(後藤)
あなたの「忘れられない味」は何ですか?
料理にはそのおいしい味と一緒にたくさんの思い出が詰まっています
味と共によみがえる懐かしい情景
食卓で育んだ家族の幸せ
料理を作る人と食べる人それぞれの気持ちが響き合って生まれる「忘れられない味」の物語です
エッセー「私の忘れられない味」。
募集を始めて4年。
7歳から上は100歳近くの方までこれまでに600通を超えるお便りお寄せ頂いています。
皆さんありがとうございました。
ありがとうございました。
今日はその中から9つのエッセーをご紹介します。
頂いたエッセーのほとんどは作ってくれた人への思いと共に語られています。
最も多かったのがお母さんの料理でした。
そんな「大好きな母の味」のエッセーを3本ご覧下さい。
「毎朝慌ただしく動き回りながら焼く『母の卵焼き』。
気取らない味は母そのものであった。
みりんの甘い香りに少しの塩がピリリと効いた優しい味。
時に不格好であったが母は真ん中の一番よいところを私の弁当に。
いびつなところを自分の皿に盛った。
「たまには真ん中を食べたら?」と言うと母は『いいのいいの』と笑った」。
「落ち込んだ日も憂鬱な日も弁当を開けると母はいつもエールを送ってくれていた。
一口一口食べ慣れた味をかみしめ涙が出そうになった事もある」。
「私も結婚し食べさせる立場になって母の気持ちが分かった。
『一番おいしいところを食べさせたい』。
『大事な人のおいしく頬張る顔が見たい』という素直な母の欲求だった。
私もいつか子供を授かり守るべき者が増えていったら目まぐるしい毎日の中で母のような卵焼きを焼くようになるのだろうか」。
「幼い頃ひな祭りやお誕生日会に母は必ず『ちらしずし』を作ってくれました。
卵れんこんしいたけ一つ一つを丁寧に味付けした真心込もった『ちらしずし』です。
ウキウキしながら家族で囲んだ情景が思い出されます。
母の『ちらしずし』を誰よりも楽しみにしていたのが脳梗塞で倒れ病床に伏す祖母でした。
父も病弱だったため幼い子供3人を抱え寝る間も惜しんで働かなければならなかった母。
そんな状況でも祖母のためによく『ちらしずし』を作っていました。
祖母はあまり味覚がないようでしたが母の『ちらしずし』だけは残さず食べていました。
そして必ず『忙しいのにいつの間につくってくれたんや。
ありがとう!おいしかったわ!』と母に伝えていたのをよく覚えています。
つらさ忙しさを物ともせず真心込めて作り続けた母の『ちらしずし』はあっぱれです。
親孝行の母そのもの天下一品の味なのです」。
「幼い頃母が作ってくれた『マーブルケーキ』の味は本当に忘れられない。
ココアとバニラの生地がお口に入れた瞬間それぞれの旋律でワルツを踊りだす。
あまりのおいしさに目が覚める思いだった」。
「6歳上の姉の家庭訪問に母はやはり『マーブルケーキ』を焼いた。
『あんまりおいしいので先生は腰を抜かすだろう』。
私は母の横にちょこんと座り先生をにらみつけていた。
しかし先生は勉強の話ばかりで一向に食べる気配がない。
『母のケーキを食べないなんて許せない!』。
私の怒りは噴火した。
しばらくして姉の授業参観があった。
私は教室のど真ん中をつかつか歩き『この人お母さんのケーキ食べてくれんかった人や!』と怒りをぶつけた。
先生は怒るどころか大笑い。
母と姉には大変な恥をかかせてしまった」。
「それほどおいしかった母のケーキ。
あれこれ作ってみたがいまだ母の味には勝てない」。
いやぁ藤井さんのマーブルケーキの話ねかわいいですね。
そうですね。
「許せない!」と思ったんでしょうね。
「あんなおいしいのに」って。
自慢のケーキ!私も母がマーブルケーキやアップルパイを焼いてくれたんですがやはり小さい時のそういう経験や味っていうのは一生忘れないものですね。
いやいやそうですよね。
長内さんのね慌ただしくも毎朝焼いてくれた卵焼きの話とか山岡さんの病気のおばあさんのために真心込めて作り続けたちらしずしもやっぱりそうですよね。
家族のためにという愛情が伝わるからこそその味いつまでも記憶に残るんじゃないかなと思いますね。
はい。
さあ続いてのテーマは「もう一度食べたいあのときの味」。
味の思い出は当時の情景と共に心に刻まれています。
「幼い頃年末になると福島の祖父母から宅配便が届いた。
必ず入っていたのが祖母が作った福島の郷土料理『いかにんじん』。
素朴ながらもついつい箸の進む味で母にせがんではちょこちょことつまみ食いをした」。
「私が成人する頃には届かなくなったがそれでもあの味が懐かしくなり自分でこさえるようになった。
かたいするめを切るのは思った以上に骨の折れる作業で切り終える頃には手が痛くなる。
祖母もこうして作ってくれていたのだと思うと改めて愛情を感じるとともに感謝の気持ちが込み上げてきた」。
「4年前の大震災で福島は大きく変わってしまった。
祖父母が生きていたらどれほど心を痛めただろう。
失ったものは大きいが祖父母と眺めた福島の美しい海や降るような星空は目を閉じればすぐそこに広がる。
『祖母のいかにんじん』の味と共に私の心の中にいつまでも生き続けている」。
「夜中にばあちゃんが階段を上がってくるとだしのいい匂い。
ばあちゃんの夜食はいつもうどん2人分。
ふだんは一切台所に立たないばあちゃんが真夜中に油揚げを炊き餅を焼きと時間をたっぷりかけて作っていたのは私と過ごすひとときのためでした。
甘辛い揚げが汁に染み出てすごくおいしかったけど何だか一方的で胃にも心にも重苦しく『欲しゅうないけぇあっちに持っていって』とわざと言った事もありました。
好意を拒絶する私を怒る事もせずただゆっくりと冷めてゆくうどんを見つめていたばあちゃん。
お墓に入ってしまって意地を張っていた自分の愚かさに気付きました。
思えば丼の中にはいつも切ないほどの愛情と慈しみが詰まっていたのに。
後悔と涙と感謝の味の『ばあちゃんのうどん』をもう一度だけ食べてみたいです。
惜しみなく与えてくれた優しさを思い切りのみ込んでみたいです」。
「私がお勤めを始めた昭和30年代半ば。
各家庭に電化製品がそろった頃でした」。
「母は料理番組を楽しみに見るようになり我が家の食卓はうれしい変化を遂げていきました。
ある寒い日残業を終えて家に帰るとおいしそうな匂いが私を出迎えてくれました。
母は得意そうに『ボルシチというロシアのスープよ』と教えてくれました。
その正体に私はびっくり!じゃがいもは丸のまま大きなお肉の塊も入って何とも豪快!鮮明に覚えているのはスープのきれいな琥珀色。
初めて味わうスープは私の体を芯から温めてくれました」。
「我が家の食卓が西洋化していく様は見事で毎日わくわくしながら家に帰ったものです」。
「そんな私も今や18か国に旅しホームステイも受け入れるほど」。
「『母のボルシチ』は異文化の訪れの予兆の味だったなと思ったりしています」。
箱崎さんエッセーを書きながらご自身の国際化のきっかけはあのボルシチだったなぁと気付いたそうなんです。
なるほどねぇ。
当時はやはり無意識でもそれでもあとからその出来事の大切さに気付く事ってありますよね。
そうですよね。
だから確かににんじんのあの北島さんのお話ですが実際にやっぱり自分でこうはさみでねこう切って作ってみて感じた事それからうどんの菅原さんも1人で料理をするようになってからおばあさんへの感謝の気持ちがね実感できた。
初めて実感できたというねそういう話でしたね。
そうですね。
さあ最後のテーマは「私に元気をくれた味」。
うれしくなったり切なくなったり料理には心を動かす力があります。
「母は僕が疲れているとにんにくのたくさん入ったカレーを作ってくれる。
何回もそのカレーに救われてきた」。
「僕は小中高と野球を続けてきた。
中でも高校野球は厳しくつらく肩が壊れ野球をやめようと考えていた。
母は僕の異変に気付いたのだと思う。
大好物のにんにく入りのカレーを作ってくれた。
僕は母の気遣いを感じた」。
「母やたくさんの人に支えられて野球ができている。
今まで気付かなかったけど自分は恵まれている」。
「『精いっぱい努力してそれでも駄目だったらその時考えればいい。
また頑張って練習していこう』」。
「ケガを乗り越えレギュラーをつかみ取り一生の仲間も出来た。
あの時やめていたら後悔していただろう。
母にはいつかお礼を言えたらいいと思う。
『母のカレー』のおかげで今がある。
『ありがとう』」。
「携帯電話なんてなかった時代。
親友のチー子の家に電話すると彼女のママが出てセロリの話になった。
『セロリ大好きですけど葉っぱが邪魔ですよねぇ』。
『あら捨てないでじゃこを加えるとおいしいわよ!やってみて!』。
じゃこの塩気とセロリの葉っぱの苦みがよく合って私の定番になった」。
「ママが天国に行って数年。
チー子にその事を話すと『ママらしいわ。
絶対に食材を無駄にしない人だった』。
専業主婦で本当は外で働きたかったと働く私を応援してくれていたチー子のママ。
仕事で疲れた時この一皿を作るとママの声が聞こえる。
『頑張っているのね。
でも無理しちゃ駄目よ。
あなたたちは私たちの時代の憧れなんだからね』。
『無駄な食材って無いのよ』。
仕事でつらい事があってもどんな事も無駄な事じゃないと思えてママの声に励まされ癒やされる」。
「台所におむすびが3つ。
父がこしらえたのであろう。
塩をたっぷり効かせたらこなんかがゴロンと入っていたりする。
ちょうどそれはこの人の生きざまのような小粒でもパンチのある一品なのだ」。
「僕ががんの入院生活を終え帰宅した晩。
父は『よく頑張ったね』と好物のオムライスを作ってくれた。
大げんかした時は『ふざけんな』と茶わんにご飯だけ。
父はこしらえる品々にメッセージを込める達人である。
僕はそれらを時に感謝の涙を浮かべ時に腹を立てながら食べる」。
「おむすびが最後の1個になった。
『中身なぁに?』『しゃけ』『もらうね』『おう!』。
男親と息子って単語で会話しているうちが一番の幸せではないだろうか。
あれ?酸っぱい。
しゃけではなく梅干しだった。
退院して1か月。
『リセットしてそろそろ仕事しな』という事らしい。
ふがいなくてごめんねお父さん。
このおむすびがある限り我が家はそれなりに幸せだと確信するのであった」。
あの…実はおむすびのエッセーを投稿して下さった甲貴弘さんなんですけれども今年の初めにがんが悪化してお亡くなりになりました。
このエッセーがきっかけで貴弘さんの思いを知ったというお父さんの光男さんからお手紙頂きました。
「まだまだ信じられない毎日です。
シチューが好きで持っていくと『これがおやじの味だ。
おいしい!』と言ってくれ『退院したらオムライス作って』と言うので作ってやりました。
3食作るのが私の役目で貴弘が『上手だねぇ』と言ってくれました。
『おいしい』と言われるのが一番のご褒美でした」。
そう。
確かに「おいしい」と言われるのはねご褒美ですね一番のね。
お父様の貴弘さんを喜ばせたいっていう思いが貴弘さんの「忘れられない味」につながってたのかなというふうに思いますね。
そうですね。
與芝さんも親としてねいろいろ数々のお寄せ頂いたエッセー感じるところありますよね。
そうですね。
青木さんのセロリの葉っぱのお話もそうですけれども作る度食べる度にその親友のお母さんの事を思い出す。
やっぱりお料理って目の前にある食材を誰かの顔を浮かべながらその人が食べる姿「これ食べたらおいしいって言うかな?」そんな表情をね思い浮かべながら作るものですよね。
そういう気持ちがやっぱり「お料理」というもので料理って誰かのためにするものなんだなって事を改めて痛感しましたね。
感じましたね。
では番組の最後にカレーのエッセーをお寄せ下さった青島さんの後日談をお送りします。
(テーマ音楽)2015/03/18(水) 21:00〜21:25
NHKEテレ1大阪
きょうの料理 私の忘れられない味 600通のお便りから[字]
視聴者の皆さんから募集した、心に残る思い出の味のエッセー「私の忘れられない味」。寄せられた600通にのぼるエッセーの中から、9つの心温まる物語を紹介する。
詳細情報
番組内容
3年前から番組で募集しているエッセイ「私の忘れられない味」。幼い頃、母が作ってくれたケーキの思い出、田舎の祖母が毎年送ってくれた手作りの郷土料理の味、辛い日々を支えてくれた父の手料理…心のこもった手作りの味には、人と人とをつなぐ力がある。寄せられた600通にのぼるエッセーの中から、9つの心温まるエッセーを、ショートストーリー仕立てで紹介していく。
出演者
【司会】後藤繁榮,與芝由三栄
ジャンル :
情報/ワイドショー – グルメ・料理
趣味/教育 – その他
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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