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2015-03-20

放尿は射精である

 このまえ、森岡正博の『感じない男』(ちくま文庫)を読んだ。

 賛成できない箇所は多数あれど、大切な論点を挙げている本であると思う。


 筆者の主張のなかでも重要なのが、「男は不感症である」というものだ。女性はセックスを全身で感じ、絶頂後も余韻を味わうことができるというのに、男性はせいぜい下腹部くらいでしか快楽を得られない。射精の快感もほとんどは「排出」の感覚である。しかも空しい。汚い。

 わたしはこの「射精=排出説」(わたしが勝手に呼んでるだけ)を読んで、なるほど、と思った。みさくらなんこつ先生の作品を読んでみると、フタナリ女子校生が巨根から精液、乳房から母乳、口から唾液、と全身からあらゆる体液を火山のような勢いで噴出しながら絶頂している。周囲にはハートマークが飛散し、あたかもその快楽の迸りを表現しているかのようである。

 それに対してわたしの射精のなんと貧相なことか。射精の快楽などというものは、粘液がわたしの短い尿道を押し広げて昇っていき、そのプレッシャーが出口で解放されるというプロセス、わずか十数センチ区間でおこる現象のうちに存するというほかない。下腹部が震えるといっても、その反動程度。

 セックスにかんする荒唐無稽な幻想が生まれるのも、快楽の貧しさを揉み消すためなのだろうか。陰茎から放たれた精液がどぷりどぷりと子宮に流し込まれていき、卵子に猛アタックして受精する、などという妄想をしているあいだ、わたしのクオリティ・オブ・セックスはたしかに上昇していたと言わざるをえない。


 ところで、射精が排出にすぎないとなると、その快楽は放尿と量こそ違えどなんら質的な差をもたないものだということになる。射精の快楽をどう増大させても女性の絶頂にはならないが、放尿の快楽を増大させれば射精となんら区別がつかなくなるのだ。

 これを「女は絶頂できるが男は絶頂できない」と表現してしまうと悲しい。が、一方でこれを「女は性的行為でしか絶頂できないが、男は放尿のたびに軽く絶頂できる」と捉えることもできるのではないか。

 理論定まればあとは実践あるのみ。そう思ったわたしは放尿の快楽に耳を澄ましはじめた。自宅で、大学で、駅で、バイト先で、あらゆるシチュエーションでの放尿において、わたしは尿道が押し広げられ、老廃物が体内から解放されていく感覚に集中した。

 そして、その結果。わたしは放尿によって微弱ながら射精と同質の快楽が得られるということに気づいたのである。


 大切なのは、感受性を研ぎすますことだ。自慰をおぼえたときのことを思い出してほしい。今まで陰茎に触れても何も感じなかったのが、なにかの拍子にすこし大きな快楽が与えられたとき、性感帯が目覚めたはずだ。ひとたび目覚めれば、あとはさらりと撫でるだけでもぴりぴりと電流が走る。それと同じことだ。

 まずは、尿道の動きを意識してみよう。そうすれば、いつか、あらゆる放尿は射精となる。

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