NHKアーカイブス「オウム真理教 地下鉄サリン事件から20年」 2015.03.18


(サイレン)
今から20年前の1995年3月20日。
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きました。
死者13人。
負傷者は6,000人以上に上ります
実行犯をはじめ教団幹部の多くは高学歴で犯罪とは縁のなかった20代から30代の若者たちでした。
何が彼らを凶悪な犯罪へと向かわせたのでしょうか…
NHKには服役中のオウム真理教元幹部と手紙のやり取りを行い入信から犯行までの心の軌跡に迫った番組があります
「麻原の指示が絶対的なものになっていったという事があります」。
「人間味のない無機質な空間の中でまさに私たちは判断力を失くした人形でした」。
地下鉄サリン事件から20年。
オウム真理教の犯罪から私たちは何を学んだのでしょうか。
今改めて考えます
地下鉄サリン事件では今も多くの方が後遺症や心の病に悩んでらっしゃいます。
今日の「NHKアーカイブス」はなぜオウム真理教の信者たちがあのような事件に引き込まれていったのか。
そしてその教訓について考えてまいります。
スタジオのゲストご紹介致します。
今日は北海道大学教授櫻井義秀さんにお越し頂きました。
現代社会における宗教の問題を研究されていらっしゃいます。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
櫻井さんオウム真理教について長年研究を続けてこられた訳ですけれども今振り返りまして改めてあの事件どんな事件だったと受け止めていらっしゃいますか?オウム事件は宗教団体が化学兵器サリンを用いて無差別テロを行ったという事で世界を震撼させた訳ですね。
そしてその事件以降日本では宗教団体に対するまあ根強い不信というのが生まれましてその意味では非常に私たちの常識というんですかそれを根底から覆す大きな事件だったというふうに考えております。
カルトという言い方もあの事件以降言われるようになりましたね。
カルトというのは人権侵害を行う。
あるいは社会的な犯罪を行う団体という事でオウム事件以降広く使われるようになった訳なんですけども現在もさまざまなカルトが若者とか高齢者とかいわゆる社会的な弱者といわれるような人たちをターゲットとして盛んに勧誘活動をやってる。
または違法行為をやってるという現実があります。
それにしてもどうしてあのような無差別のテロをオウム真理教の信者たちは引き起こしていったんでしょうか。
まず番組をご覧頂きたいと思います。
2004年。
事件から9年後になりますけれども…ご覧下さい。
平成7年3月20日午前8時。
東京・霞ヶ関へ向かう地下鉄の車内。
一人の男が乗客に背を向けて立っていました。
オウム真理教元幹部…足元の袋に穴を開け猛毒の神経ガスサリンをまきました。
12人が死亡5,500人以上が被害を受けた地下鉄サリン事件でした。
先月NHKに1通の手紙が届きました。
死刑判決を受け拘留中の広瀬被告からのものでした。
「私は愚かにも『殺人』というイメージが沸かない状態でした」。
「麻原の指示が絶対的なものになっていったという事があります」。
事件の当日広瀬被告と同じ車両に乗っていた40歳の女性です。
サリンの被害で9年間寝たきりの生活を強いられています。
(兄)よし力入れろ!もうちょい頑張れ。
お〜来た来た…。
(笑い声)痛い?痛い?痛い?痛い。
痛い…。
事件に遭う前に撮影されたビデオです。
子どもと遊ぶのが大好きな明るい女性でした。
おじいちゃんとおばあちゃんに見せてあげるんだから。
(兄)バランスをとれ。
お〜っ…ちゃんとしっかり。
脚伸ばして。
ちゃんと上向いて下さい。
少し休む?どうする?事件直後から兄の家族が介護を続けています。
この事件に遭う前日にうちの妹が私の上の子ですねちょうど小学校にあがる直前だったのでランドセルをプレゼントするよという事でその帰りにみんなで食事をしてその時に本当に「こういうのが普通の幸せなんだよね」っていう話をしてたんで…。
どうしてこの事件は起こったんだろう?なぜこんな事になったんだろう?どういう人間に何をされたのかという事を知りたい。
オウム真理教代表麻原彰晃。
本名松本智津夫被告。
麻原被告は一貫して無罪を主張。
この4年余りは証言を拒否し続けています。
オウム真理教はなぜ無差別テロに走ったのか。
なぜ多くの人を殺害したのか。
麻原被告が何も明らかにしない今拘留中の元幹部に直接問いたい。
私たちは3人の被告と40回にわたって手紙のやり取りを行いました。
日本の犯罪史上例を見ない無差別テロから9年。
彼らは何を考えて犯行に及び今何を思っているのか。
死刑判決を受けたオウム真理教元幹部の手紙から探ります。
東京・小菅にある東京拘置所。
ここに死刑判決を受けたオウム真理教元幹部11人が拘留されています。
裁判が続いているため面会は厳しく制限されています。
会う事ができるのは事実関係の審理が終わり最高裁判所に上告中の4人だけです。
私たちはその全員に取材を申し入れました。
東京拘置所6階の面会室。
去年11月元幹部の一人との面会が初めて許されました。
岡一明被告43歳です。
弁護士の坂本堤さん一家を殺害した罪などに問われ1審2審とも死刑判決を受けています。
仕切り窓の向こうに岡被告が現れました。
面会の場で取材をする事は認められていません。
私たちは手紙でのやり取りを申し入れました。
岡被告から届いた手紙です。
3か月間で20通に及びました。
オウム真理教に入るまでの心境。
教団での修行の日々。
そして自ら犯した犯罪について。
便箋275枚にわたって記されています。
「魂の救済だという理由があれば殺人も善行と変わるのです」。
「考えられない事かもしれませんが当時の私たちはそれを真剣に信じ切ったのです」。
岡被告は昭和54年に高校を卒業。
オウム真理教に入るまで7年間いくつもの職場を転々としていました。
岡被告が勤めた会社の名刺です。
ほとんどは営業の仕事でした。
健康食品や学習教材の販売でした。
成績ばかりを気にする毎日だったといいます。
「人間の価値を数字で判断し決定してしまう」。
「そんな会社と社会のシステムが厭になったのです」。
「宗教
(精神世界)こそ自己の能力が発揮できると思うようになりました」。
昭和60年12月岡被告は神奈川県で開かれた教団のセミナーに参加しました。
そこで出会ったのが麻原被告でした。
岡被告は「私は仕事で嘘をついて物を売った事もある汚れた人間です」と悩みを打ち明けました。
麻原被告はこう答えたといいます。
「そう思った時点からあなたの罪は消えている」。
「麻原と直接会ってその大きな包容力の『明るさとソフトなイメージ』にびっくりしました」。
「心底から優しいそしてなんて明るい人なんだろう」。
オウム真理教で修行する岡被告です。
岡被告は昭和61年25歳の時に出家しました。
そのころ麻原被告は教団の拡大を目指していました。
プロモーションビデオを作ったり街頭でビラを配ったりして信者の獲得に乗り出していました。
麻原被告は岡被告に「君の営業の経験を是非生かしてほしい」と教団の本を販売するように指示します。
岡被告は営業のために書店を回り始めました。
「私にとってその布教活動はもはやセールスという意味とは全く違っていました」。
「『これは真理の本ですよ!どうですか凄い本でしょう!』というくらいの気持ちで回っていたのです。
麻原から褒められると一番嬉しかったものです」。
なぜ岡被告はそれほど麻原被告の要望に応えようとしたのか。
麻原被告の側近だった元幹部に話を聞く事ができました。
この女性は地下鉄サリン事件に関わった幹部に逃走資金を渡した罪などに問われ1年4か月の懲役刑を受けました。
麻原被告が作った階級システムです。
最終解脱と呼ばれる頂点は麻原被告一人とされました。
その下は大師と呼ばれる幹部。
それ以外の信者は5段階に分けられました。
この階級を上っていく事が信者にとって大きな意味を持つようになりました。
岡被告も競争心をあおられました。
麻原被告は同じ時期に出家した新実智光被告にも本の営業を担当させ成績を競わせていたといいます。
出家から1年。
岡被告は大師になりました。
この時から麻原被告への忠誠心が更に強まったと手紙に書いています。
「大師になってからは麻原に対して『否定』という文字すら浮かびません」。
「殆ど麻原と一緒に行動しセミナーには欠かせぬ大師として活躍し全国を飛び回っていました」。
「最高の空間と幸せを感じたものです」。
昭和63年夏。
富士山の麓に新たな活動拠点が作られました。
富士山総本部です。
麻原被告は「自分たちの理想郷の第一歩だ」としてここに信者200人を集めました。
大師になった岡被告も部屋を与えられました。
食事は一日1回。
睡眠も3時間までしか許されませんでした。
信者はこの施設から外に出る事はほとんどありませんでした。
岡被告はこのころから「自分たちの意識が大きく変わっていった」と書いています。
「これ以上にない大きな叫び声で麻原に帰依致しますという誓いを言い続けるのです」。
「あとは麻原の説法テープを聞き瞑想する」。
「弟子の多くは麻原以外に何も考えられない環境になっていきました」。
富士山総本部に移って間もなく岡被告は初めて犯罪に関わります。
修行中に道場で1人の信者が死亡しました。
岡被告は麻原被告に「大師のお前がいて何をしていたのだ」と非難されました。
そして麻原被告の指示でひそかに遺体を処分しました。
「この事故がもし公になればオウムが潰れるという恐怖心」。
「麻原…グルは悪くない。
悪いのは自分たちだという思考回路の中で体験した事もない初めてのパニックに行き詰まってしまったのだと思います」。
「人間味のない無機質な空間の中でまさに私たちは判断力を失くした人形でした」。
それから1年たった平成元年11月。
岡被告は再び犯罪を指示されます。
坂本堤弁護士一家の殺害でした。
坂本さんはオウム真理教被害対策弁護団の先頭に立ち高額な布施や家族と一切会わせない出家の制度などを厳しく批判していました。
岡被告は殺害を指示された時の事をこう書いています。
「『ポアだよポア』。
麻原はそう言って指をはじくような動作を2回繰り返しました。
その時私は麻原が本気だと分かったのです」。
「戸惑いとか心の葛藤が有ったのではないかと申されてもそこまでに至る現実感が正直のところ全くもってありませんでした」。
「麻原…グルの指示されること。
それのみを自己の修行と捉え真剣にやりきることなのだとただそれだけなのです」。
坂本さん一家3人の殺害。
その重大さを一瞬でも感じなかったのか。
もし感じなかったのであればあなた自身のどこに原因があったのか。
私たちは問いました。
岡被告から返事が来ました。
しかし坂本弁護士事件の事はこれ以上は話せない書けないと伝えてきただけでした。
岡被告はその後も事件について答える事はありませんでした。
(ざわめき)坂本弁護士事件の1か月後。
海外から帰国した麻原被告の映像です。
そのそばに坂本弁護士事件に関わったもう一人の被告の姿がありました。
当時22歳でした。
端本被告からの手紙です。
「殺人なんてもちろんそれまでないというより想像したこともない」。
「何故あの時逃げなかったか引き返さなかったか断わらなかったか自分でも疑問があります」。
端本被告が出家したのは大学3年生の冬でした。
「このまま社会人にはなりたくない。
人生の意味を考えてみたい」それが理由でした。
家を出る日母親が駅まで見送りに来ました。
端本被告は「21年間幸せに育ててくれてありがとう」と母親に別れを告げました。
「家族が駅まで泣いてついてきました」。
「胸がツブれそうです。
ただそれを振り切ってのこと。
やはりそれなりの想いの深さは理想とか理念はあったわけです」。
「オウムでの修行に賭けました。
それは本気でした」。
母親を振り切って出家した端本被告。
初めは教団の活動に疑問を持つ事もあったといいます。
教団は平成2年に行われた衆議院選挙に向け街頭での宣伝活動を始めていました。
端本被告も動員されました。
「ゾウの帽子で踊り出した時目をこすって本当にこれでよいのかと思いました」。
「他人のフリをしたくなりました」。
高額な布施の制度や強引な信者獲得にも疑問は残りました。
しかし信者同士の会話は固く禁じられていました。
「相談しない。
できない。
不満をもらすと幹部が説得にやって来ました。
オウムを否定しきれていない。
肯定もしきれていない。
無思考。
考えないようにしていた。
考えると崩れるのが分かっていた気がします」。
出家して10か月。
端本被告は大学時代の空手の経験を買われ麻原被告の警備を担当するようになりました。
そして坂本さんの襲撃に加わるよう命じられます。
事件当日端本被告は新宿にいました。
変装のための服を購入するよう指示されたのです。
決められた集合時間を過ぎても端本被告は一人街をさまよいました。
「新宿ならば電車に乗れば自分の家に帰れるのです。
一方で救済や修行への思いもありました。
葛藤がありました。
服を買いに行った店でレジの女の子にすがりたい気持ちでした。
友達に会うかもしれない。
そうしたらと思っていました。
でも友達には会いませんでした」。
結局端本被告はほかの幹部らと共に坂本弁護士の住むアパートの前に立ちます。
「試練を与えて弟子の帰依を培う修行だと思いました。
自分は倒すだけ。
現実に殺すのはここはグルだと麻原だと思いました」。
翌日の未明端本被告は坂本さん一家を殺害しました。
出ておいで!帰ろう家に。
みんな温かい家庭が待ってるよ!事件の数か月後教団の施設に母親が訪ねてきました。
警備をしていた端本被告は母親とほんの数分言葉を交わしました。
母親は雑誌の記事を見せて言いました。
「オウムは坂本さんの事件をやるような団体なのよ。
早く出てきなさい」。
端本被告は「今度うちに帰るから」と嘘をついて母親を帰しました。
道場に戻った端本被告は1人で泣きました。
平成6年教団に対する端本被告の疑問は更に大きくなっていきます。
麻原被告の脳波を再現したという装置が作られ端本被告もそれをかぶるように指示されます。
修行という名目で幻覚剤LSDも投与されました。
端本被告は脱走しました。
向かったのは母親が暮らす町でした。
「本当に自宅近くの親が買い物に来るような場所にまで行きました。
親に会うかもしれない。
でも会っても何も言えないかもしれないのに」。
「戻りたい。
社会。
人。
やはり誰かに見つかりたかった」。
「そこには大勢の買い物客がいました」。
「普通の日常がありました。
『いつかこんな生活がしたい』そう思いました。
でももうオウムでしか生きられないと思いました」。
結局端本被告は教団に戻りました。
なぜこの時教団を否定し警察に自首しなかったのか。
私たちは問いました。
「麻原を信じなくなったら事件がただの殺人になってしまう。
それは耐えられない。
だから信じるしかなかった。
信じたかった。
でも疑念は生まれる。
どうしようもありませんでした」。
オウム真理教に戻った3日後端本被告は新たな犯罪を指示されます。
住宅街にサリンをまく。
7人の命を奪った松本サリン事件でした。
「自宅近くまで逃げた3日後に指名されました。
麻原が全てを見通していたのだと思ってしまいました。
もう抜けられないと思いました。
おかしいと思ってももう突き詰めて考えなくなりました」。
教団への疑問を感じていたという端本被告。
だとすればなぜ教団にとどまり殺人を繰り返したのか。
「今はもう当時のことが分からない」。
端本被告の答えでした。
教団の無差別テロへの動きを加速させたのは高い科学知識を持つ幹部たちでした。
東京地方検察庁の一室には1,000回以上に及ぶオウム裁判の記録が保管されています。
教団はサリンや炭疽菌といった化学兵器を次々と製造していきました。
それを支えたのが高学歴の信者たちでした。
筑波大学大学院で有機物質の合成を研究していました。
サリン製造の責任者でした。
京都大学大学院でエイズウイルスの遺伝子を研究。
地下鉄でまかれたサリンを作りました。
東京大学理学部で素粒子の研究をしていました。
地下鉄でサリンをまきました。
なぜ高い科学知識を持つ彼らが無差別テロに加担していったのか。
どの被告も2審の裁判が終わっていないため面会も手紙のやり取りも制限されています。
先月末彼らの一人からNHKに1通の手紙が届きました。
裁判所の許可を受けて出されたものです。
手紙は広瀬健一被告からのものでした。
細菌ガスや自動小銃の製造に関わり地下鉄サリン事件では実行犯の一人になりました。
1審で死刑判決を受けています。
手紙には学生時代に感じた科学技術へのむなしさが入信の動機になったと書かれていました。
「私は物質の性質を研究する分野で仕事をしようと思っていました」。
「ただ私が新たな技術開発に貢献できたとしてもそれから先は私の手を離れていくのですからその技術が最終的に何に使われるかは分かりません。
人を殺傷するための兵器に使われるかもしれません。
私は何か絶対的な生きる目的を求めるようになりました」。
広瀬被告は早稲田大学理工学部で物理学を専攻し首席で卒業しました。
大学院に進み当時注目を集めていた超伝導の理論に関する論文を指導教授と共同で執筆しました。
論文は国際学会でも紹介されました。
しかし優れた研究成果を出してもむなしさが消える事はなかったといいます。
広瀬被告はそのころ偶然書店で麻原被告の本を目にします。
「絶対的な幸福や喜びが修行を通じて得られる」。
そう唱える麻原被告に強く引かれていきました。
昭和63年3月広瀬被告はオウム真理教に入りました。
23歳でした。
そのころは科学を学んだ者として教義が正しいかどうかを確かめていきたいと思っていました。
「当初私は教義を確認しながら進んでいる感覚でいました」。
「入信直後は違法行為を指示されても受容しなかったと思います」。
しかしその思いは修行を続けているうちに次第に薄れていきました。
広瀬被告が行っていた修行。
手を上に上げて何度も床に伏せながら繰り返し教義の言葉を唱えます。
これを一日16時間行い残りの時間は麻原被告の声をテープで聞き続けました。
こうした修行の後広瀬被告は頭がさえ渡るように思ったり体の一部が熱くなるように感じたりしたと言います。
「教義にあるとおりのさまざまな神秘体験が続いたのです」。
「光音エネルギーなど実体のないものを現実として知覚するようになりました」。
「神秘体験によって世界に対する現実感が変化しました」。
「つまり一般社会で通用している世界観が否定されオウムの教義の世界観の方を現実と感じるようになりました」。
平成2年4月。
広瀬被告は麻原被告の部屋にほかの科学知識を持つ幹部と共に呼ばれました。
麻原被告は広瀬被告たちに対し「今から行う説法はノートをとるな。
録音も他言も無用だ」と前置きをしました。
そして「ヴァジラヤーナ」を実践すると宣言します。
人類を救うためには殺人をも肯定する。
麻原被告独自の教義を実行に移すというのです。
広瀬被告はこの宣言を受け入れました。
「私が違法行為の指示を受け入れるようになったのはさまざまな要因があると思いますが麻原の指示が絶対的なものになっていったという事があります」。
広瀬被告は山梨県上九一色村に作られた新たな拠点に呼ばれました。
そこには科学知識を持つ信者が数多く集められていました。
広瀬被告がいた施設です。
ここで猛毒のボツリヌス菌の培養を命じられました。
3か月間ほとんどこの小屋から出る事はありませんでした。
その後も炭疽菌や自動小銃といった兵器の製造に次々と関わっていきます。
学生時代科学技術が兵器の製造に使われるかもしれないとむなしさを抱いていた広瀬被告。
自らがその作り手に変わっていました。
閉ざされた施設の中で幹部たちはどのように兵器を製造していたのか。
その実態を知る元信者に会う事ができました。
クシティガルバ棟と呼ばれる小さな建物。
サリンの製造現場です。
ここでは平成5年から土谷正実被告ら科学知識を持つ幹部によってサリンが作られていました。
女性はこの小屋でサリンの製造を補助していたとして殺人予備の罪に問われ1年6か月の懲役刑を受けました。
サリンの製造に関わる幹部たちを8か月間間近で見ていました。
どのようにサリンを作っていったのか。
女性は絵を描きながら説明しました。
ごく限られた信者にしか入る事が許されなかったサリンの製造現場。
入り口を入ると左手には薬品棚がありました。
サリンの製造に使われる原料のほか火薬など大量の薬品が並んでいたといいます。
現場で幹部たちを補助していたのは4人。
女性もその一人でした。
部屋の一角に排気装置が備わった実験室がありました。
ここで原料の薬品をフラスコで蒸留する作業を繰り返しサリンは作られました。
刺激臭のある煙が発生し部屋に充満する事もありました。
幹部たちは何度も倒れました。
その度に女性が解毒剤を注射しました。
幹部たちはサリンの恐ろしさを知りながらも麻原被告の指示を受け製造を続けたといいます。
平成7年3月18日。
この日の朝広瀬被告は一人の幹部の部屋に呼ばれました。
地下鉄サリン事件の2日前でした。
待っていたのは麻原被告の側近故村井秀夫元幹部でした。
村井元幹部は「地下鉄にサリンをまく。
実行してほしい」と指示しました。
そして集まった広瀬被告たち一人一人に「やりますか?」と聞きました。
広瀬被告は「やります」と答えました。
殺人によって魂を救うという麻原被告のヴァジラヤーナの実践だと捉えたのです。
「ヴァジラヤーナの救済は私にとって現実感がありました」。
「愚かにも『殺人』というイメージが沸かない状態でした」。
3月20日午前7時47分広瀬被告は地下鉄に乗りました。
ショルダーバッグにサリンの入った袋を入れていました。
電車が御茶ノ水駅に入り止まりかけた時床に落としたサリンの袋を2つとがった傘の先で突きました。
(サイレン)日本の犯罪史上例のない無差別テロでした。
教団の施設でサリンの製造を補助していた女性は事件を上九一色村で知りました。
なぜサリンの製造をやめる事ができなかったのか。
社会に戻って初めて考えられるようになったといいます。
そういう…。
広瀬被告は逮捕後の取調室で被害者や遺族の調書を読んで聞かされました。
その時初めて自分が信じていたものが間違いだった事に気付いたといいます。
「私は実際は意味のない神秘体験を意味あるものとして認識する誤りを重ねていただけでした」。
「現在私は教義の世界に現実感はありません」。
「しかし重大な事件の責任を負っておりその束縛感があるので入信前の私の現実感を取り戻す事はないのではないかと思います」。
オウム真理教元幹部たちからの40通の手紙。
そこから浮かび上がってきたのは麻原被告に全てを委ね自ら考える事をやめてしまった被告たちの姿でした。
なぜそこまで麻原被告を絶対視したのか。
なぜ人の命を奪うにまで至ったのか。
その答えは被告たちの手紙の中にはありませんでした。
「いつどうしてアサハラに神のような信をもったのか今は分かりません」。
「今振り返ってみても当時の事が分からない。
信じられない。
信じたくない」。
地下鉄サリン事件から9年。
被害に遭った人たちは突然奪われた日常を僅かでも取り戻そうとしています。
動いたら危ないからね。
手切っちゃうからね。
お兄ちゃんもさ細かいとこ見えなくなってきてさ。
自分で切れるようになったらいいね。
オウム真理教代表…「事件は全て弟子たちが起こした事」。
それ以外は何も語っていません。
無罪を主張する麻原被告に今月27日判決が言い渡されます。
2004年放送の「NHKスペシャル」でしたけれども改めてどのようにご覧になりましたでしょうか?印象深かったのは広瀬死刑囚のですね手紙の筆跡の美しさといいますか。
彼は被害者とか関係者の方に手紙を出すためにペン習字を習われたと聞いております。
そのようなこまやかな心配りができてしかも手紙の内容っていうのは非常に知的なものなんですね。
そういうものが書ける人がカルトに巻き込まれてテロの実行犯になってしまったという意味では非常にカルト問題の深刻さっていうのは感じました。
もう一つはこれは端本死刑囚ですけども何度か引き返すチャンスっていうのはあった訳なんですよね。
しかし引き返せなかった。
そこまで信者を追い込むカルトの怖さというんでしょうかそれを感じました。
それにしても振り返りますとその〜事件当時ですねそのオウム真理教の信者の数1万1,000人以上いたといわれてるんですね。
どうしてそれだけ多くの信者を集める事ができたんでしょうか?1980年代の日本というのは物質的には非常に豊かな社会だったんですけどもそれだけでは自分が生きている感じがしないと。
自分とは何なんだとかですね生きる目的というのを見つけたいというそういう真面目な若者たちもいた訳なんですね。
そういう若者たちにとってオウム真理教というのは非常にある意味で禁欲的に生きる目的を探求してる。
そういう集団に移ってそこで自分の人生の師仲間に出会えたとこのように思った人たちがいたという事だと思います。
その中にはやはり背景には絶対的な麻原…松本智津夫死刑囚の存在とそしてその修行の形といいましょうかそういうものがあったっていう事になりますね?そうですね。
そのような修行体系といいますかあるいはその教学システム。
間違いがなく効率よくその真理を探求できるというそのそういう仕組みを提示するというこの仕組み自体に学校あるいは受験のシステムに慣れてしまった高学歴の人たちこれがからめ捕られたというところはあろうかと思います。
一般的なエリートといわれる人たちが殺人というところまでこう踏み込んでいってしまったのかと。
その辺りどんなふうに考えられますか?この端本死刑囚の言葉の中でですね横の関係を作らせなかったというふうな事が出ていたんです。
オウムの信者たちは自分個々バラバラに個人個人修行をしてましてそして教祖と信者というのは縦のラインでつながってるんですね。
これはオウム真理教だけではなくてカルトというのは一般的に教祖と信者あるいはその上の人と下の人という縦のラインを重視してまして横の関係を作らせない。
そういう中でですね命令を聞くある意味でロボットのような人間をつくり出してるというところがありますね。
実際そういう事になってこのサリンをまくという現場から誰も逃げなかったという事なんですね。
逃げる事ができなかったそういう事だろうと思います。
櫻井さんはですね北海道大学でカルトの問題に対してさまざまな取り組みをされていらっしゃる訳ですけども今の問題ですねどんな問題があるんでしょうか?これから新入生を迎えて大学の新学期が始まる訳なんですけどもさまざまなカルト団体がですね正体を隠した勧誘活動というのをやってきます。
最近はですねSNSフェイスブックとかですねそういうのを使って関係を作ってそれから喫茶店で会って道場に誘うとか。
そしてその活動内容を明らかにしないで自分たちは学生のサークルなんだと学習サークルであるとかですねフットサルのサークルであるとかですね。
しかし実際その中で長くいるとそこから宗教的なあるいはカルト的な誘いが始まると。
これに対しては大学の方ではカルトに注意しようという事でガイダンスを工夫しております。
今そういうカルトに入っていく若い人たちには傾向といいましょうかねそれは何かあるんでしょうか?はい。
1980年代オウム真理教の時代は宗教的な関心とか人生の目的を見つけたいとかそういう探求型の若者が入っていったんですけども現在は優しくしてくれる人がいるとか自分にとっての居場所安らげる場所そういう形でですね入っていく若者あるいは中高年の方も見受けられますね。
自分だけは大丈夫とそう思ってしまいがちのような気もするんですけどね。
自分だけの知識というのは非常に限界がありますので不信な勧誘を受けたらその事を周囲の人友達でもいいですし先生でもいいし家族でもいいんですけど相談してみるという事が大事だと思います。
周囲の人との関係を使ってですねさまざまなリスクを防ぐという事が大事じゃないかなというふうに思います。
あともう一つ大事な事は絶対的な幸福であるとか解脱であるとか心理であるとかそういう抽象的な概念だけで物事を判断し考えないという事だと思うんですね。
具体的に考えると。
目の前の方を幸せにするためにその人をあやめるという事はこれはどう考えてもおかしい訳なんですけども抽象的に考えるとそういう事もありえちゃう訳なんですね。
ですからその具体的に考えるという事が大事なんだと思うんですね。
でも今でもやはり毎年のように入っていっている若者がいる。
それだけやはり社会的なリスクはあるという事ですよね。
社会ができる事は自分の頭でものを考える人をつくるという事だと思うんですね。
これは教育の役割は非常に重要なんですけどもカルトに関する情報をやはりこのメディアが提供していくと。
オウム真理教事件を風化させないという事が大事なのではないかなと思いますね。
そういう意味でも本当社会全体でその事件の教訓といいましょうかその反省をですね伝えそして考え続けていく事が必要という事になってまいりますかしら。
考える事がとにかく必要ですね。
はい。
どうもありがとうございました。
どうもありがとうございました。
2015/03/18(水) 02:20〜03:30
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「オウム真理教 地下鉄サリン事件から20年」[字]

オウム真理教による地下鉄サリン事件から20年がたとうとしている。教団幹部の多くは高学歴で犯罪には縁のなかった若者たちだった。何が彼らを犯罪へと向かわせたのか。

詳細情報
番組内容
【キャスター】桜井洋子
出演者
【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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