徹子の部屋 前田吟 2015.03.19


来月2日までに、市内2803箇所に設置されるということです。
大阪府議選では、議員定数が109人から88人に減るため激しい争いになることが予想されます。
統一地方選挙は都道府県と政令市は来月12日、そのほかの市町村は、来月26日に投票です。
(黒柳)すごい大家族。
息子さんが4人いらっしゃったもんですからお孫さんが5人。
初め1人から出発した前田吟さんですけどやっぱり家族っていうのはこういうふうに増えるとねうれしいもんですよね本当に。
特にあなたの場合はね1人で生きていらした方なんですからそれは大変なことだと思います。
よくご存じの寅さんの妹さんのさくらさんの旦那さんを長いことおやりになりました。
前田吟さん大変お元気で。
お父さんの役の多い方でいらっしゃいます。
だけど偉人とかそういう人はやらないでなるだけ普通のお父さんをやる。
はい。
社長も少ないですね。
社長も少ない?あっそう。
副社長までですか。
あっそうか。
なんか中小企業の社長はやる。
はい。
でもねそういうなんか…わかりやすいって言うと変だけど自分でわかってる感じの役はねきっと…。
そうですね。
養成所の時からね大体僕だけ汗と油の臭いがしてましたからね。
あっそうなの?皆さんねボンボンというか学生学生して…。
そうですね割とね。
演劇…学生演劇の延長でね。
俳優座の養成所ですからね。
そこへあなたがいきなりいらっしゃって。
でもあなたは小さい時から…学芸会の時に孫悟空なすったんですって?そうです。
あのね1年から5年まではその他大勢だったですね。
ほとんど目立たない役で。
6年生の時にね初めて先生が「最後だからやりたい役は手を挙げろ」って。
「出し物は『西遊記』だ」と言うんで。
おお!最初全校のね生徒を集め…全校っていうか6年生だけ集めて。
そしたら「沙悟浄」って言われたんですよまず。
しーんとしてねやっぱり誰も手を挙げないのね。
そういう時ね田舎だしね。
僕がはい!って手を挙げて真っ先にね。
それで真っ先に決まっちゃって。
あっそう…。
あの写真はどういう?これはねその他大勢の時の「カモA」とか何とかいう…。
カモ?これ。
はい。
可愛いねでも。
カモ。
こういうのとても…何ていうの?可愛いっていう感じがあるんですけど…。
あなたは本当に波瀾万丈の人生ですね何といっても。
そうですね。
この今の写真の頃までは伸び伸びと田舎でお養父さんと2人で暮らして…。
たまたまですけど僕は戦争中…1944年ですよね。
戦争中に生まれまして。
お父さんが…お父さんというか恋愛した片方の方が…何ていうのかしら?もう家庭がありましてね。
だからいわゆる…。
シングルマザー。
そうです。
…の子供で。
それでまあ何か月ぐらい経って行った…3〜4か月だと思うんですけど。
可愛い写真が。
すごい可愛い。
これお母さん…。
可愛いですよ。
随分はっきりしたお子さんですね。
100日ぐらいですねはい。
この頃にもらわれていったんじゃないかという…。
よそのお家に養子にいらした…。
でもそのことを知らないで小学生の時はすくすくと育ったんだけど。
残念なことにお養母さんヒサヨさんという方だったんですけど養母がね。
その方が早くというかもう幼稚園の時に亡くなったんです。
割とあなたがそこの家にもらわれていって気がついた時にはなんかご両親というのはちょっと年上の人だなっていう感じがあったんですって?僕が10歳の時63歳でしたからお養父さんが。
そんなでしたか。
えー。
それで第一一番ショックだったのは実の母親がですねある日訪ねてきたんですよ。
そして当時で100円でしたかね?100円を…小遣いをもらってね。
隣っていうか近所のおばさんが「あれが信ちゃん…」って。
信明っていって本名が。
「本当のお母さんだよ」って言って…。
その100円をおやじに見せたんですよ。
そしたらおやじが怒ってね。
粉々にこう裂いて火鉢の中に…。
お金を?うんお金を。
たたきつけて燃やしちゃったんですよ。
その時に…その時からですかね?ちょっとこう…大人になったっていうか少し何か感じたっていうか。
ああやっぱり僕は実の父親じゃない人に育てられてる。
でもその人にはそのぐらい怒るぐらいの愛情があるんだなというのを感じたっていうかね。
当時として100円ね大事なお金でしょうから。
その頃から少しこう色々生き方というかやっぱりよく…お養父さんが工場から帰ってくる前に4時頃からお湯沸かしたり七輪に火をおこしたり。
お養母さん亡くなってたからね。
ご飯の炊き方とかを教わったり味噌汁とかお魚焼いたりとかっていうのをするようになりましたね。
それが年取って随分助かってるっていうか随分ね役にね…。
自分でねそういうふうにできたっていうことではね。
そう。
それであなたそれから仕事アルバイト…。
そうですね。
それで小学校6年の時…戻りますけども。
沙悟浄をやって担任のカワムラ先生にね大変褒められたんですよ。
よかったわね。
うん。
「あのね前田君俳優になりなさい」「とてもいいの。
ずっと学芸会何回も見てるけどあなたみたいな上手な人は見たことない」ってすごい褒めてくれましてね。
女の先生?うん。
それでね自分でも調子に乗ったっていうか有頂天になってね。
それからというもの人の前になるべく…クラス会とかありますでしょ?そういう時は前に出て当時エノケンさんのマネやったりとか大河内傳次のマネやったりとかね。
それで人形劇をね自分で本を書いてシナリオ書いて物語作ってね近所の子供たち集めてクリスマス会なんか…。
黒い暗幕の下からこうね手を出して「こんにちは皆さん」とかっていうのね人形劇をやったり。
みんなが喜ぶ?はいはい。
そしたらだんだん自分は俳優にならなきゃいけないんじゃないかっていうのをねもう小学校6年生の頃から植え付けられたっていうか…。
なるほど。
ちょっとVTRがあります。
はい。
あなたが初めていらした時なんですけど残念ながらちょっとVTRが…。
これがなんとね37年前なんです。
あっそうですか。
VTRがなくてですねこちらにはテープと写真とございまして。
それでちょっと作ったものがございますのでちょっとご覧ください。
「6年生の時。
どの役で?」「それも脇役ですけど。
ハハハ…」「でも沙悟浄いい役ですもん」「…っていう感じでね子供の時から喋ってたらしいのその学芸会。
それで…」「そんなにうまくはないでしょうけどね」「でもまあそんな感じで…」「ああ不思議ね」「俳優になりなさいって言ってまして…」やっぱりね先生…その先生は後にお会いになりました?いやー会う前にねお亡くなりになりましてね。
僕が「寅さん」やってる頃は少しご覧になってたみたい…。
じゃあ見てはくださったんでしょうかね。
じゃあ私の言ったことは間違いなかったってきっとねお思いになったと思いますよね。
泣いて喜んでたという話が伝えられましたけど…。
それはよかったですよね。
そういうことも俳優になった時に一つの…何ていいますかね?役に立つっていう仕事だっていうことになりますよね。
やっぱり田舎に…あのね皆さんNHKに出たりする時何ですか大きい役もらった時はやっぱり全国放送だと田舎にね放送するからみんなね喜んでくれるけど僕の場合誰もいないんでね親戚もね。
あっそうか。
はい。
だからやっぱりそういう意味で学校の先生とか同級生とかね。
本当にあなたその養子に行った家のお養父様とお養母様年を取ってらしたせいもあってお養母様がすぐ亡くなりそれで結局そうやってたお養父様も…。
はい中1の時の春休みですかね?あっそう…。
それであなた大阪へ出たんですか?それからね…やっぱりよかったのはその時に血のつながってない育ててくれたお養父さんの親戚のおじさんにね何か月間かお世話になるんですけどそこが…山奥でね開拓っていうか山を開拓して…開墾して自分の手で家を建ててで電気はない。
そして水もない。
水っていうか水道はない。
水は山水を雨どいでねずっと引いてたりと。
そのお手伝いをね何か月間かさせていただいたんですよ。
その時がまあ芽生えたというか…。
その時に成績もねランプなのに…今まで15位か20位ぐらいだったんですよクラスで。
大したできじゃなかった…。
それから急に5番目以内にね中間期末中間期末とねなりましてね。
それでまあそのおじさんが…何ていうのかしら?それから大阪に結局…働きながらとにかく学校へ…夜間でも行けるだろうという気持ちで大阪に。
とにかく働いて自分で生きていこうと…。
でも随分色んなあらゆるアルバイトなすったんですってね。
一応…一応というかまあはいはいはい。
すごいよね。
最終的に前にも伺ったけど家具屋さん。
はいそうですね。
家具屋さんに1年間お世話になりましたね。
その家具屋さんの…家具屋さんのその家具を運んでいったお家が…。
はい大村崑さんのね…。
当時『番頭はんと丁稚どん』で大スターだったですね。
すごいですね。
もう眼鏡のあの方を見たらばみんな喜ぶ。
はい。
そこの家だっていうことはわかったの?持っていく時。
持っていく時ね先輩と2人でね行きました。
当時自転車の後ろにリヤカーですよ。
あっリヤカーで運んだの?リヤカーでいっぱい積まないと。
自転車じゃねあんまり積めませんのでね。
見てこの写真。
こんなだったんですね。
実は大村崑さんから。
あっそう…あっそうですか。
大村崑さん覚えてらっしゃらないと思ってたでしょ?たぶん。
そしたら大村崑さんからメッセージです。
いいですか?はい。
「大阪十三に当時4階建てのマンションが立ち3階の一室から新婚生活をスタートしました」「部屋数部屋ある中でも大きかった洋間を応接間と食堂に分ける仕切り棚を私が図面を描きオーダーしました」「地震が来ても倒れないようにと相当大きな家具でした」「前田君ともう1人苦労して運んでくれたこと今でも鮮明に覚えています」「私が設計した家具でしたから55年過ぎた今でも覚えています」「『男はつらいよ』の前田君」「いつ見ても懐かしいです。
大村崑」ああありがとうございます。
どうぞ。
ありがとうございます。
いいことばかり…。
僕ってそうなんだけどいいことあんまり長く続かないんですよ。
かといって悪いこともそう長く続かないんですけど。
そこでやっぱり将来の希望が俳優だということがわかっちゃったもんですからね。
ある俳優養成所に手紙書いたりなんかしてたのがはがきが戻ってきたりして。
それでもうしこたま叱られましてね。
それでもうまた自分のふるさとに連れて帰られて…。
帰られたりして。
でもそこはまあ防府っていうとこなんですけどね。
僕は…。
おじさん?いや奥さんですよ。
家具屋の奥さんに連れて…。
あっ家具屋の奥さんに?今度家具屋の奥さんにそんな息子みたいにされたの?はい。
可愛かったんでしょうねきっとね。
お世話になりましたけどね本当。
それででも駅にいて…天満宮っていうとこがあるんですけどその天満宮に行ってお参りをしてすぐまた上りの大阪行きの列車に乗ってね。
それで駅で新聞買ってまた求人覧を見て。
まず夜のね養成所…俳優学校に行きたかったものですからね。
何しろ崑さんのとこ行ったのあなた16歳ぐらいですってね?その時。
そうです。
1960年だったと思います。
ああそう。
偉いわね頑張ったね。
それで俳優の養成所のやつを見て。
ええええ。
それでまあ新聞配達をしながら昼間働きながら夜そこの養成所に通いましたけどね。
自分は俳優になれそうだっていう感じはありました?その時。
どうですかね?でもやっぱり一番自分が自分の力で自分が得られたほんのちょっとしたこう…何ていうんですかね?紐みたいなね。
そういうところとのつながりを…。
つながり。
それでうまくしたもんでっていうかまたいいことあんまり長く続きませんでね。
経理の人がお金をね持ち逃げしちゃってその俳優学校がすぐなくなっちゃうんですよ。
そんなことってあるのね。
でもあなたそうやっててよく俳優座のあの花の15期のとこにたどりつきましたよね。
いや本当ですね。
もうちょっとの…何年も経たないんですけどね。
たまたまでもそこに…そこの講師をしてらっしゃったね新国劇をおつくりになった…。
澤田正二郎さんと2人でおつくりになった倉橋仙太郎先生という人と出会うんですよ。
その出会いがいいんですよね。
その人は全部今度は演劇…。
どこで会ったの?その人。
その潰れた養成所ですね。
潰れた養成所にその方がいらしたの?講師としてねいらっしゃってて。
それでその方の演劇道場というのに通って。
昼間はちゃんと働けるとこも紹介していただいて。
すごい。
住み込みでね。
そこで働きながら…「天王殿」っていう結婚式場だったんですけどね。
フフ…。
結婚式場だと毎日忙しくないんですよ。
仏滅とか色々あるでしょ?やんない日がある。
その時は演劇道場に通わせていただいてね。
昼間は掃除したりと。
大安とかは忙しいですけどねもう大変でしたけど。
そこでお金をためまして。
その倉橋先生に「俳優になるなら最終的には俳優座養成所というところを目指しなさい」って…。
すごい。
「それ以外はないから」って。
「他のところへ行っても俳優にはなれません」って。
お受けになった?それからまあ1年は東京芸術座というところの研究生で…。
でもあの花の15期生のとこによく入れましたよね。
よく入れていただいたと思って。
本当ですよね。
その俳優座の養成所というところの中でもその15期生っていうのは本当に後にマスコミでものすごく色んなテレビとか映画とか舞台で活躍する人たちだったんですけど。
そんなとこに前田吟さんもいらしたんです。
それでみんな随分アルバイトをしたってね。
みんなで一緒になってね。
その話も随分聞いたりした。
そうですね。
渋谷の街は我々同期がね…。
サンドイッチマンから呼び込みからバーテンからボーイからね。
でもまあ頑張ってねあなたはそれから…。
それで「寅さん」が始まって。
そうですね。
でも「寅さん」がね。
はい。
あんなに面白いものなかったでしょう?出てて。
本当ですね。
ただね僕はいわゆる親兄弟っていうか家族がいないのにホームドラマに…。
そうそうそうそう。
いきなりね。
寅さんの妹のさくらさんの旦那さんなんだけど。
なんたってもさ本当何にもないのにいきなりだもんね。
そうです。
あれね『ドレイ工場』っていう映画のオーディションを受かって僕は前田吟に自分でしてデビューした…映画でデビューしたんですけど。
その映画の試写会を僕の席で山田監督がご覧になったんですよ。
あとから聞いた話ですけど山田監督は…本当は博さんっていう役って学校の先生なんですよね。
井川さんがやってたね井川比佐志さんが。
それをそういう労働者っていうか印刷工に変えて僕に…。
いかにもねあなたがそういう…あそこの家にふさわしいじゃない。
お団子作っててみんな真面目にそういうふうにね働いてると。
そこへ寅さんがぶらっと帰ってくるっていうのにはねちょうどね。
でも面白かったでしょう?寅さんと一緒にやって。
面白かったですね。
いやー貴重…。
本当にそれこそ役者を目指してよかったなと思いますね。
人の出たものっていうのはものすごくよく見えるけど僕はもうその「寅さん」で色んな意味で食べさせてもらえるようになったといいますかね。
前にはお正月と夏と両方だったんですもんね。
でも私やってる人つらかろうと思ったのは「今頃寅はどうしてるかね」ってこっちで言ってると玄関の向こうで寅さんが行ったり来たり行ったり来たり入れないでなかなか家にね。
はい。
それがもうわかるじゃない?やってるっていうことが。
おかしかったでしょ?あのね実際にも噴いてる画面をそのまんまね上映してるのはありますね。
あっそう。
山田さん何回もそこでNGは出たと仰ってます。
みんながもうね…背中の気配でわかるのね。
渥美さんがどんなことやってるかがね。
そういうところは渥美さんって本当に面白い人でしたからね。
1発目のね稽古ですか?いわゆるちょっと普通は本をね読みながらやりますよね?その時の渥美さんがもう抜群ですね。
あれがもう今はねそういうもんで…色々撮れるもんがありますけど当時はないじゃないですか8ミリぐらいしかね。
いやー面白かったですね。
ふーん。
僕たちもそれからですね。
もうとにかく1発目の本読みに何とか全部セリフを入れてっていうのね…。
面白いようにってね。
いやー面白かったですね。
お母様はシングルマザーだったこともあって3〜4か月のあなたの…あんな可愛いあなたをよその家に養子にやらなきゃならなかったってお母さんもつらかったと思う。
だから訪ねてきて100円ねくださったんだと思うんですけども。
それからお母様にはもうお会いになってないの?いえ。
あの…それからやっぱり大阪に出る時にね見送ってくれまして。
それで何年か経って帰った時は忘れてましたね僕の顔を。
「あなたどなた?」って言われた…。
ああ…と思ったその時。
あっそう。
うんうん…。
それは認知症とかそういうことじゃなくて?そういうことじゃなくて。
でまあ大阪に出る時も「やくざになったら帰ってくるな」って。
それがやっぱりものすごく僕にとってはきつかったですけどね反対にやっぱり人間って優しい言葉だけがいい言葉じゃないなと思いましたね。
それで僕は悪い道に行かなかったですよ。
すごいですよね。
へえー。
ある意味ではね。
そうですね。
でもそうやって1人で生きてきたあなたがいい奥様と出会ったばっかりにこんなに男の子ばっかり4人。
はい。
それでその子たちが孫が生まれたもんですから今一家はこんなになっちゃって全部で15人ですってね。
大家族になりました。
これもねやっぱり…34年前でしたっけ?ええええ。
あなた出ていただいた。
37年前。
お墓のお話をしていただいたんですよ…。
お骨のお話をねこの番組でしたんですよ。
その時に三十三回忌にようやく間に合う66歳で亡くなった養父のお寺から我が家に電話がありましてね突然。
『徹子の部屋』を見たんだけどあなたが話してたそのタネイチっていう…書いてあるお墓がもう無縁仏にしようかどうしようかと思ってるんだけどもし君がそういう気があるなら来てくれますかということで女房と2人で。
それお養父さんですよね?もらってくれたお養父さん。
急いで行ったら本当に三角のね…寂しい石でね石が置いてあってね。
タネイチってありましてね。
それで「あっこれだ!」っていうんでそれは大変色々…。
でもテレビっていうのは面白いもんですね。
すごいですね。
そのおかげですよ。
あっそう。
そうです。
今15人に増えたのもやっぱり祖先を大事にしてるからだと僕は思ってるんですよ。
月命日も1日は必ずやりますし4月1日は祥月命日ってそれこそ15人全員…。
60ぐらいになってる時にそんな産まれたての赤ん坊みたいなのもらってねどうするんだって思いますけれどもそれでも育ててくださったんですからね。
見つかりましたね本当に…。
随分ラッキーですね。
そのお寺にもお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
そんなご連絡いただいてね。
さてあなたの奥様は…。
結婚なすって50年ですって?あっそうですね。
めったにないことだと思うんですけど奥様にも担当の者がお手紙をあなたにって…。
「出会った頃の主人は生きることにエネルギッシュでした」「それは50年連れ添った今でも変わりなく仕事はいつでも真面目に全力投球」「忍耐力のある人です」「息子4人の子育てにはほとんど参加せずどちらかというと背中を見せるタイプでした」「ただ孫たちには少々甘かったのですが最近は話が長いと寄りつかなくなりました」「子供たちもそれぞれ家庭を持った現在夫婦2人の生活になり愛犬パトのおかげで会話も多くなりました」「振り返るとあっという間の50年」「ありがとうございます」「これからも健康だけには注意してください」どうぞこれも差し上げておきます。
どういう性格の方なんですか?奥様って。
男みたいな性格…。
あっそう。
どうしようかこうしようかって迷う時に「こうしたら?」って言ってくだすった?はい。
仕事でもパートナーでもう35年ぐらいやってますので。
あっそうですか。
マネジャーをやってますから。
それじゃあ「寅さん」なんかもずっとね。
あっそうですか。
でもパトって…パトですか?愛犬。
そうですはい。
それは可愛い?そうですね。
震災の年にもらいましてね。
あら!あら可愛い。
これ何ていう種類の犬だろう?チワワですね。
可愛いわね。
可愛い?はい。
あらこれは可愛い。
私そんなね色んな…。
人のうちの犬可愛いだの可愛くないだの言っちゃ悪いけどこれは可愛いと思います。
まあねそれから…そうやって大村崑さんみたいにあなたを覚えていてくださる方もいて…。
まあこれからもご活躍ください。
みんなそんなさ花の15期…。
2月ですから…71です。
えーお若いね。
とんでもない。
頑張ってください。
ありがとうございましたどうも。
このあとも引き続き『ワイド!スクランブル』皆様どうぞご覧ください。
2015/03/19(木) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 前田吟[解][字]

〜生後すぐ実母と別れた波乱の人生…恩師の助言で俳優道へ〜前田吟さんが今日のゲストです。

詳細情報
◇ゲスト
俳優・前田吟さんがゲスト。
◇番組内容
前田さんの母はシングルマザーで出産後、数カ月で前田さんを養子に出した。その時すでに年老いていた養父母は、幼稚園と中学1年の時に亡くなり、高校1年で大阪に出るまで親戚の家を転々としたという。その後「自分の力で生きなければ」と始めたアルバイトで思いもよらぬ出会いがあった…その出会いとは!?
現在大家族となった前田家ではお世話になった養父母の供養は決して忘れない。4人の息子も独立し孫も5人になったと語る。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/
◇解説放送
小松靖(テレビ朝日アナウンサー)

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
映像
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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2/0モード(ステレオ)
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