ここにある1枚のレコード。
伝説の講談師と呼ばれた人のものです。
「時なるかな元禄十五年極月十四日の真夜中降り積もる雪や仇なる吉良邸の裏表二手に分かれた47人…」。
その人の名は…40年前史上最年少で芸術祭の優秀賞を受賞した講談師です。
悟道軒圓玉こと…25年前交通事故に遭い講談界を去りました。
脳に後遺症が残り高次脳機能障害と診断されています。
注意力や記憶力を失ってしまった貝野さん。
目当ての商品を選び出すのも一苦労です。
この日買えた食材は2つだけでした。
事故により講談の演目を全て忘れてしまった貝野さん。
しかし再び高座に登りたいという夢は失いませんでした。
多くの人の支えと努力で奇跡の復活を果たした貝野さん。
今に至るまでの心境をNHK障害福祉賞に寄せてくれました。
生きる希望を取り戻した貝野さんの軌跡を追います。
(拍手)こんばんは。
「ハートネットTV」です。
今日は昨日に引き続きNHK障害福祉賞の受賞者の方をご紹介します。
NHK障害福祉賞は障害のある人や障害のある人を支えてきた人たちが書いた体験手記を募集するもので今回は381の作品が寄せられ11点が入賞しました。
ご一緒して頂くのは昨日に引き続き菊池桃子さんです。
よろしくお願いします。
どうぞよろしくお願い致します。
今回ご紹介するのはこの方です。
東京に住む講談師悟道軒圓玉こと貝野光男さんです。
手記のタイトルは…講談師として史上最年少で芸術祭優秀賞を受賞しました。
講談とは歴史上の物語を一人で何役もこなすもので30分から1時間近くのものまであると。
ですから膨大な記憶量が必要な訳です。
ところが25年前交通事故で脳を損傷しました。
記憶障害や注意障害があります。
菊池さんは貝野さんの手記をお読み頂きましたけどもどんな事を感じましたか?この病気はまだ知らない方がたくさんいると。
この知られていないからこその不便さというご苦労を読む事ができました。
また講談を通して最後に力強く前へ進まれる姿がとてもすばらしかったです。
そんな貝野さんの日常を取材しました。
こちらからご覧下さい。
貝野さん腰痛を減らすコルセットを着けての稽古です。
時なるかな元禄十五年極月十四日の真夜中内蔵助が打ちいだします山鹿流陣太鼓とともに本所松坂町吉良の屋敷に討ち入ります。
よどみなく小気味よいテンポで語られる物語。
高次脳機能障害の貝野さんですが講談となるとそのハンデを全く感じさせません。
内蔵助の顔をじっと見比べておりました垣見左内が…。
ところが日常生活となると障害のためにうまくいかない事ばかり。
食事の支度も段取りが分からなくなってしまいます。
冷蔵庫に貼られたメモは記憶障害を補うため。
何をどこに入れたか忘れてしまうと混乱してパニックに陥る事があるからです。
注意の切り替えがうまくいかず一つの事に集中し過ぎてしまう事もあります。
食事のために机を片づけ始めました。
するとチラシの整理にまで手を出してしまいます。
作業に没頭する貝野さん。
食事の支度は途中のままです。
片づけの途中で…。
やっと食事の事を思い出しました。
ほかにもひらがなが読みづらい計算が速くできないなど複数の症状が重なっています。
食後薬の仕分けを始めました。
1週間分ですがこれも貝野さんにとっては大仕事です。
3つの病院に通っていて薬は全部で11種類になります。
いつどの薬を何錠のめばいいのか…。
仕分け方が分からず度々混乱します。
あ〜終わった。
生活のあらゆる場面で疲れがたまってしまいます。
(ため息)失礼します。
はあ〜あ…。
日々障害に悩まされる貝野さんですがかつては将来を嘱望された講談の真打ちでした。
19歳の時講談界の名門12代田辺南鶴のもとに弟子入りした貝野さん。
最も得意としたのは人生の機微を感じる人情話でした。
稽古に打ち込んだ貝野さんは31歳という若さで文化庁芸術祭優秀賞に輝きます。
当時史上最年少の受賞でした。
4年後真打ちに昇進。
自分ならではの芸を磨きたいとどの流派にも属さない2代目悟道軒圓玉を襲名します。
人気に陰りが見えていた講談界に登場した異色の真打ち。
雑誌でも大々的に取り上げられました。
この記事を担当した当時の記者…探究心が強く落語や狂言にも挑戦する姿に講談界のはぐれ鳥という異名を付けました。
人生の全てを講談に懸ける。
そう意気込んでいた46歳の時でした。
貝野さんは交通事故に遭います。
自転車で走っていたところ車と衝突。
はね上げられフロントガラスにたたきつけられました。
一命は取り留めたものの脳に重い障害が残ります。
貝野さんは300近い講談の演目を記憶から失ってしまいました。
スタジオには貝野光男さんにお越し頂きました。
悟道軒圓玉として後ほど実際に披露して頂きたいと思います。
よろしくお願い致します。
先ほどVTRの中でもありましたけれども体の様子がよくなっていくと普通症状は少しずつ消えていくんだと。
逆に体の様子がよくなってくると症状が増えていくと。
…でどこまで増えるか分からないというその恐怖はかなりおつらいものだったのではないかと。
だんだん元気になってくると「これもおかしい。
あれもおかしい」っていうもので。
…で別のお医者さんへ行くとまた診断が変わっていてまた「こういう障害です。
ああいう障害です」っていうのがだんだんだんだん増えてきてどこまでいってもどこで終わりになるのか分かんないぐらい転々と病院を歩いてました。
拝見してますとご病気をお持ちだっていうふうに見えないんです。
それで周りの手助けを借りる機会が少なくなっているって事はございますか?この障害自体をあまり理解してくれる人が少ないですね。
ヘルパーさんも理解してくれる方とそうでない方もいますからなかなか相性が難しいんですね。
私が特に講談をやっているシーンを見たヘルパーさんは「どこも悪くないじゃない。
悪いふりをしてるんじゃないか」と言うんで…。
いや〜一生懸命リハビリやってお金もらえるようになろうと思ってるのにそれができるからっていうんでヘルパーさんの派遣を打ち切られたら今度は日常生活が破綻しますからね。
だからなかなかやっぱりこの障害は理解されるのは難しいなと思いましたね。
それで貝野さんの場合はなかなか記憶力が十分でないと。
ほかの仕事を考えたりしませんでした?私は新聞配達ぐらいなら俺でもできるかなって思っていたんですね。
退院してきていざ考えてみたら新聞配達だって全部配達するおうちを記憶してないと。
いちいち帳面見てたら商売になんないでしょ?時間かかりますもんね。
だから自分ができる就労に向けて行く場所がどこにも見つからなかったんです。
そんないわば八方塞がりとなってしまった貝野さんなんですが事故から2年後高座への復帰に向けて一つの光がさし込みます。
自分に合ったリハビリをしてくれるところはないか。
貝野さんが病院を転々としていた時の事です。
脳の障害のリハビリ方法を研究している人と出会います。
日常生活が送れるようにするためさまざまなプログラムを考えてくれました。
しかしなかなかリハビリの効果が見られず試行錯誤を続けていた時の事でした。
秋本さんは講談の話になると貝野さんの感情が急に豊かになる事に注目します。
記憶のリハビリに講談が役立つかもしれない。
秋本さんは講談の稽古をプログラムに加えます。
ひらがなが読みづらく台本で話を覚えられない貝野さん。
使ったのは自分の講談を録音したテープです。
(ラジカセ)「殿中松の廊下におきまして…」。
30分の講談を1分ずつに分けてこつこつと覚え直しました。
一つの演目を記憶するのに半年かかりました。
講談の業を少しずつ取り戻していった貝野さん。
人前で披露する場がないかと頼った人がいます。
圓玉です。
遅くなりました。
いらっしゃい。
こんにちは。
どうも。
かつて真打ちに昇進した時雑誌に取り上げてくれた…田島さんの家では毎年料理上手な奥さんが手料理を振る舞う忘年会が開かれていました。
そこで貝野さんはその余興として一席やらせてもらえないかと頼みます。
田島さんは快く引き受けてくれました。
事故から2年後大勢の客を前に久々に芸を披露したのです。
無我夢中でなんとか演じきった貝野さん。
これを機に毎年新たな演目を覚えては田島家で披露するようになりました。
そうした中忘年会の常連となった人がいます。
新たに貝野さんの主治医となった…生き生きと講談をする貝野さんを見て高座への復帰を目標にしようと提案しました。
そういうふうにおっしゃってましたね。
復帰への足掛かりとして田島家での講談を続けた貝野さん。
やがて布谷さんも驚く変化が現れました。
話の筋をたどるだけでなくアドリブも加えられるようになったのです。
7年前に亡くなった布谷さんの言葉を貝野さんは大切に保管しています。
布谷さんの励ましを支えに芸を磨いていった貝野さん。
事故から7年後ついに高座への復帰を果たします。
また講談の世界に戻ってきた貝野さん…いや圓玉さんですね。
菊池さんどういうふうに感じました?また講談で頑張られる姿を見ると何か「ほらできたじゃないか」ってその当時の専門家たちに言ってあげたいような気持ちになるんですね。
あの時諦めていたら大変な事になりましたね。
今の私はなかったですね。
大先輩の芸を見てそれに感動して講談の世界に入ったんですがそれがあったおかげでまた戻れた…。
社会復帰の手がかりにとても私にとっては大切なものでした。
映像では田島さん。
ご夫妻。
ちょっと最初の講談の時は「大丈夫かな?」って不安だったという声もありましたけれども…。
初めての高座のあとに何かうれしい事があったそうですね。
一席やって降りてきたら「ご苦労さま」って言ってのし袋に入っていたご祝儀を頂きましたね。
「はあ…俺金稼いだな」って思いました。
若い時は「一席やって金もらうのは仕事だ。
当たり前だ」ってある種思い上がってましたけども本当にこの時は「ああ…お金がもらえたんだな。
私は稼いだな。
あ〜ありがたいな」と思ってね。
本当にうれしかったです。
ここまでまた頑張ってこの世界に戻ってこられた。
これから人生どんな事考えてますか?芸の世界で生きていたから今更ほかに何かやりたいと思ってももう無理だしそれで育ててもらったんですからそれをずっと抱えてあの世まで生きたいなというふうに思ってます。
では最後に貝野光男さん…悟道軒圓玉さんに講談を披露して頂きます。
「大石内蔵助東下り」の一席です。
切腹させられた浅野内匠頭の敵を討とうと江戸に向かう大石内蔵助。
本名を名乗ると素性がバレてしまうので垣見左内という人の名を借ります。
ところが江戸に向かう途中その垣見左内本人に出会ってしまったからさあ大変。
大石内蔵助はいかにこの場を切り抜けるのでしょうか。
「我が垣見我が左内と争うてみても当地には知る者がない。
さほどに仰せになるならば近衛関白家の雑掌であるという証拠を何かお持ちか?」。
「証拠を出せ?ちょこざい千万しからば汝に証拠があるか!」。
「のうてかのうべきや」。
「何をもって証拠とするのか?」。
「役目の上において近衛関白家の御直筆これあり。
汝にあるやいかに」。
「ある」。
「あるなら見せい」。
「汝からまず見せよ」。
これぞまことの近衛殿の御直筆謹んで拝見せよと垣見左内の胸元へズイッと出した。
何を出したのかと左内が見ると「播州赤穂郡刈谷城故浅野内匠頭長矩の臣先の城代大石内蔵助藤原良雄行年四十五歳」と書いてある。
行年とは死ぬる年。
「これより江戸へ出てめでたく吉良を討てばとて天下の法を破るになれば生きて再び世の中に立たぬ覚悟のあればこそ。
死にに行くべき道なれば行年とは書かるしか」。
「よし。
ここはわしが偽名となり大石殿を垣見左内本人として無事にここを通してやろう」。
(張り扇の音)義を見てせざるは勇無きなり武士の行くべき道はここなりと思い定めた垣見左内が。
(張り扇の音)「はは。
恐れ入ってござります。
かかる尊き証拠を拝見致してはもうこれ以上なんとして偽りが申せましょう。
それがしは京都の者にして西野五太夫と申す者。
承れば道中宿場立場のとり持ちが格別よからぬとの事にて大胆にもお役を騙り御尊名を騙りました。
面目次第もござりません」と垣見左内本人に両手をつかれて詫びられた時に内蔵助。
「かたじけのうござる垣見氏。
この危難をお救い下されしご恩内蔵助あの世へ参ればとて決して忘却がつかまつりません」。
(張り扇の音)時なるかな元禄十五年極月十四日の真夜中内蔵助が打ちいだします陣太鼓とともに本所松坂町吉良の屋敷へ討ち入ります。
夜の明け方になりまして吉良上野介を探し出してその御首をあげる。
高輪万松山泉岳寺へと引き揚げてまいります。
冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士浅野内匠頭の墓前にこの首を捧げましたという「大石内蔵助東下り」という一席でございました。
(拍手)「きょうの健康」今週は「島根県スペシャル」と題して2015/03/19(木) 20:00〜20:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV NHK障害福祉賞(2)「芸が与えてくれた光」[解][字]
障害者の優れた実践の記録に贈る「NHK障害福祉賞」。講談師の貝野光男さんは、事故で脳に障害を負いながら、友人や医師の支えを励みに高座に復帰。その人生を伝えます。
詳細情報
番組内容
障害者の優れた実践の記録に贈る「NHK障害福祉賞」。今回は優秀賞に選ばれた貝野光男さん71歳。貝野さんは、真打ちとして活躍する講談師でしたが、46歳の時に交通事故に遭い、後遺症として高次脳機能障害になります。日常生活を送ることすらままならない中、医師や友人の支えを励みに、高座への復帰を果たしてきます。番組では、高次脳機能障害と闘いながら、講談を通じて社会へと復帰していく貝野さんの生き方を伝えます。
出演者
【出演】菊池桃子,【司会】山田賢治
ジャンル :
福祉 – 障害者
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
福祉 – 音声解説
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0x0808)
EventID:26639(0x680F)