犯罪者名鑑 麻原彰晃 5
船橋市に拠点を構える
愛しい伴侶と子を得た智津夫は、知子の実家のある船橋で、知子の実家から資金の援助を得て「松本鍼灸院」を開きます。盲学校で資格を取り、本場中国に修行にも出た智津夫の腕前は確かであったでしょうが、この鍼灸院は流行らず、客足は良くなかったようです。
特筆すべきは、この時期智津夫は、一日の診療が終わると、「世直しの集会」なるものを開き、大学生など若者を集め、政治談議に耽っていたことです。どこまで本気だったかわかりませんが、智津夫の話しは国レベルのことばかりでなく、船橋市の行政、組織図、派閥のことにまで及んでいたそうです。私や私の少し上くらいの世代は、ずっと選挙に行かないと言われ、政治に無関心と嘆かれていたものですが、この時代は政治が若者を引き付ける話題の一つだったのでしょうか。ともあれ、後の大教祖の片りんが、この時期すでに現れはじめていたのは間違いないようです。もっとも、誰にとっても魅力的に映っていたわけではなく、常連として通っていた寿司屋でも、同じように店主を捕まえて毎日のように政治談議に付き合わせ、「どうでもいいから、たまには早く帰ってくれないだろうか」と辟易させていたようですが・・・。
この世を変えるとか大きなことを口にする一方で、商売の方は現実的に考えていたようで、智津夫はパッとしない鍼灸院を閉めて、痩身効果を売りにした診療所兼漢方薬局、健康食品販売の店「亜細亜堂」を開業します。何をやりたいのかよくわからない胡散臭い店ですが、この店は結構繁盛していたようで、智津夫の金回りは見違えるほどよくなり、毎日寿司屋で五千円分もの食事をしていたそうです。
智津夫は亜細亜堂で、二人の若い看護婦を雇っていたそうですが、妻子を抱える身でありながら、この女性たちと肉体関係にあったようです。あまり人の容姿についてとやかく言うのはよくないですが、私はどれほど贔屓目に見ても、麻原彰晃という男性の容姿を美しいとは思えません。その彼が、一度に若い女性二人といい関係になれたというのは、金もあったかもしれませんが、深い人間的魅力とペテンの才能をこの時期から発揮していたと見て間違いないでしょう。
ちなみに、オウム時代には智津夫の浮気にも比較的寛容になった知子ですが、このときは激しい嫉妬をあらわにし、物を投げつけるなどして智津夫に抗議したようです。学生時代は虫も殺さないような少女だったという知子ですが、この変貌ぶりは、やはり女性は嫉妬の生き物だということでしょうか。誤解のないように書いておきますが、浮気をしながらも、智津夫は知子を愛することも忘れず、二十代半ばで早くも三女の父となっています。浄土真宗中興の祖蓮如を彷彿とさせる精力には恐れ入ります。
宗教への関心も、この時期から始まっていたようです。普段は真っ白い服を着て素足に下駄履きという風体。家では夜な夜なヨーガの修行に耽っているのが、近所の住民から目撃されています。
仏教の阿含宗にも入信しました。麻原はその著作や説法の中で、阿含宗について度々述べ、強い影響を受けたかのように語っています。彼が語るところによれば、麻原は阿含宗の中で「千座行」という、文字通り三年間に渡る修行をやり遂げ、組織の中でも一目置かれる立場にあり、後に地下鉄サリン事件の実行犯ともなった林郁夫ら複数名の信者を連れ、オウムの前身となったヨーガ道場を開いたということです。ただ、一方、阿含宗の幹部によれば、麻原が入信していたのは高々三か月程度のことで、その存在感もいるのかいないのかわからない程度のもので、入信の目的は単に宗教団体運営のノウハウを学ぶことのみであったろう、ということで、真偽のほどはわかりません。
二度の逮捕
「黒いふなっしー」智津夫の商売は順風満帆に行っていたかのようですが、彼は墓穴を掘ってしまいました。1980年七月、保険料の不正請求が発覚し、六百七十万円の返還を命じられたのです。まったくの自業自得ではあるのですが、この挫折の経験は智津夫に深い心の傷を与えたようで、前述の阿含宗への入信はこの直後のことでした。
さらに智津夫は、「亜細亜堂」を閉めると、「BMA(ブッダ・メシア・アソシエーション)薬局」を開業します。こんな胡散臭い名前の店にどうして客が入るのか、私にはまったくわかりませんが、この店も商売はそこそこ繁盛していたようです。
智津夫の欲は底なしです。生活に十分な金を稼げていれば十分とは思えず、さらに沢山のお金を掻き集めようとします。その方法がよくありません。適当な漢方薬やみかんの皮、消毒用のエタノールなどを配合したものに「風湿精」「青龍丹」などそれっぽい名前をつけ、デタラメな効果を謳って、六万円もの高額で販売したのです。
役場などで講演を開き、お年寄りを中心にニセ薬はかなり売れたようですが、そんな悪事がいつまでもうまくいくはずもありません。二十七歳のとき、智津夫は薬事法違反で逮捕されます。このときは新聞に智津夫の写真がでかでかと載り、辛辣な言葉が書き並べられたようです。罪を犯した智津夫本人はともかく、可愛そうなのは妻の知子で、彼女はしばらくは表を歩けなくなるほど深い傷を受けてしまいました。このときばかりは、智津夫も強烈な自責の念に駆られたことでしょう。
智津夫に「麻原彰晃」の名を授けた、宗教団体「自念信行会」会長、西山祥雲の元に駆け込むのはこの直後のことですが、二度の逮捕という挫折を経て、智津夫は人が宗教に縋るときの心理を痛いほどに学んだことでしょう。智津夫は後に麻原彰晃となってから、このとき感じた心理を、信者獲得に十二分に利用するようになります。
二度の逮捕は自業自得でのことですが、盲学校時代から智津夫の人生は挫折の連続といってもいいものでした。しかし、智津夫は挫折の度に新たな力を得て立ち上がり、苦い経験の中で学んだことを後の人生に役立てていきます。挫折を知らぬ強さは本物ではない、と言いますが、宗教の世界ほどそれが当てはまる世界はないでしょう。幼い頃は共感性に欠け、人に平気で暴力を振るっていた智津夫でしたが、他ならぬ自分自身が繰り返し痛い思いをすることで、人の気持ちを理解し、人の気持ちを掴む術を学んでいったのです。
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