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 太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)で21日、日米合同の追悼式(日米の硫黄島協会主催)が開かれた。戦後70年を迎える今も、日本人死者の半数にあたる1万柱以上の遺骨が見つからない。これから多くの遺骨が見つかる見通しもたっていない。

 追悼式は戦後50年の1995年に始まり、2000年からはほぼ毎年開かれている。戦闘から70年の今年は、閣僚として初出席した塩崎恭久・厚生労働相、中谷元・防衛相ら、日米から計約550人が出席した。式典で、硫黄島の戦いに参加した米退役軍人のスノーデン氏は「遺族に深く残された傷痕は、日米双方から数千もの戦死者を出したこの島での熾烈(しれつ)な戦いを思い出させる。私たちは今後も永遠に追悼する」。硫黄島の戦いを率いた栗林忠道中将(後に大将)の孫で遺族代表の新藤義孝前総務相は「平和と繁栄が多くの英雄たちの尊い犠牲の上に築かれたことを心に刻む」と述べた。

 硫黄島は45年2~3月、日本本土への爆撃を目指す米軍と、約18キロに及ぶ地下壕(ごう)を造り抵抗した旧日本軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。日本の戦死者は約2万1900人、米軍も6821人が死亡した。