犯罪者名鑑 麻原彰晃 13
信徒を振るいにかける
オウムが宗教色を強めていくにつれ、脱会者が後を絶たないようになっていきます。日本人がカルト宗教を警戒するようになったのはオウム以降と思われがちですが、当時からカルトを危険視する風潮は強かったということです。
日本という国は、世界でも類を見ない「宗教アレルギー」の国です。今、イスラムの過激派が世界情勢を緊迫させているなど、世界がいまだに宗教問題に悩まされているのに比べ、日本はその面に関しては実に平和な国なのです。
作家の井沢元彦氏は、そうなったのは戦国時代、織田信長が日本から宗教テロを根絶させたからだという説を唱えています。当時の寺社は政治と深く結びついて様々な利権を握っており、蓄えた財で武装して、大名や庶民の生活を圧迫していました。今のイスラム国のような組織が日本中に跋扈していたということです。凡百の大名が神仏の祟りを恐れて宗教勢力に及び腰だったのに対し、信長一人が己の政治理念を実現するため寺社勢力と徹底的に争い、寺社の武装解除を実現して政治と切り離し、寺社勢力を無害なものに変えたのです。
ただ、日本の宗教団体が「葬式仏教」などと揶揄されるほど骨抜きになったのもいいことばかりではありませんでした。オウムのマインドコントロールは強力で、抜け出すためにはまず、依存の対象を安全な仏教などに移し替えることが手っ取り早いのですが、オウムが解散した後、信者救済に乗り出したお寺、神社は驚くほど少なかったのです。その結果、いまだにオウムの洗脳が解けない人がおり、麻原崇拝のアレフが存続する結果となってしまっているのです。「葬式が仕事だから関係ねーよ」という考えだったのかもしれませんが、宗教団体の基本姿勢とは無償の奉仕ではないでしょうか。織田信長の改革にとって宗教団体があまりに覇気をなくしたため、いざオウムのような強烈なカルトが現れたとき、「宗教で宗教を制する」ことができなくなった。織田信長の改革は日本人に大きな恩恵を齎しましたが、功罪の「罪」の面も多少はあったということです。
そもそも、宗教色を強めて以降のオウムが人を集めたのは、やる気がない日本の仏教と違い、オウムなら本当の修行ができるという魅力があったからでした。反対に、織田信長と争った本願寺が大勢力となったのは、敷居が高い従来の仏教に比べ、念仏だけを唱えていれば浄土にいけるという気軽さからであり、人は常にないものを求める証明といえるかもしれません。
さて、脱会者が相次いだことを受けての麻原ですが、本人はそのことをまるで気にしておらず、むしろ阿含宗や創価学会と掛け持ちで入信していた信徒が抜けたことで、「これでうちの修行内容が外にもれなくてすむ」と喜んでいたようです。おそらく麻原には、このタイミングで信徒をふるいにかける意図があったのでしょう。逆に、ここで残った信徒には何を要求しても大丈夫と判断した麻原は、修行内容をさらに過激にし、高額なイニシエーションでとんでもないカネをふんだくっていくようになるのです。
神仙の会時代はまだ牧歌的な雰囲気
オウムが胡散臭さを増していく中で信徒が残ったのは、神仙の会時代の麻原にはまだ、修行により身に着けた不思議な力が濃厚に残っていたからでしょう。
あるとき、一人の信徒が失敗を起こしたとき、麻原はその信徒を激しく叱りました。取るに足らないようなミスであったのですが、説教は六時間にも及び、信徒の心は疲弊し、脱会を考えたようです。
三日三晩、食事ものどに通らぬほど悩み苦しんだ信徒ですが、最後には麻原を信じてオウムに残る決断をしました。そのときの感覚は得も言われぬ素晴らしいものだったといいます。そして、その決断を下したまさにその瞬間、なんと麻原から電話がかかってきて、「どうだ、いいもんだろう」という言葉を受け取ったというのです。
そもそも、麻原がその信徒に厳しく接したのは、信徒にあえてオウムへの不信感を抱かせることにより信徒を自我と対決させ、煩悩を捨てさせるためでした。当時の麻原は信徒に対し、そんなリスクの高い修行を仕掛けられるだけの高い行者的な能力があり、また自分が修行を仕掛けたことにより、信徒がどのような心の動きをするかということまで的確に察知する超能力があったのです。
また、シヴァの化身とか最終解脱者として傲慢に振る舞うようになった後の麻原と違い、当時の麻原は信徒一人ひとりに気さくに声をかけるなど腰が低く、お風呂に入るときにはいつもアヒルの人形を湯船に浮かべるなど幼児性のある一面を見せていました。当時のオウムにはまだ、そんな牧歌的な雰囲気が漂っており、信徒も警戒心を抱かなかったのです。
もっとも、最末期の麻原も、出家教徒には厳しかったようですが、洗脳の浅い在家の信徒には優しく、「私も俗世にいたころはパチンコが好きでねえ」などと言って庶民派をアピールするなどして信徒を和ませていたようです。冒頭で触れた織田信長も、秀吉や明智光秀など軍団長クラスにはとても厳しかった一方、下級武士や、秀吉の妻ねねさんなどの女房連中、また税を納めてくれる庶民には優しかったという話で、大組織を総べるものにはある程度共通する姿勢なのかもしれません。
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