蛮茶庵

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 人間の慾が捻りだす理窟 jeudi 19 mars 2015

物々交換が貿易に、貿易が自由貿易に、自由貿易が新自由貿易にと、これまで姿を変へてきました。都合よく新しい屁理窟が考案されると、古い理窟が捨てられてきました。理窟は変更を目論む人のためにできてゐます。學問的に正しいから変更されるのではありません。あくまでも慾をカムフラージュするために僞装される理論です。


変更は、変更を甘受しなければならない人を存在させることによつて成立します。と同時に、変更を強ひて喜ぶ人たちもゐるのです。既存のものを変へるといふことは莫大なエネルギーを必要とします。しかし、それを費やしたとしても、それ以上の見返りがあるから変更をやつてのけるのです。歴史を検証すればそれが見えます。


20150319

   < ぽつねんと立つのもひとつ >


そのためには総動員します。これまで新たな學問分野が數知れず誕生してきました。とくにカネをめぐる學問、経済學も多方面に増殖してゐます。シェークスピアの『ヴェニスの商人』で、あれほど嫌はれ役として描かれた金貸しが、いまやスタンダードです。金儲けのために、あの原理は、嫌悪感の微塵もなく、一層露骨に先鋭化され、積極的に喜んで受入れられ使用されてゐるのが現在です。今後もそれは変はることはないでせう。金持ちになるには、いまやあの原理に、全身全霊、染まるしかないのです。


世界を支配してゐるのは一パーセントの富裕者だといひます。しかしかれらが更に利益をもたらすのだともいはれてゐます。中國の鄧小平は先富論を唱へて資本主義経済を取り入れたのは有名な話です。しかしどうでせう、鄧小平が唱へたやうに富は分配されたでせうか。さうならいまの中國は存在しないでせう。


20150319

   < ここにも命が宿る >


また市場に任せれば、すべてがうまくいくといつて、市場経済至上主義を唱へたのも先日のことです。人間の慾といふものを僅かでも知つてゐれば、すぐ正体は暴露されたのでせうが、行き着くところまで行つて、痛い思ひをして、屁理窟だといふことを思ひ知らされて、はじめて氣がつき、後悔したのがこの間です。まさに後の祭りです。


しかし、この裏でも、ほくそ笑んでカネを懐にねじ込んでゐる人がゐます。その構図はいつまでたつても変はらないでせう。それでも懲りず、いままたトリクル・ダウン効果といつて、甘い夢を見させる政策がなされやうとしてゐます。


20150319

   < 賑々しく咲き乱れるのもひとつ >


名前がつけられると、名前が人間の慾とともに歩き出します。さうして何の保障もない蜃気楼のやうな幸福が描かれ、人はそれに向かつてただ盲進します。経済理論は、虚でありがなら、それでもそれを具現的な手に触れられる形にするかのやうに表出するのです。ある種の経済理論は麻薬とおなじで、人を夢見させ、幸せにし、狂はせるます。


現實はさうです。しかし考へなければならないのは人間のよつて立つところではないでせうか。慾を追及する生き方ひとつ、さうでない生き方もまたひとつ、どちらにしても覚悟が必要なはずです。







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# 間違つて覚えてゐたあの小説のあの出だし mercredi 18 mars 2015

念頭にあつて

先週、偶然、書架から取出してこの本を眺めました。オンダーチェの作品のことが念頭にあつてのことです。この本とは辻邦生の『背教者ユリアヌス』のことです。


不易流行

絵描きの中川一政が不易流行と題した文章のなかで、ピカソやゴッホやコローなどがもう一度この世に生まれてきて、この時代に生きたなら、以前とおなじ絵は描かないだらう。なぜなら時代が違ふのだから、といふ趣旨のことを書いてゐます。過去の時代のものをいまの時代は求めない旨を書いてゐます。


文章の特徴

『背教者ユリアヌス』の出だしーー 霧は海から匐いあがっていた ーーは、映画のシーンを彷彿させます。本を開いて、一行目を見て、さうして苦笑してしまひました。霧に形容詞がつけられてゐたのです。ただしくは、濃い霧は海から匐いあがっていた、でした。


20150318


苦笑した理由は辻邦生の本質を忘れてゐたからです。辻邦生の文章は修飾語を多用するのが特徴だと思つてゐたのに、その肝心な修飾語を忘れて、冒頭の一行を覚えてゐたからです。


おなじ物語世界でも

これまでの物語作家ーー辻邦生もそのひとりでせうーーは、讀みながらわからせてくれる文章で讀者を作品の世界へ誘つてくれます。しかしオンダーチェはといへば、さういふことを一向に考慮してゐないやうに見受けられます。


オンダーチェにとつては、さういふ物語世界のひとつとして、作品を書くことができなかつたのではないでせうか。オンダーチェは従來の物語世界とは異なる物語世界を書いてゐるやうに見受けられます。


20150318


眞のレアリストは

だからオンダーチェの讀者はくたびれます。もうひとつの本當の現實的な作品を書くことがオンダーチェの念頭にあるのではないか、と思ひながら、彼の作品に接してゐます。讀むでゐて、集中できず、讀もうとしても、単に文字のうへを上滑りしてゐるだけのときがあります。


オンダーチェのレアリスムが、わからせる文章を拒否するのだと思ひます。一方辻邦生の作品は、作品の形式からして、すでに過去のものなのでせう。それが証拠に、苦もなく讀めます。また序章「若いバシリナ」はこの作品の今後をすべて予感させて終ります。予感が讀者をつぎへと誘ひます。


オンダーチェの求めるもの

オンダーチェはといへば、さういふこととは無関係です。しかし、人生をよく観察すると、實人生はオンダーチェが描く作品世界そのものではないでせうか。さういふ意味で、オンダーチェは眞のレアリストなのだと思つてゐます。






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# 時を置いて見る、と mardi 17 mars 2015
なにかを決めるといふことは、可能性の半分を諦める、といふことでもあります。反対に、なにも決めないといふことは、損なはれるものがなく、いつまでも可能性が百パーセント広がつてゐる状態のやうに見えます。

 YouTube でみることができる、NHK の『日曜討論ーー人質殺害事件 日本は何をすべきか』を見ながら、さう思つたわけです。この番組を見ながら E.T. ホールのつぎのことばをも、また、思ひ出しました。

「時」はものをいうことができる。ことばよりもさらに明瞭に話す。そして「時」の伝える内容は、きわめて明白である。はなしことばよりも、意識的に操作される度合いが少ないために、デフォルメされることもない。ことばが虚僞を語る際にも、「時」だけは真実をあらわにする。

 

出來事の渦中にあるときではなく、時間を経たいまだからこそ、この討論番組を見る価値があります。もう一度 E.T. ホールのことばを思ひ出してもらへると幸ひです。

さうして考へてみてください。司会者は参加者から意見をひき出したでせうか。またほんとうに討論がなされたでせうか。予定調和で終つてゐないか。 

見た人に、なにが残るか。残るものの有無によつて、意味が変はつてきます。





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# 某新聞社のオタメごかし その一 lundi 16 mars 2015

人を愚弄する「・」

報道で目にする中黒、あれほど人を愚弄するものはない、と思ふ。常用漢字でないからと、たとへば中國のシンセンの表記を「深・」と書く。おまけに某新聞を讀む人を愚者にして、漢字を分解してーーセンは左に土、右に川ーー説明してある。かういふ愚劣でいまにも慙死しかねないことを平然とやる。よつてたつところはといへば、常用漢字ではないからといふ。


忠実な遵守派か

じやあ、決められたとおり、常用漢字は使つてゐるのかといへば、使ふ使はない漢字を某新聞社の一存で決めて、勝手に使用してゐる。たとへばかうである。(某新聞讀者の知る權利を奪ふのではないか?)


二〇一〇年十二月一日、漢字が196文字常用漢字に追加された。しかしこの漢字は使用しないと紙面を使つて公に發表した漢字がある。まずひとつ目は


挨 アイ


である。なぜ使用しないのか理由は述べてゐない。つなみに「挨」を用ゐる漢字は「挨拶」と「挨次」くらいだ。


20150316


正書法のない日本語

ところで日本語には正書法がない。だからあいさつといふ字を


「あいさつ」と書いてもよいし、「アイサツ」と書いてもよい。

「アイさつ」、「あいサツ」、「あい拶」、「アイ拶」、「挨さつ」、「挨サツ」と書いてもよい。また「挨拶」と書いても不都合にはならない。


つまり正しい書き方が決まってゐないのだから、何とでも書いても○で、問題が生じないやうになつてゐる。


社是「挨拶不奨励」

某新聞社では挨拶不用説を唱へてゐるのかもしれない、と思つたり、はたまた、某新聞社は某國が嫌ひで、音読み、つまり某國式讀み方しかない漢字は使用しないといふ規則があるのかもしれないと推測してみたりした。


しかし一見識のあるかのごとく振舞ふが、その實、見る人から見れば、愚の骨頂を地で行つてゐる、としか思へない。







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# いまだから叫べ!『言論の自由を』と dimanche 15 mars 2015

國家がフリージャーナリストの旅券を危険を理由に取りあげた。既存のメディアはここぞとばかりに大々的に報道した。部分(個)の整合性ーー取材の自由ーーを守るか、全体(國家)の整合性を守るか、火をつけたメディアが記者クラブでの会見までセッティングした。あくまでも言論の自由のために戦ふさうだ。


20150315

   < 花を見てくれる人がゐないと、花も >


時が過ぎれば何事も薄れてしまふ。まさにさういふ時、恩寵のごときに、首相経験者がウクライナの現状を確認しに、國家の制止を振り切ちて、出かけて行つたさうだ。


ビザを取りあげたら、あちらに移住する、と主張するさうだ。日本の憲法は、個人の自由を主張する、オオイに賛成。だが、全体から見た整合性はどうなる。しかし、なぜかメディアはこの問題を論じない。不都合には知らぬを決め込むメディア。恣意性丸出しだ。







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# 体裁の飾り物にもならない日本の野党 samedi 14 mars 2015

都合により再更新しました。


一年でなにがわかる?

一年外務大臣を務めたからといつて本を出版するさうだ。仕事をした人なら、一年でなにがわかる、と言ひたくなる。本の出版広告を目にしてさう思つてゐた矢先、ドイツのメルケル首相がこの野党の人と会談したおり、「(日韓関係は)和解が重要」といつたさうだ。報道も同様のことを伝へた。


20150314


所詮責任のなすり合ひ

いまドイツからかういふ發言事實はないと与党政府に伝へてきてゐるさうだ。またもう一方の野党代表はイヤ語つた、としてゐる。所詮言つた言はないの泥仕合。かういふ不毛な論爭に首を突つ込むのは愚の骨頂だ。


ノー足りんだけど感じる疑問

だが當り前に考へて、政權と関係ない一野党の一代表に、おまけに政治能力のない野党の一代表に、「和解が重要」などと語るだらうか。卑近に置換へても、だれが他所の家の内情に口出しするだらうか。自分の経験がすべての人に適応されると信じるほど、ドイツの首相はお人好しではないだらう。あの EU で冷静着実に舵取りする人物なのだ、まして見識ある政治家、ドイツの歴史と日本の歴史を混同するはずもないだらう。


20150314


それに比べ、世間知らず丸出しのあの人物、会つて二言三言話すれば、信用に足るか足りないかは見てとられる人物、おまけに政權運営に関係ないさういふ人物に、脇甘く不用心に「和解」を勧めるほど、ドイツの首相が能天氣であるとは信じ難ひ。


萬にひとつ、語つたと想定しても、きわめて個人的なひと言だらう。しかし初対面の人間に、EU で泳いでゐる政治経験豊富な政治家が、安直にプライヴェートを差し挟むとは考へられない。この野党の代表、一有權者から見ても人間的魅力の欠片も感じられない。逆に、見ただけでこれでいいのか?と不安に駆られるのが正直な所見だ。一年で外交の門を遥かに眺めただけで、臆面もなく、これがこの國の外交、さういふ本を書く人物だ。信用には足りないも甚だしいはだれの目にも明らかだらう。


能力ゼロの野党

IS 日本人人質殺害事件で、日本のだれもが感じたであらう野党の無能。外交ルートもなければ、なにもない。人命救助にも無関心、傍観するだけで、政權与党にも協力しない野党、協力しないのならそれはそれで良しとしても、逆に人命救助を巡つて、妨害する、足を引つ張ることを平氣でする。人間の尊厳ときれいごとをいふが、ある野党の副代表などは、首相官邸前で、音楽をかけ、踊り、片手に酒をかざして、上下白と首にピンクのマフラーの出立ちで、テロ反対を叫ぶ。


20150314


まずパフォーマンス!?

叫んで問題が解決されればと疑問に思ふのは一般人。政治に一層の不信をばらまくだけで、責任を取らない政治家。挙句の果てはその金で名誉を買ひ、生計をたててゐる。氣楽でコスカラしい政治家がたくさんゐるものだ。既成メディアも同類だ。「ゴンゴドウダン、ゴンゴドウダン、夜も眠れない」とフェイスブックに書き、炎上したどこかの野党のお姉さん議員とどっこいどっこいの程度の政治家まがひが溢れてゐる。


整合性なんて問題外

言論の自由といふ、だがこのお姉さんのフェイスブック炎上以後は、このお姉さん政治家のフェイスブックは更新されてゐないとのこと。党本部から指導があつて、といふ憶測も漏れ聞こへる。党が言論を統制する。中國共産党のやう、それもいか仕方ないかもしれないが、その一方で言論の自由を如何にする。


20150314


「部分と全体」の整合性、ここでも問題が生じてゐる。それ以前にこの人物が政治家として相応しいのか否かの判断がなされてゐない。もし党の判断が誤つてゐれば、党が責任を取るのが當り前、それをしないで、問題が生じると個人の責任とするかのごとく、ウヤムヤにする。要は政治家はおなじ穴の狢。どの党も大差なし。しかしパフォーマンスのためなら、歌舞伎よろしく大見得を切る。


あの「飾り窓」と同類の野党

野党を支持する官僚を育てられない、もてない野党。さういふ野党がメディアの後押しの操作の結果、政權の座についたが、見事に期待した人たちの期待を裏切つた。表の看板はすげ替へても、運営の中枢を握るのは、舊政權下から不変の事務官僚たち、これではなにも変へられない。だから内部矛盾が噴出した。原因は野党が野党の事務官僚を育ててゐないから、それはいまも同様、だから日本は永遠に野党は飾りに過ぎない。


これがすべて!

反対、はんたい、ハンタイ、すべて反対、すべてはんたい、すべてハンタイ、存在理由はそのためだけ。だから責任は一切問はれない。氣楽に行きませう。氣楽に活きませう。氣楽に逝きませう、となる。






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# 何ともいはれぬ誘惑 vendredi 13 mars 2015
マイケル・オンダーチェに『バディ・ボールデンを覚えているか』といふ作品があり、そこにかういふ一節があります。

 バナナなんて、俺はダイエット中だよ。このスペシャル・ドリンクだけ。   いいから食べろよ、顔色が悪いよ。
 だめなんだって。俺だって食べたいよ。もう一週間もなにも口にいれてないんだぜ。
 それで力が出るかい? 
 ぐったりよ……でもなんとかしてクソの尻尾をひり出したい。 
 クソの尻尾。 
 そう……前にも一度出したことがある。あのな、食べるのをやめると、そのうちクソがでなくなる。ところがそれから二週間くらいすると、とんでもねえクソのかたまりが出てくる、まるで竜巻みたいによ。腹の奥にいすわってたヤツが出てくる。いくらクソしてもどうしても出てこなくて奥にいのこってたヤツが全部まとめてドバッと。
 そうかい?ボールデンに最後に会ったのは? 
 ずうっとケツの穴の中にはさまってた火かき棒を誰かが取ってくれたみたいによ。すげえのなんの。そしたらまた食べはじめるのさーーそれは桃かい?
 じゃあ桃をもらおうかな。 

からだのなかの排泄物もさうですが、頭のなかの排泄物ーーさう教育がもたらした頭のなかの排泄物を、かうして完全にひねり出すことができたら、どれだけスッキリするか、と想像してしまひます。もしさういふことができれば、それは再生・ルネサンス、生まれ変はる、といふことなのかもしれません。さういふことがもし可能であればと思ひます。


 


ブルーハーツのやうに何もかも吐き出すと幸せになる人もたくさんゐるのではないでせうか。

オンダーチェは同じ作品でかうも語ります。 

俺たちが学び知ることができないのなら、そういうものに何の意味があるのか?





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# 天秤はまだ生きてゐるのだらうか jeudi 12 mars 2015

デジタル時代の天秤

かつて天秤は日常的なものでした。デジタル時代になつて、もはや天秤をみかけることもありません。コンピュータが出現し、すべてがデジタル化するなかで、秤の世界も液晶画面を見るだけ、と様変はりしました。さういふ時代ですから、アナログ的なモノに例へた表現も消えてゆくのが宿命なのかと眺めてゐるところです。


人は以前「天秤にかける」といふ表現をごく普通に、日常的に使用してゐました。しかしいまはどうでせう。この表現は、すでに「二股」に取つて代られてゐるのではないでせうか。さういふ氣がします。なぜといつて、モノを目にしなくなつたのですから、必然的に言葉も消えてなくなるのが宿命ではないでせうか。


「天秤にかける」に取つて代はつたのが「二股をかける」ではないでせうか。


20150312


なぜさう推論するかといへば、もはや天秤は過去のもの、見たことのないもの、目に触れないもの、だからイメージし難くくなつたといふのが理由です。天秤といふ道具を見たこともなければ触つたこともないのですから、思ひ描くことはできません。


バランスを目にできた時代

天秤をどこでも見られた時代には、均衡・バランスの實例が、秤の針をとおして、具体的に、目で確かめられました。具体的なかたちとして均衡、バランスを見ることができたのです。抽象概念を具象として提示して有無を言わせずわからせたのですから、この効果が及ぼす影響は計り知れません。しかしいまは、残念なことに、すべてデジタル化してしまひました。だから「天秤にかける」も死語か、まだ生きてゐたとしても、近い将来死語になる運命を甘受するのではないでせうか。


20150312


たしかに、精度の高いアナログ天秤があり、これから先もなくなることはないでせう。しかし、いまやそれは専門分野のもの、多くの人の目にも触れるものではなくなつてしまひました。非日常的になつたものに由來する表現も、消えてなくなるのは時間の問題のやうな氣がしてなりません。


わが町に「やじろべえ」といふ数十年営業してゐる珈琲店があります。天秤から「やじろべえ」を思ひだしました。店の入口のこの絵も開店した当時のままです。なかの電氣の傘も開店当時のまま使用してゐます。天秤の冩眞の代りに、やじろべえの絵を使はせてもらひました。近くにおこしの際はよつてみてください。


20150312


時代は変はる

目に見える効果は強力です。反対に目に見えなくなると思ひ出すこともできなくなつてしまひます。時代の趨勢といへ仕方のないことですが、それにしても非情です。でも少し考へれば、非情もなにも感じない世代がゐるのも事實です。さういふ世代の人の視點からみれば、非情を感じるのは、舊世代の単なる郷愁なのかも知れません。片方の手に舊世界、もう片方の手に新世界、いまはさういふ変はり目なのでせう。







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# 知ると讀書が豊かになる mercredi 11 mars 2015

酔ひたまへ

  Il faut être toujours ivre.  Tout est là: c’est l’unique question. 

Pour ne pas sentir l’horrible fardeau du Temps qui brise vos épaules et vous penche vers la terre, il faut vous enivrer sans trêve. 

  Mais de quoi?  De vin, de poésie ou de vertu, à votre guise. 

  Mais enivrez-vous.


 いつでも酔つてゐなければならない。すべてがそこにあります。それが唯一無二の問題です。

きみの肩を砕き、きみを大地に傾がせる「時」の恐ろしい重荷を感じないために、ひつきりなしに酔つてゐなければなりません。

 だが、なにで酔へといふのですか。酒でも、詩でも、あるひは徳でも、なんでも好きなものでいい。

 とにかく酔ぱらつてゐなさい。


これは『悪の華』で有名なボードレールの散文詩『パリの憂愁』のなかの一篇「酔ひたまへ」の冒頭です。


20150311


時間のルーツは

詩人は感性が鋭いから、かういふ詩を作つたのだ、と思ふのもひとつです。それでいいのかもしれません。しかし、少しボンヤリとでいいですから、字面を眺めてみませう。言葉がわからなくても一向差し支へありません。さうすると Temps に目が止まるのではないでせうか。Temps は大文字で書き出され、強調されてゐますから、他の名詞と異なり特別扱ひされてゐることがわかります。


だからこの「時」に着目して、「時」の概念の変遷をたどつてみると、十九世紀の人ボードレールの「時」の概念がみえてくるのではないでせうか。おそらくおなじ時間といふ概念でも現代人の概念とは異なるものではないでせうか。


現代人でもボードレールのやうに時間を感じる人がゐるかもしれません。しかし、さういふ人は希有で、時間から強迫観念など感じないのが大多数の人なのかも知れません。かりにさうだとしたら、この散文詩は味ははれたことになりません。おそらく近代人は、時間の存在はあたり前過ぎて、だれもなに関心などもたないでせう。


20150311


希有な研究者:角山榮

ところで、世界広しといへども、時間の研究の第一人者は日本人の「角山榮」をおいてはゐません。この人は経済学のためにイギリスへ留学しましたが、そこで紅茶に対して疑問が生まれ、紅茶の由來を尋ねることから最初の研究がはじまりました。ユニークで、貴重な研究を展開しました。一度この人の本を讀みはじめると、他のものはどうでもよくなります。それほど中味の詰まつた濃い研究です。その茶の研究が、いつしか時間の研究とクロス・オーヴァーするやうになるのです。さういふ意味では「茶の歴史」と「時計の歴史」とは切離せないものです。


日本にも時間の概念はありました。いまも各地方に残る「時の鐘」がさうです。しかし、近現代の時間の概念を作り出したのはイギリスです。角山榮の書物『茶の世界史」には、さういふことが書かれてゐます。現在でも中公新書で入手可能ではないでせうか。さういふ先駆的で、貴重で誇るべき研究をした人が角山榮です。大航海時代の「茶」と「時」、それが奇しくもボードレールを讀み解く鍵になるのですから、まさに「なにをか言はんか」やです。


角山榮の本ではありませんが、『パリの聖月曜日』といふ本もあります。十九世紀の人々が感じてゐた世界がここに描かれてゐます。當時時間はどう感じられてゐたか、よくわかります。さういふことを知つて、はじめて作品を讀み解けるやうになります。モノの歴史を尋ねる。これほど愉しい世界を開陳してくれるものはありません。學ぶといふことは、かういふことなのだと思ひます。






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# 通過儀礼の儀式なのか mardi 10 mars 2015

異色連載

岩波書店のPR誌『図書』に赤川次郎の名前が登場したのが二〇一一年の七月、なにを書くのだらうと思ひながら目を通した。と同時に、いつ連載が終るのだらうと思ひながら、毎月『図書』が届くたびにチェックした。それが二〇一四年十二月まで續いた。驚くべき二年半だつた。三十回にもわたる連載になるとは信じられなかつた。やつと終りになつたが、しかし續けようと思へば、エンドレス、まだいくらでも續けられる内容である。いかにもこの人らしい。


村社会

以前は音楽バンドのメンバー、いまは作家だといふ人がゐる。この人の書いたものは、一行も讀むだことはないが、風の噂によると、前職が災ひして、作家仲間に相手にされないさうだ。真僞のほどは確かではないが、作家の世界は特殊な社会、さういふこともあるかなと思つたりしてゐる。


20150310

   < いつかかういふ文章が書けたらと願つてゐる >


認可取得のため

『図書』で展開された批判の数々、いかにも赤川次郎、この人の書いたものそのもので、すべてが表面的で、一面的なものばかり。毎月毎月、よくこの程度のものを臆面もなく人目に晒すものだと呆れながら見てゐたが、あるとき、ふと思つた。これはハイ・レヴェルな岩波インテリ・グループの一員になるための通過儀礼の儀式ではないかと。


はた迷惑

いま二〇一五年の三月、書店にいくと『図書』に連載されたものがまとめられ、一冊の本になつて出てゐる。これを手にとる人は、これまでのこの人の書いたものの讀者なのだらうか。それにしても、たくさんのことが、しかしおなじことの繰返しが、にぎにぎしく陳列されて、並べられてゐる。これで無事通過儀礼の儀式は終了したのだらうか。しかし、本質は、それよりもなによりも、これは讀むに耐へられる代物だらうか。







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