ファミリーヒストリー「片岡鶴太郎〜羽子板と闇市の恋 下町・泣き笑い物語〜」 2015.03.13


わりと早く運動会が見れるなと思って乗ったことがあります。
う〜ん…。
ほんとですね。
まああのもちろんドラマ出る時は役者俳優として肩書を書いて頂いて絵描く時はまあ画家とか…。
6番。
芸人に始まりボクサー俳優そして画家へ。
鮮やかに転身を重ねる片岡鶴太郎さん60歳。
東京下町日暮里で生まれ育ちました。
習ったわけでもないのに40歳の頃突然絵を描き出します。
これが最初ですねつばきね。
ジャワ原人なんか描いてある。
(笑い声)何でもかんでも描いてんですよね。
自分の絵心がどこから来たのかずっと疑問でした。
そんで母親に「しかしまあこの荻野の家で萩原の家でね絵を描く人間なんて誰もいないのに何で俺突然変異で絵描くようになったんだろうね」と言ったらば「何言ってんだよ。
じいちゃんが羽子板の絵師だっただろう」って言うんですよ。
「え〜うそ」って言ったら「お前だって子供の時に羽子板あっただろう」って言われてね思い出せないんですよ。
番組では本人に代わり家族の歴史を取材しました。
羽子板の絵師だった祖父。
戦争が下町を焼き尽くしたあとに何が残ったのか。
記憶の中の飛行機の絵が祖父の人生を映し出す。
350年前に遡る荻野家の歴史を先祖の畑から解き明かす。
6歳の時父を襲った悲劇。
一通の手紙が運命を変える。
浮かび上がってきたのは家族の崩壊と再生の物語でした。
取材の結果を伝える日鶴太郎さんは自らのルーツと向き合う事になります。
私だけが知らないという何かこう取り残されてるような…。
鶴太郎さんの生まれた東京下町に両親を訪ねました。
(取材者)ごめんください。
こんにちは。
父忠雄さんは神田生まれ。
母繁子さんは今と同じ荒川区。
どちらも下町っ子です。
もう息子も60ですから…体形がねもう父にそっくりになって…。
痩せててちっちゃいのよはげてて。
そっくり。
で後ろからこう…絵描いてるそっくりです。
繁子さんの父は戦前から羽子板職人をしていました。
父が死ぬまで手元に置いたという一本は歌舞伎役者を描いたもの。
父が作ったか実際見てないから分かんないんですけどね。
でもこういう顔を描いてる姿を見て育った。
羽子板屋のお人形屋さんの娘さんですねって近所に言われて。
鶴太郎さんに似ていたという母方の祖父辰二は明治25年生まれ。
弟菊之助と二人羽子板を作っていました。
住んでいたのは荒川区尾久。
戦前には温泉が出て芸子の置屋などのある花街としてにぎわっていました。
戦災で丸焼けになった尾久に今は羽子板の職人はいません。
尾久から隅田川を渡った向島に小さな羽子板の店を構える職人を訪ねました。
はい。
(取材者)どうもおはようございます。
おはようございます。
西山です。
西山さんは父親の代から羽子板を作ってきました。
まあ羽子板というのは二とおりまずあるんですけどもこちら現在女の子が生まれた時のお祝い用としてかわいらしいまた美人画風の羽子板女の子にお渡しするっていう羽子板がこちらとそれから昔ながらの歌舞伎を題材にしたこういった男物の羽子板というのもありまして歌舞伎のお好きな方が自分の好きな役者さんこういう芝居を今年見に行ったからこれだという事で縁起物としてお買い求めになるって方も少なくないですね。
歌舞伎の羽子板は下町が発祥。
江戸時代役者絵を描く浮世絵師の副業として始まったといいます。
鶴太郎さんの祖父辰二も歌舞伎の羽子板を得意とする職人でした。
辰二が顔を描く面相師。
弟菊之助は周囲を綿と布でくるむ押絵師。
羽子板が一家に一本あった時代兄弟は自宅の長屋を仕事場にしていました。
羽子板だけで食べていかれないんでその…このぐらいの貝の中にね要するにね枕草紙。
ないしょで描いてたっていう話を姉に聞いたんですよ。
ちょっと父親と叔父さんが仕事をしてるところ上がってったらそのあれをね「うわ〜っ」って。
こういう貝の中に枕草紙描いてそれでこうやってね。
貝合わせですねみやびの世界のやつですよね。
「百人一首」とかそんなのを描くんですよね。
まあかなり器用だった方じゃないですか。
これが今手前どもで作っています一番小さな…羽子板組合での一番小さな羽子板なので20センチ弱。
6寸という羽子板です。
こちらがですね明治後期に作られた浮世絵師の流れをくむ方の作った豆羽子板。
江戸っ子はこういう物を持ちたがるんですよ小さいの。
火事が多いんで。
あんまりでけえの持てないんですよね。
特殊なほんとに細い筆で描いてある。
ですからかなり器用だったとすれば羽子板の他にこういった物に細かい絵を何かしら描いていて生計を立ててたというのも考えられますよね。
今でも貝殻に小さな絵を描く職人がいます。
どうぞ。
(取材者)おじゃまします。
瀬さんも明治生まれの親から受け継いだ羽子板職人です。
ちっちゃい仕事ばっかりやってんの。
これが問題の…。
押絵で作った古い春画を持っていました。
戦前のもんです。
おやじの持ってたもんなんですよ。
こういうのたくさんはやってなかったと思うんですがこの当時は本当の裏仕事ですよね。
絵描きですから頼まれれば何でもやるという。
昭和6年辰二に4人目の子供繁子が生まれました。
しかしやがて人形や羽子板の注文は無くなっていきます。
昭和13年繁子の小学校入学の年。
国家総動員法制定。
下町からも子供たちからも遊びの文化が失われていきました。
父はもう仕事はやってません。
戦争に入りますからお人形さんなんかやっていられないんで…。
近所若い方兵隊に行くんで父のところへうちの主人が兵隊に行くんで描いて下さいと言ってのぼりを「出征軍人なになになにおめでとう」っていってで父がそののぼりを描いたのを持って送り出す。
田舎のある方は田舎へ…疎開にどんどん家だけ残して行ってしまった。
でうちは田舎っていうのはないんですよもともと江戸っ子だから。
だからそこにいるきりないわけですよ。
で目の前へB29で目の前へ爆弾がどんどんどんどん…「それ!」って逃げる。
昭和20年下町一帯が米軍の空襲を受けました。
防空壕の中にも爆弾が落ち一家は家を出て暗い方を目指して夜通し歩きました。
「あっ靴があるから片っぽでも履こうよ」って。
靴なんか下駄ですからあのころは。
そしたらこっから入ってる飛ばされて入ってんの。
「あっヘルメットそれかぶろう」っていってそば行ったらこっから入ってる。
翌朝家のあった場所に戻ると辺りは丸焼け。
辰二の筆も顔料も家も仕事場も全てが灰になりました。
辰二53歳戦争を境に羽子板の仕事をふっつりとやめてしまいます。
戦後の東京は間もなくよみがえります。
歌舞伎や羽子板も下町に復活しました。
しかし道具をなくした辰二が羽子板職人に戻る事はありませんでした。
代わりに自分で看板を描き屋台を作りリアカーを引いてお好み焼きを売り歩くようになります。
荻野家に近いもんじゃ焼き屋で当時のお好み焼きを再現してもらいました。
薄いもんだと思うんですよね。
お金かかってないと思います。
粉もそんなに使わなかったんじゃないかなって感じ。
絵師だった辰二のお好み焼きは…ひっくり返すと絵が現れました。
父だけのもんなんです他ではないんです。
だからその絵が子供が欲しかったんじゃないですか。
リアカーの周り「ちょうだいちょうだいちょうだい」って。
「うさぎ描いてなになに描いて」と言って「いいよ」と言って。
うちの息子も3歳の時にこのリアカーの上にね乗っちゃうんですようちの息子。
食べればなくなる絵を描いて子供たちを喜ばせた晩年の辰二。
一本だけ残された羽子板にはどんな思いがあったのでしょうか。
毎年暮れになると浅草浅草寺の境内で開かれる歳の市。
通称羽子板市。
繁子さんの了解を得て亡くなるまで辰二の手元にあったという羽子板を見てもらいました。
いつごろ作られたものでしょうか。
これは…あの…そうですね。
(取材者)どなたですか?京極さん。
他の職人の羽子板をなぜ辰二が持っていたのか。
大御所という職人を春日部に訪ねました。
下町から焼け出された羽子板職人の多くは戦後桐の板の産地である春日部に移り住みました。
面相師の京極さんは浅草生まれ。
戦後押絵師の父と共に春日部に来ました。
京極さんは辰二と面識がありません。
これ父がこさえた…ああ…。
そうですか…。
今では名人と呼ばれる職人が浅草の市に初めてあの羽子板を出した50年前。
68歳の辰二は鉄板に飛行機の絵を描いていました。
目に留まって手に入れたその一本は若き日に描いたものに似ていたのでしょうか。
辰二の羽子板は再び繁子さんのもとに戻りました。
あっそうなんですか…。
へぇ〜。
羽子板市で買ったんですね。
そうですか…。
歌舞伎好きだったから。
歌舞伎が好きでこういうのを…。
主に女性のもんじゃなくて。
ですからこれを買ってきたんじゃないですか。
結局戦争で全部焼けちゃいましたからそれからできなくなってそれで気に入られて買ったんでしょうねきっとね。
そうだと思いますよ。
やっぱり羽子板に対する思いはあったんでしょうね。
何で続けなかったのか…。
続けなかったのか続けられなかったのか。
その思いとかエネルギーとかじいさんが描きたかった心の音色とかそれ全部私にちょうだい。
それ今世で私がそれをやらせてちょうだいって思います。
なぜ七福神かというと私が存在するには最低限7人いなくてはこの世に存在しないっていうんでね。
ですからお墓参りする時に必ずその名前を言うようにしてるんですね。
私そして両親。
で忠雄方が…。
これで7人ですね。
この上が分からないんです。
鶴太郎さんの語るユニークな七福神。
七福神のその上を調べました。
戸籍からたどる事ができた名前は繁雄から5代30人。
次は七福神の一人父忠雄さんから荻野家の物語を追ってみましょう。
忠雄さんが大切にしている自分の子供時代の写真。
たった一枚しかありません。
生まれた時父親が書いたものと一緒に額に入っています。
(忠雄)これはだから七五三の…5歳の時の写真です。
実は忠雄さんには父親の記憶がありません。
父親と5歳の誕生日の時に撮ってくれたのかなと思ってそのくらいしか記憶ないですね。
私の宝物ですよこれが唯一の。
忠雄が生まれた神田佐柄木町19番地。
かつて神田の青物市場があった場所です。
大正15年忠雄は果物屋の長男として生まれました。
江戸時代神田川の水運を使って郊外から野菜が運ばれました。
それを家の前の路地に並べて売ったのが神田市場の始まりといわれています。
忠雄の父芳蔵は市場に野菜を卸す所沢の農家の五男坊。
実家から独立して神田市場の一画に自宅を兼ねた果物屋を開きました。
昭和の初めまで芳蔵の店があった通り。
昨年閉めたというこの果物屋には店主夫妻が住んでいました。
好景気だった大正時代には高価な果物も売れました。
戦前の面影を残す家。
わさびを扱う問屋だったそうです。
昔はほんとにうちなんかよりもずっと立派なおうちが神田駅からず〜っと軒並み残ってたんですけれどもお店があってずっと奥まであってそれこそ使用人さんが何十人もいて…。
神田の写真館で写された5歳の忠雄。
忠雄には家族で行った遊園地の思い出が鮮やかに焼き付いています。
しかしその暮らしは長く続きませんでした。
昭和5年芳蔵は突然の病死。
果物屋は閉店します。
顔もどんな顔してたか分かりませんしね…父親が。
(取材者)お母さんの顔は覚えてますか?あんまり覚えていないです。
逆に言えばおふくろを恨んで…はっきり言えば恨んでました。
いまだにもし生きていても会いたくないと思いますね。
憎さの方が…。
夫に死に別れた母は1歳の弟を連れて再婚しました。
6歳だった忠雄は芳蔵の実家である所沢の農家に預けられる事になります。
母が去ったあとも忠雄は柿の木に抱きついて泣き続けました。
母と行く弟が羨ましかった。
忠雄は母に捨てられたと思っていました。
荻野家の本家を所沢に訪ねました。
当時のかやぶき屋根はもうありませんが忠雄が6歳から育った場所です。
家業の農家を継ぐ茂さん。
忠雄は大おじに当たります。
ほんとに優しいおじさん。
これ見ても分かるんですけどおやじのきょうだいってすごい人数いたから一人増えても同じだからうちで引き取るみたいな形でそれで一緒に育ったような事は聞いたんですけどだからそれでよくうちにはこっち来ると必ず寄ってくれて。
家の前にも後ろにも畑。
この畑から荻野家の歴史が始まりました。
このフェンスからこの耕している…ちょっと見づらいんですけどね幅がうちの土地うちの土地の幅東西の幅。
家の後ろに続く畑まで南北の長さはおよそ500m。
代々受け継いできた細長い農地です。
かつて雑木林に覆われていた武蔵野の台地は江戸時代川越藩主のもとで積極的に開墾が行われました。
短冊のような細長い土地を公平に請け負う独特の開拓法で知られています。
中でも荻野家のある亀ヶ谷村は最も古く四代将軍家綱の時代に開かれました。
絵図の一番右が荻野家の敷地。
鶴太郎さんから4代前高祖父仲右衛門の名前がありました。
村の共同墓地にある荻野家の墓。
(茂)元禄…。
元禄時代300年以上前の先祖の墓。
その隣に眠る荻野兼吉は鶴太郎さんの曽祖父です。
兼吉の末の息子芳蔵は明治28年生まれ。
神田に果物屋を開くまで実家を手伝っていました。
茂さんの母が芳蔵について聞いている事がありました。
鶴太郎…おじいさんに当たる人。
おじいさん絵がうまかったの?うん。
芳蔵って言ったっけ?ああ…芳蔵さんはい。
その人が絵が上手で…それをね絵を描いてたんですって。
おばあさんの話だとね。
それで上手で親方から気に入られて結構いい稼ぎをしてたらしいんですよ。
絵の才能はそこのおじいさんからきてるんじゃないかなって…。
血引いてんじゃないのかというのね鶴太郎が。
戦前の所沢では農閑期の副業として絣が織られていました。
荻野家でも女たちが織り芳蔵はその下絵を描いたといいます。
所沢絣の晩期は…まあ晩年のころはそういう大柄の絣で勝負するようになるんです。
大柄の絣っていうのはこうやって見て頂いても分かるように…。
これですと単純な幾何学模様あえて下絵を描く必要性というのはないですね。
でもこの大柄を見て頂くと糸を取っ替え引っ替えしながら織らないと織れないんですね。
鶴太郎さんのおじいさんが描かれたのは墨絵だと思いますけれどもこれと同じように面相の細い筆で線を引いて墨で描いたものと考えてもよろしいんじゃないかと思います。
それにはやはり筆をうまく使う。
それをうまく操れるセンスがないと正確な図面も描けないだろうと思いますのでもともとそういう絵的センスがあった方だと思います。
芳蔵が下絵を描いた時代の所沢絣。
鶴太郎さんの2人の祖父はどちらも筆遣いにたけていたようです。
両方の…じいさん絵描いてたんですね。
いやぁ…描かして頂いてたんですねぇ。
知らなかったです。
だから驚きました。
風穴開けられたみたいにドーンとこう絵を描いてみたいって…。
強烈にこう…その思いが湧き上がって…。
たったひとりで独学で絵を始めるんですけどほんとにありがとうございました。
これで私が今絵を描いてるという意味と描かして頂いてるって事がよ〜く分かりました。
6歳で親を亡くし所沢に預けられた鶴太郎さんの父。
その後どうなったのでしょうか。
昭和6年所沢の小学校に入学した忠雄は都会から来た子供として孤立しました。
きっかけは座布団でした。
田舎の子はみんな絣でしょう。
私のはね黒で花柄のあれがついていたから目立つんですよ。
東京っ子だ東京っ子だってよくいじめられたんですよ。
派手な花柄の座布団。
同級生にからかわれても忠雄は手放しませんでした。
それは入学のお祝いにと再婚した母が忠雄に贈ったものでした。
同級生たちみんな両親いて育ってるんですよ。
私だけですからね。
ましていじめられると「何だ親がいないとこんないじめられるのかな」と思って。
毎日いじめられて泣くよかも片っぽを泣かして少し上に行った方がいいと…。
忠雄は反撃を開始しました。
男の子はみんな被害者じゃないですか。
女の子はやんなかったわね男の子だけ。
だから人の幸せなのが羨ましかったんでしょうね。
荒れて荒れてひどかったですよ。
忠雄さんと親しくやってた人はいないかもね。
昭和15年14歳のクラス写真。
こんな顔してたの。
「こんな顔してたの」って悪いけど。
ただみんな怖がってたわね。
一番後ろで一人だけよそを向いています。
強くなった忠雄はいじめられなくなった代わりに友達もできませんでした。
隣の修学旅行の写真には忠雄の顔はありません。
「修学旅行行きたい」って言えなかったね。
頭悪いけどそういう遠慮もあったのかなと思ってます。
言えないね。
おばあちゃんにも言えないしねおじさんたちにも言えなかったね多分。
それはちょっとさみしかったけどこれは親いる子といない子の差ですもんね。
そのかわり我慢しなくちゃいかんと。
いろいろありますよ。
(拍手)孤独な少年を慰めたものは当時人気を博していた芸人たちでした。
親のいない忠雄をふびんに思ったおばが時々演芸場に連れていってくれました。
古川ロッパ…徳川夢声なんていうのはね芸人ってすげぇなあって思って。
俺ももしかしたらこういうのになりたいなってどっかにありましたね。
だからそれ見る時ほんとに人生幸せだったですよ一番。
所沢の農村にも戦争は影を落としていました。
昭和20年軍需工場に駆り出されていた忠雄は赤紙を受け取ります。
訓練を始めて4か月戦地に行く事なく終戦となります。
戦後の所沢に仕事はなく忠雄は東京の下町に近い成増の金属加工工場で働きます。
工場の寮には下町を焼け出された羽子板絵師の一家が住んでいました。
三女繁子は当時17歳繁子の兄と同い年の忠雄は22歳。
お互いちょっとした下心で近づきました。
そのころねブクブク太ってんの。
ブクブク太ってて…。
(笑い声)きっと田舎でこれがよかったんですね私らと違って田舎だから。
ブクブク太ってる人なの。
つきあってもいいと…。
農家へお嫁にいくとねぇその時分は食糧がないからいく人多かったですよ。
聞いたら「そうじゃないよ」って言うから「あっそうか」。
俺も親もいないしいつかうち出なくちゃいけない。
ず〜っとそこで世話になってるわけにはいかないしまあ転がりこんじゃえば俺も足掛かりとしていいかなと。
まずそれですねはっきり言って。
作戦とすりゃ何か腹を満たさなくちゃいけないからそのころはみんな飢えてますからね。
忠雄は繁子を闇市に誘います。
握り飯や焼き芋を売っていました。
農家の息子ではないと知って興味を失っていた繁子も食欲に負けてついてきました。
作戦成功です。
あの〜お姉ちゃんたちもいたけど別に毛嫌いもされなかったのかな。
そこら辺が俺の世渡りがうまかったのかね。
小学校の頃から暴れん坊で誰にも相手にされなかったという事は隠し隠したから。
コロコロと変わるんですよ私もレインボーで。
忠雄は繁子と結婚。
日暮里で暮らし始めました。
繁子の家族も向こう3軒両隣です。
何でかな?まず俺が一番貧乏人の最たるものですからね。
貧乏人協会の会長です。
昭和29年長男が誕生。
2人の名前から一字ずつを赤ちゃんにあげました。
繁雄後の鶴太郎さんです。
(拍手)忠雄は大好きな寄席や演芸場に繁雄を連れて通いました。
少年の日に憧れた芸人の世界。
(忠雄)そういうのを見せると喜んでね子供心に喜んで手をたたいたのを見ると親としてああ喜んでるな。
俺はそういうのやれなかったけど子供がそうやって喜んでるの見てると俺も幸せ感じたんです。
(笑い)繁子と出会って2人の子供に恵まれ忠雄は家族の絆を取り戻します。
しかし生き別れた母や弟の事を忘れた事はありませんでした。
母も弟も既に亡くなっています。
ごめんください。
よろしくお願いします。
弟弘通の妻美江さんを訪ねました。
弘通が生前持っていたという写真。
これは全部弘通が集めたんだと思いますけど忠雄さんですよ。
そうですよこれがにいさんです2つ。
忠雄自身も持っていない写真。
弘通がおばから手に入れたそうです。
本当の兄弟は二人きりだという事をよく言ってましたから会いたかったみたいですよ。
お兄さんの事はよく覚えてました。
置いていくんなら二人一緒に置いてもらいたい。
連れて行くんなら二人一緒に斎藤家に連れていってもらいたかったって。
泣きじゃくる兄を実家に残し弟弘通は母の連れ子になりました。
再婚先で7人の子供が生まれ居場所のない弘通は12歳で外に働きに出ます。
弟もまた寂しい思いをしていました。
僕には忠雄兄さんというお兄さんがいると。
でその兄さんが今どうしているか知りたいし会いたいし何をしているかもどこにいるかもとにかく知りたい。
弘通の境遇を聞いた美江は一緒に兄を捜す事にしました。
たった一つの手がかりは所沢にいるはずの祖母。
(美江)「私は弘通の嫁の美江といいます。
毎日のようににいさんの事を聞かされています。
幼い頃に離れてから30年余りが過ぎました。
『会いたい』気持ちが強いようですが捜すすべもなくお手紙を書かせて頂きました」。
間もなく所沢から「忠雄はもうここにいない」と返事が来ました。
諦めかけたある日突然の訪問者を迎えます。
「どなたですか?」って言いましたけど「俺だ」って言ったその声で弘通分かったみたいですね。
「兄貴だ」って言いました奥から。
私はただ「え〜っ」っていう感じ。
話は聞いてましたからねずっと。
だから「ええ〜っ」っていう。
「お兄さんって忠雄さんですか?」と聞いたら「そうだ」って。
「南千住にいるよ」ってどっかから聞いたんですよ。
番地聞いてそこの南千住のアパートには行って。
そしたら「訪ねてきてくれてうれしいね」っていってさ。
で美江ちゃんも「おにいさん」って言ってくれるし。
俺もこいつの兄貴だからおにいさんになるのかなと思って。
今まで誰にもおにいさんなんて言われた事ないからちょっとその時はうれしかったですよ。
ちょっと涙ぐんで…。
にいさんは弘通の事羨ましがった。
母親と一緒にいたからいいんじゃないか幸せに暮らしてるんじゃないかというような事も言ってました。
だけどそうじゃなくて反対だったと。
「俺は兄さんが羨ましい」と。
30年離れていた兄弟の再会。
2つの家族は偶然1駅違いの同じ下町住まい。
そして奇遇にも2人とも寄席が好きでした。
これは浅草に演芸場にみんなで遊びに見に行った時に私と撮った…鶴太郎と弟ですね。
どっちが撮ってくれたか分かんないですけど。
若いころ芸人に憧れていた弘通は台本まで書いていたそうです。
漫才の台本のようでしたね。
で2人でやるような事…。
AとBとというふうに書いてあったような気がします。
やっぱり笑いがない時代に育てられたからそういう世界に憧れたんじゃないですかね。
笑いの世界に。
高校を出た繁雄は声帯模写の片岡鶴八に弟子入り。
「鶴太郎」の名前をもらって芸人として活躍するようになります。
マッチで〜す!ものまねしたくてあれしてテレビ出たりね。
ほんと喜んで…喜ぶとその顔見てるとね俺が小さい頃できなかった事がこの息子が一生懸命いろんな事やって努力してんなと思うとね何となくちょっと目を潤む時もありましたね。
繁雄は父と叔父2人の夢を背負いました。
(笑い)芸人のまねごとをするとこうやって両親が喜んでくれるんだ。
要するに人を楽しませるっていう事ができるんだというのはもうその時に既に思いがあって…。
だったら俺芸人やりたいな芸人なりたいなというのはもうほんとに物心付いてすぐでしたね。
でもうちの父親が芸人に憧れたという事はひと言も僕は聞いた事なかった。
今までこんな話した事ないですよ僕に。
そうだったんですねぇ…。
芸人という道は父親とそして弟の弘通叔父さんの憧れの道だったんですね。
それを私が…。
ああ〜そっか…。
取材を通してたくさんの写真が忠雄さんのもとに集まりました。
そういえばそうだったかな。
その一枚別れてから会う事のなかった母の晩年の写真。
見た事ないです!こんなおふくろさん俺のおふくろさんだったな〜。
笑顔でほほ笑んでるなと思ったら何となくうれしくなりましたね。
何だよ〜って恨んでたけどこの顔見たら恨むわけいかないね。
うん…うん…。
母親の写真見てちょっと感激しました。
母親がいたから現在の私がいますからね今よく考えて反省しています。
はいごくろうさまです。
自称貧乏人協会会長の忠雄さん。
実際は地元の老人会の会長です。
月に一度の定例会を仕切っています。
皆さんあけましておめでとうございます。
おいしいたこ焼きです。
ただし一人で食べちゃいけません。
皆さんで食べて下さい。
正月からケンカするとよくないですからケンカしないで楽しく食べて下さい。
定例会は素人芸人を招いてみんなで笑って過ごします。
会長の口癖は…。
うちは交通事故も被害がないしね振り込め詐欺の被害もないんです。
すばらしいですよ。
はっきり言ってそれは唯一の自慢です。
面白い人。
だじゃれがすごいの。
みんなに優しくしてくれる。
面倒見がいいし。
うちの町会の宝ですから。
かつて暴れん坊の嫌われ者だった少年は今は下町の人気者です。
いろいろありましたけど今は一番楽しいです。
今が一番よね。
今が一番です。
指輪がないからねカーテンのまるいやつを贈ったらそれはよかったかもしれません。
貧乏人協会の会長ですから。
闇市のデートから始まった2人。
70年後の今日は浅草にいました。
このオンエアを楽しみにしてるのは両親かもしれませんね。
何度も何度も見るんだと思います。
2015/03/13(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「片岡鶴太郎〜羽子板と闇市の恋 下町・泣き笑い物語〜」[字]

20年前に突然、絵を描き出した鶴太郎さん。そこには会ったことのない祖父の影響があった。羽子板とかすりの着物にその才能を解く鍵が。下町を舞台に泣き笑いの物語。

詳細情報
番組内容
20年前、突然描きたいと思った片岡鶴太郎さん。自分の強い絵心が、どこから来たのかずっと疑問だった。羽子板絵師だった祖父が職人をやめた理由、そして早死にしたもうひとりの祖父の若き日を知り、鶴太郎さんは涙する。先祖の畑から読み解く350年の荻野家の歴史、6歳の父を襲った悲劇、闇市がつむぐ両親の恋、生き別れの兄弟の感動の再会などが明らかになる。崩壊から再生へ、下町を舞台に泣き笑いの家族の物語。
出演者
【ゲスト】片岡鶴太郎,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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