上方文化の象徴といわれた落語家の桂米朝さんが、この世からあちらへ、「宿替え」した。

 芸風と同じく、89歳で旅立つ姿もまた、端正だったという。眠るような最期を見守った弟子の桂ざこばさん(67)は、記者会見で「亡くなるとは、こんなきれいなもんか」と泣いた。

 やわらかなことばで、奥深くて知的な笑いの世界へ誘う。その品格ある高座でファンを魅了し、関西だけでなく広く全国で愛された。学究肌で知られ、著書も数多い。

 人間国宝、文化勲章など、後年、様々な栄誉を受けたが、入門した時分の上方落語界は、決して恵まれてはいなかった。

 一時は演者が十数人に減り、衰亡の危機に直面する。その中で米朝さんは自身の芸を磨き、弟子を育てた。今では上方の落語家は約250人、米朝一門は約70人の大所帯になった。復興の立役者といっていい。

 消えかけていた多くの噺(はなし)を復活させた功績も大きい。

 高齢の先輩の記憶の断片や文献を丹念に集めて研究。仕立て直して、次々と高座にかけた。成果は、落語界全体の財産になった。例えば、あの世での珍道中を描く「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」。この大作は、東西の落語家が挑む人気演目になっている。

 交友も幅広い。30代で雑誌「上方風流(かみがたぶり)」に集い、狂言の茂山千之丞、文楽の竹本住大夫、吉田簑助、吉田文雀、歌舞伎の坂田藤十郎、喜劇の藤山寛美さんら同世代の仲間とジャンルを超えて芸能や文化を考えた。小沢昭一、矢野誠一さんら、東京の俳優や評論家とも交流した。

 旧満州で生まれ、兵庫県で育った米朝さんは、進学のため一時期、東京でも暮らした。だからだろうか、上方落語の真ん中にいながら、それを外から見る視点も持っていた。一口に上方といっても京都、大阪、神戸で文化が異なり、同じ大阪の中でも言葉が一様でないことを面白がる文章も残している。

 自分たちの文化を相対化し、繊細に分析する米朝さんの落語は、気取りとも押しつけがましさとも無縁だった。それが、上方落語の魅力を全国に伝える力になった。圧倒的な発信力で東京文化が広がる中、この国の文化の土壌を豊かに耕すことにもつながっていた。

 古い知恵を理解し、現代の知で磨き直して次代に手渡す。地元の文化を愛し、また客観的にとらえる。米朝さんはこの営みを高いレベルで実践した。名人の足跡には、人が生きること、社会を築くことを考えるヒントもたくさん詰まっている。