犯罪者名鑑 麻原彰晃 13

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 信徒を振るいにかける


 オウムが宗教色を強めていくにつれ、脱会者が後を絶たないようになっていきます。日本人がカルト宗教を警戒するようになったのはオウム以降と思われがちですが、当時からカルトを危険視する風潮は強かったということです。

 日本という国は、世界でも類を見ない「宗教アレルギー」の国です。今、イスラムの過激派が世界情勢を緊迫させているなど、世界がいまだに宗教問題に悩まされているのに比べ、日本はその面に関しては実に平和な国なのです。

 作家の井沢元彦氏は、そうなったのは戦国時代、織田信長が日本から宗教テロを根絶させたからだという説を唱えています。当時の寺社は政治と深く結びついて様々な利権を握っており、蓄えた財で武装して、大名や庶民の生活を圧迫していました。今のイスラム国のような組織が日本中に跋扈していたということです。凡百の大名が神仏の祟りを恐れて宗教勢力に及び腰だったのに対し、信長一人が己の政治理念を実現するため寺社勢力と徹底的に争い、寺社の武装解除を実現して政治と切り離し、寺社勢力を無害なものに変えたのです。

 ただ、日本の宗教団体が「葬式仏教」などと揶揄されるほど骨抜きになったのもいいことばかりではありませんでした。オウムのマインドコントロールは強力で、抜け出すためにはまず、依存の対象を安全な仏教などに移し替えることが手っ取り早いのですが、オウムが解散した後、信者救済に乗り出したお寺、神社は驚くほど少なかったのです。その結果、いまだにオウムの洗脳が解けない人がおり、麻原崇拝のアレフが存続する結果となってしまっているのです。「葬式が仕事だから関係ねーよ」という考えだったのかもしれませんが、宗教団体の基本姿勢とは無償の奉仕ではないでしょうか。織田信長の改革にとって宗教団体があまりに覇気をなくしたため、いざオウムのような強烈なカルトが現れたとき、「宗教で宗教を制する」ことができなくなった。織田信長の改革は日本人に大きな恩恵を齎しましたが、功罪の「罪」の面も多少はあったということです。

 そもそも、宗教色を強めて以降のオウムが人を集めたのは、やる気がない日本の仏教と違い、オウムなら本当の修行ができるという魅力があったからでした。反対に、織田信長と争った本願寺が大勢力となったのは、敷居が高い従来の仏教に比べ、念仏だけを唱えていれば浄土にいけるという気軽さからであり、人は常にないものを求める証明といえるかもしれません。

 さて、脱会者が相次いだことを受けての麻原ですが、本人はそのことをまるで気にしておらず、むしろ阿含宗や創価学会と掛け持ちで入信していた信徒が抜けたことで、「これでうちの修行内容が外にもれなくてすむ」と喜んでいたようです。おそらく麻原には、このタイミングで信徒をふるいにかける意図があったのでしょう。逆に、ここで残った信徒には何を要求しても大丈夫と判断した麻原は、修行内容をさらに過激にし、高額なイニシエーションでとんでもないカネをふんだくっていくようになるのです。

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 神仙の会時代はまだ牧歌的な雰囲気


 オウムが胡散臭さを増していく中で信徒が残ったのは、神仙の会時代の麻原にはまだ、修行により身に着けた不思議な力が濃厚に残っていたからでしょう。

 あるとき、一人の信徒が失敗を起こしたとき、麻原はその信徒を激しく叱りました。取るに足らないようなミスであったのですが、説教は六時間にも及び、信徒の心は疲弊し、脱会を考えたようです。

 三日三晩、食事ものどに通らぬほど悩み苦しんだ信徒ですが、最後には麻原を信じてオウムに残る決断をしました。そのときの感覚は得も言われぬ素晴らしいものだったといいます。そして、その決断を下したまさにその瞬間、なんと麻原から電話がかかってきて、「どうだ、いいもんだろう」という言葉を受け取ったというのです。

 そもそも、麻原がその信徒に厳しく接したのは、信徒にあえてオウムへの不信感を抱かせることにより信徒を自我と対決させ、煩悩を捨てさせるためでした。当時の麻原は信徒に対し、そんなリスクの高い修行を仕掛けられるだけの高い行者的な能力があり、また自分が修行を仕掛けたことにより、信徒がどのような心の動きをするかということまで的確に察知する超能力があったのです。

 また、シヴァの化身とか最終解脱者として傲慢に振る舞うようになった後の麻原と違い、当時の麻原は信徒一人ひとりに気さくに声をかけるなど腰が低く、お風呂に入るときにはいつもアヒルの人形を湯船に浮かべるなど幼児性のある一面を見せていました。当時のオウムにはまだ、そんな牧歌的な雰囲気が漂っており、信徒も警戒心を抱かなかったのです。

 もっとも、最末期の麻原も、出家教徒には厳しかったようですが、洗脳の浅い在家の信徒には優しく、「私も俗世にいたころはパチンコが好きでねえ」などと言って庶民派をアピールするなどして信徒を和ませていたようです。冒頭で触れた織田信長も、秀吉や明智光秀など軍団長クラスにはとても厳しかった一方、下級武士や、秀吉の妻ねねさんなどの女房連中、また税を納めてくれる庶民には優しかったという話で、大組織を総べるものにはある程度共通する姿勢なのかもしれません。
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外道記 54

 段ボールからは、他にも宮城の少年期の写真などが続々と出てきた。幼いころから、宮城は宮城の顔立ちである。若い頃と年をとってからで容姿が変わらないという点ではいいことかもしれないが、若いころも年をとってからも不細工では何の救いにもならない。

「おい、宮城のベッドでしようぜ。そうだ、あの婆も連れてこよう」

 宮城の写真を見て、ふと新しいプレイの案が浮かんだ俺は、ゆかりを宮城の部屋に連れてきて、ゆかりの目の前で純玲とセックスをすることにした。さっそく俺の部屋に向かって、ゆかりを目の当たりにした純玲が絶句する。それもそのはず、この日俺はゆかりに、花模様のひらひらがついたピンクのワンピースを着せていたのである。

 俺は純玲と交際を始めてからも、性懲りもなくゆかりを抱くことは続けていた。外で精を放出するようになってもなぜゆかりの身体への欲求を失わなかったかといえば、新たな楽しみ方を発見したのである。俺は、醜く汚臭を放つゆかりに、あえて可愛い恰好をさせるというところに興奮する要素を見出したのだ。そして、トレーニングにより均整のとれた身体になりつつある俺の方が、しろいシャツにももひきをはき、腹巻を巻いた「磯野波平スタイル」で襲い掛かるのである。本体と服装の美醜をあべこべにすることで、今までになかった新鮮さを味わうことができたのだ。

「がーふむふむふむ。もがーふむふむふむ」

 ゆかりは天敵純玲を目の当たりにし、混乱してわけのわからない言葉を喚き始める。わけがわからないのは、ゆかりが混乱しているからだけではなく、口の中に食物がいっぱい詰まっているせいもある。昔から食欲のコントロールができない豚であったが、近ごろはなぜか益々食欲旺盛で、デブ腹はみるみるとせり出し、顔面にも脂肪がついて、化け物度に拍車がかかっていた。

「ほんっとにてめーはいつ会ってもくっせーなー。死んだほうがいいんじゃねーの?ほらデブ、これも食えよ」

 宮城の部屋に入るや、純玲が悪態をつきながら、ゆかりに、宮城の冷蔵庫にあったニラ、ニンニク、山芋、納豆を放り投げた。ゆかりははじめ抵抗していたが、そのうち食欲に勝てなくなったらしい。何しろゆかりはここ三日、五キロで千円の、海外産の家畜の飼料米しか食べていないのである。さすがに生のニラとニンニクには手をつけなかったが、納豆には山芋をかけて、貪るように食い始めた。

「ねえ~。重治さん、豚がちょー臭いよ~。風呂に入ってない臭い豚が臭い納豆を食べて、臭い屁をしているの。キモイ恰好してるし。私もういや~」

 純玲が俺にしなだれかかり、甘い声を出しながら、ゆかりを罵倒する。純玲が女としての魅力をもってゆかりを攻撃する姿が、俺はたまならなく愛おしい。いてもたってもいられなくなった俺は、純玲を脱がし、前戯もそこそこに、いきり立ったモノを挿入した。

「ああん。ああっ。ああっ。重治さんいい。いいよおっ」

 純玲がここぞとばかりに、大きな嬌声をあげる。勝ち誇ったような目を、ゆかりにチラチラと向けることも、もちろん忘れない。ますます興奮した俺は、純玲と合体したまま、食事を続けるゆかりに歩み寄り、段ボールにあった宮城の写真を投げつけた。宮城の写真を見て思いついたプレイの始まりである。

「おらっ。こいつがてめーの未来の旦那だ。てめーはこいつと子供を作るんだよ!ほらっ」

 言いながら、俺は宮城の写真を、ゆかりの顔面、乳、そして股間などに押し付けた。かつて成し遂げようとした「超劣等東洋種族製造計画」を、写真と実物の接触という形であるが、ようやくに実現したのである。もちろん、写真には、フローリングの床にこびりついた宮城の精液をお湯で溶かしたものを擦り付けておくのは忘れなかった。

「おい、宮城の子を孕めよ。そして二人で育てろよ。てめえらが作った子供は不細工すぎてイジメられて、心がねじけて、けんちゃんとたっちゃんを殺してから自殺するに違いないだろうけどな。でも宮城はバカだから、そんなことは気にせず、ただ性欲の赴くままにお前を妊娠させ続けるんだ。そして、不細工な子供を作りまくるんだよ」

「もがっふう。もがもがもが」

「ほら!宮城がおまえのこと、お姫様みたいで可愛い~と言っているぞ。えっちなにおいと、えっちなからだをしているね、と言っているぞ。ゆかりちゃん、僕のお嫁さんになってくれてありがとう、ずっと大切にするからね。いちにち八回はえっちしようね、赤ちゃんいっぱい作ろうね、と言っているぞ」

「もがあ!もがあ!もがあ!」

 ゆかりは宮城の写真に拒絶反応をしめし、部屋の隅っこへと逃げていく。知的障碍者も容姿で異性を選んでおり、しかも金銭や社会的地位への関心が薄い分、その傾向は健常者よりも顕著だという。ゆかりは己がお下劣な容姿をしているくせに男を容姿で選んでおり、五十歩百歩にお下劣な容姿をした宮城を拒絶したのである。男尊女卑の思想である俺はこの増上慢に怒りを覚え、しかし一方で強い性的興奮を覚えていた。宮城を選ばなかったゆかりに、俺は選ばれた、という優越感である。

「ああ、気持ちいい。俺も気持ちいいぜ」

 俺と純玲が愛し合うことの苦痛から逃れるように、バクバクと食いまくるゆかり。かまってもらえない口惜しさを、食うことで紛らわせるゆかり。宮城も同じように、女とセックスができない苦しみから逃れるように食い続けた結果、あんな豚になってしまったのかもしれない。

「おい、桑原。実はいまこういう状況でよ・・・」

 俺はベッドに戻ると、この快楽を自分ひとりの記憶に納めておくのはもったいないと思い、桑原に電話をかけ、現在のシチュエーションをこと細かく伝えた。

「どう思うよ、桑原」

「アニキ、それはこういうことでしょう。この飽食の日本において、食欲を満たすことは容易い。しかし、未婚率のデータが示すように、性欲を満たすことは難しくなっている。やれない哀しみを食うことで紛らわし、かつ下半身の運動ができずカロリーを消費できない豚はますます肥え太り、容姿醜くなりますます異性から敬遠される。性欲を十分に満たせる者は過剰な食に走ることはなく、またセックスによってカロリーを消費することにより容姿を保ち、常に安定して異性と性交することできるということです」

「つまり、宮城やゆかりに、えっちがしたあい、と叫ばせ、苦しみながらなおも飯をくうところを見ながらえっちをすれば、めっちゃくちゃ興奮するってことだな?」

「はい、それで間違いありません」

「おう、ありがとうよ。おい、ババア。えっちがしたあい、と叫べ!」

 軍師桑原の同意を得た俺は電話を切り、策を実行するべく、正常位でピストン運動をしながら、ゆかりに命令をした。しかし、返事はかえってこない。

「おい、聞いてんのか!」

「重治さん大変。豚がいない・・・」

「え?」

 慌てて振り向くと、本当にゆかりの姿が消えていた。

 迂闊であった。俺はゆかりを宮城の部屋に連れてくるにあたり、普段ゆかりの拘束に使用している犬用のリードをはずしてきてしまったのだ。俺と純玲が快楽にのぼせている隙を見て、ゆかりは部屋から逃走を図ったのである。

「やべえぞ、早く探し出さねえと」

 俺と純玲は慌てて服を着て、外を探し回った。目立つ格好をした化け物が外を徘徊しているのである。すぐに見つかるかと思ったが、ゆかりは見つからなかった。数時間探し回り、一度戻って宮城の部屋の片づけを終え、再度、日が暮れるまで探し回ったが、その日のうちに発見することはできなかった。

 いったいあの豚は、どこへ消えてしまったのだろうか。ゆかりへの虐待が発覚すれば、俺は獄へと繋がれてしまう。そうなったらば、もう復讐どころではない。計画を狂わせる思わぬアクシデントに、頭を悩ませねばならぬ事態となってしまった。

私小説 施設警備員時代 51

「津島。お前は折茂を避けているようだが、それでいいのか?」

 11月のシフトが組まれる少し前に、塩村が深刻な顔で僕に尋ねてきた。記憶がはっきりしないのだが、11月のシフトは折茂ではなく塩村が決めたものであったような覚えもある。もしそうなら、折茂は僕と一緒に勤務に入りたいからなどという理由で、他の人が考えてくれたシフトにケチをつけようとしていたことになる。公私混同である。

「まあ・・・はい」

「そうか。それがお前の考えなら、仕方がないな」

 塩村はかねがね、友人が一人もいない僕を心配していた。最初は自分が友人になれればと、遊びや飲みに誘ってくれていたのだが、折茂が僕を信者にしようと必死になり始めたころからは、自分は一歩引き、折茂と僕をくっつけようと尽力していた。底なしの善人である塩村には、折茂の狂気が見抜けなかったわけだが、残り期間も短いこの段階で、今なお僕が折茂を拒絶していることがわかると、もうそれ以上、折茂と仲良くしろとは言ってこなくなった。代わりに、今度こそ自分が僕の友人になってやろう・・・いや、僕の友人になりたいと、アプローチをしてくれるようになった。

「なあ、もう少しだけ一緒にやろうぜ。俺はお前と一緒に仕事がしたいんだよ」

 実は、伊勢佐木屋の閉店に伴う残務処理が思った以上に時間がかかるということで、南洋警備保障との契約期間も2か月延長して二月までやることになっていた。当然、会社側としては僕に残ってやらせるつもりだったのだが、僕はそれを断り、意地でも12月で辞めると言ってしまっていた。このあたり、当時の僕がなぜここまで依怙地になっていたのかはわからないが、たぶん、嫌な思いばかりした伊勢佐木屋から一刻もはやく離れたかったのだろうと思う。11月で折茂がいなくなっても、折茂との思い出はなくならないのである。

「博行。お前は俺と仕事ができないなら意味がないから、12月で辞めるんだな」

 もはや「残気」に触れることも嫌だと思われているとは露も知らない折茂の言葉であるが、もはやこの段階になれば、笑って受け流すだけである。

 そして、その折茂との最後の勤務の日がやってきた。僕がB、折茂がCの日であったのだが、折茂は保安室に入ってきた瞬間、涙を流し始めた。

「博行、俺はお前と最後の日を・・・」

 ここで、僕の様子に折茂が不信感を抱く。

「博行。お前はどうして泣いてないんだ?」

 折茂は、僕が涙を流していないことをもって、己に共感していないと疑い始めたのである。天才的な頭脳を持ち、誰よりも洞察力に優れていると豪語するわりに、目に見えるものだけですべてを判断してしまうのがこの男である。もっとも、本当に僕の心を読んでしまったら、それこそ彼にとっては発狂ものだろうが・・・。

「いえ、最後ぐらいは笑って別れようと思いまして・・・僕も寂しいんですよ」

 このぐらいの嘘は、もうお手のものである。折茂がやりたいのは、「僕を一人前の男にしてやる」であったようだが、実際に僕が折茂と一緒にいることで磨けたのは、嘘をつく力だけだった。

「博行。俺はお前とずっと一緒に・・・」

 最後に朝食をとり、自宅に行こうという折茂の誘いを振り切って、折茂とはそこで別れた。それきり、彼とはもう会っていない。

 折茂がいなくなった12月は、実に平和であった。伊勢佐木屋はすでに営業を停止しており、テナントも商品を引き上げた後であったから、巡回や受付の負担もほとんどなく、給料をもらって暇つぶしをしているだけのような日々が続いていた。鳥居や塩村も気が抜けて、勤務中はただゲームをやったり本を読んでいるだけで、実に快適な毎日であった。折茂は別の現場に行ってからも伊勢佐木屋にちょくちょく顔を出すと言っており、僕もそれを危惧していたのだが、結局折茂が来ることはただの一度もなかった。

 こうなってくると、早まって12月に辞めると言ってしまったのを後悔したものだが、すでに会社側は次の人探しを始めており、また僕の方も、折茂の「残気」に触れるのも嫌だったから、最初に宣言した通り、12月いっぱいを持って退職する予定は変更しなかった。

「どうも、お世話になりました」

 色々とあったが、大きなミスもした僕を10か月も使い続けてくれた南洋警備保障には、やはり感謝の気持ちも忘れてはならないだろう。ここでの嫌な思い出は殆どが折茂によってもたらされたものであり、会社が提供してくれた労働環境自体は良いと思えるものだったのだ。

「しょうもねえ仕事だったけどよ、お前と一緒にやれたのは楽しかったよ」

 僕と友人になろうとしてくれた塩村とは、南洋警備保障を退職したあと、一度だけ会っていた。伊勢佐木屋で残務処理のため残っていた塩村に、差し入れをするという形である。

 退職後、僕はまず自動車の運転免許取得に動き、同時進行で禁煙に取り組んでいた。塩村と会ったのはその時期のことである。ちなみに、同じころ、折茂からの電話もあった。二度コールがあったのを二度とも無視したのだが、それきり彼からは、電話もかかってこなくなった。彼は僕の自宅の住所も知っており、もしかしたら、自宅まで来るのではないかという恐怖もあったのだがそれもなく、折茂との交流はここで完全に途絶えた形である。いざ僕と離れてみて、彼も憑き物が落ちたようになったのであろうか。

 そして免許取得と禁煙を無事達成すると、宿願であった裏社会への進出を目論み、インターネットでサイトを立ち上げようとしたのだが、当時、知識も行動力もなかった僕は、自分でホームページひとつ作り上げることすらできなかった。そんな無能が裏社会でやっていけるはずもなく、中途半端にうまくいかなくてよかったと思う。

 気分だけでもアウトローになろうと、スタンガンや催涙スプレーなどの防犯グッズを購入し、仕事を確実にこなすため、ADHDの唯一の特効薬であるリタリンを買ったりもし、トバシの携帯まで入手していたのだが、そんなくだらないものを買っているうちに、せっかく貯めたお金はどんどんなくなっていった。そのうち、もし逮捕されたら、実家でぬくぬくと暮らせるこの生活もなくなってしまうという当たり前のことに気が付き、裏社会でやっていこうという気概はなくなっていった。文に起こすと、改めて当時の自分のバカぶりがわかる。

 退職から四か月ほどが経って、貯金が底をつき、そろそろバイトを探さなければいけないとなったころ、塩村から遊びの誘いがあった。すっかり意気消沈していた僕はこの誘いを、断るどころか無視してしまった。ひょっとしたら折茂も来るかもしれないという恐怖もあったので無視したのは仕方ない部分もあるとは思っているが、それきり、塩村との交流も途絶えてしまったのは悲しいところである。

 「自分の理想」を実現するためだけに僕に接近し、僕を「信者」にしようとし、「お前とずっと一緒にいてやる」などと傲慢極まりないスタイルであった折茂と違い、塩村は僕と対等の友人になろうとし、「友人になってくれ」というスタイルで接してくれた。あの職場に折茂さえいなければ、彼とは今でも続く友人になれていたかもしれない。結局、塩村と別れて以後も、僕には本当の友人はひとりもできず、そのうち友人がほしいという願望すら完全に消滅してしまった。

 南洋警備保障で出会った人々との交流はここで終わった。あとは、この半年後、貯金が尽きた僕が別の警備会社に入ったときに、合同警備で南洋警備保障の管制と顔を合わせたのと、一年後に、バックれた立義と公園で再会したくらいか。
  
 この時代の僕の思い出は、折茂に始まり折茂に終わるといっていい。彼は、良くも悪くもではなく、すべて悪い意味で僕に影響を与えた人物であった。彼は僕に、社会に対する恐怖を与え、自分に対する自信を必要以上に奪い去ったのだ。
 
 折茂がその後どういう人生を送ったかについては、少し興味はある。北朝鮮と同じで、直接かかわるのは嫌だが、限りなく第三者的な視線で眺めてみるのは面白そうである。

 折茂がもっとも充実した人生を送るとしたら、ヤクザになることだろう。国が決めた法律や社会の風潮よりも、ひたすら己の価値観を大事に生きる折茂の思考は、まさしくヤクザのそれである。押しの強い性格で、気性が激しいところもぴったりだ。社会にとっては迷惑な話だが、ヤクザになれば折茂の人生はハッピーに違いない。

 もしくは、新興宗教団体の教祖にでもなることか。自己愛に枯渇し、人望を求める当時の折茂を振り返ると、僕には、かの日本史上最悪の犯罪者がダブってならない。彼も、己のかつての信者から、自己愛性人格障害の疑いがあると言われていた。彼と折茂は似ているが、折茂は彼の域にも達していない。

 折茂も人望を獲得するため、努力はしていた。しかしそれは、安易な努力であった。勉強や修行をして自分自身を磨くことはせず、空っぽのままの自分を崇拝させようと、個人を対象に洗脳を試みていた。折茂は口では大層なことを言いながら、本当の努力を惜しみ、安易な努力に逃げ込んでいたのである。

 そして、僕もまた、折茂に似た人間である。いや、はっきりいって僕は、自我の強さという点で折茂を遥かに凌駕している。自己愛だって折茂以上かもしれない。ただ僕は、「今の何もない自分を愛する気持ちが起きない」という点で折茂とは異なっている。それゆえ何とか社会的な成功を掴もうと、自分自身を研鑽する努力に勤しみ、個人ではなく不特定多数の人に自分自身の考えを訴えかけようと今ブログを運営し、いずれは文筆家として書店に本を並べようと活動をしている。その点において―――まだ成果は十分ではないが―――当時の折茂よりは、進歩していると信じている。

 繰り返し言うが、僕は折茂と同じ側の人間であり、自我の強さという点では折茂以上である。その自我が強い僕を洗脳によって信者にできると思った――僕にとっては、それこそがもっとも許しがたいことなのである。折茂から受けたパワハラ、セクハラといった行為はあくまで局所的な問題にすぎず、そもそも彼が僕をそこまで舐め腐っていたことが、もっとも腹立たしい問題なのである。

 とはいえ、それは自我を確立し、はっきりと自分の道を定めた現在の考えである。当時の僕はまだ確かにいかようにでもなった部分はあり、「洗脳屋」につけ込まれる余地もあった。この時点でいい出会いがあれば、僕には十分、この社会に大きな疑いを持たずに溶け込める可能性があった。しかし、二十代前半の僕が出会ったのは、折茂のような人格障害者であり、また、この一年と数か月後に入学する専門学校で出会ったような「勘違い姫と偽善の国の民たち」であった。折茂に洗脳されそうになったこと。そして、「勘違い姫と偽善の国の民たち」に丸め込まれそうになったこと。それらに屈服しなかったことにより、僕の自我は、踏まれるほど強くなる麦の如く強靭になってしまった。

 この自我を抱えたままでは、社会と完全に折り合いをつけることは不可能である。もはや小説を書いて生きるほかはないと考え、今こうして執筆活動に取り組んでいる次第である。

 色々あったが、今現在、折茂には恨みはない。僕が彼から受けたのは、まぎれもなく「被害」といえるものであるが、恨みはない。当時の折茂はまだ二十五歳であり、僕が二十五歳のときはヤクチュウのニート暮らしをしていたことを思えば、若さゆえ道を誤る事に関しては寛容にみなければならないという気持ちもあるが、もっとも大きな理由は、彼は底辺の住人であったことである。上がり目のない底辺で、一生このままかもしれないという絶望の青春を知る人間として、僕は彼に受けた被害を大幅に割り引いて見てしまうのである。もっとも、折茂は底辺を美化まではいかないにしても正当化するところがあり、それは僕にとって腹立たしいもののひとつではあるが。

 折茂に恨みはない。復讐したいとかは思わない。不幸な人生を歩んでほしいとも思わない。だからせめて、私の小説のネタとなって、活字の上にてその「若き日の過ち」を衆目に晒し、私に社会的な成功をもたらすことにより、償いを果たしてほしい。この言葉をもって、折茂との、真の意味での決別としたい。
 
 
 私小説 施設警備員時代 完

犯罪者名鑑 麻原彰晃 12

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 宗教法人認可へ動く

 
 オウムの会設立から二年経った1986年、麻原は会の名称を「オウム神仙の会」と改め、いよいよ宗教色を前面に押し出していきます。同時に麻原は、宗教法人認可のための努力を始めました。

 「坊主丸儲け」という言葉が表すように、宗教法人はあらゆる課税を免れる特権です。オウムでいえば弁当屋さんやパソコンショップなど、営利目的の行為については通常と同じ所得税などが課せられるのですが、お布施など宗教的行為によって得た利益には贈与税などかかりませんし、サティアンなど巨大な施設を作っても固定資産税の対象にはなりません。宗教団体にとってはまさに「百利あって一害なし」の特権であり、オウムが解散するまで、教団が宗教法人の認可により節税できた総額は数億円を上回ったでしょう。

 宗教法人認可のため麻原が行ったのは、教祖としての自分に箔をつけることでした。具体的には、海外の有名な僧侶に、自分の修行者としてのレベルを認めてもらうということです。

 麻原は団体の名称を変更してから、仏教生誕の地インド、そしてチベット密教発祥の地ヒマラヤを立て続けに訪問しました。当時日本のテレビでも紹介された有名な修行者であるパイロット・ババやカントゥルー・リンポチェ、さらには法王ダライ・ラマに謁見し、その様子を写真や映像に収め、宣伝に用いるためです。

 ここからが麻原のペテンの見せ所でした。麻原はパイロット・ババに会ったときのことを、「今までにないクンダリニーの覚醒を実感し、最終解脱寸前にまで行った」「あなたは釈迦牟尼タイプの修行者だと言われた」などと大げさに語っているのですが、実際に居合わせた会員によると「手相を見てもらい、強運を持っていると言われただけ」とのことで、まったくの大嘘であったようです。またダライ・ラマに謁見した際には、誰にでもかけるような世辞を大げさに喧伝し、あたかも自分が修行者として認められたかのように装います。

 オウム神仙の会の会員は麻原のペテンを真に受けてしまったようですが、実際にはチベットの高僧たちは、麻原の修行者としての在り方を危ぶんでいました。仏教とは本来、驕りをなくし、謙虚であることを美徳とする宗教なのですが、麻原の場合は、修行を始めてたかだか10年にも満たないにもかかわらず、「私は釈迦牟尼の次の段階にいる」と公言して憚らないなど、聖者にあるまじき発言が目立ちました。高僧たちは、麻原が道を誤らないよう、ダライ・ラマと二人きりで瞑想するなど勧めたのですが、麻原はその高僧たちの想いを知ってか知らずか、「私はダライ・ラマと同レベルと認められたのだ」と、事実に反することを信徒たちに言っていたようです。

 そしてダライ・ラマやカール・リンポチェに推薦状を書いてもらおうとするのですが、ここでも麻原は、純粋な心を持つ僧侶たちに、彼らの読めない日本語の書類をみせ、うまいことを言ってサインをもらいます。ダライ・ラマが書いた言葉は、「麻原彰晃は日本の修行者で、仏教の布教に尽力しています」といった程度のあたりさわりのない内容で、とても修行者として高いレベルにあると認められるようなものではありませんでしたが、それでも推薦状として書かれた以上は、それなりの効力を持ちます。オウムの宗教法人としての認可が降りるのは、坂本弁護士一家が殺害された1989年まで待たなくてはならなかったのですが、それまでに麻原は、このとき手にいれた推薦状や聖者たちと映った写真を存分に活用していきました。


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 最終解脱を果たす


 宗教法人認可の運動と並行して、麻原は自己神格化を進めていきます。

 1986年当時では、まだ教団としての形は整っていなかったオウムですが、時期を経て信徒の数が増えるにつれ、ヒンドゥーのカースト制度のような格差が出来あがっていきます。もっとも決定的なのは、出家修行者と在家修行者の違いでした。出家修行者とは、教団に財産をすべて捧げ、仕事や家族など俗世間との交わりを一切断って、教団の施設の中で生活をする信徒のことで、在家は仕事や家族とのつながりを維持しながら修行する信徒のことです。オウムの中では出家修行者の方が上とされ、幹部の証である師のステージに上るためには、出家が大前提でした。

 ここまで読んで、妙な点に気づかれる方もいらっしゃると思います。俗世間との交わりをすべて断つのが出家であるなら、どうして麻原には妻子がいるのか?と。そう、麻原は出家>在家という構図を作っておきながら、教祖として君臨する自らは在家の修行者を通していたのです。

 麻原はなぜ出家しなかったのか。これに関しては、麻原がともに苦労した妻、知子と、その間に生まれた子供のことを大事にしていたということで、麻原の心に「善」「愛」があったことのエピソードともいえますが、とはいえ、教団のトップとして君臨するからには、この「捻じれ」の構造は何とかしなければなりません。麻原が在家の立場を維持したまま、出家修行者を従える方法として考え出したのが「最終解脱」でした。当時はまだ、オウムは組織としての構造が固まってはいませんでしたが、麻原にはいずれ来る「捻じれ」が予見できており、最終解脱は間違いなくそのための対策であったと、私は考えます。

 最終解脱とはどういうことか?とは、説明できる人はこの世に誰もいません。何しろ、それを果たしたという麻原すら、満足に人に説明できかったのですから。麻原はヒマラヤの山中で最終解脱を果たしたと宣言したとき、信徒にその状態はいかなるものかと尋ねられた際、口ごもってしまい、苦し紛れに、傍らに侍る石井久子に「私は最終解脱したんだよな?」などと同意を求めてしまいます。さらに滑稽なことには、最終解脱を果たしたというその数週間後に、なぜか「解脱できない。どうしたらいいんだ」などと悩みだしたかと思えば、教団施設の階段を上った直後に、「今私は最終解脱しました」などと臆面もなく口走るなど、支離滅裂な言動をとるようになっていきます。

 このあたり、麻原の心には焦りがあり、自分でもわけがわからなくなっていたのでしょうか。弁舌の達人で、適当な言葉を並べて人をだまくらかすことにかけては右に出る者はいない麻原にしてはあるまじき失敗で、綿密さに欠けていました。それとも、麻原が自分が人からどう見えているかということに頓着しない「純粋なる修行者」としての一面を発揮していたということなのでしょうか。

 ただ一つ言えるのは、麻原は強運だったということです。「破壊神シヴァに選ばれた」といってもいいかもしれません。普通なら、皆に幻滅されてもおかしくない態度を見せていながら、このとき脱会した信徒はごく僅かにとどまりました。そして、「最終解脱」の言葉はやがて独り歩きを始め、麻原の存在を神聖なものとして高めていったのです。

 第二章 完

コメント協力のお願い

 取りあえず執筆活動を再開しますが、小説作品の方は依然、多数のコメントを頂けない状況が続いております。最低2コメというペースで、皆さまのコメントを頂きたく思います。特に次回最終回予定の私小説に関しては、総評という形で文量の厚いコメントを頂けると嬉しいです。
 
 コメントの催促を記事に書くにあたって、「読者を責めている」という意見を頂きましたので断っておきますが、私にはそのような意志はまったくございません。ただ自分の苦しい現状を嘆いているだけです。私もそこまで視野の狭い人間ではないので、私の数少ない読者と喧嘩をして得になるようなことなど一つもないことは承知しております。「責めている」とは大きな誤解です。

 コメントの催促など、私もけしてやりたくはありません。自然に多数のコメントがもらえるのが理想ですが、自然に書いていてそうならないため、私としても黙っているわけにいかない状況で、催促の記事を書いてしまう心境をご理解ください。黙っていてコメントが来るなら、催促記事など書かないことは、先月証明できたかと思います。コメントが来ない→催促記事を書く→ますますコメントが来なくなる、という悪循環を辿っているとしたら、これほど哀しいことはありません。
 
 私も二年間書き続けました。何連続も0コメが続いても書き続けたこともあります。そろそろ、何らかの形で報われてもいいと思っています。

 私のコメント対応に失礼な点があり、コメントをするのを辞めてしまわれた方もいるかもしれません。私も人間ですから、悪気はなくても相手を傷つけてしまうことはあると思います。また、ここは私のサイトであり、私が発信する立場ですから、どうしても私が書いた文章とかけ離れた、読者様の主張が濃すぎる内容のコメントを頂いたときは、全部を拾うことはできないかもしれず、それがそっけない対応に感じられて気分を害される方がいるかもしれません。説教の類は完全無視させていただいております。喧嘩になるだけで、私が変わることはありえないから。

 肝心なのは、そういうことがあったとしても、懲りずに何度でもコメントをしてほしいということです。私の方も、過去カチンと来たことがあっても、何度でもコメントをしてくださる方には過去のいきさつを忘れてお返事をしています。読者様の方にもどうかそのように考えて頂けるようお願いしたいのです。
 
 最後になりますが、こうした記事に「考え方を変えたらどうか」というご意見を頂いても、多くは不毛な議論になりやすく、そうした議論に読者様を突き合わせてしまうのは申し訳ないため、この記事に関してはコメントを受け付けないこととさせていただきます。私も我が強い人間で、どんな意見を頂いても、結局は「私のルールで動く」が結論になってしまい、そうなったとき意見を下さった読者様が気分を害されることも未然に防いでおきたいという考えです。もっとも、精神論的な意見以外の、たとえば具体的な宣伝方法などといった意見はその限りではなく、何か有効なアイデアなどありましたら募集したいと思います。

 長くなりましたが、今後ともおつきあいのほどよろしくお願いします。


 
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津島 博行

Author:津島 博行
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