第1章ダイジェスト版
※書籍化に伴い、ダイジェストにてお送りいたします。
牡蠣、という食べ物がある。
海のミルクとも言われる濃厚な味わいのそれは滋味豊かで、煮ても焼いてもフライにしても旨い。
だが一番の食べ方といえば、何と言っても“生”だ。
世の中の多くの人は勘違いしているが、スーパーで販売している“生食用”の牡蠣は“加熱用”の牡蠣よりも新鮮だというわけではない。生でも食べられるように体内にある毒素を排出させる為、長時間断食させた牡蠣なのだ。痩せた“生食用”とありのままの“加熱用”。どちらが旨いかは、考えるまでもない。
という話がまことしやかに流れると、当たり前のように“加熱用”を生で食べる人間が現れる。生で食ったら危険だから、“加熱用”と書いてあるのにわざわざ生で食うのだ。
当然、あたる。最悪の場合、死に到る。
そんな阿呆は滅多にはいないが、稀にいる。
つまり、俺のことだ。
○
「あなた、このままじゃ地獄に堕ちますねぇ」
ねっとりとした口調で目の前のオバサンが指摘する。
ここは“あの世”だ。
正確に言うと“あの世の入り口”らしいが、死後の世界であることに変わりはない。
三途の川も何もなく、あるのは雲を突く超巨大な閉じた扉と前に並ぶ役所群、そしてその門前町だけだ。何とも味気のないところであるが、まぁこれがあの世というならあの世なんだろう。
そのあの世の入り口で俺が何をしているかと言えば、転入手続きなのだ。
「……そこを何とか、まかりませんかね?」
「さっきから何度も説明してるでしょう、平乃凡太さん? あなたの考課だと、逆立ちしたって天国には潜り込めないんですよ」
言いながら手にしたA4一枚の考課表とやらをばしばしと叩く。
これに生前一切の徳と不徳が記されているというのだから驚きだ。
「『無実のカエルを爆竹で爆死させた罪』、『想いを寄せられていることに気付いていたにも拘らず相手の面相が気に入らないという理由で手酷くイタズラした罪』、『ジャパニーズレストランで生け簀から鯖を出して〆させたのに結局一口も食べなかった罪』……」
何とも情けない行状が次々と挙げられていく。
このオバサンと向かい合っているのは役所の相談コーナーみたいに隣とはパーテーションで区切られているだけなので、恐らく丸聞こえだろう。随分と恥ずかしい。
「観念して、転生したらどうですか?」
「でも、せっかく死んだんだしなぁ……」
正直なところ、この二十四年間はあまり楽しい人生ではなかった。
現世への未練も読み続けていた週刊漫画の続きが気になることくらいしかない。それならばもう、ここでゴネて天国に潜り込んでしまおうという肚だったのだが、どうにも認められないらしい。
「仮に転生するとして、どんなのがあるんです? 出来れば、日本で」
「日本で、ですか……」
「はい。続きが気になる漫画とかあるんで。出来れば社長の息子とか」
「そうですねぇ、この考課で日本となりますと…… ヤンバルホオヒゲコウモリですとか、オオダイガハラサンショウウオとかウジヒメセトトビケラとかになりますね」
「えーっと、何ですって?」
「ヤンバルホオヒゲコウモリ、オオダイガハラサンショウウオ、ウジヒメセトトビケラですね」
「人間ですらない?」
「ヤンバルホオヒゲコウモリは哺乳類ですよ?」
想像は俺の予想を遥かに下回っている。これは、非常にマズい。
転生するのがどれもレッドデータブックに載ってそうなマイナー生き物というのも辛い。
転生したは良い物の、童貞で一生を終えるのがほぼ確定ではないか。
「えっと、日本に限らなければどうなります?」
「日本に限らなければ、ということは地球にも拘りませんか?」
「え?」
「地球外にも範囲を広げます?」
このオバサンは何を言っているんだろう、と思った所ではたと気が付いた。地球外にも生き物がいるのなら、その魂もここに来るのだろう。なるほど、一つ賢くなった。
「地球外でも異次元でも異世界でも、何でもいいです。ちょっとでも条件が良ければ」
「あら、そうならそうと言ってくれればいいのに。ちょうどいい物件があるんですよ」
「ちょうどいい物件?」
「ええ、異世界の邪神に一柱、空きが出てましてね」
○
風が、吹いている。
<廃太子>ドラクゥは馬上から自分の押し込められた大地を見つめた。
長い黒髪に鮮血のように紅い瞳。そして、乳白色の一本角。
この魔界に一〇八人いる魔王の一人である。
武略、智略共に秀でた自分がこんな辺境に半ば追放されたことが、未だに信じられない。
辺境。
正に、辺境であった。
大地は森林に深く覆われ、大海に浮かぶ島のように峻険な山が生えている。
魔物は凶暴で、文明の痕跡は少ない。
(……こんな処に)
こんな処に、放逐された。
原因は負け戦だった。
近年勢力を増した<北の覇王>ことザーディシュの軍に敗れたのだ。たった一度の敗北だったが、ドラクゥはそれで全てを失った。
自分には、運がなかったのだ。そう言い聞かせる。
運とはつまり、邪神の加護であった。
ドラクゥは、生まれてこの方、邪神を信じたりはしていない。
邪神に縋るなど、弱き者のすることだと唾棄してきた。
それが、こんな風に弱気になるとは。
(つまり余も、弱き者の仲間入りということか)
そう思えば自然と笑いがこみ上げてくる。自嘲だ。
(そうだ、いっそ余だけの邪神を想ってはどうだろうか)
自分だけの邪神。
縋る為の神ではなく、ただ祈る為だけの神。
強くなくても良い。自分と共に在る邪神だ。
そういう信仰の形が、在っても良いだろう。
ドラクゥは、目を閉じた。
邪神に捧げる祈りなど、片句も知らない。
ただ、我流で祈りを捧げてみる。
(邪神よ、邪神よ、余だけの邪神よ。願わくば、余と共に……)
その時、ドラクゥの背後で大きな爆発音がした。
ドラクゥが振り返ると、そこには。
○
「あいたたた……」
いきなり落っことされて俺は盛大に尻餅をついた。
転生、というにはいささか乱暴である。記憶も見た目もそのままだし。
あるのは神様としてちょっとした奇跡を起こす力と…… 借金だ。
邪神になるまでは良かったのだが、実は転生する為の徳すら足りなかったので前借したのだ。
邪神として勤め上げて晴れて天国でぐうたら生活を送る為には、邪神として信仰を集め、借金を完済してさらに天国に入るのに必要なだけの徳を集めなければならない。
その額合計してざっと五億六千万カルマ。現代日本人の平均生涯所“徳”が二億七千万カルマというから、およそ人生二回分である。
どうやったら効果的に徳が貯まる、とか、そういう話は教えて貰えなかった。
とにかく信仰を集めていけば何とかなるに違いない。俺の勘がそう言っている。
自慢ではないが、RPGでもシミュレーションでも取扱説明書を読む前にプレイする男だ。行き詰ってから読む為の取扱説明書もない世界だが、その辺は先輩邪神か何かをつかまえて聞いて行けばいい。
転生していきなり、「○○の奇跡を使うには200カルマを消費して~」だの、「効果的にカルマを貯めるにはヨイドレ沼の奥地に棲むレッサードラゴンを倒さねばならない」とか「神様にもランクがあって、最初はブロンズからはじまり~」みたいな話で頭を一杯にしたくないのだ。
邪神ライフをエンジョイしつつ、軽くゆるーくカルマを貯めるのがこの人生での大目標だ。
なに、邪“神”というくらいだから、それくらいなんとかなるだろう。
そんなことを考えながら腰をさすっていると、こちらを覗きこんでいるドえらい美男子と目があった。
「……貴方さまが、私の崇めるべき邪神か?」
○
「……貴方さまが、私の崇めるべき邪神か?」
口に出してから、ドラクゥは恥じた。
邪神がその御姿を容易に現すはずがない。大方、この辺りに住まう魔族だろう。
戦の経験も無さそうな、緊張感のない表情をしている。
邪神が世界に顕現することは決して有り得ない話ではない。
初代の大魔王に王杓を授けたのも邪神であったし、大森林の奥には邪神が憩う湖もあるという。
しかし言い伝えられる邪神の姿は、名状し難きものや屈強な肉体として知られている。
よもやこんなに弱そうな男が邪神であるはずがない。
(しかし、そう言えば、余が願ったのも強くない邪神であったか)
とは言え、まさか邪神が。
「あ、はい。はじめまして、邪神です」
○
言ってしまってから、しまったなと反省する。
邪神というものはもう少し殺伐としていないといけないのではないだろうか。
何と言うかこう、“はらわたを喰い尽す”ようなアグレッシブさが必要な気がする。
最初が肝心とも言うし、フレンドリーな邪神より、頼れる感じの強面な邪神を演出した方が良い。
そこで俺は、敢えて言い直すことにした。
「コホン。左様、我が、邪神だ」
すると目の前の黒髪の美男子はズボンが汚れるのも構わずに地面に片膝をつけ、こちらに深々と礼をするではないか。目測で二メートル近くあるイケメンにこういう風にされると、悪い気はしない。
「知らぬことといえ失礼を。何処の邪神とは知らねども、まずは非礼をお詫び申し上げます。私はこの辺土一帯を新たに任せられることとなった魔王で、ライノンの子ドラクゥ。<廃太子>ドラクゥと申す者にございます。以後、お見知りおきを」
おいおい、魔王か。やはり言い直して正解だった。
邪神が魔王に舐められてはイカン。ちゃんと跪いているということは、とりあえずは成功だ。
しかしこういう場合、これからどうしたらいいのだろう。
時代劇みたいにやればいいのか?
「うむ、面をあげよ」
「はっ」
「……ところで一つ尋ねるが、ここは何処だ?」
「ここ、にございますか? ここは魔界の西のはずれ、蛮王領の一つ、<ジョナンの赤い森>にございます。邪神さまはこちらを治めておられるのではないのですか?」
と、ドラクゥという名前のイケメンはこちらを不思議そうに見つめる。
それもそうか。
邪神がどういうものかいまいちよく分かっていないけど、普通は自分の治めている所とかに出てくるものなのか。
営業だって自分の担当する地域があるもんな。邪神にもそういうのがあるに違いない。
「実は我は邪神としてまだ生まれついたばかりなのだ」
「ほう、生まれついたばかりと。それならばその御姿にも得心いたしました。邪神も私や普通の魔族のように成長して行くものなのですね」
「御姿?」
「ええ、邪神としては、少し小さくていらっしゃる。私も邪神に御目に掛かる栄に浴したのは初めてのことですが、伝承にある邪神がたは皆巨大だと聞いておりましたので」
む、しまったな。
実はあの世のオバサンにも「巨大化しなくていいの?」とか聞かれていたんだった。
素うどんみたいな“素転生”でも言語関係とかは邪神基本セットに入ってるらしいんだけど、“巨大化”だとか“闇の衣”とかそういうのは別売りになっていて、それぞれカルマが要るみたいなのだ。
巨大化で四〇〇万カルマくらいだったと思うが、さっさと借金返済したい俺としては見送りを決めたのだが。少々早計だったかもしれない。今にして思えば、五億も借金がある身で、四〇〇万くらい屁でもないような気がしてくる。
前世で平乃凡太やってた頃に付き合いのあった印刷屋の親爺さんなんかも、一億ン千万の借金を拵えてからの方が夜遊びも派手にやってたしな。意外と金銭感覚なんてこんなもんなんだろう。
「うむ、実はそうなのだ。我も信仰を集めれば、次第に大きくなるだろう」
「御意にございます」
○
どうやら、邪神は邪神でも見習いのそれらしい。
言葉を交わしてみてドラクゥはこの無角の邪神のことをそう判断した。
聞けば、まだ邪神として生まれついたばかりなのだという。
(それもそうだ。たった今、余が崇めようと想い定めた邪神なのだから)
生まれたばかりの、邪神。
これはドラクゥにとっての瑞兆だ。
何も示すこともなく、ただ照覧する邪神。
それこそが、ドラクゥの求めたものだった。崇めるが、祈り、縋らない。そういう関係を、この邪神となら築けるかもしれない。
○
このドラクゥという俺の信者は何だかとっても忠実そうなんで安心した。
“邪神”と来て“魔王”というくらいだから、おっかない奴が信者第一号だったらどうしようかと不安だったけれど、このドラクゥは良い奴だ。ちゃんと話は聞くし。
ここが魔界のはずれだ、っていうことはドラクゥの説明で分かった。
田舎だから、多分魔族も純朴だろう。いや、勘だけど。
カルマがどうやったら集まるかは知らないが、俺の優れたゲーマーとしての勘は、邪神としての信仰を集めればいいんじゃないかと囁いている。
この田舎をさっさとこのドラクゥが掌握し、俺が信仰を集めれば後は寝て暮らせばいいだけという寸法になる。素晴らしきかな、俺の人生設計。
「ところでドラクゥよ、もう一つ尋ねたいのだが」
「何なりと、邪神さま」
「お主の率いる部下は、どれくらいの数がいるのだろうか」
何と言っても魔王だからな。一万二万はいるだろう。十万とかいると嬉しいな。
アイドルグループでも十万くらいはファンを動員するんだから、魔王ならそれくらい配下がいても何もおかしい所は無い。
「そうですね、今はざっと二〇〇と言ったところでしょうか」
「二〇〇……?」
「はい、このドラクゥの率いる魔王軍は、戦闘員だけですと概ね二〇〇になります」
俺は、自分の中で何かがガラガラと音を立てて崩れるのを感じた。
○
二〇〇、二〇〇か。
俺はドラクゥから聞いた魔王軍の規模にちょっとがっかりしていた。
魔王軍なのに、二〇〇。
高校の時のクラスが四〇人だったから、アレの五倍。
全員の顔と名前が一致するくらいしかいないじゃないか。慶永さん、元気かな。
<廃太子>なんて格好のいい二つ名を持っているからにはもっと強大な軍勢を持っているのかと思ったというのに。
三国志とか信長の野望をやりこんだこの俺に言わせて貰うと、二〇〇なんて兵力では何も出来ない。
あのテルモピレーの戦いでも三〇〇人は兵士がいたのに。
二〇〇の戦力で一体どうしようというのか。
「あの…… 邪神さま、どうかなさいましたか?」
○
「うん? ああ、我を崇める魔王の麾下としてはいささか数が少ないように思えてな」
ドラクゥは密かに歯噛みした。
そうだ。少ない。精鋭はそのほとんどを<北の覇王>との戦いで失い、今や手元にあるのは敗残兵だ。そうでなければ、武略にも智略にも秀でた自分が邪神などを崇めてみようかという気など起こすはずがないのだ。
「はい、邪神さま。先だって大きな戦がございまして。余の軍は敵に敗れ、その数を大きく減じたのでございます。今この辺境の地に在るのも、その負け戦の故にございまして」
「なるほどな。ちなみに、敗れた相手と言うのはどの程度の兵力を持っておったのか?」
「およそ、二十四万」
「二十…… 四万か」
「対する我が陣営は連合を組み、十九万」
そう、十九万だ。ドラクゥの集めた戦力は、数の上では敵に五万劣るとはいえ、地の利もある。
運さえあれば、負ける戦ではなかった。
「それが、今や二〇〇か」
「左様にございます」
「……厳しいな」
「はい」
何が厳しいな、だ。
邪神は邪神らしく祀られていればいい。戦は魔族の領分だ。照覧し、運だけ与えさせしてくれれば何も文句は無いのだ。どうせ生まれたばかりの邪神になど、大した期待はしていない。
「なるほど、な」
「邪神さまはなにも御心配めさるな。これでも私は武略においては少々心得がありましてな。我が身くらいは守れます。二〇〇の兵もいずれは一〇倍にも増やして見せましょう」
○
「一〇倍?」
「はい、一〇倍の二千もいれば、当面の安全は保たれます」
二千か。二千、な。
でも相手が二十四万もいるとなると、二千ぽっちじゃどうにもならんだろう。
どうしようもないくらいボロボロだった頃の劉備でももうちょっと兵力持ってたんじゃないかな。
しかし、この世界ってどれくらいの文明レベルなんだろうか。
二十万からの戦力を動員できるとなると、中国だったら三国志の赤壁の曹操くらい。日本だったら関ヶ原の両軍合わせても十六万五千でちょっと足りない。ヨーロッパは詳しくないからなぁ。いずれにせよ、それくらいを動員できる人口がいて、そいつらとその家族を食わせるだけの食糧生産はあるんだろう。
その辺はおいおい調べるとして。
一つ気になることがある。
「何か御不審な点でも?」
「ああ、その二千で身を守ることが出来たとしても……」
「出来たとしても?」
「……天下を狙うにはどうかな、と思ってな」
☆
邪神として転生した平乃凡太。しかし、今のところ唯一の信者である魔王ドラクゥは、たった二〇〇の兵しか従えていなかった。
早速滅亡しそうな魔王軍だが、『三国志』や『信長の野望』が大好きな平乃はこの状況を愉しんでさえいた。邪神として神界へ向かう平乃。
その頃一方、ドラクゥにはゴブリンの魔王、<千里眼>のベナンの魔手が忍び寄っていた……
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