発信箱:巣立ちの春に=小国綾子(夕刊編集部)
毎日新聞 2015年03月17日 02時30分
むかしが あったげな。
児童文学作家、松谷みよ子さんの民話絵本「さるのひとりごと」はそんなふうに始まる。1匹のサルが群れを離れ、海を見に行く。浜辺で「海はええなあ」と独り言を言ったら、「うん」と相づちを打つやつがいる。小さなカニ。なぜ勝手に返事した? イライラしたサルは、びしゃんとカニをつぶしてしまう。ところがカニの声が聞こえなくなるとサルは途端に寂しくなり、つぶれたカニを丸めて団子をつくり、座らせる。「海はええなあ」。カニ団子は「うん」。サルはその声がうれしくて何度もやりとりを繰り返すのだ。
「最初に読んだ時、思春期の子供と親みたい、と思いました」というのは、同志社大法学部教授の梶山玉香さん(48)。高校男子の母だ。「カニは口うるさい母ちゃん。サルを案じて、つい声を掛けてはウザがられ、ひどい言葉でつぶされる。でも傷ついても団子になっても、求められればいつでも『うん』とうなずいてやるの」
梶山さんは8年前から、大学を卒業するゼミ生にこの絵本を読み聞かせてきた。サルだって山ではひとりぼっちで、だから海を見に来たのかもしれない。誰にだってつらい時、親や友人にひどい言葉を投げつけ、傷つけたこともあったろう。卒業し、社会に出てもきっとそう。でもね、あなたの周囲にきっとカニはいる。団子になってでも、あなたのために相づちを打とうとしてくれる人はきっといるよ−−そんなふうに、「カニ」の思いで、独り立ちの季節を迎えた教え子たちを送り出す。涙を流す子もいるという。
巣立ちの春。心に染みる数々の物語を残し、松谷さんはあちら側に旅立った。