前々から気になっていた渡辺努・岩村充著による『新しい物価理論』を読みました。主に「物価水準の財政理論」(Fiscal Theory of Price Level)を扱った本ですが、特に興味を持ったのは、既存の制度にとどまらない代替的な貨幣システムを論じた最終章でした。
最終章で示唆されているのは、「物価の安定」を目的とした場合、ゲゼル・マネーと実物資産準備(例えば金準備)の組み合わせが、ほとんど理想的な貨幣システムではないか、ということです(p.212)。
すなわち、Ⅰ)時間と共に価値が減価する通貨(=ゲゼル・マネー)を電子マネーなどによって実装することで、現金までの名目マイナス金利を実現し、「流動性の罠」を克服すること。並びに、Ⅱ)自然利子率の低下などのリアル・ショックに対して、現在物価と将来物価のトレードオフを避けることのできない名目利子の操作だけで対応するのではなく、政府の実物資産準備を実質貨幣残高と毎期逐次的に一致させるルールを導入することで乗り越えること、が提案されています。
以下、FTPLの下で導かれるこの結論を、順を追って要約してみたいと思います。
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中央銀行と政府のバランスシート(B/S)を統合して考える
FTPLでは中央銀行と政府の財務上の結合が重視されます。例えば日銀の場合、その役割としては法的に独立性が確保されているものの、財務的にはそうではありません。利益が出ればその大部分は納付金として国庫に返納され、また、仮に大幅な損失が発生した場合、政府から資本を補填されることになります。
したがって、「貨幣の信用度とは、強力な親会社の傘下にある子会社が発行する社債の信用のようなもので、それを子会社の財務だけで判断するわけにはいかない」(p.6)、ものと考えられます。
国債のネットアウト(コア国債)
重要なことに、政府と中央銀行のバランスシートを統合して考えれば、中央銀行の資産の大部分を占める国債保有額が、政府の負債サイドの国債発行額とネットアウトされます。
このため、統合政府のバランスシートには、負債としてネット国債(=民間保有国債)[B]の市場価値と貨幣(=マネタリーベース)残高[M]が計上され、これが資産サイドの保有資産[ξA]および将来に渡る名目財政余剰[s]の割引現在価値の合計とバランスすることになります。
式1:
この均衡式で重要なのは、政府バランスシートの状態に対する民間部門の評価(期待)が大きな影響を持つことです。すなわち、(1)負債サイドのネット国債残高は市場価値ベース、すなわち、前期までに発行済みの国債が生み出す将来時点のキャッシュフロー(元利支払い)を市場で決まる名目利子因子[Rn]で割引いた現在価値の合計です。また、(2)資産サイドの将来財政余剰は、人口動態や税制をもとに予想される実質ベースの財政収支と、将来の各時点でのそれら実質公共財サービス提供と課税対象に係る物価水準への期待で決まり、さらにそれが名目利子因子で割り引かれています。
名目FTPV式とフィッシャー式
物価水準の財政理論(FTPV)の基本式は、上の統合政府のバランスシート均衡式を現在時点の物価水準について解くことで得られます。そのためには、次のフィッシャー方程式(名目金利=実質金利+期待インフレ率)を用いて将来の物価水準を消去します。
式2:
すると、式1は以下のように現在物価の決定式に変形されます。
式3:
これがFTPLのエッセンスとなる式であり、物価決定における政府の財政収支と国債市場価値の重要性が表われています。例えば、将来財政収支の悪化が予想された場合、市場がそれを見越して名目金利が上昇しない限り、現在の物価水準が上昇することになると示唆されます。この意味では、国債市場がスムーズに機能し、名目金利が情報集約的に決定されることは、物価の安定にとって不可欠なこと、ともいえるでしょう。
貨幣需要関数と金融政策
また、FTPLにおいても、金融政策は名目金利に働きかけることで物価に影響し得ることが確認されますが、量的緩和政策(QE)についてはどうでしょうか。QEでは、通常、マネタリーベース[M]を増加させるために民間から国債を購入します。このため、式3において、Mが増える分だけBが減少し、それだけでは物価に対してニュートラルです。肝心なのは、QEがマネー増加と国債購入を通じて、政策金利をゼロにしただけでは下げ尽くせない長期の名目金利を押し下げる作用です。これには、マーシャルのkが金利に反比例するような貨幣需要関数の存在が大前提となります。
式4:
貨幣需要がこうした単純な形に従う限り、将来にわたり貨幣供給量を増大させた状態にすることで、十分長期までの名目利子率が低下し、長期金利を押し下げます。その結果、式3において、マネタリーベースの増加によって民間保有国債は減るけれども、長期金利の低下によって、国債の時価総額が増すことで、式3の分子が拡大、物価水準に上昇圧力を与えることになります。
ゼロ金利制約によるデフレーション
高齢化やバブル後の過剰資本の影響などによって、将来の実質利子率(=自然利子率=潜在成長率[Rr])に対する期待が下方シフトした場合、FTPL式(式3)の分母が拡大します。これに応じて市場金利[Rn]が低下してくれれば分子も拡大し、物価への影響はニュートラルです。しかし、実質変数である自然利子率が大幅に低下してマイナスとなった場合、名目利子率はゼロ金利の下限にぶつかってしまうことがあります。この時には、式3の分母の拡大に分子の拡大が追いつかないため、物価水準に低下圧力が発生。将来の実質マイナス成長が期待された場合に、ゼロ金利制約があることによるデフレーションが生じます。
ゲゼル・マネーによる解決
こうした名目ゼロ金利制約の解決策として、本書の最終章で取り上げられているのがゲゼル・マネーです。これは20世紀初頭の経済思想家であるシルヴィオ・ゲゼルによって発案された「時間とともに価値が減価するマネー」であり、J.M・ケインズが『一般理論』のなかで好意的に紹介していたものです。
もともとのゲゼルのアイディアは、「スタンプ貨幣」と呼ばれるもので、紙幣の保有者に保有期間に応じた価格のスタンプを購入させ、そのスタンプが貼りついていない貨幣は使用できないとする、貨幣に対する課税のような仕組みです。
この煩雑さに対して、本書では、貨幣が発行日からの経過日数に応じてマイナスの日歩[i]で減価するようにして、発行日の異なる貨幣が違う価値をもった債務だと認識できるようにすること、そして、そうした発行日間の交換レートを計算する煩わしさを解消するために紙幣を廃止して電子マネーを使用すること、が提案されていました。確かに、制度的なコストをあまり掛けずに、こうした貨幣に対するマイナス金利が実現できるのなら、国債に対するマイナス金利を定着させることも可能ですし、それによって、自然利子率低下によるデフレ・ショックを中和することもできそうです。
しかし、フィッシャー式から将来インフレが発生
もっとも、本書の最終章では、ゲゼルマネーによって名目金利のゼロ制約が解消されても、実質変数である自然利子率の低下に対して、市場金利の低下という名目変数だけで対応することには限界があると強調されています。
というのも、式3から分かるように、自然利子率低下の現在物価への影響をオフセットするのに必要な名目利子率の低下幅は、自然利子率のそれを上回る必要があるため、名目利子率<自然利子率となる必要があります。この場合、フィッシャー方程式(式2)により、将来的なデフレーションの予想が避けられないのです。つまり、金融政策がリアル・ショックに対して実現できるのは、その現在物価への影響を将来のいづれかの時点へと先送りすることだけなのです。このことは、式1を現在物価で除して実質ベースに変換した以下の「金融政策の制約式」に表れています。
式5:
すなわち、「財政余剰に対する予想が変化しないままで自然利子率が変化するというようなショックの下で、現在の物価を変化させないためには、何らかのかたちで将来の物価流列についての予想に変化を生じさせなければならない」(p.200)。
実物資産準備による解決
以上のように、リアル・ショックによる物価への影響を、金融政策によるマネタリー・ショックによって完全に中和することはできません。そこで本書で最後に提案されているのが、実質政府資産残高を逐次調整することによる解決です。すなわち、以下の式が毎期成り立つように、実質政府資産残高[ξA/P]を実質貨幣残高に一致させ続けるというルールを設定すること、が提案されていました。なお、アスタリスク付の自然利子率はショック前のベースラインの値を意味します。
式6:
これが成り立っていれば、少なくともj期については、あらゆるショックが中和された状態が保たれていることを意味します。当期に発生した自然利子率の変化に対しても、また、財政収支の変化に対しても、当期の政府資産残高を調整して対応させるのです。こうした戦略を毎期逐次に行うことをルール化し、それを民間経済主体が期待として織り込めば、物価の長期的な安定に寄与すると考えられます。
本書は、こうした制度が、「当期において実質貨幣残高相当の実物資産を政府自身で区分管理し、そうして区分管理した資産額を、毎期洗い替えして、常に実質貨幣残高相当の実物資産が政府部門のどこかに保管されている状態を作る」という意味で、「100%準備の金本位制」に相当することを確認しています。
もっとも、現代において、実質貨幣残高に相当する実物の金を集めることはほとんど不可能であり、実行しようとすれば、金価格の高騰による産業での需要減を招くため、非効率が発生すると警告しています。
そのため、金ではなくとも、中央銀行に、統合政府でみた場合にオフセットされる国債ではない実物資産を、実質貨幣残高に対応するように準備させ、その状態を逐次維持していくことで、同様の「逐次100%準備」の貨幣制度が実現されると述べています。具体的には、実物資産の価値にリンクする証券、すなわち、「十分に分散された株式ポートフォリオと、そうした株式を発行している企業の社債とを組み合わせて自然利子率資産を合成する」(p.227)ことが提案されています。
個人的には、エクイティ・リスクプレミアムの謎が解けない以上、このような株式ポートフォリオによって適切な自然利子率資産が合成できるとは思いませんが、何らかの形でそのような証券を組成し(例えば、民間発行による実質GDP連動債など)、中央銀行の準備とすることには納得できます。
結論としては、FTPLから見た場合、「実物資産100%準備による電子ゲゼルマネーの発行」というのが、「物価安定」のためにほとんど理想的な貨幣システムである、と言えそうです。