茶道用語

丿貫(へちかん)
安土桃山時代の侘茶人。生没年未詳。「べちかん」とも。丿桓、丿観、別寛とも書く。なお「丿(ヘツ)」は、『説文』に「右戾也。象左引之形。」とあり、カタカナの「ノ」ではなく漢字である。京都上京の坂本屋の出で、茶の湯は武野紹鴎に学び、初め如夢観と号し、後に改めて人に及ばぬといふ意で丿観と号したが、曲直瀬道三が丿桓の字に変えたと云う。山科に居をかまえて奇行をもって知られ、天正15年(1587)北野大茶会では,豊臣秀吉から賞賛され、諸役免許の特権を与えられたとある。晩年は薩摩に移り同地で没したともいう。象牙茶匙に「珠光茶匕 丿貫」と朱漆で直書され、内箱蓋裏の貼紙に「珠光茶匕 サウケ 咄斎(花押)」と宗旦が書付け、随流斎の極書と、碌々斎が「珠光茶杓 丿貫トアリ」と墨で直書した木形が添ったものが伝存する。
江村専斎(1565〜1664)述の『老人雑話』に「茶の会に丿観流と云ふ有、是は上京に坂本屋とて茶の湯を好む者あり、をどけたる茶の会を出す、初め号を如夢観と云ひ後に改めて丿観と云ふ、一渓道三の姪婿なり、丿の字は人の字の偏なり、人に及ばずといふこヽろとぞ」とあり、京都上京の坂本屋の出で、初め如夢観と号し、曲直瀬道三の姪婿とする。
栗原信充(1794〜1870)の『柳庵随筆』には「茶湯書。丿貫と云人は、伊勢国の者なり。常に牝馬に乗て何方へも行なり。牝馬はしづかなるものとてすきたり。然るに、その牝馬死たり。丿貫云、おのれ生てゐるうちばかり、我に奉公さすることにてはなし。死ても奉公させべしとて、皮をはぎなめしにして、袋に拵へて、内に入様の道具を入て、一生の内、何方へも持あるきしなり。むかしよりへちといふ字はなきを、林道春、この字に被書たるなり。」とあり、伊勢の国の人とする。
神沢杜口(1710〜1795)著『翁草』に「丿観流の事 茶の会に丿観流と云者有り、是は上京の坂本屋とて、茶の会を会を好む者有り、おどけたる茶の会を出す、初号を如夢観と云、後改て丿観と云、一渓故道三の姪婿なり、丿の字の偏なり、人に及ばぬといふ意とぞ、宗易より少し後なり、私曰世諺に異風なる事を丿た事と云ふも是より出たりと或記に在り」とあり、『老人雑話』を引き、一風変わっていることや人のことを「へち」というのは丿貫から出ているという。藪内竹心(1678〜1745)の『源流茶話』に「丿貫は、侘び数奇にて、しいて茶法にもかかわらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす、にじり上り口に新焼の茶壺をかざりて、関守と号す、異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」とある。
北野大茶会の折については、久保利世(1571〜1640)の『長闇堂記』に「又経堂の東の方、京衆の末にあたりて、へちくわんと云し者、一間半の大傘を朱ぬりにし、柄を七尺計にして、二尺程間をおき、よしがきにてかこひし、照日にかの朱傘かゞやきわたり人の目を驚せり、是も一入興に入らせ給ひて、則諸役御免を下され。」、享保6年(1721)刊の『除睡鈔』には「此の時に堺の南北に別寛と云ふ数寄者あり、玄以法印を頼み傍らに屋敷を申し受け、竹柱に真柴垣を外にかこひ、土間を美しくならせ無双のあしや釜を自在に掛け雲脚して拵へ、茶碗水指等はいかにも下直なる新焼を求め、以新為要、吾身には荒布の帷子を渋染にて、馬場さきの傍らに侍居たり、さるほどに秀吉公寅の一天より密に入せ玉ひて大名小名かこひの前の蝋燭は只万灯にことならす、百座の会なれは短座と云へども時刻已に移り御還に及ひ秀吉公西を御覧あれば少し引除てかやの庵の見えけり、玄以法印にあれはと問玉へは答に云く、一奥ある茶の湯者にて候、此の度前代未聞御茶湯よそながら拝み奉んと昨日藁屋結ひ候と申上る、秀吉聞召し一奥ある次に而見しと仰せあれば、玄以御供にて案内乞ひ玉ふに、別寛罷り出て首を地付け謹んて而居たり、秀吉公囲のやう御覧ありて面白し、さらば手前にてたてよ一服所望とあれば、別寛承て雲脚をたてヽ奉る、秀吉公の云く、汝有心者哉、百座の茶服内重きに軽々と香煎を出す事、言語道断快然たり、今一服と仰せあれば、其の後紹巴玄以両人飲で一物の作意仕り候と挨拶申されて事の外奥し玉ふ、十月計り過て、別寛を伏見の御城に召し、御手前にて御茶被下、其の上御道具拝見す、皆云ふ数寄の潅頂をうつたる別寛哉と羨けるとなん」とある。
また、千利休などとも交友があったようで、『茶話指月集』に「山科のほとりに、へちかんといへる侘びありしが、常に手取りの釜一つにて,朝毎〓(米参)(みそうず・雑炊)といふ物をしたため食し、終わりて砂にてみがき、清水の流れを汲みいれ、茶を楽しむこと久し。一首の狂歌をよみける。手どりめよ、おのれは口がさし出たぞ、増水たくと、人にかたるな。ある時、利休、日比聞きおよびたる侘び也。たずねてみんとて、これかれ伴いまいられたれば、へちかんが家の外面に石井あり。休、人馬の軽塵いぶせかりけるを見て、此の水にて、茶は飲まれず。各々いざ帰らんといいて、やや過ぐるを、へちかん聞きつけ、表に出てよびかけ、茶の水は筧て取るが、それでもお帰りあるかという。休、その外の人々、それならばとて立ちかえり、茶事こころよく時をうつされけるとなん。」、『茶湯古事談』に「丿貫といひし者、京の佗人なりしか、数寄道の達人にて異様なる事のみせし、医師古道三と無二の友なりし、或時道三考へて、丿貫の貫の字を桓の字にかへられし、子細は桓の字は木篇に作りは一日一と書り、作りの上の一字を取て木へんの中に入れは、本の字に成也、其本の字を旦の又中へ入れは、三字を分たる時は日本一と云字也、丿の字は人の半分也、然れはヘチクワンは人半分の日本一と云心なりとそ、此丿桓か異風の作意は、根元得道の上からなれは、異にして異ならす、今の世迄も規範と成事多し、葉茶壷を昔より床の真中にかさりしを、或時丿桓か潜り口にかさりし事なと有し、山科に居し比は常に手取の釜一つにて朝毎に〓(米参)と云物を煮て食し、終りて砂にてみかき、山水の流を汲て湯をわかし、茶をたのしみしか、一首の狂歌をよみし、手とりめよおのれは口かさし出たそ増水たくと人にかたるな、或時利休日比聞及し者なり、尋んとて彼是伴ひ行しか、丿桓か家の外に石井有、直に海道にて人馬の塵埃のいふせかりしをみて、此水にては茶はのまれす、各いさ帰らんといひしを丿桓聞付、表へ出て呼かへし、茶の水は筧にて取か夫ても御帰有かといふ、利休其外の人々、それならはとて立かへり、面白く語り、茶をのみ、夫よりしたしかりしとなん」とある。ただ手取釜の話については、『茶道筌蹄』に「粟田口善法 無伝、侘茶人也、手取釜にて一生を楽む、手とり釜おのれは口がさし出たり、雑水たくと人にかたるな」、寛政10年(1798)刊『続近世畸人伝』に「もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路菴がよみしとも、又道六といふ人のよみしともいへど、此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、善輔がよみしに疑なかるべし。」とあり、粟田口善法一路庵禅海にも同じ歌が挙げられている。
柳里恭の天保14年(1843)刊『雲萍雑志』に「ある人、茶は諂ひありといふことを、利休に問ひし時、こたへけるは、わが友に、丿貫といふものあり。われを茶に招きしとき、時刻を違へたる文おこしたり。時刻をたがへずして行きけるに、内なる潜り戸の前に穴を穿り、上に簀のこを敷きて、あらたに土を置たり。われは心なく、そのうへにのりて、入らんとする折から、地の土くえて、穴に落ちたり。穴の底に、土のねりたるが中へ、ふみ込みたれば、とりあへず湯あみして、再び入りけるを、人々の興としたり。此事、かねて期明と言へふ者、山科へおはせば、かくとはやく我にものがたれど、主のこヽろづかひを、われかねて知りたりとて、穴に落ざらんは、志をむなしくすることのほいなさに、穴としりつヽ落ち入りぬ。扨こそ、その日の興とはなりたり。茶はひたすらに、へつらふとにもあらねど、賓主ともに応ぜざれば、茶の道にあらずといはれき。」、「山科の隠士丿貫は、利休と茶道を争ひ、利休が媚ありて、世人に諂多きことを常にいきどほり、又貴人に寵せらるヽことをいたく嘆きて、常に人にかたりけるは、利休は幼きの心は、いと厚き人なりしに、今は志薄くなりて、むかしと人物かはれり。人も二十年づヽにして、志の変ずるものにや。我も四十歳よりして、自ら棄つるの志気とはなれり。利休は人の盛なることまでを知て、惜いかな、その衰ふる所を知らざる者なり。世のうつりかはれるを、飛鳥川の淵瀬にたとへぬれども、人は替れること、それよりも疾し。かヽれば心あるものは、身を実土の堅きに置かず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなさようにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。蓮胤(れんいん・鴨長明)は蝸牛にひとしく、家を洛中に曳く。我は蟹に似て、他の掘れる穴に宿れり。暫しの生涯を名利のために苦しむべきやと、いとをしく思ふといへりとぞ。丿貫、世を終るの年、みずからが書きたる短冊を買得て灰となし、風雅は、身とともに終わるとて、没しぬ。無量居士と号す。」とある。
薩摩藩が天保14年(1843)編纂した『三国名勝図会』に「丿桓石 府城の西南 西田村に属す、南泉院の西南一町許、通路の側にあり、名越氏宅地の墻角に傍ふ、丿桓が塚なり、丿桓は茶博武野紹鴎の高弟なり、紹鴎茶道を千利休に皆伝せしを怒ち、我流を立て、すべて左を以て要とし、茶器を馬に負せて徘徊せり、其馬死しければ、皮を剥て袋を製り、茶器を盛て、自らこれを負ひ、終に筑紫に来り、薩摩に於て死す、其年月詳かならず、袋と共に此所に埋めしといひ伝ふ、今の塚石は、旧来の石にあらず、旧の石には、前に三界万霊塔と篆書を彫刻し、背の文字湮滅して読へからず、村田宗仙経寧、茶庵の庭に置き、現在すといへり、織田主計頭貞置、平瀬一鴎に付与する、茶道正伝集聞書に言、初め丿貫と書しを、医師曲直瀬道三(茶事を好む)の言に従て、貫字を桓に改む、桓は木旁に亘とかき、右旁の一を、木旁の中に入て、本の字となる、旦字の中に本の字を置き、三字に分ては日本一と読むべし、しかれば丿は人の半にして、人にあらず、不肖日本一といふ、卑下の名なりとす」とある。また薩摩の儒僧、南浦文之(1555〜1620)の『南浦戯言』の「和人山老詩」に「茶用唐津不要臺、竹筒花入只惟梅、丿觀會席焼塩計、我々数竒鳶舞哉」とあり、丿貫との交遊をうかがわせる。
表千家5代随流斎(1650〜1691)の『延紙ノ書』に「利休時代、へちくわんと云侘、皮そうりに牛皮にて裏付、路治へはきたるなり、其時分はへちくわんと申なり、今はせきだと云」とある。

  
  
  
  
  
 
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