「オウムは今も生きている… 〜総力追跡!地下鉄サリン事件20年〜」 2015.03.14


彼らは神の名を騙り残虐非道な殺戮を繰り返している。
そして20年前日本にも…。
神による救済を謳い無差別テロを引き起こした宗教団体があった。
このあとすぐ。
それは20年前の朝。
すぐ運んで顔横に向けて。
分かるねよし。
顔横に向けて。
通勤の時間帯を無差別テロが襲った。
ばらまかれたサリンという名の毒のガスは13人の命を奪い6,000人以上の人生を狂わせた。
引き起こしたのは…。
新興宗教団体教祖は自らを麻原彰晃と名乗った。
宗教団体による凶悪事件。
社会は衝撃を受けた。
そして事件から2か月後…。
1台目の車です1台目の車の中に乗っているようです。
山梨県上九一色村の第六サティアンに隠れていたしかし…。
あれから20年。
事件は終わっていませんでした。
ここにテレビ東京の記者が入手したスクープがあります。
この1,100枚にも及ぶCDに収められていたのはオウムの設立からサリン事件の直前まで記録された麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の全肉声でした。
今回入手した第1のスクープ。
それは麻原が信者たちに語った1,000回にも及ぶ説法の記録。
そこに残された殺人命令とは?そして…。
そこにはオウム復活に向けた戦略があった。
かつてオウムの広報マンだった彼もその指示に従っていたという。
どこにでもいる優しげな青年。
彼がつながりを求めて向かう先にオウムがあった。
地下鉄サリン事件から20年。
いまだ若者たちをひきつけるオウム真理教。
あなたとそしてあなたの家族のそばにまだオウムはいる。
これは去年12月に撮影した映像だ。
この日駅前には20代とみられる男女が集まっていた。
まるでツアーに向かうかのようにワンボックスカーに乗り込んでいく。
彼らを追跡してみると。
車が行きついた場所は…。
オウムの後継団体若者たちはその信者だった。
この日は合宿セミナー。
およそ500人の若者が全国にあるアレフの施設に集まっていたという。
オウム真理教は麻原逮捕後このアレフとひかりの輪という団体に分かれた。
アレフの内部を見ると掲げられていたのは麻原の写真。
帰依する…つまりいまだにアレフは麻原をよりどころにし信者の数を増やしていたのだ。
団体の資産は去年10月の時点でおよそ7億円に。
この15年間で17倍にも増えている。
そして信者たちはこんな場所にも。
麻原死刑囚がいる東京拘置所。
彼らは何をしているのか?すみません失礼ですけど…テレビ東京なんですけど。
若者たちは教祖麻原からパワーをもらうためそのそばを歩いているという。
なぜ今若者たちは再びオウムに向かうのか?そんな若者たちの1人に接触。
そのわけを聞き出すことができた。
2年前アレフの門をたたいたAさん。
家族と離れ知人が持つ一軒家の2階を間借りしている。
そうですね。
現在Aさんは時々アルバイトなどをして生計を立てている。
唯一の家具は机代わりのダンボール箱。
介護関係の資格を取るため今は専門学校に通っている。
学費は今後ローンで支払っていくつもりだ。
勉強は一段落。
とその時だった。
始めたのはヨガの呼吸法。
体内の二酸化炭素を鼻から一気に吐き出す。
その分酸素を取り込むことでエネルギーを体内に満たすという。
あとは何ですかね…。
なんですか?いや…あの。
中には麻原の似顔絵が。
これは友人たちと写真におさまったAさん。
どこにでもいる今どきの若者に見えた。
挫折は大学入学とともに始まった。
体調を崩し退学。
その後10をこえる仕事に就いたがどれも長続きはしなかった。
普通になんていうんですか…。
Aさんは興味を持ち始めたヨガの中に居場所を見いだそうとした。
目に留まったのがそこでのヨガの修行に興味があった。
アレフの信者と最初に会ったのはファミレスだった。
この時Aさんはアレフをけった。
そして今彼はある場所に居場所を見つけている。
しかしそこにもオウムの文字が。
介護の学校に通う彼が自分の居場所を求めてこの日向かった先は…。
我々はひかりの輪と戦うぞ!
(一同)戦うぞ!そこにあったのはアレフと並ぶオウムのもう一つの後継団体ひかりの輪だった。
近隣住民たちにとっては今すぐにでも追い出したい存在だ。
ひかりの輪をつくったのはかつてオウムの広報マンだった上祐史浩。
今は麻原への信仰心は捨てたと言う。
だが国は監視の目を緩めてはいない。
ひかりの輪には先月も立ち入り検査に入った。
万物恩恵万物感謝万物仏。
万物尊重万物一体万物愛す。
これはAさんは一日数回唱えているという。
いったいなぜAさんはオウムの後継団体にひかれるのか?そんなAさんがある写真を見せてくれた。
これはおととしの秋長野県の善光寺へ行ったときのもの。
上祐と並ぶAさんは顔を見せられないが満足げだ。
年10回ほど行われるこのツアーでは全国の神社仏閣を巡りながら上祐の話を聞く。
時には行った先でめい想をすることもあるという。
夕方Aさんが見ていたのはオウム裁判のニュースだった。
今も裁かれるオウム。
その後継団体に身を置くことにためらいはないのだろうか。
それでもAさんはひかりの輪を抜けようとはしない。
今の若者と20年前の若者たちには通じるものがあると話す人物がいる。
1987年カネがすべてだというバブル経済の価値観に反発していた頃オウムに出会った。
オウム時代は麻原の側近として仕え後継団体アレフでは代表の座に就いたこともある。
しかし今は時代をこえて若者たちをひきつけるその誕生は80年代にさかのぼる。
〜当時の東京原宿。
ホコ天では毎週天然色の衣装に身を包んだ若者たちが踊っていた。
そこから程近い繁華街渋谷。
その一角で1人の男が小さなヨガ教室を開いた。
男の名は生まれつき左目がほとんど見えなかったという。
これは麻原がヨガ教室の宣伝に使った写真。
どう見ても跳びはねているとしか見えないこの写真を空中浮揚に成功したとうたい注目を浴びた。
若者たちは超能力が得られると信じ麻原のもとへ。
いつしか指導者を意味するグルと呼ばれるようになった。
今回テレビ東京の記者が入手したスクープの一つがこちらです。
CDにして1,100枚にもなる麻原死刑囚の知られざる音声データです。
ここにはこのCDには教団がオウム真理教を名のる前から危険な思想を抱いていた証拠となる音声が残されていました。
更に音声データを詳しく分析すると中から一連の事件につながる麻原の説法が見つかった。
麻原が言うポアとは…。
麻原はこの狂気の思想をかなり早い段階から信者たちに植えつけていたのだ。
そしてまもなくヨガ教室は宗教団体へと姿を変えた。
麻原にひきつけられた若者の1人。
オウム発足から2年後に入信。
教団の広報としてメディアに顔をさらした。
だからそういった意味で…。
そういった上祐は麻原に頼れる父の姿を求めた。
オウムに入信した若者の中にはこんな女性もいた。
はつらつとした表情の彼女が彼女の消息を探るとたどり着いたのはある小さな島だった。
そこに彼女はいた。
彼女は通訳として傍らでいつも麻原を見つめていた。
自分のほうが5つ年上だったが麻原を尊敬していたという。
村岡達子。
麻原の逮捕後には残された教団のトップとしてメディアの前にたびたび登場した。
そんな村岡がカメラの前で初めてオウムに入信したいきさつを告白した。
1950年中国地方で生まれた村岡。
3人兄弟の末っ子だった。
実家は建設会社を経営。
裕福な家に育ち何不自由なく育てられた。
高校時代から満たされない気持を抱いていたという村岡。
大学でもそれは変わらなかった。
学生運動で大学が長く閉鎖されたこともあり4年で中退。
その後職を転々とするもそれも長続きはしなかった。
30歳で結婚。
しかし家庭に入る生活に満たされることはなく結局離婚。
人生を変えたい。
知り合いが立ち上げたベンチャー企業で働くことになった。
人生をリセットできたかに思った矢先わずか2年で会社が倒産してしまう。
むなしさが再び彼女を襲った。
帰国した村岡を待っていたのは狂乱の時代に突入した日本。
バブルに浮かれた世の中にはついていけなかったという。
そんなとき村岡の心の隙間に入り込んでくるものがあった。
麻原の本だった。
あぁ…。
フッ。
そこには今の自分を変える方法。
真の幸せをつかむ手段などが書かれていた。
これが人生を諦めかけていた村岡の心をとらえた。
そして読み終わった頃…。
村岡はすぐに精神世界への関心とともに麻原への憧れも強くなっていった。
足はオウムの集会に向いていた。
こんにちは。
あの…。
はい!初めて見るオウムの修行は異様なものだった。
お待たせしました。
うえっ…。
うっ…ゴホッゴホッ!そしてあの男がついに村岡の前に姿を現した。
(一同)はい!道場開きだったこの日信者が麻原に触れることができる特別な儀式があった。
儀式というにはあまりにも味けない。
村岡は期待を裏切られる思いがしたという。
ところが自分の番が回ってきたその時。
《えっ?》一瞬しびれるような感覚が村岡の全身をつらぬいたという。
そして…。
オウムへの出家を決めた村岡は準備を始めた。
まず出家に必要なのは過去をすべて捨て去ることだった。
持っていけるものは最低限の衣類などを入れたみかん箱2つまでの荷物。
それ以外はすべて教団にお布施しなければならなかった。
そんな娘の姿を見て母は。
だったらお母さんこのときの母の寂しそうな姿は今も忘れられないという。
出家した信者には過酷な修行が待っていた。
それは命がけのものだった。
ヨーガでは心の安定そして精神集中力はクンバカに比例するとされています。
のちに麻原の側近となる村岡達子。
彼女が向かった先はこの年完成したばかりの信者たちはここで生活しながら修行に励んでいた。
教祖の麻原に認められれば階級が上がり待遇もよくなる。
ヨーガでは心の安定そして精神集中力はクンバカに比例するとされています。
修行の内容は常軌を逸していた。
水中で息を止め続けたり麻原の脳波と同調するため頭のヘッドギアに数ボルトの電流を流されたり。
更には土の中に埋められ酸素がなくなるまで瞑想を続けるものなどがあった。
その過酷な修行をめぐって信者と麻原のこんなやりとりがあった。
ところが村岡に与えられた修行は意外なものだった。
はい。
語学力を買われた村岡は世界中の宗教に関する本を端から翻訳する修行を与えられた。
麻原は信者の能力を上手に利用していた。
しかし村岡はこれはあくまで修行だと信じきっていた。
そんな2人の間にこんなエピソードがある。
あぁうん…。
この頃から麻原の海外渡航に同行し通訳をするようになっていた村岡。
そのなかで失敗し落ち込んだことがあった。
みんなそれでいいね?
(一同)はい。
そんな村岡に対して麻原が…。
いったい何を言われるのか?すると…。
優しく抱きしめこう言ったという。
麻原が差し出したのは自分の好物のメロン。
信者の性格に合わせて態度を変え心をつかむ。
そのすべを麻原は心得ていたのだ。
そして村岡が入信して2年目。
はい!村岡はホーリーネームつまり教団内である一定の地位になったことを示す名前を与えられた。
これからウッタマーとして更に修行に精進します。
(一同)修行するぞ修行するぞ修行するぞ。
(一同)救済するぞ救済するぞ救済するぞ。
麻原は当時年上の村岡をどう見ていたのか。
その音声が残されていた。
教祖麻原彰晃は年上の村岡達子をどう見ていたのか。
その音声が残されていた。
村岡は麻原の逮捕後後継団体のトップに祭り上げられメディアに頻繁に顔を出した。
しかし理由は教団内の権力闘争に敗れたためだという。
しかし…。
麻原の教えを今もその胸に抱き続けている。
村岡にとって麻原死刑囚に魅了された信者の1人死刑囚中川智正。
彼がある人物に獄中から送った報告書を私たちは入手しました。
英語で書かれたこの報告書この部分にはSarinと書かれています。
そうここにはオウムのサリン計画の全貌が書かれていたのです。
報告書を受け取ったのはアメリカコロラド州立大学で毒や化学兵器の研究をするアンソニー・トゥー博士でした。
私たちはこのアンソニー・トゥー博士からオウムが世界を崩壊させる計画を進めていた事実を聞き出しました。
取材班はアメリカへ飛んだ。
向かった先はコロラド州立大学。
あっいらっしゃい。
アンソニー・トゥー博士。
日本に留学経験のある台湾生まれのアメリカ人だ。
毒物や化学兵器のエキスパートで挨拶もそこそこに博士は我々にあるものを見せてくれた。
オウムの元幹部中川智正からの手紙だ。
最高裁判所で死刑の宣告を受けています。
坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の1人で2011年に死刑が確定している。
科学者の視点でオウム事件の真相に迫ろうと博士は中川と交流を続けてきた。
そんなとき博士のもとに中川からの1枚のメモが届いた。
そこには1993年7月に初めてサリンを生成したことやサリンプラントの建設に関することなど犯行計画のすべてが書かれていた。
化学物質第二次世界大戦中にナチスが開発した神経ガスだ。
皮膚に1滴垂らすだけで死に至るとされる。
しかしそれだけの毒ガスをどうやって作ったのか。
博士が中川に尋ねると。
そして中川のメモには麻原の驚くべき指示が記されていた。
この計画は事実だったのか。
元幹部の上祐に確認した。
そのハルマゲドンを起こすに足りる…。
麻原が企てたハルマゲドン計画その全貌を暴く。
人類改造計画を掲げ世界の消滅をもくろんだ麻原のサリン70トン計画。
それはいったいどんなものだったのか?サリン製造の中心人物は…。
なかでも土谷は筑波大学で化学を学んだエリート信者の1人だった。
この土谷が図書館で探してきた本や論文をもとに開発を進めた。
そしてついにそしてハルマゲドン…。
世界を滅ぼす計画を幹部たちに命じた。
1994年6月。
オウムは計画の序章ともいえる事件を起こします。
松本サリン事件。
死者8人。
負傷者660人。
開発したサリンのテストを目的にオウムに関連する裁判官を狙ったテロでした。
教団内でも一部の人間しか知らなかった極秘の計画。
しかしまもなくその計画に狂いが生じます。
それは1995年の元旦の紙面を飾ったスクープでした。
オウム真理教の施設がある上九一色村でサリンの残留物が見つかったのです。
それはオウムにとって大きな失態だった。
オウム検挙への手がかりをつかんだ警察は勢いづいた。
もし警察が強制捜査に踏み込んでくればサリンを作っていた事実が突き止められてしまう。
そうなれば待っているのはオウムの壊滅だ。
麻原は大至急サリンを処理するよう命じたという。
毒ガスのサリンはそのまま捨てるわけにはいかない。
別の薬品を入れて中和し無毒にする必要があった。
信者たちは3日間不眠不休でサリンの処理に没頭した。
はぁ。
すべてのサリンがこれで消えるはずだった。
このままことが済めば地下鉄サリン事件はなかったかもしれない。
しかし…。
中川が手に取ったのはサリンの製造過程で出来たジフロ。
サリンの原料となる薬品だった。
そして中川はある行動をとったとされる。
ジフロの入った容器を教団の施設内に隠したのだという。
このとっさの行動があの惨劇へとつながることになる。
今回入手したスクープ。
CD1,100枚に及ぶ麻原の肉声のなかに警察に対する憎しみが記録されていた。
それは麻原が食事会で信者一人ひとりに自分は何ができるのかと問いかけている場面。
相手は荒木浩。
当時から現在のアレフに至るまで一貫して教団の広報を担当する古参信者だ。
1995年2月教団は元信者の妹をかくまっていた仮谷さんを拉致し死亡させる事件を起こす。
これをきっかけに警察はオウムの追及の動きを加速。
そして強制捜査の日が決まる。
Xデーは3月22日となった。
ところがこの情報は筒抜けだった。
強制捜査を阻止するため別の事件を起こそうと考えたオウム。
だがどうすれば…。
そのときだった。
はい。
そうオウムにはまだサリンを作る原料が残されていた。
復活するサリンの計画。
麻原はふだんは家族しか乗せないリムジンに主だった幹部たちを乗せ計画を練った。
どうしたら阻止できると思う。
彼らがどこに座り何を語ったのか。
すべてが裁判記録に残されていた。
化学班の幹部遠藤に問いただすと…。
こうして地下鉄にサリンをまく計画が決まった。
すぐさま村井は実行犯となる信者たちを集めた。
…からだからね。
麻原からの命令である。
断る者などいなかった。
遠藤と中川がサリンの製造を担当した。
これしかないのか。
サリンを作るには本来ジフロだけでは不十分だった。
しかしすでに残りの薬品はすべて廃棄していた。
これしかないのか。
やりましょう。
わかった。
製造するための機材もなかった。
そのため防護服の代わりにビニール袋を頭からかぶり酸素を取り込みながら作業を進めた。
一方村井は…。
決行の日は2日後の3月20日。
通勤客が最も多い朝に決まった。
そして決行前夜。
出来上がったのは急ピッチで仕上げたために濃度が30%程度しかない不完全なサリンだった。
遠藤と中川はそして更に村井の指示でこの他に同じサイズの水を入れた袋が用意された。
来た来た。
水袋はいったい何に使われたのか?他には人数分のビニール傘が用意された。
それを手に取ると失敗しないようまもなく決行の朝を迎えた。
落ち着いて。
頼んだよ。
(一同)はい。
(一同)はい!行こう。
そして事件は起きた。
1995年3月20日。
5つの地下鉄の車内でサリンがまかれた。
朝の通勤風景が一転地獄となった。
2日後山梨県上九一色村の教団施設に強制捜査が入った。
だがすでに時機を逸していた。
元捜査幹部はもっと早くオウムの施設に乗り込んでいれば地下鉄サリン事件は防げたと語る。
当時オウムは警察や自衛隊の内部にもスパイを潜り込ませていたという。
そして。
1台目の車です。
1台目の車の中に乗っているようです。
事件から2か月後。
持っていたのは経典ではなく隠し部屋に1人でこもっていた。
麻原死刑囚の逮捕で信者に対するその影響は獄中に封じ込められたのでしょうか?私たちはある人物から重要な資料を入手しました。
それはA4サイズで120枚以上。
およそ11万字にも及ぶ文書です。
これは逮捕後の麻原死刑囚が拘置所などから教団や信者に向けて発信したメッセージ。
いわば獄中指示でした。
麻原死刑囚の影響は今なお続いていたのです。
オウムの真相を知るうえで決定的な手掛かりを握る重要人物がいる。
その人物とは?麻原には妻との間に6人の子供がいる。
長女次女そして教団内で強い影響力を持った三女アーチャリー。
その下の妹が四女だ。
更に彼女の下に長男次男2人の弟がいる。
オウム事件の資料を取り寄せ家族や教団幹部に隠れて読みあさったという。
自分が育った教団がテロを行い教祖である父が人を殺せと命令した。
初めて知ったときどう思ったのか?事件に対して反省の姿勢を見せない家族や教団に愕然とし…。
今は1人で暮らしている。
その四女がオウム問題の解明に役立ててほしいとあるものを提供してくれた。
古いガーゼを開くとそこには1本のここにはいったい何が記録されているのか?それはA4用紙にして120枚以上に及ぶオウムの元幹部上祐にその文書を見せると…。
驚くべき答えが返ってきた。
麻原の獄中指示。
それは拘置所から教団や信者に向けて発信した極秘のメッセージだった。
いったい何が書かれているのか?そこには自分がいない間の教団運営や裁判に対する姿勢など獄中から教団を操ろうとする麻原の様子が克明に記されていた。
このメッセージいったいどうやって伝えられたのか?まずそれをそのつど麻原の言葉をパソコンに打ち込んで保存した。
私はしてもいないことを認めることはありません。
この獄中指示を徹底的に分析した結果…。
そして120枚以上に及ぶ文書を一つひとつ検証していくうちにこのなかに驚くべき事実が隠されていたことをつかんだ。
例えば…。
一連の事件についても謝罪し麻原とは決別したかに見えた。
しかし…。
その5年前1995年11月の獄中指示を見ると…。
そこに「アレフ」の文字が…。
「新しい任意団体の名称をアレフとする」。
なんと麻原は5年も前に教団名を決め指示していたのだ。
更に逮捕された信者たちに向けたと思われる指示もあった。
偽証罪で逮捕された上祐。
上祐は拘置所の中で獄中指示を受け取ったという。
いったいどんなメッセージが届いたのか?「皆さんへ。
被疑者が取調官との会話において取調官の言葉の意味そのものをまったく理解しないあるいはそれより進んで音としてすら認識しなかったとしたら被疑者は取調官から与えられた一切の苦しみから解放されることになります。
これが解脱です」。
つまり上祐は獄中指示の影響で黙秘に転じたと告白した。
当時捜査を指揮した元検察幹部はこの「黙秘せよ」という指示が真相究明の妨げになった可能性を指摘する。
更に上祐から衝撃の発言が…。
なんと2012年に立て続けに逮捕された…。
3人が17年間逃亡し続けたのはすべて麻原の指示だったというのだ。
それはいったいどんなものだったのか。
上祐はかつて高橋被告ら十数人の逃亡犯の一部と連絡を取り合いさまざまな指示を伝えていた。
ある時上祐が獄中の麻原に逃亡犯を出頭させるべきかどうかを尋ねるとこんな指示が返ってきたという。
要するに指示はまだある。
現在麻原がいる東京拘置所。
そこにマスクをした若者の姿が。
彼らは麻原からパワーを得たいという理由で拘置所の周りを回っているという。
実はこの行動も獄中指示によるものだ。
心が乱れたら自分のいる建物の周りを歩くと心が落ち着くと指示していたのだ。
逮捕後20年が経とうとする今でも信者たちは麻原の指示どおりに動いていたのだ。
そしてなかでも最も恐ろしい指示とは…。
逮捕後20年が経とうとする今も教団に絶大な影響力を持ち続けるその中に今後の教団を左右する恐るべき指示があった。
教祖長男次男…。
後継者の指名だ。
麻原は逮捕された翌年6人の子供のうち当時3歳の長男と2歳の次男を後継者として獄中から指名したのだ。
更に「すぐに記者会見せよ。
長女が出るのがよい」という指示も出していた。
実際その2週間後…。
麻原の指示どおり長女が会見に立ちだがこの時まだ幼い子供に教祖が務まるはずもなかった。
教団は彼らが未成年であることも考慮していったんしかし…。
2人は今成人となった。
あ…若い女性ですね。
今麻原教祖の長男の誕生日を祝う生誕祭に参加するのでしょうか。
アレフの道場でここまで盛大に行われるのは初めてだった。
実はこれも麻原の獄中指示によるものだった。
オウムの後継団体アレフは成人になった2人の息子を表舞台に立たせようとついに動き始めた。
更に獄中指示の中にはこの息子たちに向けたある危険な教えがあった。
その中にはもともとはチベット密教に伝わる教えだ。
その中には唱えるだけで相手の命を奪うことができる呪いの言葉もあるという。
これは教団内でもごく一部の幹部にしか知らされていない…。
獄中指示の中には麻原がこのヘーヴァジラを唱えるための資料を拘置所の中に差し入れるよう信者にリクエストしたものもあった。
当時教団に残っていた村岡はそれをある奇抜な方法で差し入れたという。
村岡は麻原が獄中で着るスウェットにこの殺人教義を刺しゅうしたという。
ヘーヴァジラはこうまでして隠さなければならない秘密の教えだったのか。
実際にこれが麻原の手元に届いたかどうかは定かではない。
だが麻原は逮捕後もなお社会に対する憎悪を抱いていた可能性が高い。
そしてその憎しみを麻原は引き継がせようとしていた。
「子供たちにヘーヴァジラの修行をさせなさい」。
そう後継者である子供たちに修行するよう命じていたのだ。
更に…。
麻原の指示どおり恐怖の教えを叩き込まれたという2人の息子。
彼らが教団のトップに立つ日は来るのか。
教団きっての武闘派。
坂本弁護士事件や地下鉄サリン事件など教団が起こした凶悪事件のほとんどに関与し…。
殺害した人数は麻原に次ぐ26人。
裁判では一貫して…と語ってきた。
その新実についてあるスクープをキャッチした。
実は妻や両親以外に…。
その相手とは…。
麻原の後継者に指名されている通常家族など親しい者に限られる。
そのうちの1人が麻原の次男だという。
私たちは新実と交流を続ける教祖になる予定があるのか。
殺人教義の修行を今もしているのか。
そしてオウムの一連の事件についてどう考えているのか。
私たちのもとにですね麻原教祖の次男の支援者から手紙が届きました。
おそらく私たちの取材依頼に対する回答だと思います。
早速開封してみたいと思います。
麻原の果たして中身は。
次男からの返答が書かれていた。
取材申し込みを断る権利はあると考えています。
つまり一方教団から離れた麻原の四女は後継者の弟たちに向けてこう話す。
全国に施設を持つオウムの後継団体の一つアレフ。
今多くの若者がその門をたたいている。
公安調査庁によればこれはアレフ内部の写真。
麻原信仰の実態の把握に努めている。
教団ではいったいどんなことを教えているのか?去年の末アレフの最高幹部が全国の信者に向けて語った肉声をテレビ東京は独自に入手した。
オウム時代からの幹部…。
公安調査庁の職員の写真をナイフで串刺しにしたといわれる人物だ。
この肉声をオウム問題に長年取り組む被害対策弁護団の中村裕二弁護士に聞いてもらった。
20年前その救済の名の下に教団は何を起こしたのか。
社会は忘れてはいない。
このあと緊急スクープ。
麻原の取り調べ記録を独自入手。
事件について赤裸々に語る麻原がいた!それは放送直前のことだった。
ある重要なスクープを入手した。
それはダンボール箱2個分の書類。
これは貴重ですね。
麻原が警察の捜査に立ち会っている写真。
これらはオウムに関する極秘の捜査資料だ。
なかでも特に目をひきつけたのが取り調べで何を語ったのかが克明に記録されている。
乱れた直筆の署名。
そしてぼ印。
麻原は事件後の裁判では一貫して黙秘や否認を貫いたとされていた。
しかし今回私たちが入手した麻原の供述調書にはある事件に関しこれまでの通説を完全に覆す事実が書かれていた。
麻原はこう述べている。
「結論的に言えば私とヴァジラティッサ。
つまり中川智正の二人が悪くその責任を負うべきなのです」。
なんと…。
逮捕直後麻原は自ら一部の罪を認めていたことが判明。
しかしその後黙秘や否認に転じた。
いったいなぜなのか?真実はいまだ解明されていない。
地下鉄サリン事件から20年。
オウムは今も生きている。
2015/03/14(土) 19:00〜20:54
テレビ大阪1
「オウムは今も生きている… 〜総力追跡!地下鉄サリン事件20年〜」[字]

麻原“獄中指示”全文入手。恐るべきラストメッセージ「サリンを作るのは簡単」死刑囚が明かした“人類改造計画”なぜ若者はオウムに引かれる?後継団体向かう男性に密着!

詳細情報
番組内容
地下鉄サリン事件から20年。オウム問題は終わっていない!テレビ東京が独自に入手したスクープ資料、元教団幹部の独占取材、取材に基づく再現ドラマを通じて、凶悪犯罪に走ったオウム真理教の知られざる裏側、今も続くオウム問題に迫る。オウムの教えは今も生き続け、後継団体に向かう若者が増え続けている。かつてのオウム真理教にも若くて優秀な信者が集まった。なぜ若者はオウムに引かれるのか?後継団体に向かった男性に密着。
番組内容続き
麻原彰晃の“獄中指示”を全文入手。幹部にしかわからない隠語を交えて残された麻原のラストメッセージは?逮捕後も教団は麻原の指示で動いていた…今もなお引き継がれる恐るべき指示を読み解き、麻原の野望を探る。「サリンを作るのは簡単」サリンを作った死刑囚が明かした“人類改造計画”。麻原の野望を示す資料を独自入手し、オウム真理教の恐るべき計画の全容を明らかにする。
出演者
【ナビゲーター】大橋未歩(テレビ東京アナウンサー)

ジャンル :
ニュース/報道 – 報道特番

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