物々交換が貿易に、貿易が自由貿易に、自由貿易が新自由貿易にと、これまで姿を変へてきました。都合よく新しい屁理窟が考案されると、古い理窟が捨てられてきました。理窟は変更を目論む人のためにできてゐます。學問的に正しいから変更されるのではありません。あくまでも慾をカムフラージュするために僞装される理論です。
変更は、変更を甘受しなければならない人を存在させることによつて成立します。と同時に、変更を強ひて喜ぶ人たちもゐるのです。既存のものを変へるといふことは莫大なエネルギーを必要とします。しかし、それを費やしたとしても、それ以上の見返りがあるから変更をやつてのけるのです。歴史を検証すればそれが見えます。
< ぽつねんと立つのもひとつ >
そのためには総動員します。これまで新たな學問分野が數知れず誕生してきました。とくにカネをめぐる學問、経済學も多方面に増殖してゐます。シェークスピアの『ヴェニスの商人』で、あれほど嫌はれ役として描かれた金貸しが、いまやスタンダードです。金儲けのために、あの原理は、嫌悪感の微塵もなく、一層露骨に先鋭化され、積極的に喜んで受入れられ使用されてゐるのが現在です。今後もそれは変はることはないでせう。金持ちになるには、いまやあの原理に、全身全霊、染まるしかないのです。
世界を支配してゐるのは一パーセントの富裕者だといひます。しかしかれらが更に利益をもたらすのだともいはれてゐます。中國の鄧小平は先富論を唱へて資本主義経済を取り入れたのは有名な話です。しかしどうでせう、鄧小平が唱へたやうに富は分配されたでせうか。さうならいまの中國は存在しないでせう。
< ここにも命が宿る >
また市場に任せれば、すべてがうまくいくといつて、市場経済至上主義を唱へたのも先日のことです。人間の慾といふものを僅かでも知つてゐれば、すぐ正体は暴露されたのでせうが、行き着くところまで行つて、痛い思ひをして、屁理窟だといふことを思ひ知らされて、はじめて氣がつき、後悔したのがこの間です。まさに後の祭りです。
しかし、この裏でも、ほくそ笑んでカネを懐にねじ込んでゐる人がゐます。その構図はいつまでたつても変はらないでせう。それでも懲りず、いままたトリクル・ダウン効果といつて、甘い夢を見させる政策がなされやうとしてゐます。
< 賑々しく咲き乱れるのもひとつ >
名前がつけられると、名前が人間の慾とともに歩き出します。さうして何の保障もない蜃気楼のやうな幸福が描かれ、人はそれに向かつてただ盲進します。経済理論は、虚でありがなら、それでもそれを具現的な手に触れられる形にするかのやうに表出するのです。ある種の経済理論は麻薬とおなじで、人を夢見させ、幸せにし、狂はせるます。
現實はさうです。しかし考へなければならないのは人間のよつて立つところではないでせうか。慾を追及する生き方ひとつ、さうでない生き方もまたひとつ、どちらにしても覚悟が必要なはずです。