- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/07
- メディア: 文庫
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もともと自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で十分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。
生まれ落ちて20余年。「趣味は読書です!(※ただし雑食かつ本当に単なる“趣味”)」を地で通してきた自分にとって、本書は脳天直下、深くまで突き刺さり、根幹を揺るがしかねない刺激をもたらしてくれる良書でした。ショウペンハウエル著『読書について』。
いつものように普通に読み切り、ざっくりと感想を書くだけというのも憚られるほどに興味深く読んでいる途中。まずひとつめの文章『思索』を読み終えたので、読書ノートにメモった要約と合わせて、感じたことをまとめました。
要約:読書に重大な価値はなく、健全な精神は「思索」から生まれる
書物からは多くを学ぶことができる。他人の考えや感情、知識などが、ひとかたまりのものとして記された「本」という存在。それを読むということは、自分の内からは思いつきもしない、異世界を覗きこむに等しい体験と言えるだろう。
しかし、書物に代表される外部媒体から得られる情報は断片的なものに過ぎず、それは言わば、“他人の食べ残し”、“他人の脱ぎ捨てた古着”でしかない。その価値は、甚だ疑問だとも言える。ゆえに僕らは多読を慎み、「思索」しなければならない。
もちろん、常に問題意識を保ち、思索し続けることは難しい。そこで、無理矢理にある事柄について考えようとする必要はなく、“自然に気分的にもそうなる機会”を待った方が良い。そうなるまでの間、読書に時間を費やすのは、決して悪いことではない。
ところが、日常的に他者の思考を追いかけ続けるようなことを続けていると、難しい問題の解決にあたって「権威」を利用するようになってしまう。それは文字通り、“虎の威を借る”ようなもの。自らの思想がなく、思索することができない彼らに対しては、如何なる根拠も論拠も通用しない。何を講じても倒れず、話も通用しないゾンビのような存在であり、戦うこと自体が得策でない。
真に価値を持つのは、“自分自身のために思索した思想”のみである。他人のために思索し、名声を求めるソフィストとなるか。知を愛し、思索にこそ幸福を感じる哲学家となるか。その選択は、自らがどのように「書物」と向き合うかにも直結する問題なのである。
「思索」の意味するところを「思索」する
まず第一に、「思索」とは何だろう。普段の自分ならば、一瞬の躊躇もなく検索バーに“思索”と打ち込むところだけれど、ショウペンハウエル先生もゲーテの一句を引用しつつ、こう書いていたではないか。
自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。
ウェブっぽく言い換えれば、「ググる前に自分の頭で考えよう、そんじゃーね」といったところだろうか。思い返してみれば、小学生の頃に辞書の使い方を覚えてからは、何でもかんでもすぐに調べる癖がついたように感じる。良くも悪くも。
――とくれば、実際に「思索」するためには、あらゆる情報媒体が邪魔になる。誰もが、ものの数秒で言葉の意味を調べることのできる環境下にある現代。目の前にパソコンがなく、ズボンのポケットにスマホも入っておらず、手元に辞書も存在しないような場面なんて、1日に数十分あるかも怪しいのではないかしら。
そこでまず、湯船の中でカポーンと考えた。
――“思索”とはなんぞや。
“思考”でも“思想”でも“思慮”でもなく、“思索”。
今、全裸で物思いに耽っているこの行為は、おそらく“思考”、思い考えること。
――すると、その次の“思想”はなんだろう。
“思考”の果てに得られるもの? “オモウ”の漢字が2つとくれば、強調的なもの。
思い考える中で形成される、まとまった考え・意見のことだろうか。
――では、“思索”とは。
あれこれ考える“思考”と、そこから導き出された“思想”をつなぐもの?
漠然とした“思考”と比べれば筋道立った、“思想”へ行き着くための論理的思考?
そこまでふわふわと考えたところで、一旦打ち切り。のぼせそうになったので。
「“思索”の意味するところ」を既に自分の頭の中にある知識のみで考えた結果、「論理的に物事を導き出すための思考活動」という結論が出た格好になった。答え合わせは――ここに書くものでもありませんね。良かったら、“思索”してみてください。
インプット・アウトプットを考える以前の問題としての「思索」
さて、頼れる辞書もGoogle先生もいない中、そうやって自分の知識と頭だけを頼りにあれこれ考えていると、その活動自体がしばらくぶりであることに気付かされた。
わからないことがあっても、基本的にはネットで検索すれば事足りる。ネットで見つからなければ、その筋の専門家の著した書物を図書館で探すこともできる。直接会って話を聞くことだって不可能ではない。
そうすることで十中八九は確実な情報が手に入るため、自ら「思索」するなど時間の無駄でしかないとも考えられる。それが、アンポンタンな自分一人のリソースで解決できる問題であるとは限らず、導き出すのにも時間を要し、結論が正しいという保証もない。
現代人たる自分が、「“思索”しろと言われても、忙しくてそんな暇ねーよ!」と時間のせいにするのは簡単だ。しかし、思考停止的に既存の情報に対して真っ先にアクセスせず、ワンクッション置くことで得られるものも確かにあるのではないかと思う。
何よりしっかりと段階を踏み、知識・情報に至るまでの過程を自ら把握し、その末に辿り着くことによって得られる成果は、生の体験として記憶に残りやすい。ただただ漫然と書を読み、流れてくる雑多な情報に触れ、摂取した知識は、果たして本当に自分の「思想」を醸成する助けとなっているだろうか。少なくとも自分に関しては、甚だ疑問だ。
文中でも取り上げられていた読書に関しては昨今、しばしば「インプット」と「アウトプット」が論点とされている。如何にして書物から体系的な知識を自らの内に取り込み(インプット)、それを“自分ごと”として記憶・記録に留めるため外部に実体化する(アウトプット)か、その一連の作業。
その中で「思索」の意味するものは何かと考えてみたものの、そこに「思索」の介在する余地はなく、それ以前の問題であるようにしか思えなかった。前に引用した部分を繰り返せば、そもそも“自説をまず立て”、その“強化に役立てる”ために“他人の権威ある説を学”んでいる読書家が果たしてどれだけ存在するのか、ということになる。
もちろん、150年以上も前の当時と現代とでは、書物の役割や人々の価値観が変わっていることも否めない。読書は暇潰しであり、未知の知識をパッケージ化した媒体であり、ただ消費されるだけのコンテンツである。そのように考えている人も少なくないだろう。
しかし他方では、徹底的な「思索」の末、実態のある「思想」に辿り着くための術として、このような考え方があるということを知っておいても損はないはずだ。常に大量の情報に翻弄され、速度と確実性を重視するのが当たり前となった僕らに示された、ひとつの有意義な視点と言える。
精神が代用品になれて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
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