかもしれません」

 現在、ハルヒを除くSOS団の四人が集合しているのは駅前の喫茶店である。対ハルヒ対策の緊急合同対策本部の設置を提唱した古泉に、全員が賛成した。どうやら真剣に、ことは風雲急を告げる具合になっているようだった。見た目は高校生数人の他愛のない談笑で(笑っているのは古泉だけだったが)、やってることは特撮ヒーローものの悪役幹部が正義側の必殺技を封じるための相談をしているような胡散臭さ溢れる会合なのだが。ちなみにシャミセンは、店の外の植え込みで待っているように、それから決して他人に話しかけたり応じたりしないよう申しつけてやった。特に不満の色もなく、「よかろう」と応えた猫は素直に道ばたの常緑樹の木陰に身を隠すようにうずくまり、我々を見送った。

「どうなるんでしょうか……」

 一際深刻なのは朝比奈さんだった。気の毒なことに相当ヨレている。ハルヒ映画のおかげで一番神経を病んでいるのは彼女だな。長門はデフォルトの無表情を崩さない。恰好も黒ずくめのままである。

 古泉がホットオーレを啜り込みながら言っている。

「一つ解っているのは、このまま涼宮さんを放っておくわけにはいかないということです」

「そんなもんはお前に言われるまでもねーよ」

 俺はお冷やを一気飲みした。注文したアップルティーはすでに飲み干している。

「だから、どうやってハルヒを止めるのかを問題にしてるんじゃないか」

「どうやってと言いましても、今頃になって映画撮影を中止させることが誰に可能でしょうか。少なくとも、僕には自信がありません」

 もちろん俺にもない。

 いったんエンジンがかかったが最後、ハルヒはスイッチを切らない限りどこまでも走っていってしまうのである。泳ぎを止めると死ぬ魚の一種なのかもな。系図を辿っていけばあいつの祖先にマグロかカツオがいるに違いない。

 長門は何も考えていないような顔でシナモンティーを黙々と飲んでいる。本当に何も考えていないのかもしれないが、すべてを解っているから考える必要もないのかもしれないし、ただの極端な口ベたなのかもしれない。こいつばっかりは半年経っても考えてることがさっぱり解らない。

「長門、お前はどう思うんだ。何か意見はないのか?」

「………」

 音を立てずに受け皿へとカップを戻した長門は、なめらかな動きで俺を見た。

「前回と違って涼宮ハルヒはこの世界から消えていない」

 フリーズドライしたような声だった。

「それだけで充分だと情報統合思念体は判断している」

 古泉が優雅に額を押さえた。

「しかし僕たちは困るのですが」

「我々は困らない。むしろ観測対象に変化が発生したのは歓迎すべきこと」

「そうですか」

 あっさり長門に見切りをつけて、古泉は再び俺に顔を向けた。

「では涼宮さんの映画がどのようなジャンルのものになるのか、それを決定づける必要がありますね」

 さあ、またこいつはわけの解らないことを言い出すつもりだぞ。

「物語の構造は大まかに分けて三つに分類することが出来まず。物語世界の枠組みの中で進むか、枠組みを破壊して新たな枠組みを作り上げるか、破壊した枠組みをまた元通りに直してしまうか」

 やっぱり演説を始めやがった。はあ? 何言ってるのこの人? みたいなもんだ。朝比奈さんも、そんな真面目な顔で聴くもんじゃないですよ。

「ところで我々は枠組みの中にいるのですから、この世界を知るには論理的思考を働かせて推測するか、観測によって知覚しなければなりません」

 枠組みってな、何のことだ。

「たとえば我々のこの『現実』を考えてみましょう。僕たちがこうして生活している世界のことです。対して、涼宮さんの撮っている映画は我々にとってフィクションです」

 当たり前だろ。

「我々が問題視しているのは、そのフィクション内での出来事が『現実』に影響を及ぼしているからです」

 ミラクルミクルアイ、鳩、桜、猫。

「虚構による現実への侵食を防がねばなりません」

 なんだか古泉はこういうことを話す時には元気になるみたいだな。やけに晴れやかな顔をしている。反抗して俺は曇った表情を浮かべることにする。

「涼宮さんの異能力が映画作りというフィルターを通して顕在化しているわけです。これを防ぐ手段は、『フィクションはあくまでフィクションに過ぎない』、ということを涼宮さんに解らせることなのです。今の彼女は、この垣根を無意識のうちに曖昧化させていますから」

 よほど調子に乗っているんだな。

「フィクションでの出来事が事実ではないということを論理的手続きによって証明することが必要です。我々はこの映画を合理的に落ち着くよう誘導しなければなりません」

「猫が喋るのをどう正当化すればいいんだよ?」

「正当化というのは違いますね。それでは結局、猫が喋り出す世界が構築されることになってしまいます。我々の『現実』では猫は喋りません。喋る猫のどこかに何らかの間違いかあったことにしなければマズいのです。なぜなら猫の喋る世界は、我々の世界にはあり得ないものの一つなのですから」

「宇宙人と未来人とESPはあり得てもいいのか?」

「ええ、もちろん。だって現に存在していましたからね。我々の世界ではそれが普通です。ただし涼宮さんには知られてはいけない、という条件付きの」

 そうなのか?

「もし我々の世界をどこか遠くから眺めている存在がいたとしましょう。その彼ないし彼女にとっての『現実』世界が、以前のあなたのように超常的な超自然現象のない世界----宇宙人も未来人も超能力者もいない世界です----だとしたら、この我々の『現実』はまさにフィクショナルな世界に見えることでしょうね」

 それがお前の言う神様の正体か。

「でもそれはあくまで外側から見た場合でのことです。あなたはすでにこの世界に超自然的存在----つまり僕とか長門さんです----が、ちゃんといることを知ってしまっている。その世界で生きている以上、あなたもまた枠組みの中で現実を認識するしかないのです。あなたの現実認識は、一年前と今ではすでに違うものになっているはずですよ」

 知らないままのほうがよかったかもしれないな。

「それはどうでしょうね。まあ、一つ言えることがあります。涼宮さんは以前のあなたと同じ状態です。つまりまだ現実認識が変化するまでにいたっていない。口では色々なことを言いつつも、心の奥底では超自然的存在を信じていないわけです。彼女が見たものと言えば閉鎖空間と〈神人〉ですが、涼宮さんはあの時のことを夢だと思っている。夢は虚構です。なので、この『現実』はまだ我々にとっての現実として形を留めているというわけですよ」

 するってーと。

「ええ、ですからこのまま虚構が現実化していき、涼宮さんがそれらを『現実』だと認識すれば、まさに喋る猫の存在は『現実』の一つとして取り込まれます。猫が喋るなんておかしなことですから、喋る猫の存在を現実化するには世界そのものの再構築が必要です。猫が喋ってもおかしくない世界を、涼宮さんは作り上げようとするでしょう。おそらくSF的な世界観にはなりませんね。彼女の思考パターンから言って、そんな面倒なことをするとは思えません。世界は一気にファンタジーの論理が支配するものになるでしょう。猫が喋ることに何の理屈もいらないわけです。喋る猫がいる、というただその事実のみで充分なのですよ。なぜ猫が喋るのかというエクスキューズは皆無です。なぜなら猫とはもともと喋る動物だったことになるのですからね」

 古泉はマグカップを置いて、陶器の縁を指でなぞる。

「それでは困るわけです。今まで世界を構築していた概念がひっくりかえるからですよ。僕は人類の観測結果と思考実験をそれなりに尊重しています。その上で、何もしてないのに自然に喋りだす猫というものは観測もされていなければ予想もされていません。我々のこの世界にいてはおかしい存在なのです」

 お前たちはどうなるんだよ。超能力者だって似たようなものだろう。

「ええ、ですから我々もまた、世界にとっては既定の法則を揺るがす異物です。我々が存在するのは涼宮さんのおかげでしょうね。ということは、この喋る猫もそうでしょう。彼女が映画に登場させようと考えた、まさにその存在です。どうやらですね、涼宮さんが作ろうとしている映画の内容と、この現実世界がリンクしようとしているようだ、ということが解るのですよ」

 解ったところでなあ。なんとかならないのか。

「それにはまず、映画のジャンルを決定する必要があるのです」

 いい加減にしろと言いたいね。独りよがりな熱弁を振るうのは、そりゃ本人は楽しいかもしれないが少しは聞いている身にもなれ。全校朝礼の校長訓辞に匹敵するウザさだぜ。見ろ、朝比奈さんもさっきから変に暗い顔になってるじゃないか。

 しかし古泉はまだ喋り足りないようで、

「もしこれがファンタジー世界での出来事なら、猫が喋ったり朝比奈さんが目からビームを出したりなどの現象には何の説明もいりません。その世界は、『もともとそういうふうになっている世界』だからです」

 俺は窓の外へ視線を移動し、シャミセンがまだそこにいることを確かめた。

「ですが、喋る猫やミクルビームが存在することに何らかの理由があれば、その時点で別の世界が見えてきます。我々が知らなかっただけで猫が喋ったり朝比奈さんがビームを出したりする現実は確かにあったのだ、ということになるのです。観測によって存在証明ができたわけです。しかしその瞬間、我々の世界は変容します。超常現象がない世界から超常現象を内包した世界を認識し直さなければならないのです。我々の知っていた現実世界は、実は偽りのものだったことになるのですから」

 俺はため息をついた。どうやってもこいつは語りを止めないらしいな。

 つまり猫が喋るには喋るだけの理屈がいると、そう言いたいのか。でもそれならお前や長門や朝比奈さんはどうなるんだ。お前と彼女たちだって充分に超自然現象に分類されるんじゃないのか?

「あなたにとってはそうでしょう。自明の理のはずです。あなたにとって世界はすでに変容しています。高校に入学したばかりのあなたと現在のあなたでは、認識している世界はとっくに別物なのではないですか? あなたの現実認識は、もはや以前のモノとは違っています。そしてあなたは新しい現実を認識しているんじゃないんですか? 我々のような存在が確かにいることを、あなたはもう解っているでしょう」

「俺に何を解れと?」

「映画の話に戻りますが、今のところ涼宮さんが作ろうとしているのは、おそらくファンタジーに分類されるもののようです。この映画の中では、猫が喋るのも朝比奈さんや長門さんが魔法じみたカを使うのも何の理由もいりません。ただそうなっている、それで充分なのです」

 じゃあ、化け猫や未来人ウェイトレスや悪い魔法使いに存在意義を与えてやればいいのか。

「ところがそうもいかないのですよ。それどころか、存在意義など与えてしまってはそっちのほうか困るんです。観測者が物語のスタート時と結末時で『物語内の世界が変化』したことを確認してしまえば、まさに存在を認めることになりますからね。喋る猫が存在してもいい、というふうに世界のほうを変えてしまうのですよ。僕はこれ以上世界がややこしくなるのはあんまり歓迎しませんね」

 俺だって歓迎しない。長門サイドくらいだろうな、困らないのは。

「先ほど僕はジャンルを決定する必要があると言いましたが、ここでとあるジャンルに登場願えればいいのです。そのジャンルは、すべての謎や超自然現象を解体し、合理的なオチをつけることによって、歪みかけた世界を元通りの世界に引き戻す性質を持っています。物語のスタート時にあった世界が結末時において復活し、謎のような現象はすべて合理的に解消する働きを持つ唯一のジャンルがあるのですよ」

 何だ。

「ミステリですよ。特に本格ミステリと呼ばれるものの一部です。このジャンルの方法論を使えば、あたかも信じがたいように思えた現象はその通り、ただ『信じがたいように思えた』というだけで、なにもわざわざ超自然現象を持ち出さなくともよいことになります。喋る猫も朝比奈必殺ビームも、何かのトリックであったということにしてしまえばいいわけですから。我々の現実は変容することはないでしょう」

 喫茶店のウェイトレスが、朝比奈さんを意識して無視するような感じで全員のカップを下げに来た。その姿が去るのを待って、古泉は、

「人語を話す猫がいるというのは明らかにこの世界の常識ではありません。にもかかわらず、ここに喋る猫は存在します。存在するはずのないモノが存在するわけです。これは我々の世界にとって非常に不都合なことです」

 水の入ったグラスに付着した水滴を指で弾きながら、

「事態を解決するには、この映画に合理的なオチをつけなければなりません。猫が喋ったり、未来人がいたり、魔法使いの宇宙人がいることに対する、論理的に万民が----というより涼宮さんが----納得する結末です」

「あるか? そんなの」

「ありますよ。ごくごく簡単で、それまでの理屈に合わない展開を一気に常識的なものへ転化する結末がね」

 言ってみろ。

「夢オチです」

「………」

 沈黙が訪れた。全員の間に平等に。やがて古泉は言った。

「冗談を言ったつもりはなかったのですが……」

 前髪をつまんで指に絡めている優男に、俺は侮蔑を込めた視線を突き刺した。

「ハルヒがそれで納得すると思うか? あいつは嘘か誠かは別として、けっこう本気で何らかの賞を狙っているらしいそ。それが夢オチだ? いくらあいつがアホでも、そこまで突き抜けたアホな映画にはしないと思うぜ」

「彼女がどう思うかではなく、我々の都合に合わせたオチを考えた結果です。映画の内容がすべて夢、嘘、間違いだったということを作品内で自己言及するのが、一番よい解決法なのですよ」

 お前にとってはそうだろう。俺にとってもそのほうがいいのかもしれない。しかしハルヒはどうだろう。ひょっとしたらあいつの頭の中には、途方もなく自画自賛すべきラストシーンが出来上がっているのかもしれんぞ。

 それに俺はもう夢がどうしたとかいうような話には二度と触れたくないのだ。ついでにお前のクソ面白くもない独断的事情説明にもな。

 

 自宅への帰り道にホームセンターに寄った。一番安い猫用トイレ一式と特売の猫缶を購入し、一応領収書も貰って外に出る。シャミセンは前脚で顔を洗いながら待っていた。俺は歩き出し、猫もついてくる。

「いいか、家では一言も喋るな。ちゃんと猫らしくしていろ」

「猫らしく、という言葉の意味は解らないが、キミがそのように言うのなら従おう」

「喋るな。返事は、にゃあ、で統一しろ」

「にゃあ」

 連れて帰った野良猫を見て妹と母親は目を丸くした。俺は考えておいた嘘話、「こいつの飼い主である知人がしばらく旅行にいくことになったので一週間ほど預かることになった」と説明し、快諾を得た。特に妹は喜び勇み、シャミセンの身体中をぺたぺた触っている。化け猫のほうはおとなしく「にゃあ」と鳴くのみだった。それはそれであまり猫らしくないかな。

 

 無事に夜が明けた。今日も俺は学校に行かねばならない。置いていくのも心配なのでシャミセンも連れて行く。スポーツバッグの中に入るよう促した俺に、シャミセンは「まあ、よいだろう」と偉そうに言って納まった。校門の近くで出してやることにしよう。

 文化祭まで残り数日となった我が校だが、まるでハルヒのテンションに連動するかのように、雑然たる雰囲気を着実に増大させていた。昨日までの無気力ぶりはなんだったのかと思えるくらいである。

 朝っぱらからあちこちで鳴り物やら歌声やらが聞こえるし、看板や立て札みたいなものを作っている運中もそこら中にいるし、何をするつもりか不可解な衣装を着た一団もウロウロしている。このぶんでは異世界人の一人二人が混じっていたとしても不思議ではなくなってきた感じだ。やる気ゼロなのは一年五組だけだったのだろうか。このクラスのやる気の全部をハルヒが吸い取りでもしているのかもしれないな。

 俺が教室に入ると、すでにハルヒは着席しておりノートにわしわし書き殴りをおこなっていた。

「ようやく脚本を書く気になったのか?」

 自分の席に着きながら尋ねる。ハルヒはふふんと鼻を鳴らしてくいっと顎を上げた。

「違うわよ。これは映画のキャッチコピー」

「見せてみろ」

 ノートを取り上げて目を走らせる。

『朝比奈みくるの秘蔵丸秘極秘映像満載! 見ないと絶対後悔後の祭り! SOS団プレゼンツでお送りする今年最大の話題作! 雲霞のごとく押し寄せよ!』

 いたずらに扇情的なだけだとか今年はあと二ヶ月くらいしか残っていないとかいうツッコミは封印してやってもいいが、これでは朝比奈さんが出ているということしか解らない。このコピーを読んでどんな映画なのか想像できる人間がいたら、俺は違った意味で尊敬する。まあ撮影している俺にだってまだどんな映画か解らないんだし文句のつけようもない。ハルヒにも解ってないんじゃないか? それにしてもよく辞書なしで雲霞って書けたな。

「チラシを刷って当日に校門前で撒くわけよ。うん、効果バツグン! 文化祭くらいバニーの恰好してても岡部も何も言わないわよね!?」

 いや、言うと思うが。ここはお堅い県立高校なんでな。担任の胃を痛めるようなことはやめてやれ。

「それに朝比奈さんは模擬店で忙しいだろう。古泉と長門も自分たちのクラスでも何かやるんだろ、当日にヒマなのはお前と俺くらいだ」

 ハルヒは胡乱な目つきで俺を見た。

「あんたがバニーをするって言うの?」

 なんでそうなる。お前が一人でやればいいだろ。俺ならその後ろでプラカード持って立っていてやるさ。

「ところで知ってるか? 文化祭までもうそんなに日がないぞ。今週末の土曜と日曜が文化祭の当日だ」

「知ってるわよ」

「そうかい。のんびりしてるもんだから日付を勘違いしてんじゃねえかと思ってたよ」

「のんびりなんかしてないでしょ。今もほら、煽り文句を考えてたんだし」

「宣伝のことを考えるより、先にやることがあるだろうが。映画はいつ完成するんだ?」

「もうすぐよ。後は足りないシーンを撮り足して、編集して、アフレコと音楽とVFXを入れたら出来上がりよ」

 そりゃ驚きだ。カメラマン的立場から言わせてもらえば、足りないシーンのほうが多いような印象を持っているのだが、いったい監督はどんな映画にすることを考えているのだろう。おまけに撮影終了後の作業に今までの倍くらい時間がかかりそうなのも、単なる俺の気のせいだといいんだが。

 

 三限と四限の間の休み時間だった。

「キョンくんっ!」

 教室にいたクラスメイトたちが残らず腰を浮かせるくらいにバカでかい声が響き渡り、俺が反射的にそちらを見ると、鶴屋さんが戸ロから顔を覗かせていた。その肩の横に朝比奈さんの柔らかな髪が見え隠れしている。

「ちょっとこっち来てっ」

 鶴屋さんの笑顔に引かれるように、俺はすっ飛んで行った。ハルヒは休み時間になるとどこかに消える習慣を維持しているので教室にはいない。たぶん、校舎のどこかをほっつき歩いてるんだろう。好都合だ。

 廊下に出た俺の袖を鶴屋さんは引っ張って、

「みくるが話があるって!」

 反対側の校舎まで聞こえそうな声でそう叫び、朝比奈さんの背中をばしんと叩いた。

「ほら、みくる、キョンくんにアレを!」

 おずおずとした手つきで、朝比奈さんは俺にぴらぴらの紙切れを差し出した。

「これ……。そのう、わわ、割引券です」

「あたしたちのクラスでやる焼きそば喫茶のやつだよっ」と、鶴屋さんが追加説明。

 有り難く受け取ることにする。クーポン券みたいなものらしい。落款を押された印刷文字を読む限りでは、これを持って行くと焼きそばが三割引になるそうだ。

「お友達とお誘い合わせの上でお越しください」

 ぺこりと頭を下げる朝比奈さんと、マンガのキャラみたいな口で笑っている鶴屋さんだった。

「それだけ! じゃあね!」

 さばさばと鶴屋さんは立ち去ろうとして、朝比奈さんもそれに従いかけ、しかしすぐに一人で俺の許へと駆け戻った。鶴屋さんはそれを見ながらケロケロ笑い、立ち止まって待ちの姿勢。

 朝比奈さんは両手の指先を合わせて俺をちらちらと眺めていたが、

「……キョンくん」

「なんでしょうか」

「古泉くんの言うこと、その、あまり信用しないほうが……。こんなこと言うと、あたしが古泉くんをアレかと思われるようで……その、イヤなんですけど……でも」

「ハルヒが神様だとか、そういう話ですか?」

 なら、そんなこと信じちゃいませんよ。

「あたしは、そのう……。別の考えを持っていて、つまりその、それは……古泉くんの解釈とは違うものなんです」

 朝比奈さんはふひゅうと息を吐き、俺を上目で見つめる。

「涼宮さんに、この『現在』を変えるカがあるのは間違いないです。でも、それが世界の仕組みを変えるものだとは思いません。この世界は、最初からこうだったの。涼宮さんが作り出したんじゃないんです」

 それはそれは……。古泉とは真っ向から反発する意見ですね。

「長門さんも違うことを考えていると思う」

 朝比奈さんは制服の前で指を絡ませながら、

「あの……。こんなこと言うとちょっと人聞きが悪いかもしれないんですけど……」

 離れた場所で鶴屋さんがニヤニヤ笑いながら俺たちを眺めている。雛に巣立ちを促すツバメの親みたいな顔だった。何か誤解しているんじゃないだろうか。

 言葉を紡ぐ朝比奈さんの口調は朴訥としている。

「古泉くんの言っていることと、あたしたちが考えていることは違うものなの。古泉くんのことを、そのう……あんまり信用しないで……と言ったら語弊があるけど、ええと」

 慌てたように手を振って、

「ごめんなさい。あたし説明ヘタだし制限かかってるし……。あの、」

 うつむいたり、俺を見たりしていたが、

「古泉くんにはあっちの都合と理論があるし、あたしたちにもそう。たぶん、長門さんも。だから」

 朝比奈さんは、身体中の気力を総動員したような決意に満ちた顔で俺を見つめた。真面目な顔も可愛らしい。このお顔を至近で拝見できる感激に震えつつ、自信を持って俺は答えた。

「解ってますよ。ハルヒが神様なわけないじゃないですか」

 あんな奴に賽銭を投げるくらいなら、朝比奈さんを教祖にして宗教法人を立ち上げたほうが信者の集まりもいいというものだ。実印と太鼓判を両方押してもいい。

「俺にはまだ古泉より朝比奈さんの意見のほうが解りやすいですよ」

 ちょっとだけ、朝比奈さんは微笑んだ。もしスイートピーが笑うのだったら、こんな感じになると思うね。

「うん。ありがと。でも、あたし自身には古泉くんに含むところはありません。それも解っておいてくださいね」

 微妙なことを言って俺を上目遣いで見上げると、逃げるようにさっと身体を翻した。いや別に抱きつくつもりはなかったですが。

 朝比奈さんは、小さく手を振ってから、親鳥の後ろをつけるカルガモの雛みたいに鶴屋さんの後を追いかけて行った。

 

 少しでも作業を進めておいたほうがいいだろう。そう思い、同時に何で俺こんな殊勝なことを思ってんだとも思いつつ、パソコンをいじるために訪れた部室には先客がいてトンガリハットに暗幕マントのまま本を読んでいた。

 俺が何も言わないうちに、

「朝比奈みくるの主張はこうだと思われる」

 俺の心を読んだように長門はそう前置きし、

「涼宮ハルヒは造物主ではない。彼女が世界を創造したのではない。世界はこのままの形で以前から存在していた。超能力や時間異動体、概念形地球外生命体などの超自然的存在は涼宮ハルヒが願望によって生まれたのではなく、元々そこにいたのである。涼宮ハルヒの役割は、それらを自覚無しに発見することであり、その能力は三年前から発揮されている。ただし彼女の発見は自己認識に到達しない。彼女は世界の異常を探知できるが決して認識することはない。認識を妨害する要素もまた、ここに存在するからである」

 決して笑わない唇が淡々と言葉を紡ぐ。長門は俺の目をじっと覗き込むように、最後にこう言って口を閉ざした。

「それが、我々」

「朝比奈さんには古泉と違う理由があって、ハルヒが不思議現象を見つけることが不都合なのか」

「そう」

 長門はまた開いた本に目を向ける。俺との会話などどうでもよさそうな態度だった。

「彼女は彼女が帰属する未来時空間を守るためにこの時空に来ている」

 何だか、重大なことをサラリと言われたような気がする。

「涼宮ハルヒは朝比奈みくるの時空間にとって変数であり、未来の固定のためには正しい数値を入力する必要がある。朝比奈みくるの役割はその数値の調整」

 紙の擦れる音も立てず、長門はページを繰っている。硬質な黒い目を瞬きもさせずに、

「古泉一樹と朝比奈みくるが涼宮ハルヒに求める役割は別。彼らは互いに相手の解釈を決して認めることはない。彼らにとって異なる互いの理論は自分たちの存在基盤を揺るがすものにほかならない」

 待てよ。古泉は三年前に超能力が自分に宿ったのだと言ったぞ。

 俺の疑問に長門は即答、

「古泉一樹の言葉が真実であるという保証はどこにもない」

 俺は例のハンサム笑顔を脳裏に描いた。確かに保証はない。古泉の理屈は俺が被った出来事にもっともらしい解説を付けているだけだ。それが正解だと誰に解る? 事実、朝比奈さんは信じるなと言った。しかし朝比奈さんの理屈だって同じことだ。朝比奈版解答が正しいのだと、誰が保証してくれるのだろう。

 長門を見る。古泉の言うことは嘘っぱちかもしれない。朝比奈さんは自分の意見が嘘だと気付いていないのかもしれない。だが、この冷静な宇宙人だけは嘘を言いそうにない。

「お前はどう思っているんだ。どれが正解だ。前にお前が言ってた、自律進化の可能性ってのは結局何なんだ」

 黒衣の読書好きは底抜けに無感情だった。

「わたしがどんな真実を告げようと、あなたは確証を得ることができない」

「なぜだ」

 しかしその時。俺は滅多に見られないものを見た。長門は、迷うような表情をしたのだ。俺が少々愕然としていると、

「わたしの言葉が真実であるという保証も、どこにもないから」

 最後に長門はこう告げて本を置き、部室から立ち去った。

「あなたにとっては」

 予鈴が鳴り出した。

 

 わからん。

 普通、解るか?

 古泉も長門も、もっと他人に解りやすく話してくれよ。わざと難しく言ってるんじゃないかと思うね。少しは簡単にまとめる努力を払うべきだ。でないと、そんなもの耳を素通りするだけだからな。誰も聞いちゃくれねえぜ。

 腕組みしながら歩いている俺を、無国籍中世風な恰好をした一団が追い抜いて廊下の角を曲がった。長門があの黒い衣装で混じっていても違和感ないような連中だった。どこのクラスかクラブかが、ハルヒに負けじとファンタジー映画でも撮ってるのかもな。いいよな、そいつらは。おそらく俺のような悩みを持つことなく、楽しく撮影をおこなっていることだろう。もっとまともな監督が常識的な指揮を執っているんだろうしさ。

 俺はため息つきつき、一年五組の教室へと帰還した。

 

 映画撮影が順調だと考えているのはハルヒだけで、俺と古泉と朝比奈さんは次第に顔にかかる縦線が影を濃くするようになっていた。

 撮影が進むにつれ様々なことが発生しているようだった。いつの間にかモデルガンからはBB弾ではなく水撃弾が出るようになっていたし、朝比奈さんはハルヒが違う色のコンタクトを持ってくるたびに物騒なものを出し(金色がライフルダートで緑色がマイクロブラックホールだった)その都度長門に噛まれていたし、桜は咲いたと思ったら次の日には散っていたし、神社の白い鳩たちは数日後にはとっくに絶滅したはずのリョコウバトになっていたらしいし(古泉がこっそり教えてくれた)、地球の歳差運動が微妙にズレたりしてたそうだ(長門・談)。

 日常はどんどんおかしくなっているようである。

 疲れた身体を引きずって自宅に帰ると、今度はヒゲの生えた動物が口を開きやがるしさ。

「あの元気な少女の前で口を閉じておけばよいのだろう」

 三毛猫はスフィンクスみたいな姿勢で俺のベッドの上に寝そべっていた。

「よく解ってくれてるじゃないか」俺はシャミセンの長い尻尾を軽くつかんだ。猫はするりと俺の手から尾を逃がし、

「キミたちがそうして欲しそうにしていたのでな。私自身、あの少女に私の話し声を聞かれるのは何故か不都合なことになりそうな予感がある」

「古泉によるとそうらしいな」

 猫が喋る。ということは猫が喋っても不思議ではない理屈が必要である。簡単に言えば、喋る猫が存在しても何ら不思議でない世界を構築すればいいらしい。そりゃいったいどんな世界のどんな猫なんだ?

 シャミセンはぱかりとあくびをして尻尾の毛繕い。

「猫にも色々いるのだ。ヒトもそうであろう」

 その「色々」の部分をもっと詳しく知りたいもんだ。

「知ってどうすると言うのか。キミが猫に成り代わることができるとも思えない。猫の心理を体得することもまた然りであろう」

 うんざりだ。どいつもこいつも。

 そろそろ風呂にでも入ろうかと考えていたら妹が俺の部屋を訪れ、来客を告げた。

 誰かと思いつつ階下へと。ついに自宅までやって来たのは古泉だった。俺は家の外に出て、夜道にて応対してやる。部屋に入れて終わらない長話をされても困るし、シャミセンとダブルで意味不明な抽象論を聞かされるのも御免被りたい。

 思った通り、古泉は一人で理屈っぽいことを延々話して、あげくにこんなことまで言い出した。

「涼宮さんにとって細かい設定や伏線はどうでもいいんですよ。こっちのほうが面白いような気がする、で充分なわけです。そこには合理的な解決も、綿密な構成も、手がかりになるような伏線もありません。かなり刹那的に物語を作っていると言えるでしょう。オチなんか考えていないのです。ひょっとしたら未完で終わるかもしれませんね」

 それだと困るんだろうが。お前の言い分では、放り投げっぱなしで終わるとこのぐちゃぐちゃになりかけている現実がそのまま現実として固定されてしまうんだろ。ハルヒの中でちゃんと結末を迎えなければならず、なおかつ現実に即したオチでなければならない。そして、それを俺たちが考えないといけないわけである。ハルヒは考えなしだし、それにあいつの考えることは常態的に滅裂だ。ならばまだ俺たちが考えたほうがマシで、しかしなぜこんなことを考えなければならないのか、誰かこの呪いを肩代わりしてくれる奴はいないものか。

「そのような人がいたら」

 古泉は肩をすくめた。

「とっくに我々の前に姿を現していることでしょうね。ゆえに我々がなんとかしなければならないのです。特にあなたのがんばりには期待しています」

 だいたい何をがんばれってんだ。まずそれを教えてくれ。

「世界がフィクション化すると困るのは僕たちの論理ですからね。朝比奈さんも困るかもしれない。彼女たちには彼女たちの論理があるようですから。長門さんはよく解りませんが、観察者は結果を受け止めるだけです。最終的に勝ち上がってきた理論を冷静に受け止めるだけですよ。たとえ地球が消し飛んだとしても、涼宮さんが残るならばそれでいいのです」

 外灯の光が、薄闇の中の古泉を事務的に照らし出している。

「本当の話をお聞かせしますと、涼宮さんを中心とする何らかの理論を持っているのは我々『機関』と朝比奈さんの一派だけではありません。たくさんあるんです。水面下で我々がおこなっている様々な抗争と血みどろの殲滅戦をダイジェストで教えて差し上げたいくらいですよ。同盟と裏切り、妨害と騙し討ち、破壊と殺戮。各グループとも総力を挙げての生き残り合戦です」

 古泉は疲れ気味の皮肉な笑みを広げる。

「我々の理論が絶対的に正しいとは僕も思いません。しかし、そうでも思わないとやっていけないというのも現状なのです。僕の初期配置は、たまたまそちら側だったのでね。どこかに寝返ることもできません。白のポーンが黒側に移ることはできないのです」

 オセロか将棋にしろ。

「あなたには無縁のことでしょう。涼宮さんにも。そのほうがいい。特に涼宮さんには永遠に知らないでいて欲しい。彼女の心を曇らせるようなことはしたくないんです。僕の基準で言えば、涼宮さんは愛すべきキャラクターをお持ちです。ああ、もちろんあなたも」

「なぜ俺にそんなことを教える」

「口が滑ったんですよ。理由なんかありません。それに僕は冗談を言っているだけなのかもしれない。または、変な妄想に取り憑かれているだけなのかもしれない。あなたの同情を惹こうとしているだけなのかも。どちらにせよ、つまらない話ですよ」

 確かにな。全然面白くない。

「つまらない話のついでにもう一つ。朝比奈みくるが……失礼、朝比奈さんがなぜ僕やあなたと行動を共にしているのか、その理由を考えたことがありますか。あの通り、朝比奈さんは見ていて危なっかしい美少女です。つい手助けしたくなるのも解りまず。あなたは彼女が何をしようと肯定的に受け止めるでしょう」

「それのどこが悪い」

 弱きを助け、強きをくじくのが正常な人間の精神的営みだ。

「彼女の役目はあなたを籠絡することです。だから朝比奈さんはあのような容姿と性格をしているのです。まさにあなたの好みそうな弱気で可愛らしい少女としてね。涼宮さんに少しでも言うことを聞かせることができるのは、唯一あなたですから。あなたを搦め捕ってしまうのが最適なのです」

 俺は深海魚のように沈黙する。半年前、朝比奈さんから言われたことが思い返される。今の朝比奈さんではなく、さらなる未来から来た大人バージョンの朝比奈さんの言葉だ。手紙で俺を呼び出したその朝比奈さんは、「あたしと仲良くしないで」と言っていた。あれは彼女の立場がそう言わせたものだったのだろうか。それとも、彼女個人の心情吐露だったのか。

 俺が黙っているのをいいことに、古泉は年老いた縄文杉が話しているような声で続けた。

「朝比奈さんがウッカリ者なのはそう演じているだけで、本心は別にあるとしたらどうですか? そのほうがあなたの共感を得やすいと判断したのでしょう。幼く見える容姿や、涼宮さんの無理難題に唯々諾々と従う可哀想な立ち位置もそうです。すべてはあなたの目を自分に向けさせるためですよ」

 こいつ、本格的に正気ではなくなってきたようだな。俺は長門の平坦な声を真似る。

「冗談は聞き飽きた」

 古泉は微細に微笑み、いささかオーバーアクション気味に両手を広げた。

「ああ、すみません。やはり僕は冗談を貫き続ける能力に欠けていますね。嘘なんですよ。全部今僕が作ったトンデモ設定です。ちょっと深刻ぶったことを言いたかっただけでしてね。本気にしました? だとしたら僕の演技もなかなかですね。舞台に上がる自信が湧いてきましたよ」

 耳障りなくすくす笑いを漏らしながら、

「僕のクラスではシェイクスピア劇をやることになっているんですけどね。『ハムレット』です。僕はギルデンスターンの役を仰せつかりまして」

 知らん名だ。どうせ脇役だろう。

「本来はそうだったんですけどね。途中でストッパード版に変更になったんですよ。ですので僕の出番も結構増えてしまいました」

 ごくろうさんと言いたいね。ハムレットにシェイクスピア版以外のものがあるとは知らなかったよ。

「涼宮さんの映画と、こちらの舞台とで僕のスケジュールはけっこう厳しいものになっているのです。プレッシャーですよ。僕が精神的に疲れているように見えるのでしたらそのせいでしょう。その上、閉鎖空間でも出たりしたらきっと倒れ伏す自信がありますね。それもあって、あなたにお願いしに来たのです。どうか涼宮映画が発生源の異常現象を止めてもらえないかとね」

 合理的なオチというやつか? お前は夢オチとか言っていたな。

「ハルヒの映画の内容が全部デタラメであるということをハルヒ自身に自覚させること----だったか?」

「明確に自覚させることですね。彼女は聡明ですので、映画がフィクションであることくらいしっかり知っています。ただ、この通りになったらいいなと考えているだけなのです。そうはならない、ということを確実に解ってもらう必要があるのですよ。できれば撮影が終了される前に」

 よろしくお願いします、と一礼して、古泉は夜闇の中に消えていった。なんだろう。あいつは俺に責任を押しつけに来たのだろうか。自分はすでに苦労しているから次の苦労は俺が背負えと、そういうことなのか? だとしたらお門違いもいいところだ。ババ抜きのジョーカーじゃあるまいし、押し付け合いをするもんでもない。涼宮ハルヒは五十三番目のカードじゃないんだぜ。切り札でもオールマイティーでも、もちろんババでもない。

「まあ、しかし」

 俺は呟いた。

 放っておくわけにはいかないようだった。長門はともかく、朝比奈さんも古泉もそろそろヒットポイントがデッドラインに近付いているようだ。俺が知らないだけでこの世界全体もそうなのかもしれない。

「それはちょっと困る……かな」

 面倒くさいな、ちくしょう。俺だってかなりアップアップなんだぜ。

 俺は方策を考えた。ハルヒの妄想を収めるにはどうすべきか。映画は映画、現実は現実、おのおの別物なのだと、ハッキリキッパリ解らせるにはどうすればいいのか。そんな当たり前のことを改めて納得させる手だてとは何だろう。夢オチか……それ以外では?

 文化祭まで、後少し。

 

 翌日、俺はハルヒにとある一つの提案をして、すったもんだの末に了承を得た。

 

「はいオッケーつ!」

 高らかにハルヒは叫んで、メガホンを打ち鳴らした。

「お疲れさーん! これで全部の撮影は終了よ! みんなよくがんばってくれたわ! 特にあたしは自分を褒めてやりたいわ! うん、あたしスゴイ。グレートジョブ!」

 その言葉を聞いて、ウェイトレス朝比奈さんが崩れ落ちるように座り込んだ。心底、安堵しているようで安堵のあまり泣きそうな顔になっている。実際、すすり泣きまで漏らしていたくらいだ。ハルヒはその涙を感極まったものだと解釈したようで、

「みくるちゃん、泣くのはまだ早いわよ。その涙はパルムドールかオスカーを授与されるその日まで取っておくの。みんなで幸せになりましょう!」

 校舎の屋上で、文化祭を明日に控えた昼休みだ。もはや昼飯すらおちおち喰えないほど、時間は切迫していたのである。

 ミクルとユキのラストバトルは、突如己の能力を覚醒させた古泉イツキの何だか解らん御都合主義パワーによってユキが宇宙の彼方に飛ばされることで幕を閉じた。

「これで完壁ね。すごいイイ映画が撮れたわ。ハリウッドに持ち込んだら。バイヤーたちが雪崩を打って飛びつくわね! まず腕利きのエージェントと契約しないといけないわ!」

 グローバルな感じで威勢のいいハルヒだった。こんな映像集を誰が見てくれるのか知らんが、引きのあるのは主演女優だけでその他スタッフは用無しだろうな。何なら俺が朝比奈さんのエージェントとして売り込みに行きたいね。小金くらいなら稼げそうに思う。ついでだ、ハルヒもグラビアアイドルあたりを目指してみないか? 俺が勝手に写真と履歴書を送ってやってもいいぞ。

「やっと終わってくれましたか」

 晴れ晴れとした顔で古泉が俺に微笑みかけた。

 腹の立つことだが、こいつに一番似合う表情はこういう無料スマイルのようだ。憂鬱な古泉など見たくもないね。気味が悪いからな。

「しかし終わってみれば一瞬だった気もしますね。楽しい時間は経つのが早いと言いますが、さて、楽しんでいたのは誰なんでしょう」

 さあね。

「後のことはあなたにお任せしてもいいですか? 今や僕はクラスの舞台劇のほうで頭がいっぱいなのですよ。映画と違って、そっちではセリフをトチってやり直しというわけにはいきませんからね」

 古泉はいつものニヤケ微笑を浮かべ、俺の肩を手の甲でハタいて小声、

「もう一つ。あなたには感謝しています。我々も、僕個人もね」

 それだけ言って屋上を後にした。長門はいつもの無表情で、黙々と古泉の後を追うように歩き去る。

 朝比奈さんはハルヒに肩を抱かれて、一緒になって彼方に見える海の方角を指差していた。

「目指すはハリウッド、ブロックバスター!」なんてことを叫ばされている。指差すのはいいが、そっちの方角に向かって海を渡れば着くのはオーストラリアだぜ。

「やれやれ」

 俺は呟き、足元にビデオカメラを置いて座り込んだ。古泉と長門と朝比奈さんにとっては終わりで合っているだろう。だが、俺にとってはこれは終わりの始まりだ。まだやるべきことは残っている。

 俺が記録した膨大なデジタルビデオ映像の数々、このジャンクな駄デジタル情報の集積物を何とか「映画」の体裁を取るまでにしなければならないのだ。それが誰の仕事なのか、さすがに言われなくとも解っていた。

 

 金曜日の夕方である。部室には俺とハルヒだけがいた。他の三人はそれぞれ自分たちのクラスの仕事に赴いている。

 クランクアップしたまではいいが、撮影が順調に間延びしたせいで他のことをする余裕が全然ない。パソコンに取り込んだ映像を繰り返し観ることになった俺の出した結論は、やっぱり朝比奈みくるプロモーションビデオクリップにするしかないという、実にシンプルなものだった。

 正直言って、とうとう最後まで俺にはハルヒが何の映画を撮っているのかピクセル単位で解らなかった。モニタに映っているウェイトレスと死神少女とニヤケ少年の三人は頭がおかしいのか? 当然のことだが、ビジュアルエフェクトをかます時間などどこを探しても余っておらず元々そんな技術もない。このまま無加工無添加の素映像をそのまま垂れ流さざるをえまい。

 ゴネたのはハルヒだ。

「そんな未完成なのを出展するわけにはいかないわ! なんとかしなさいよ!」

 ひょっとして俺に言ってるのか。

「んなこと言ってもだな、文化祭は明日で、俺はもうイッパイイッパイだ。お前の思いつきストーリーをどうにかこうにか繋がるように編集しただけでもう限界だっての。当分どんな映画も観たくはねえ」

 しかし他人の意見を瞬殺することに長けているハルヒは、

「徹夜ですれば間に合うんじゃないの?」

 誰がするんだ、とは俺は訊かなかった。ここには俺しかいないし、ハルヒの黒檀のような目は一直線に俺を目指していたからだ。

「ここに泊まり込んでやればいいじゃない」

 そしてハルヒは、俺が仰天するようなセリフを吐いた。

「あたしも手伝うから」

 

 結論から言うとハルヒは何の役にも立たなかった。しばらくは俺の背後でうろちょろ口出ししていたが、一時間もしないうちに机に突っ伏し寝息を立て始めやがったんでね。しまったな、寝顔を撮っておけばよかった。エンドクレジットの最後にその顔をアップにしてストップモーションで終えることだってできたはずなのに。

 ついでに言うと俺もその後まもなく眠ってしまったようだった。目を開けたら朝になってて顔半分にキーボードの跡がついていたからな。

 したがって、泊まり込みの意味はなかった。映画は未完成のままである。どうにかこうにか切り貼りして三十分に収めたが、見るも無惨な駄作の出来上がりだ。映画なんぞよく知りもしない素人が勢いで撮るとこうなるみたいなダダ崩れぶりだった。いっそ開き直ってバニー朝比奈の商店街CMカットだけにすればまだしも、強引なまでの編集方針で存在しないストーリーのツジツマを合わせようとしたもんだから、なおさら破綻に拍車をかけてもうヒドイことになっている。結局アフレコもしてないわVFXなどどこのシーンにも皆無だわ、笑いたくなるほどのゴミ映画だ。これでは谷口にも観せられない。

 パソコンを窓から遠投しようかと考えて、俺は差し込む朝日に目をすがめた。不自然な姿勢で寝てたから背骨が軋む。

 先に目覚めたハルヒが俺を起こした現時刻は午前六時半。学校に泊まったのは考えてみればこれが初めてだな。

「ねえ、どうなった?」

 ハルヒが俺の肩越しにモニタを覗き込み、俺はしかたなくマウスを動かした。

 再生が開始される。

「……へえっ?」

 ハルヒの小さな歓声を聞きながら、俺ばたまげている。作ったはずのないCGムービーが豪勢に動いてタイトルを表示した。その後から始まった『朝比奈ミクルの冒険エピソード00』は、ストーリーはズタボロ、セリフは聞き取れず、手ブレ満載、おまけに画面外の監督の怒号までが入っていたが、ビジュアルエフェクトだけは高校生の自主映画にしてはそこそこくらいのレベルに達していた。朝比奈さんの目からレーザーが出ていたし、長門の棒からも変な色つき光線が出ていた。

「へっへー」

 ハルヒも感心している。

「まあまあじゃない? ちょっと物足りないけど、あんたにしたら上出来だわ」

 俺ではない。浮上した別の人格が俺の寝ている間にやったのでなければ、どうやっても俺にこんなことは出来そうもない。俺以外の誰かがやったのだ。本命・長門。対抗・古泉。無印・朝比奈さん。大穴・まだ登場していない誰か。そんなとこだろう。

 しばしの間、俺たちは黙って自主製作映画の鑑賞会をおこなっていた。この小さな画面でなく、もっと巨大スクリーンで観れば、また別の感慨が生まれるのかもしれなかった。

 ディスプレイ上の動画はラストシーンへと差し掛かっている。古泉と朝比奈さんは手を繋いで満開の桜の下を歩いていた。そのままカメラがパンして青空を映し出す。すかさずチャラけた音楽が始まって、スタッフロールが縦スクロールを開始する。

 そして最後の最後にハルヒの声でナレーションが入る。

 俺が考案し、どうにかハルヒに言わせることの出来たナレーション。遊びの部分も必要なのだと言って説得した、監督自らによる幕引きのセリフだ。

 それはすべてをキャンセルできる魔法の言葉だった。

 

『この物語はフィクションであり実在する人物、団体、事件、その他の固有名詞や現象などとは何の関係もありません。嘘っぱちです。どっか似ていたとしてもそれはたまたま偶然です。他人のそら似です。あ、CMシーンは別よ。大森電器店とヤマツチモデルショップをよろしく! じゃんじゃん買いに行ってあげなさい。え? もう一度言うの? この物語はフィクションであり実在する人物、団体…………。ねえ、キョン。何でこんなこと言わないといけないのよ。あたりまえじゃないの』

 

エピローグ

 

 文化祭が始まって、俺のやることはなくなった。

 実際問題、イベントごとは準備段階が一番みんな楽しがっていると思うね。いざ始まってしまえばバタバタしているうちに時間が過ぎるだけで、あっと言う間に後片付けの時刻になる。だからその時が来るまで、俺はせいぜいブラブラさせてもらうとしよう。今日と明日くらいは俺一人が何もしなくても誰も文句はないだろうさ。

 唯一文句を垂れそうなハルヒなら、今頃、バニーガールとなって校門前でのビラ配りの最中だ。担任岡部や実行委員会が止めにはいるまでに、さあ、何枚撤くことが出来るかな。

 俺は部室から出て、活況を呈し始めている校内へと歩き出した。

 懸念していた現実の変容とやらは収まってくれたらしい。古泉がそう主張して長門が保証したからにはそうなんだろう。シャミセンが喋らなくなったことで俺はそれを知った。今や長門級の無口さだ。いまさら叩き出すのも何だし、この際飼ってやってもいいかと俺は考えている。妹も動くぬいぐるみが出来て嬉しそうにしていたからな。家族には「元の飼い主は旅行先に移住することになった」とでも言いわけしておこう。

 オス三毛は時たまニャアとか言っているが、俺がそう聞こえているだけで本当は別の言葉を喋っているのかもしれない。まあ、どうでもいい。

 なくなったと言えば、おかしなことだが前日までよく目にしていた奇妙な恰好の連中が出ていそうな演目も文化祭になかった。

 実行委員発行のパンフを見てもどこにもなく、それらしいことをしてそうな教室を覗いても(演劇部とか)、どこにもまったくいない。あいつらはいったい誰だったんだろうか。

「さて」

 無意味な呟きを漏らし、俺は校舎を練り歩いていた。

 実際に学校内を異世界人がウロウロしていたとしたらどうだろう。そして、彼らがいかにも異世界ファンタジーっぽい衣装を着ていたとしたら。そう、まるで長門みたいな。

 だとしたら、長門はハルヒに対する目くらましのために、故意にあんな恰好をして終始歩き回っていたのではないだろうか。あたかも、こんな衣装は文化祭の見世物のためのものに過ぎないという印象をハルヒに与えるために。

 長門は黙して語らないので解らないが、俺の知らないところで別の闘いを演じていた可能性だってある。今回やけにおとなしかったしな。地球の破滅を救うようなことをしてたとしても、あいつは無言を押し通すだろう。訊いたら教えてくれるかもしれん。が、どうせ言葉では伝えきれないような内容だろうし聞いたところで俺に理解できる頭があるとも思えない。

 だから俺も黙っていた。特にハルヒには、ずっと黙っておくべきだろうな。

 

 余談だが、SOS団製作の映画は視聴覚室で上映されていた。いちおう映画研究部の作品との二本立てということになっている。ハルヒが映研にねじ込んで無理矢理かつなし崩し的にそうさせることにしてしまったわけである。プロジェクターのある教室はそこしかない。映研は最後まで難色を示していたが、ハルヒの決定に逆らえる人間はこの世界には存在しないらしく、結局押し切られてCM入りメタクソ映画を抱き合わせ上映することになっていた。

 ちなみにSOS団なる団体は文化祭実行委員的にはないことになっているので、文化祭のプログラムのどこを見ても『朝比奈ミクルの冒険』なる演目は記載されていない。人気投票ベスト1はあきらめたほうがよさそうだ。その投票分はすべて映研に行くことになるだろうな。

 さらに余談。ハルヒに撮影を思いつかせることになった深夜放送の映画だが、調べたところゴールデングローブ賞受賞ではなく、かなり昔のカンヌ国際映画祭に出品された「だけ」という触れ込みのシロモノだった。あいつ、何をどう勘違いしてたんだ? ためしにレンタルして観てみた。最初の三十分で寝ちまった。そのため面白いのかつまらないのかも解らない。返しに行くまでにもう一回くらいチャレンジしてみようと思っている。

 

 せっかくだから一年九組の演劇も鑑賞してやることにした。

 古泉は終始微笑みながら演技を続け、最後にマヌケな死に際を迎えるというわけの解らん役柄で、ハルヒの映画とどっこいのアホらしさだが観客にはけっこうウケていたようだ。これは主演が古泉だったことで俺の頭に変なバイアスが出来てしまっていたからかな。古泉の演技は演技に見えず、素の古泉にしか見えなかったというのも俺にとってはマイナスだ。

 カーテンコールの拍手に応えて出てきた古泉は、俺に向かって片目を閉じ、薄気味悪いウインクが届く前に俺は教室を出た。ついでに長門のクラスも冷やかしてやろうとしたのだが、占い大会教室前にはすでに長蛇の列が出来ている。ちらりと覗いてみると、暗幕だらけの室内で暗黒衣装を身につけた女子生徒たちが何人か配置されていて、長門の無機質な白い顔もその中にあった。机に設置した水晶球に手をかざして淡々と客に何かを告げている。失せ物探しくらいにしておけよ、長門。

 

 映画と映画にまつわるゴタゴタは、「そんなものは結局、フィクションである」ってことを解らせることで何とかなったようだ。だが、この現実世界そのものをフィクションですと言って済ませることはできない。俺やハルヒや朝比奈さんや長門や古泉はちゃんとここにいて、「実はそんな奴いない」で終わらせるわけにはいかない。いずれ全員が散り散りバラバラになってしまうのかもしれないが、少なくとも今ここにはSOS団は存在し、団長も団員も揃っているんだ。俺の知っているこの世界ではそうなっているのだからな。つまり長門ふうに一言えば、「俺にとっては」。

 ま、何て言うかね、もしかしたらすべては大嘘なのかもしれないと思うことだってあるわけだ。ハルヒには何の力もなく、朝比奈さんと長門と古泉が壮大な嘘八百を俺に見せているだけの、白い鳩はただペンキ塗り立てで、シャミセンは腹話術か内蔵マイクで、秋の桜もミラクルミクルアイ攻撃も全部、仕込みに過ぎなかったのかもしれない、なんてことをな。

 だとしても、だからそれがどうしたとしか思えない話でもあるけど。

「そりゃねーか」

 いずれにしたってそんなの今はどうだっていいことだ。ハルヒと二人でどこかに閉じこめられて俺だけ困るよりも、みんなで困っているほうが一人頭の負担は軽減されるのは計算するまでもない。不幸中の幸いにしてSOS団団員は俺だけじゃないんだからな。

 まともな人間は俺だけだが。

 一年五組と同じく、単なる休憩所になっている教室の時計が目に入った。

 おっと、こうしている場合ではない。そろそろ約束の時間である。せっかくの割引券を使わない手はないだろう。どんな衣装なのかも気になるし。

 朝比奈さんの待つ焼きそば喫茶店に出向くため、俺は谷口と国木田との待ち合わせ場所へ急いだ。

 

あとがき

 

 近所のコンビニが続けざまに店じまいしてしまったため、一番最寄りのコンビニに行くまで徒歩十五分くらいかかるようになってしまったのですが、その途上、冬場になると渡り鳥たちでにぎわうことになる割と大きめの池があります。

 このあいだ通りかかったところ、なぜかもう夏だというのに池に居残っているマガモの雄が一羽、水面でゆらゆらたゆたっておりました。

 はて、このマガモはどういう理由で仲間たちと袂を分かち孤高の道を歩んでいるのだろうかと僕は考え、彼が春先のある朝に目を覚ましたら周囲に誰もおらず置いてけぼりにされたことに気付いて愕然とする様を想像して人並みに心を痛めていたりもしたのですが、先日、真夜中に買い出しへと出向いたとき、このマガモ氏が池近くの川の真ん中をバシャバシャ歩きながらガァガァ鳴いているのを目撃して、なんとなくホッとするものを感じました。なんだ、単に変な奴だったのか。

 人間界に集団行動を意味もなく嫌う人がたまにいるように、彼もまたカモ界の中でのヒネクレ者だったに違いありません。おそらく彼は一緒に北へ行こうと言う仲間たちの誘いを断り、「いや、俺はここに残る。理由は特にない」みたいなことを主張して、渡り鳥社会に据けるルーチンワークからの逸脱を選択したのでしょう。なんせ真夜中にウロウロしているくらいの変わり者ですから、広い池に一羽でポツンとしている程度のことは何の気にもならないような、むしろ孤独を愛する精神の持ち主であることは容易に推察できようというものです。

 と思って密かに得心していたのですが、ちょろりと調べてみたところによりますと、最近は春になっても北上せずそのまま居着いてしまう渡り鳥もけっこう存在するようで、ようするに池にやってきた人間がエサを撒いてくれるから食い扶持に困らず居心地がいいんだとか。何と言うか、それじゃ変な奴ではなくて面倒くさがりのズボラ野郎ではないかと勝手に落胆しつつ幻想を打ち壊されつつこのあとがきなる文を埋めている僕の心中など、まさに当のカモ氏にはそれこそ何の関係もない話であることでしょう。

 

 ところで話は変わりますが、次巻は「ザ・スニーカー」に掲載中(二〇〇三年の夏・現在)うわさの短編を幾つかまとめて書き下ろしか何かを付け加えたものになるという噂です。たぶん表紙タイトルは『涼宮ハルヒの退屈』ではないかと考えていますが、何かの拍子に変わるかもしれません。そもそも『涼宮ハルヒの憂鬱』なんていう三秒くらいしか考えていない題名をつけてしまったせいでシリーズタイトルがよく解らないことになっております。まさか続くとは思いもよっていませんでした。すみません。

 またまた話は変わりますが、先日長々と麻雀におつきあいいただいた方々、少しは容赦とか手加減とか手心……いえ何でもないです。

 どうもでした。

 最後に、担当S様とイラストいとうのいぢ様、ならびにこの本の製造に携わっていただけた方々と、そして読んでいただけたすべての方々皆様に平身低頭しながら、それではまたいずれの機会にでも。