HOME   BACK    NEXT

中山道69次を歩く(第27回)御嵩宿~伏見宿~太田宿~鵜沼宿 その2            
 010年3月16~18日

 『二日目』

 (09:00) 「和泉式部廟所」入口からスタート。今日は快晴,気温は,少し低いが街道歩きには絶好の天気である。
   
中街道道標
 
「和泉式部廟所」への入口の西10m程の国道脇に「中街道」道標がある。「右中街道 中山道 大井駅 達」と刻まれている。この道標によればここから東に向かう中山道は私たちが歩いてきたルートより南側を指し示している。

 慶長7年(1602)に設置された当初の中山道は御嵩宿からは,今日私たちが歩いてきた山の中を通って細久手宿~大久手宿を経由して大井宿・中津川宿へ達するルートではなく,もっと南側の平地を通るルート(御嵩次月(しづき)→日吉宿半原釜戸竹折大井宿)であった。その後大久保長安によって,江戸防衛を目的として通行がより難儀となる山中を通る道筋に変更された。

 国道21号を西へ進む。「中街道道標」から50mほど先右手に「八幡神社碑」が立つが,社殿はずっと奥にあるらしい。

 
(09:10)更に200m程先左手に小高い山がある,「丸山」という。麓に「正一位稲荷神社」の赤い鳥居が見える。
 少し先で左手に分れる国道バイパスが新設工事中である。

(09:13) <長岡>信号交差点を過ぎ

(09:20) 更に500mほど先で国道から斜め左に入る道(県道341号)へ。中山道はこちらに道である。
ここら辺りに
「栢森一里塚」(江戸から95番目)があったと云うが,今は何の痕跡も無い。

 街道は2度ほどSカーブを描いて
「枡形」を経て「御嶽宿」へと入って行く。古い民家がわずかに散見されるが宿場町の雰囲気はあまり残ってはいない。

 御嵩宿 みたけじゅく
 江戸から95里30町8間,49番目の宿場 町並み4町56間。

 細久手宿から山中の道を経て平地にさしかかった場所にある。中世から蟹薬師として有名な願興寺の門前町として栄え,大久手宿・細久手宿への難所を控えた宿場としても賑わっていた。

 宿駅開設は慶長7年(1602)。

 御嵩の町は,御嵩富士と呼ばれる山の南の東西に長く発達し,その南に可児川が流れている。
東から上町・仲町・下町と続き上町には用心井戸があり,現在も使われている。

 江戸時代は「御嶽」という地名であったが明治になって「御嵩」に変えている。

 人口600人(男:323人 女:277人) 家数:66軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:28

 
 
 
「東の枡形」から100mほどで左手に「弘法堂」,さらに150mほどで,同じく左手に(09:25)

 「用心井戸」 「正一位秋葉神社 上町組碑」

 井戸は宿場の防火用水の目的もあり「用心井戸」と呼ばれ,普段は飲用としても利用され最近まで使われていたと云う。火伏せの神「秋葉社」が祀ってある。
 向かい側に「高札場跡」

 ここから先が仲町で,古い町並みが見えてきて「本陣・脇本陣跡」などがあるが,「願興寺」のご住職に刻限を限って案内を頼んであるとのことで先ずは,宿の西はずれにあるお寺に急ぐ。

 (09:35) 「大寺山願興寺」

 女性の御住職が待っていてくれて,まず本堂続いて防災上の見地から国重要文化財(旧国宝)である「薬師如来」外が納められている鉄筋コンクリート製の霊宝殿に入り,説明・迫力ある読経をして頂いた。(拝観料500円)
 
 願興寺は,平安時代初期の弘仁6年(815),伝教大師(最澄)によって創建されたといわれる天台宗の古刹(東西72間南北65間)。可児大寺,蟹大師と呼ばれ広く親しまれている。
 国重要文化財の本堂や最澄の作と云われる本尊薬師如来ほか24体の仏像,県重文の鐘楼門などにより”東美濃の正倉院”の異名を持っている。江戸時代には尾張藩より,黒印百石を賜ったと云う。

 二度にわたる兵火(天仁元年(1108)&元亀3年(1572)武田勢の兵戦)により本堂などは焼失したが幸いにも本尊薬師如来像はじめ諸仏像は焼失を免れた。本堂は,地頭 纐纈(こうけつ)源吾盛康の力によって再興され,二度目の焼失後も天正9年(1581)近在の農民玉置与次郎と市場左衛門太郎らの発願により素朴な造りではあるが板一枚,柱一本を持ち寄って見事再建され,国重文として間口14間奥行10間の堂々たる400年前の姿を見せている。
 しかしながら,少しばかり傷みがひどく,柱が傾いていたり床板の風化が進んでいて,痛ましくも感じられる。解体修理して後世に残していってもらいたいものだ。

 霊宝殿(堂内写真撮影禁止)には本尊薬師如来(高さ136cmの秘仏,普段は厨子の中に納められていて拝観できない。子年の4月1日に開帳される,次回は2020年4月1日。1200年祭となる2015年に開帳となるかも?)・日光月光菩薩・四天王・阿弥陀如来・釈迦如来・十二神将ほか24体の国重文仏像が鎮座する。本尊の胎内には,寺の西南にある尼が池に蟹の背に乗って現われたと云う1寸八分の薬師如来が納められていると云う。
 
山門から本堂 本堂 鐘楼門 蟹と椿?の鬼瓦

 (10:10) 仲町方向に戻り「竹家」,「本陣」,「みたけ館」などを見学する。

 「商家竹屋」

 商家竹屋は,江戸時代末期本陣職を勤める「野呂家」から分家して金融業を始めとして繭・木材・綿布などを扱った商いを中心として代々受け継がれてきた。
 主家は明治10年(1877)頃の建築と推定され茶室・庭園なども付随する,江戸時代の建築様式を色濃く残し,本陣・脇本陣を凌ぐほどの立派な建物である。無料で見学できる。詳細は「中山道商家竹屋」に詳しい説明があり。

 「本陣」

 
本陣門
名鉄御嵩駅
 本陣は野呂家が勤めていた。「中山道宿村大概帳」によれば建坪181坪,門構え・玄関付き,街道側に居住棟,奥に上段の間があった。また「御嵩宿本陣坪書」によれば間口13間,平坪715坪,建坪55坪(?)とあり,部屋数は住居棟が10室,宿泊棟が13室,土蔵3棟,物置3棟があり,いざという時の避難場所として本陣北5町先にある宝積寺が充てられていたとされる。

 加納藩,大垣藩,越前大野藩,彦根藩が定宿としていたと云う。
 母屋は明治10年(1877)と大正年間に2度改築されているが,本陣門は江戸期の風格を残している。

 その先隣に「脇本陣」があった。現在は「中山道みたけ館」(図書館との複合施設)が建つ。

 「縄文弥生時代の発掘物」「伝馬掟朱印状(複製)」や「御嵩宿・伏見宿の成り立ち」「御嵩宿の模型」「この地に多く存在した隠れキリシタンに関する資料」などが展示されている。失礼ながら”町”の規模でこんなに立派な施設を造り維持していることに感心した。「みたけ館」の公式HPはこちら

 「願興寺」方向に進み突き当たりが

「名鉄広見線終着御嵩駅」
無人駅だがホーム入口手前左手に御嵩町観光案内所があり係の方が一人詰めている。ここで観光パンフレット・地図などをGetし街道に戻る。

 中山道はここで右折し,北に150m行った所で左折(西方一つ目の枡形),西へ500m行って(途中左手に卯建のある土壁の卯建がある古い民家あり)「中公民館」の先で再び右折(西方二つ目の枡形 角に常夜燈),北へ250mで国道21号へ出る。<中>交差点(10:55)

 国道を渡って直進(左角に「
太陽社電気」),150m程で右折し,坂を上がって突き当たりが「御嵩小学校」,左折して直ぐ右手に(11:10)

 「大智山愚渓寺」

 室町時代初期の応永3年(1396)開山。応永35年(1428)頃の創建なる臨済宗妙心寺派。その後永正年間(1504~21)に愚渓寺となり東美濃の名刹として有名。
 創建時の寺は北の山中に在ったが江戸時代後期天保年間(1830~44)に現在地に移る。寺の西北側に移築記念に建立された「二重塔」がある。17,000㎡の広大な境内には,京都竜安寺石庭の前身とされる白砂と三つの石が配置された見事な「臥龍の石庭」「御嵩富士」を借景として映える。

愚渓寺本堂
後方は御嵩富士
臥龍の石庭 白壁土塀
剥がれているのも風情があってなかなか
捨てがたいものである。

 
鬼の首塚
子規歌碑
 
 13:35 国道に戻って西へ。先刻横断した<中>交差点を過ぎて少し先右手に

「鬼の首塚跡」

 伝説によれば鎌倉初期建久年間(1190~99)頃,現在の鬼岩公園の洞窟に頗る凶悪な男が住みつき,住民を困らせていた。
 この者は西美濃不破の関の生まれで地元の人々は「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び恐れ,これを捕えるべく地頭の纐纈盛康に懇願し,4人の武士が派遣され,蟹薬師の祭礼に女装して現われたところを見つけられ首を打たれた。
 検分のため首を京都に運ぶ途中,ここで首桶から落ち動かなくなったので,埋めたとされる場所。
 ここら辺りを”桶縄手”と呼ぶ。
 十返舎一九の「木曽街道膝栗毛」にも「桶縄手,今もその名を朽ちざりき,塩漬けにせし鬼の首かも」と詠まれている。

 直ぐ横に「正岡子規歌碑」がある。「草枕むすぶまもなき うたたねのゆめおどろかす 野路の夕立」
 
 バスで移動し御嵩町の「江戸屋」という食堂で昼食。

街道コラム

 御嵩町はかつては低品位の石炭である「亜炭」の一大産地で,明治2年(1869)に炭鉱が発見されて以後,昭和22年(1947)頃をピークに100を超す炭鉱が開山し,最盛期には全国産出量の1/4以上を占め炭鉱の町として栄えた。昭和43年(1968)にすべての炭鉱が閉山した。
 ところが,御嵩町の中心部には現在でも埋戻しがなされていない廃坑跡が網の目のように走っていてしばしば陥没事故が起きており,東海地震が発生した際には町の至る所で被害が出るのではないかと住民たちは戦々恐々としていると云う。

 (12:35)「鬼の首塚」から午後の歩き開始。

 (12:40)およそ600m程で<大庭(おにわ)>交差点。少し先で右へ 一旦国道から離れおよそ500mほどで再び国道21号に合流,少し先の<顔戸(ごうど)>交差点で右折し,100mほど行った所が

 「顔戸(ごうど)城跡」

 応仁の乱(1467~77)の頃,中央政権をも揺るがすほどの影響力を持った武将斉藤妙椿(みょうちん)がここ顔戸の地で活躍していた。
妙椿はここに東・西・北の三方に豪壮な空掘と土塁を築き南は可児川の流れを防御手段として利用した平城「顔戸城」を築城し,東美濃の守りの拠点とした。
城の規模は東西およそ150m,南北およそ170mで一周700mの空掘と高く築かれた土塁の内側に館を構えた東美濃でも有数な平城としてその名を馳せたと云う。ちょっと足を踏み入れると土塁と空堀の跡を見る事が出来る。

比衣一里塚跡碑
土筆(つくしを採る主婦
 国道に戻り西へ進む。およそ400mで再び国道から右へ入る。直ぐ右に

 
「比衣(ひえ)の一里塚跡」

 江戸から96番目の一里塚があったところ。いまは菜の花が咲き誇る畑となっていて何の痕跡も無い。


 ここからおよそ1km程で再び国道に合流する。

(13:08) 「東海環状道」のガードをくぐる。
右手の斜面で”土筆”を摘む主婦あり。天ぷらにすると美味しいという。

(13:10) 「比衣川」を土橋で渡る。

(13:14) 町道に突き当たり左折。右側の崖上は「共和中学校」。このあたり亜炭採掘廃坑跡が多いと云う。

(13:15) 国道21号へ合流。角に「右 御嶽宿 左 伏見宿」道標が立つ。

 国道を西進,
<高倉口>交差点を過ぎ緩い坂を登りきった辺りから「伏見宿」となる。

 伏見宿 ふしみじゅく
 江戸から96里30町14間,町並み5町16間。

 木曽川の流れの変化で渡し場の位置が上流に移り土田(どた)宿が廃宿となり太田宿が出来たのでそれまで間の宿であった伏見が,元禄7年(1694)に本宿に昇格した。中山道制定から遅れる事およそ90年後のことである。

 宿場の入口に東坂・西坂と双方に坂があり,東町に本陣,西町に脇本陣があった。
 江戸時代に珍獣ラクダが逗留した宿場でもある。ほぼ国道21号に沿っており,現在は往時の町並みはほとんど残っていない。

 宿場北西の木曽川河岸に新村湊(元御嵩町伏見新町)があり,地元の荷物はもとより土岐・瑞浪方面からの荷物もここから積み出し,商業地として賑わっていた。
 しかし兼山湊にも近く大きな商家も無く,宿場の機能はあまり発展せず嘉永元年(1848)の大火で焼失した本陣は再建されることなく,舟運の衰退とともに宿の役割は終わっていった。

 人口48593人(男:230人 女:255人) 家数:82軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:29

 (13:25) 国道21号の東坂を登って15mほど先左手に「御嵩町伏見公民館」 ここで(13:40)までトイレ休憩。

 公民館前に「本陣跡」碑, 「是よ里東 尾州領」石碑

公民館前の
「本陣跡碑」と「尾州領界碑
女郎塚
 「本陣」は,本来はこの碑がある位置ではなく国道の北側(御嵩から来て右側)に在ったとされているが,今は普通の民家が建つのみ。
 岡田与左衛門が勤め建坪60坪,門構え,玄関付き。

 「尾州領界碑」は元々は西坂に在ったのが,小学校の校庭に移され再度ここに移動された。伏見宿は美濃領にありながら尾州藩領だったと云う不思議な場所である。

 150mほど進むと<伏見>交差点左折して左手に「伏見小学校」を過ぎおよそ400m,右手に

 「洞興寺」 「子安観音」 「女郎塚」

 「洞興寺」は,釈迦如来を本尊とし,戦国時代に兼山村「古城山」城主斎藤正義の内室が僧尼となりここに庵を建て開創したのが始めと伝えられている。
寺門は鶴の丸,享保17年(1732)に再建されと云う。

 「子安観音」 本尊子安観音菩薩像は木像の秘仏で安産子育ての守護として祀られている。当初の創建年代は不明。堂宇は兵火で焼失し,江戸時代宝永5年(1708)再建,昭和34年(1959)伊勢湾台風で全壊。本尊はその都度「洞興寺」に預けられて難を逃れた。
 現在の寄棟屋根の堂宇は平成3年に遠近の人びとからの浄財を募って総檜造り,元禄期の材も使って再建された。

 「女郎塚」 里人たちが宿の繁栄や旅人の道中安全を祈ってここに塚を築き,観音様を御参りした。
 一方,伏見宿には遊女屋が多く(10軒ほどあった),一説には伏見宿で働く女達が若衆とともに畚(もっこ)を担って土を運び築き, 亡くなった身寄りのない多くの遊女や飯盛女を弔うために造った塚との説もある。
 塚の上に数多くの石仏が祀られている。 


 <伏見>交差点まで戻り左折して国道21号を西へ進む。
右手に「東濃実業高校」
左手に卯建の立つ趣きのある建物がある。「旧旅籠みよし屋」だが,「御休み処 らくだ)」と掲げてある。江戸時代の文政7年(1824)幕府献上品として輸入された駱駝が興行師の手に渡って伏見宿に3日ほど滞在したことがあるそうだ。それに因んでの命名と思われる。
 宿場はこの辺りでおしまい。

 およそ500mほどで西坂を下りきり<上恵土(かみえど)>交差点(右:県道122号新湊方面 左:県道381号可児市方面)を直進。

 500mほどで右手に
「上恵土神社」
更に800mほどで国道21号は左へカーブしていくが中山道は真っすぐ進む。右手に廃墟と化したパチンコ店?が見える。この辺りで御嵩町から可児市となる。

 およそ400mほどで再び国道21号に合流し,およそ700mで
<中恵土>交差点,東北角地下横断歩道脇に

「恵土一里塚跡碑」がある「是より30m東」とあるので,車道辺りにあったのかな?この道路の状況では当然のことながら全く痕跡は残っていない。

 更に300m,<川合口>交差点を過ぎ右手に「カネミコンクリートプラント工場」を見て坂を下る。
<可茂公設市場>交差点の手前で,道路下を水路が右後方から左前方に斜めに横切っている。これが

愛知用水の水路
今渡神社
   「愛知用水」

 かって名古屋市の北部や東部から知多半島に至る一帯は大きな河川がなくて水不足が深刻だった。戦後の昭和22年に日照りが長く続き,旱魃の大きな被害が出たのをきっかけに木曽川から水を引いて知多半島まで水を供給しようという壮大な事業が計画され「愛知用水公団」によって14年の歳月をかけ昭和36年(1961)9月に完成した。これを「愛知用水」と呼ぶ。

 味噌川ダム(長野県木祖村),阿木川ダム(長野県恵那市),牧尾ダム(長野県王滝村・木曽町)で貯水された水が木曽川に放流され岐阜県八百津町と可児市に跨る兼山ダム(関西電力)で取水され、御嵩町から名古屋市の北および東の台地を通り知多半島の先まで27の市町村で約15,000ヘクタールの田畑を潤している。

 <可茂公設市場>交差点の先で中山道は国道21号から右に分れ,是と並行しながら西進する。
およそ400mで
<JR太多線中仙道踏切>を渡る。手前右に「辞世の句」なる塚があるが謂われは不詳。
 更におよそ1kmで,<住吉>交差点ここで木曽川を新太田橋で渡って美濃加茂市へと向かう国道21号を横断し直進,この辺りが「今渡の立場」があって賑わった場所だと云う。

 更に400m程で右に

 「今渡神社」への参道入り口に達する。

 「今渡神社」には永長元年(1096)に愛知県の津島で作られた太鼓が残っているという。「今渡神社」の歴史は遥か900年前平安時代まで遡れるということである。
 参道の途中に「豆腐処そい美」という店があって豆腐は勿論のこと美味しい「豆乳デザート」を販売していると云うので期待して行ったが残念ながら今日はお休みであった。

 街道に戻り,<今渡公民館前>交差点を過ぎおよそ350m程で道が二つに分かれる。
右は太田橋を渡って太田宿へ,中山道は真っすぐの道を進む。150mほどで左
「マルミクリーニング店」の角で右折して木曽川河岸へと下る。(15:20)

 石段を下ると「ふれあいの里弘法堂」があり,その少し下流側あたりが

 「今渡の渡し場」 「太田の渡し場」

 中山道の三大難所の一つで「木曽のかけはし,太田の渡し,うすい峠がなくばよい」と詠まれた,現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡である。対岸の呼称は「太田の渡し」である。
 
 木曽川はここから2kmほど上流で飛騨川と合流しており常に水量が多かったと思われる。 毎年のように洪水をおこし河流も変遷し渡河地点も時代によって変わり次第に上流に移っていったという。
出水の度に「舟止め」となったので,今渡地区には宿屋や茶屋が立並び湊町として繁栄したと云われる。

 明治34年(1901)両岸を渡すケーブルを張り滑車で舟をつなぎ川の流れを利用して舟を進める”岡田式渡船”となり,渡し賃も無料となった。昭和2年(1927)2月,すぐ上流に「太田橋」が完成し渡しは廃止された。

 鎌倉時代の記録によれば,当時の官道である東山道は,ここより下流の土田(どた)地区にあり「大井戸の渡し」と呼ばれ江戸時代に入り中山道として再整備されたが,江戸時代後期からここ今渡地区へ移されたという。「土田の渡し」はその後も続き,昭和5年(1930)頃に”岡田式渡船”を採用し昭和35年(1960)頃に廃止されたと云う。

渡し場はこの辺り
上流に架かるのが太田橋
江戸時代の渡し場風景 昭和2年当時の渡し場風景
 太田宿へ

 
太田橋を渡って美濃加茂市へ
太田の渡し場跡の船着き場跡?
(15:40) 太田橋を渡って可児市から美濃加茂市に入る。
橋の東詰北側に小さな公園があり
「今渡の記念碑」が立つ。
太田橋は平成20年に歩行者専用橋が出来たので安心して渡ることが出来る。渡った先上流側に
「日本ライン下り乗船場」がある。まだオフシーズンなのか閑散としている。ちなみに「日本ライン」という名はここ木曽川の急流がドイツのライン川と似ていることから名づけられたと云われている。

 下流側の土手の上に出て,これを下り河川敷に出る。川石(丸石)を敷き詰めた石畳,
「太田の渡し」の案内板があり,「化石林公園」として整備されている。

 
「化石林」とは,
 森林の中の樹木が立ったままの状態で埋没して化石化(珪化木)したもの。平成6年の異常渇水時におよそ1900万年前の新生代第三紀の地層から400本を超える化石林が発見されたと云う。今は,水量が多いので全然見えなかった。


 ひとしきり写真を撮ったりしてから再び堤防の上に。
中山道は河川敷を通っていたとのことだが堤防工事のため消滅状態,よって堤防の上を西に進む。

悠揚迫らぬ雄大な流れ
飛騨街道分岐点道標
およそ800mほどで,右手に「美濃加茂市文化会館」,土手下にトイレあり。しばらくトイレがなかったのでホッ!(16:05)
 この辺りに
「古井(こび)一里塚跡」(江戸より98番目)があると云うが見当たらず。

 更に300m程で,
「岡本一平終焉の地碑」の先で,堤防を下り右折して市街地へ。

 100mほど先で国道21号と交わる変則5差路(
木澤病院の前,<神明堂>交差点)となる。
 
「中山道と飛騨高山道・善光寺道の追分」ともなっている。東方向は「善光寺道」「飛騨高山道」,西方向は「国道21号線」「中山道」である。

 左折して木曽川と並行する道に入る。土手道からここにかけてが
「太田宿東の枡形」となっており,ここから「太田宿」が始まる。


 太田宿 おおたじゅく
 
江戸から98里30町8間,町並み6町14間,美濃16宿の中央にある。

 太田宿は,美濃国にありながら交通の要衝として天明2年(1782)尾張藩の代官所が置かれ恵那から鵜沼までの村々を統括し,東美濃の政治・経済・文化の中心地でもあった。
 商業面では兼山や犬山に押され今一つ振るわなかったようだ。

 木曽川のほとりで,舟や筏の運行管理をする「川並番所」が設けられ,船荷改め,抜き荷取締まりを行った。
 「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と歌われたほどの難所を控え、また飛騨街道や郡上街道との分岐点としても繁昌した町で,東から上町・中町・下町,東西にそれぞれ二つと中間に枡形を持ち,交通量も少なく比較的昔の姿を保っている。

 坪内逍遥の生誕地でもある。

 人口505人(男:259人 女:246人) 家数:118軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:20

 
 左折してすぐ左手に水車の回る米問屋
「小島屋」。250mほど先左手に「法華経塚」。その先に「新町木戸門跡」標識
 
 脇本陣の案内をしてくれるとのご当主の林さんとの約束時間が迫ってきているとのことで,
「祐泉寺」ほかの見学を翌日廻しにして,宿の西寄りにある「脇本陣」を目指すことにした。

(16:30) 「脇本陣」
 
 当年90歳になると云う矍鑠とした脇本陣林家の9代目御当主が,脇本陣の生業や現況などを縷々説明してくれた。
床上3尺まで浸水したこと,解体修理の大変だったこと,裏庭に100tの水槽や放水銃・卯建に沿って避雷針が設置してあること,借物蔵(大行列に備えて近郷の家々から借りた布団・什器等を保管しておく)や質蔵のこと・・・・

 林家は太田村の庄屋や尾張藩勘定所御用達も勤めながら,質屋・味噌・醤油製造販売も幅広く営んでいた。主屋は明和6年(1769),表門と袖塀は天保2年(1831)に建てられたもので,当時は間口25間・土蔵10棟(今は2棟)・馬屋3棟,格子戸と連子窓・切妻屋根の両端に立派な卯建が設けられている堂々たる建物。その後幾度かの洪水に荒らされ,修復を重ねながら代々林家の住家として利用されて来たという。
昭和46年(1971)国の重要文化財となり,昭和58年(1983)の水害を受け文化庁による大がかりな解体修理が行われている。 
 江戸時代の原形を留めている脇本陣は,山陽道岡山県の矢掛宿とここ太田宿だけだと云う。

 槍ヶ岳に5回も登山し山岳信仰を広めた播隆上人は,天保11年(1840)宿願を果たした帰途,この脇本陣にて病に倒れ寂した。下町の弥勒寺に葬られ後年廃寺により墓を上町の祐泉寺に移された。林家からは明治になって国会議員が輩出した,その縁でまた明治15年(1882)板垣退助が岐阜で難に遭う前日に逗留した。「板垣死すとも自由は死せず」と語ったことでも有名。

脇本陣外観・居室・広間の大釜・借物蔵
  
 
 17:00 本日のウォーキング終了 歩数:31600歩 歩行距離:およそ19km

 外気温 8℃ 長袖の下着とシャツの2枚で出かけたので,夕刻とくに脇本陣で説明を伺っているときはさすがに冷え込みを感じた。バスで犬山へ向かう。ホテル着
17:30
  
HOME     このPAGE topへ   BACK   NEXT
inserted by FC2 system