セウォル号の沈没事故後、韓国の悪口がいろんな人から出てきたが、そのなかでもとくに驚いたのは、「サンデースクランブル」での黒鉄ヒロシ氏の「韓国には針がなかった」発言だった。

「いくらなんでも、それはないでしょう」と思ったけど、ネトウヨの間ではこの手の話が広まっているようで、調べてみたら、元ネタは筑波大学大学院教授・古田博司氏の「増殖する韓国の『自尊史観』」(『産経新聞』2008年12月17日)だった。

近頃、会合で話をすると10人に1人位は韓国時代劇チャングムのファンがいて、物語をそのまま史実だと思いこんでいることが多いので、正しておきたい。まず朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑似婚姻関係に入るので一生外に出られない。チャングム女史のように出たり入ったりはできない。

ドラマでは李朝時代は色彩にあふれているが、ほんとうは顔料がないので民間に色はない。中国の清朝でも日本の江戸時代でも陶磁器に赤絵があるが、朝鮮には白磁しかないのはそのためで、民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからである。民芸研究家による「朝鮮の白は悲哀の色」というのも、今では真っ赤なウソである。上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていた。

李朝は清朝や江戸時代と異なり、技術革新を嫌い、低レベルの実物経済で500年もの統治を可能にしたのであり、どこに似ているかといえば、いまの北朝鮮に似ている。19世紀初めの朝鮮の儒者が、「(我が国の拙(つたな)きところ)針なし、羊なし、車なし」(鄭東●『晝永編』)といっている。

針は粗雑なものがあったが、ちゃんと縫うには中国から針を買わねばならなかった。当時の中国針は優秀で、日本も輸入している。羊はモンゴルに征服された高麗にはいたが、いつの間にか滅びた。車は西洋文化が流入するまではない。木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽(たる)もない。液体を遠方に運ぶことすらできなかった。かつて日本が保護したとき、韓国はそのような国であった。

江戸時代の日本より千年は文明が遅れていた19世紀の李氏朝鮮

この話を受けて、高崎経済大学教授・八木秀次氏が「ちょっと言いにくいんだけど、昔、日本では停滞史観だといって批判されたけど、どうも僕は、長い間やっていた感触として、李朝はインカ帝国に似ていないか」と言ったらしい。これがネットで広まったようである。

しかし、調べてみると、そんな事実はないようである。w
たとえば、「民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからである。(中略)上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていた」とあるが、18世紀末に活躍した画家・申潤福(シン・ユンボク 1758~没年不明)の描いた『蕙園傳神帖』を見ると、庶民どころか賤民も色のついた服を着ていたことがわかる。


「酒肆擧盃」妓女(娼婦)と常民の男性


「月夜密會」妓女と常民の男性


「尼僧迎妓」常民の女性と尼僧


「巫女神舞」巫女


妓女と巫女は賤民であり、常民とは農民である。朝鮮王朝(李氏朝鮮)時代の身分制度は、良民と賤民に分けられ、良民は両班、中人、常人(常民)に、賤民は奴婢、白丁に分けられる。申潤福は、このような階層の人びとを描いたので、朝鮮王朝ではめずらしい画家であった。

鄭東愈の『晝永編』には「針なし、羊なし、車なし」と書かれてあり、それを受けて、古田氏は「木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽もない」と書いている。しかし、李朝末期を写した写真には、樽や車が写っているので、古田氏が事実を確かめて書いたかが怪しくなってくる。


この写真の左側と中奥に車


左側の車


中奥の車


天秤棒の両端に吊るされた樽


李憲昶(著)『韓国経済通史』(須川英徳・六反田豊訳、法政大学出版局、2004年)では、李重煥著の地誌『択里志』が紹介され、物資運送能力は、船・車・馬の順であり、陸商の利益は船商の利益には比べられないとある(p.142~143)。江戸時代の日本でもそうだが、陸運よりも水運の方が物資が多く運べるので、水運の方が発達していたようだ。

それでも、北部では陸運が重要視され、荷車が利用されていた。1481年に撰進された『東国輿地勝覧』によると、黄海道延安(ケソン市の西)は、「西海上の交通の要衝として船舶と牛馬車の道が縦横に交差しており、商人と旅人が忙しく集まる」とある(同書 p.116)。また、『粛宗実録』粛宗3(1677)年8月丁卯条には、17世紀後半の柵門後市(満州柵門で行われていた清との私貿易)では「往来する商人の荷駄が以前に比べて2倍に増え、荷物を載せていく車が数十里も続」いたという(同書 p.174)。

ネットには「車がないから、水車もない」ということが記述がよくあるが、前掲書には、「1908年ごろ 忠清北道における専業手工業数とその平均製造額」が載っている(クリックすると大きな表になる)。



これの上から2番目に「水砧手」が記載され、その説明に「水車で精米」とある。「水車で精米」していたのだから、水車はあるんじゃないか、と思う。w

さて、「針がない」だが、『世宗実録』世宗25(1443)年6月戊戌条には、商人が、衣類・履物・被り物・飾り物・櫛・針・白粉などを農民に掛け売りして、秋の収穫時に穀物を持っていくため、収穫後であるのに農民の食料が不足する事態までもが発生している、という記述がある(同書 p.116)。針もあったんだね。w

ちなみに、上記の表には、「冶匠(鍛冶)」と「粧飾匠鉄工(鉄細工)」とあるので、針くらいつくっていたのではないかと思う。19世紀の実情を記録した『朝陽邑誌』風俗条には、鉄加工業が住民の副業として描かれている(同書 p.217)。

東北面は山が険しくて谷が深く、雑木が繁茂しているので、住民は炭を焼いて生活しており、西南坊は平野が狭く山からは鉄鉱石と石が混ざって出るので、地元民はそれを掘りだして売ることで暮らしている。至る所に炉を設置して、両鉄を精錬し、釜を鋳造し、叩いて器具を作っている。商業もなかなか繁盛しており、財貨と商人が往来する。この邑の生利は、農事の他はこれが盛んである。

「針は粗雑なものがあったが、ちゃんと縫うには中国から針を買わねばならなかった」とあるが、両班のような支配層が着るものは中国製の針を使うのかもしれないが、庶民の着るものはこのような農家の副業としてつくられた針を使っていたんだろうね。

オイラ的には、ネトウヨのような連中が韓国を貶めて喜ぶのは分かるが、古田氏のような大学教授がそのようなことに手を貸すのが理解できない。ここで思い出すのが西尾幹二氏だ。西尾氏は、ドイツ留学中にドイツ人にアジア人であることをバカにされたらしく、それを根に持ってウヨク化したようなのだが、古田氏にも似たような経験があるのだろうか?



この手の話は、本来なら朝鮮史の研究者が否定すべきである。しかし、あまりにバカバカしい内容なので、研究者はわざわざ否定しなくても分かると思っているようだ。これは、「トンデモ本」にも見られる現象である。しかし、ネットでは、この手の話が事実のように語られており(もちろんネトウヨの世界だけだが)、うっかり信じてしまう人もいると思う(小学生もネットをする時代だから)。そこで、朝鮮史の研究者でもないオイラがこんなことをわざわざ調べて書かなくてはならないのだ。ちなみに、『韓国経済通史』は800ページもある本なので、うち前近代部分の250ページを読むのは、正直、きつかった。まあ、朝鮮半島の前近代の経済史の勉強は「世界史」でも扱うから、まったくのムダではなかったけどね。w

2014.05.20 | └ 歴史ネタ | トラックバック(0) | コメント(0) |












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