歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
日本史研究の殿堂高橋歴史女学館へようこそ。
館長の高橋です。
今回も私と一緒に歴史を推理していきましょう。
館長今日は何だか教室の感じが違います。
本当だ。
何の布だろう。
何かの儀式ですか?これは合戦の時に陣営を飾った幕。
囲ってますよね。
陣幕といいます。
漢語つまり中国の言葉では幕府というんです。
幕府?これ時代劇で見た事ありません?あります。
ねえ。
この幕府という言葉後の世に武家政権を指す言葉になっていくんですよ。
ここまで言えば今回の時代もうお分かりですね?せ〜の。
そのとおり!鎌倉幕府の誕生です。
ここで今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回の時代は…源頼朝が鎌倉に幕府を開きおよそ700年にわたる武士の政権が始まります。
ところが鎌倉幕府の成立時期についてはさまざまな説があります。
今回押さえるべき「三つの要」は…頼朝は一体いついい国を作り始めたのか。
その全貌に迫ります。
前回は平清盛による武家政権の確立を学びましたが今回はとうとう武士による幕府の誕生を学ぶんですね。
そうです。
ここでみんなに質問です。
鎌倉幕府の誕生は何年でしょうか?え?1192年って習ったよね。
習った。
習った。
習った?
(3人)習いました。
でも実は諸説あるんですよ。
ええ〜。
鎌倉幕府の誕生は何年なのか。
平清盛が後白河法皇を閉じ込めて平氏が強大な実権を握った時代そこから見ていきましょう。
「三つの要」その一。
1180年平清盛は娘徳子と高倉天皇の間に生まれた3歳の孫を安徳天皇として即位させます。
この事で自分が天皇になる可能性がなくなった人物がいます。
後白河法皇の皇子以仁王です。
以仁王は源氏の中で一人中央政界に生き残っていた源頼政と共に平氏打倒に立ち上がり諸国に挙兵を呼びかけます。
その呼びかけに応えた者の一人が源頼朝です。
1180年10月頼朝は富士川の戦いに臨みます。
(水鳥の羽音)水鳥の飛び立つ音を源氏の軍勢と間違えて逃げる平氏たち。
頼朝は平氏の大軍を破りました。
その翌年平清盛は病で世を去ります。
1183年5月倶利伽羅峠の戦い。
この戦いで平氏に勝利したのは頼朝のいとこ源義仲です。
義仲は平氏を都から追いやります。
しかし義仲は清盛の死後院政を復活した後白河法皇と対立するようになります。
義仲は1184年1月宇治川の戦いで同じ源氏と戦います。
この戦いに司令官として派遣されたのが頼朝の弟源義経です。
義経は義仲を滅ぼします。
義経らが率いる源氏の軍勢は1184年2月一の谷の戦い1185年2月屋島の戦いと勝ち続けます。
決戦となったのは1185年3月壇の浦の戦いです。
その舞台は本州と九州の間にある関門海峡でした。
激しくぶつかる源氏と平氏。
戦いの末平氏軍は総崩れとなります。
観念した清盛の妻は孫に当たる幼い安徳天皇を抱いて海に身を投げ平氏一門も次々と海に沈んでいきました。
しかし内乱はこれでは終わりませんでした。
源氏の中で頼朝と義経の兄弟が対立を深めていったのです。
義経は少年時代を過ごした奥州平泉の藤原秀衡の元に身を寄せます。
約束どおり平泉に戻ってきたんだ。
それでよい。
何もかも全て飲み込んでお引き受け致す。
こうして奥州に身を寄せた義経でしたが頼朝の圧力を受けた秀衡の息子泰衡との戦いの末自害してしまいます。
1189年頼朝は義経をかくまった事を理由に大軍を率いて奥州を征服します。
これによって頼朝は東国の広い範囲を支配下に置いたのです。
館長が演じた藤原秀衡かっこよかったです。
でもいつも面白くて優しい館長っぽくはなかったです。
アハハハハ!そうですか?
(込山)はい。
まあ役ですからね。
でも源平の乱って源平だけの戦いじゃなかったんですね。
そうでしたね。
そこで乱が起きた主な年号から治承・寿永の乱とも呼ばれています。
こちらを見て下さい。
宇治川の戦いでは源氏同士。
そして源氏と奥州藤原氏など全国規模の内乱だった事が分かるね。
館長。
源氏が平氏に勝ったのはやっぱり強かったからですか?もちろん強かったそれもあると思いますね。
その背景には…東国の武士といえば東北で起きたさまざまな反乱を鎮圧しました。
強かったんですよね。
その理由は馬の扱いに優れていたからでした。
そうだったねえ。
頼朝がどうやって東国の武士たちを配下に置いたのかここで「三つの要」その二。
頼朝は東国の武士たちが命を懸けて守っていたものに注目しました。
それは土地です。
平氏全盛の頃その勢力は東国にも及んでいました。
多くの武士が先祖代々の土地を脅かされていたのです。
以仁王の呼びかけを受けた時頼朝は東国の武士たちにこう伝えます。
「東国の支配は私に任されている。
お前たちが土地を所有する権利は私が守る」。
この頼朝の言葉に東国の武士たちは引き付けられ頼朝に味方する者は増えていきました。
1180年頼朝は鎌倉を拠点とします。
南は海に面し三方を丘陵に囲まれた攻めにくい土地でした。
鎌倉市内の大蔵御所跡です。
新しく造らせた大蔵の屋敷に頼朝は入りました。
この屋敷が大蔵御所幕府と呼ばれたのです。
頼朝に味方した東国の武士たちは頼朝を鎌倉の主としました。
自分たちのリーダーである事を認めたのです。
1192年頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命されます。
頼朝は将軍じきじきの家来となる武士を特に御家人と呼びました。
御家人を主に荘園などの管理者である地頭に任命する事で土地の支配を保障したり戦の功績に応じて土地を与えたりしました。
これを御恩といいます。
御家人はこの御恩に対して戦があれば戦場に赴き命懸けで戦い朝廷や幕府の警護にも当たりました。
これが奉公です。
このように主人と従者が土地を仲立ちとして御恩と奉公によって結ばれる制度が封建制度です。
封建制度もう一度見てみましょうね。
将軍と御家人の関係は御恩に対して奉公で報いる。
この御恩土地の支配を保障する事が本領安堵。
こう言いますね。
報酬として新しい土地の支配権を与える事これが新恩給与です。
ところで館長1192年「いい国作ろう」は頼朝が征夷大将軍に就任した年でしたが鎌倉幕府の成立にはほかにどんな説があるんですか?みんな気になりますよね〜。
それでは「三つの要」その三。
鎌倉幕府の成立時期は一体いつなのか。
頼朝の足跡をたどって見ていきましょう。
その1。
頼朝は鎌倉に居を構え軍事警察機構となる侍所を設置。
この時とする説。
その2。
頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けた時。
その3。
鎌倉に財政を担当する機関公文所と裁判所である問注所を設けた時。
その4。
義経との対立が深まると頼朝は義経追討のため諸国に軍事警察権を握るための守護を荘園などに地頭を置く権限を朝廷に認めさせます。
この時とする説。
その5。
奥州を征服した後に朝廷から右近衛大将という地位を任じられた時。
そしてその6。
頼朝が征夷大将軍に任命された時。
鎌倉幕府の成立時期にはなぜさまざまな説があるのでしょうか。
皆さんどうもこんにちは!
(生徒一同)こんにちは。
こんにちは。
これはこれは我が女学館の特別講師本郷先生。
あれ?でもまだお呼びしてませんが?あのねこの問題に出てこないようでは僕はもう存在価値がないんです。
そうですか〜。
これ。
幕府の成立時期についてのいろんな説があります。
もしも将軍の政府それが幕府というものであるというところに注目すると5番6番という事になっちゃうんですね。
6番は征夷大将軍に就任した。
だから将軍の政府が出来たんだっていう話になります。
これが皆さんが習った「いい国作ろう源頼朝」とか「鎌倉幕府」。
だけど幕府っていうのはそれだけが性格ではないんです。
それは軍事政権。
ちょっと難しいかな?軍事を中心とする政権。
それがどうやって出来たかなっていうと1番2番3番4番これが大事になってくる。
特に軍事政権という事になると1番の鎌倉に軍事政権の基礎が出来たというのを有力視する考え方。
それから4番。
守護・地頭の任命それをした。
その事によって武士の勢力が全国に広がった。
だから鎌倉幕府がまあ何て言うかな…。
日本全国にその支配の権限を広げた。
これが決定的だったんじゃないかって考える学者が今増えてます。
だから…視点を変えるだけでこれだけ違っちゃうって事ですね。
(本郷)違っちゃうんですよ。
はあ〜。
出てきたかいありましたか?どれがいいですか?
(生徒一同)ええ〜!
(込山)4番。
何で?「いいはこ」って何かかわいくないですか?アハハハハ。
今回は鎌倉幕府の誕生について学んできましたがここで本郷先生に更に趣のある深い話をお願い致します。
何の話にしようかなと思ったんですけれども頼朝と義経。
これが何で対立したかって…。
兄弟で。
そこには後白河上皇がこの兄弟を割ってやろうそういう思惑はあった…。
出てきますか。
例の後白河さん。
今日のお話の封建制度あれのちょっと変化バージョン。
将軍が自分の家来に土地を与える。
そうやって逆に言うと土地を与えて家来にする。
ところがもう一つあるんです。
(本郷)要するに自分の肩書。
その肩書っていうものを与えられる事によってあなたにお仕え致しますっていうのが当時の武士なんです。
だから最終的には頼朝が征夷大将軍をもらうみたいな話になるんですけど義経も実は後白河上皇から検非違使っていう肩書をもらっちゃうんです。
それに頼朝の許可なく任命されてしまう。
勝手に。
(本郷)勝手に。
そうなると義経は後白河上皇にお仕えしなくちゃいけない。
家来になんなくちゃいけない。
それやっちゃうと要するに「私は頼朝様の家来でもありますけれどもこっちの後白河上皇様の家来でもあります」って事になって家来としてどっちにお仕えするのって話になっちゃう。
そうすると鎌倉に出来たばかりの武士の政権って駄目駄目になっちゃうんですよ。
だから頼朝は「駄目だよ必ず僕に許可を得なさいよ」って言ってたんだけど義経が勝手にもらっちゃった。
そこを許しちゃうとほかの人たちにも示しがつかない。
その示しがつかないってやつです。
そこに目をつけたのはしめしめってのは後白河上皇。
ほら出ましたよこのおじさん。
だって義経は軍事的なある意味天才でしょ?だからそれを部下にしとけばそれで頼朝にぶつければ今度源氏をやっつけられる。
やっぱり平家を源氏を使ってやっつけたあとは源氏を仲間割れさせて力をそぐ。
それはもう後白河上皇…。
ずる賢いですね。
さあ問題の後白河さん。
いつ亡くなるんですか?1192年。
えっ?「いい国作ろう」?亡くなったんで征夷大将軍になるんですか?そのとおり。
要するに後白河上皇は鎌倉に政権が出来るのは嫌なんです。
だから頼朝が「征夷大将軍にして下さい」って言ったら「駄目駄目」って言って許さない。
そういう事か。
面白い。
先生ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
ねえ。
(込山)館長。
やっぱり鎌倉幕府は1192年の方が語呂がよくていいと思います。
「いい国作ろう鎌倉幕府」。
だったら1180年の「いいわー頼朝鎌倉幕府」は?やだ。
だって先生と館長の「いいわー」見たくないもん。
以仁王と源頼政の挙兵から平氏滅亡に至る源氏平氏の争い。
源頼朝が守護・地頭の任命権を獲得した1185年征夷大将軍に就任した1192年など意見が分かれる。
2015/03/19(木) 14:40〜15:00
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「鎌倉幕府の誕生」[字]
日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)
詳細情報
番組内容
今回の舞台は平安時代末期から鎌倉時代初めにかけて。日本史上初の武家政権を樹立した平氏であったが、木曽義仲や源義経らに追い詰められ、壇の浦の戦いを最後に滅亡する。そして源頼朝を頂点とする鎌倉幕府による新しい武家政権の時代が始まった。しかし鎌倉幕府がいつ誕生したのかについては、実はさまざまな説がある。なぜいくつも説があるのかを知ることによって、鎌倉幕府とは一体どんな政権だったのかをより深く理解する。
出演者
【講師】東京大学史学編纂所教授…本郷和人,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【司会】高橋英樹,【語り】杉村理加
ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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