(銃声)2014年2月に始まったウクライナ危機。
ロシアが支援する親ロシア派と欧米諸国が支援するウクライナ政府によるウクライナ東部での戦闘は今年に入って激しさを増しました。
衝突は世界を巻き込む対立を引き起こしています。
世界に新たな東西対立をもたらしたウクライナ危機。
危機が始まる直前にオバマとプーチンに警告の手紙を書いた人物がいました。
手紙の差出人は…新しい境界線が生まれている事を私は懸念しています。
我々が進んできた道それは壁をなくす事だったはずです。
(拍手と歓声)ゴルバチョフは新たな発想の外交を打ち出し東西冷戦の終結に奔走しました。
(歓声)そしてベルリンの壁崩壊をきっかけに戦後長い間続いてきた東西対立を武力衝突なしに終わらせたのです。
冷戦はひとりでに終わるものではありません。
何らかのプロセスが結果を生み出します。
レーガン大統領とジュネーブで交渉しブッシュ大統領とも交渉しました。
全ては段階的に進めた事なのです。
冷戦末期ゴルバチョフは西側の首脳たちとそれまでの敵対関係を越えて直接交渉を重ねました。
一体どのような交渉で危機を打開していったのでしょうか?一方で公開された資料からは新たな東西対立の火種が生まれていた事も明らかになりました。
今のウクライナ危機にもつながるアメリカ高官の発言とは?当時ゴルバチョフが構想していた東西対立を乗り越える新しい枠組み。
その実現を阻んだものとは何だったのでしょうか?冷戦を終わらせた首脳たちの交渉。
その舞台裏をひもときながら21世紀の危機を乗り切る手がかりを探ります。
ウクライナの首都キエフ。
1月。
民間人を含む13人の命を奪った東部のバス襲撃事件に抗議するデモが行われました。
東部で戦闘を繰り広げる親ロシア派とウクライナ政府は襲撃の責任は相手にあると互いに主張しています。
(砲撃音)不安定な状況が続いてきました。
(爆発音)東部ではこの1年ほどの間に6,000人以上が亡くなっています。
(嗚咽)危機の舞台となったウクライナ。
アメリカを中心とする西側の軍事同盟NATO北大西洋条約機構と東のロシアに挟まれた場所にあります。
政府軍と親ロシア派の衝突はアメリカやロシアを巻き込む対立へとエスカレートしています。
原因はロシアにあると非難するアメリカのオバマ大統領に対しプーチン大統領はNATOの介入こそが問題だと反論します。
対立は深まる一方です。
ウクライナでの戦闘を停止させようと今年2月ヨーロッパの首脳が動きます。
ドイツとフランスの仲介でロシアプーチン大統領とウクライナのポロシェンコ大統領が直接交渉に臨みました。
16時間に及ぶ協議の末ウクライナ東部での停戦合意が結ばれました。
果たして停戦が実現し和平につながるのか。
その行方を世界が注目しています。
首脳同士の交渉の大切さ。
それを説く手紙がウクライナ危機が起きる直前に米ロ首脳宛てに出されていました。
手紙を書いたのは…ソビエトの最後の指導者でした。
ゴルバチョフはなぜこの手紙を書こうと思い立ったのでしょうか。
モスクワを訪ねました。
ゴルバチョフは今年84歳。
ウクライナはマッチ1本で大火事になってしまう危険性をはらんでいます。
問題が起きた瞬間に止めなければ誰にも止められなくなってしまうのです。
だから私はプーチン大統領とオバマ大統領に手紙を書きました。
この危機を一刻も早く解決するには最も影響力のある首脳が動かなければならないと考えました。
ゴルバチョフが強調するのは首脳同士の交渉の大切さ。
冷戦終結を巡る自らの経験に裏打ちされています。
私は拳や爆弾つまり暴力で何かを解決できるとは思っていません。
かつて我々は冷戦終結に向けたプロセスを始めました。
レーガン大統領とのジュネーブでの会談更にブッシュ大統領との会談など一歩一歩段階を踏んできました。
全ては段階的に進めた事なのです。
東西冷戦。
ソビエト率いる東側諸国とアメリカを中心とする西側諸国が激しく対立した時代です。
当時核戦争の危機が世界を覆いました。
相手に匹敵する核を持つ事で互いに核を使用できなくする「核抑止」の考え方に基づき米ソは終わりのない軍拡競争を続けたのです。
その結果手にした数万発もの核は米ソの財政を圧迫し大きなひずみを生んでいました。
改革ペレストロイカを掲げます。
軍拡競争で疲弊した経済を立て直そうとしました。
そして実に6年ぶりとなる米ソ首脳会談をスイスのジュネーブで開く事になりました。
54歳のゴルバチョフ書記長と74歳のレーガン大統領。
最初の出会いは不信感に満ちたものでした。
ジュネーブの最初の協議でマスコミにレーガンがどんな人物か聞かれたのでこう答えました。
「恐竜のような恐ろしい人です」。
レーガンも私について聞かれこう答えたそうです。
「典型的な共産主義者だ。
ガチガチの共産主義者だ」。
最初はこんなふうでした。
首脳会談の目的は米ソが軍拡競争をやめ互いに軍事的な優位を求めないという基本姿勢を合意する事でした。
しかし会談が始まっても米ソは軍拡競争を仕掛けているのは相手の方だと原則的な立場を繰り返すばかりでした。
平行線をたどる議論に突破口を切り開いた人物が現れます。
シュルツ国務長官と共にアメリカ側の代表として会談に同席したマトロックがその様子を振り返ります。
会談ではシュルツ国務長官が意外な行動に出ました。
持参した表やグラフを取り出して「ソビエト側に軍事費の実態を講義してやろう」と言いだしたのです。
我々は「無茶ですよくありません」と制止しましたがかまわず話し始めました。
「この表はソビエトの軍事費です。
GNPの15%いやそれ以上を占めていますね。
一方アメリカの軍事費はGNPの6〜7%にすぎません。
その結果ソビエト経済はほとんど成長していません。
日本や西ドイツと比べると違いは歴然です。
狂った軍拡競争のために国民の金を盗んでいるようなものですよ」。
ゴルバチョフは「確かに説得力のある話だ」とその説明に納得して現実的な交渉を始めたのです。
一つ間違えばソビエト側を怒らせかねないシュルツの率直な意見が硬直した空気を解きほぐしました。
シュルツの指摘どおり当時ソビエト経済は悪化し物不足は深刻化していました。
核軍縮を実現し軍事費を減らさなければ財政破綻は避けられない状態でした。
ようやく米ソで合意を目指す具体的な協議がスタートしました。
しかし…。
多くの部分で両国の思惑が食い違い米ソの合意文書をまとめられないのです。
共同声明の発表を翌日に予定していた2日目の夜になっても結論は出ません。
我々には本当に新しい発想新しい選択肢が必要だったのです。
そんな時ある興味深い出来事が起こりました。
ソビエトとアメリカが交互に主催した晩餐会での事でした。
この日の夜アメリカ側宿舎にゴルバチョフ夫妻を招いての晩餐会が開かれました。
(グラスを合わせる音)くつろいだ雰囲気の中食事と会話が進みます。
そこに米ソが歩み寄るきっかけがありました。
晩餐会が終わる頃交渉に当たっていたアメリカの担当者がやって来てシュルツ国務長官にこう言ったんです。
「お互い言い争うばかりで何も合意できていません。
このままでは共同声明の準備ができません」。
そこでシュルツ国務長官はこう言いました。
「レーガン大統領この状況をどう思われますか?これは首脳レベルの協議なんですよ。
なのにただ話し合うばかりで何一つ決められません。
これだけのメンバーがわざわざ集まってただの一つもですよ」。
その時レーガンがある事を一緒にしようと言いだしました。
レーガン大統領はこんな提案をしたのです。
「じゃあ皆さん一緒にテーブルを拳で叩きましょう」。
私の近くにはピアノがあったので「そうしましょう」と言って私もピアノを叩きました。
「一緒にやりましょう」。
(テーブルを叩く音)「そうしましょう」。
(ピアノを叩く音)合意を目指す者同士何か一つでも歩調を合わせて前へ進もうという提案でした。
ゴルバチョフは「晩餐会が終わったら私が何とかする。
5分で片をつけるから」と言ったのです。
彼はソビエトの交渉担当者にこう言ったんでしょう。
「何のための首脳会談なんだ。
これでは駄目だ。
さっさとサインしよう!」。
そして米ソは…核軍縮を行う確固たる基本姿勢を確認し合ったのです。
(拍手)率直な意見をきっかけに晩餐会の場まで利用して米ソは懸命に交渉を続けていく下地を作りました。
米ソの関係を更に前進させようと1年足らずで次の首脳会談が開かれます。
今度は具体的な数字を挙げて核兵器の大幅な削減を目指しました。
話し合いは和やかに始まりました。
しかし当時アメリカが推進していたSDI戦略防衛構想を巡って米ソは激しくぶつかります。
SDI通称スターウォーズ計画はレーガン大統領自身が構想した新しい防衛システムでした。
ソビエトから核ミサイルが発射された場合宇宙の警戒衛星と地上基地が連携してその正確な位置を把握。
レーザーなどの兵器でミサイルを撃ち落とす仕組みです。
このSDI構想によって軍事的な均衡が崩れる事をソビエトは恐れました。
話し合いを進めるにはアメリカがSDIの開発を停止する事が絶対条件だと迫るゴルバチョフ。
しかしレーガンはSDIは防衛専用のシステムであり中止するつもりはないとかたくなに拒みます。
激しく議論を闘わせましたが一致点を見いだす事はできません。
レーガン大統領は私にこう言いました。
「SDIに賛成して下さい。
アメリカはこれからソビエトに食糧などさまざまな経済援助をするつもりです」。
私はこう答えました。
「小麦と核兵器は別問題です」。
それで終わりでした。
ゴルバチョフとレーガンは冷えきった表情で別れました。
決定的な米ソの決裂だと誰もがそう受け止めました。
しかし結果的にこの交渉の決裂が核削減につながったとホワイトハウス報道官だったフィッツウォーターは語ります。
このレイキャビクでの決裂によって核削減交渉の扉が開いたとも言えるのです。
一度の会談で全てうまくいくなんて外交ではありえません。
このあとは合意できる核削減の具体的な目標を最優先で話し合う事にしたのです。
翌年の…核兵器の削減が現実のものとなります。
核廃絶という大きな目標に向けてまず合意できる事を合意していったのです。
SDI構想などの問題は先送りにしました。
(拍手)こうして米ソは史上初めて核削減条約の締結にたどりつく事ができました。
INF中距離核戦力全廃条約の調印です。
(拍手)東西が相手の陣営に向けて配備していた射程距離500kmから5,500kmの中距離核ミサイルは全て撤去される事になりました。
そしてマルタでは米ソで冷戦終結宣言を行います。
ゴルバチョフにとって6度目の首脳会談でした。
長く敵だった相手とも会談を積み重ねて人間関係を構築。
合意できるところからまず合意する姿勢を貫きました。
そして米ソに協調をもたらしたのです。
アメリカとの信頼関係を築いたゴルバチョフ。
しかし冷戦終結に向けた本当の闘いはまだ始まったばかりでした。
きっかけは…
(歓声)戦後40年以上にわたって東西に分断されたヨーロッパ。
その状況を揺さぶる地殻変動が起きたのです。
冷戦時代激しく敵対していた西側の軍事同盟NATOと東側のワルシャワ条約機構。
その対立の最前線が東西に分断されたドイツでした。
西ドイツにはNATOの軍が配備され東側を牽制していました。
対する東ドイツでは主にソビエト軍で構成されるワルシャワ条約機構軍が西側を威嚇するように軍事演習を行いました。
ベルリンは壁を挟んで東西両陣営が対峙するまさに冷戦を象徴する場所でした。
その壁が崩壊したのです。
当時は50万のソビエト軍が東ヨーロッパにいました。
その中でもえりすぐりの精鋭部隊を東ドイツに配備していたのです。
この時我々はある決断をする分岐点に来たと考えたのです。
ゴルバチョフはベルリンでソビエト軍を動かさず武力衝突は起きませんでした。
そして時代は大きく動きだします。
壁崩壊の直後西ドイツのコール首相は東西ドイツの再統一を目指すと宣言しました。
(拍手)ドイツの人々の悲願ドイツ再統一は他のヨーロッパの国にとっては大きな問題でした。
(砲撃音)第二次世界大戦中ドイツは強大な軍事力でヨーロッパ全土を戦場にしました。
犠牲者はイギリスやフランスで数百万人。
最も被害が大きかったソビエトでは2,000万人にも及んだといわれています。
ドイツが再び1つになれば脅威になる。
その状況をゴルバチョフもひどく恐れていたと西ドイツの首相顧問だったテルチクは語ります。
コール首相が「ドイツ再統一の実現を目指す」と最初に宣言した時ゴルバチョフは極めてネガティブな反応を見せました。
ゴルバチョフは東西ドイツの再統一に強く反対したのです。
ドイツ統一に対する態度はソビエトのかつての指導者と同じで今すぐ解決できる問題ではないという立場を崩しませんでした。
イギリスもドイツ再統一に賛成していませんでした。
フランスのミッテラン大統領は迷っていました。
そしてこう言ったのです。
「我々はドイツの人々を敬愛してやまない。
だからドイツが2つの国に分かれたままでも受け入れられる」。
東西のドイツが統一し強大な1つのドイツになる事を西側も東側も望んでいませんでした。
ところがこの直後西側諸国の態度が急変します。
きっかけはベルリンで行ったアメリカベーカー国務長官の演説でした。
統一後もNATOに加盟していればドイツの独自の軍事行動を防げるとアメリカは考えました。
アメリカはドイツが再統一をするならNATOへの加盟が不可欠だと考えていました。
NATOが結成された時3つの目的がありました。
ソビエトの勢力を排除する事ドイツの勢力をそぐ事アメリカの影響力をヨーロッパに広げる事です。
過去の歴史からドイツが絶対にヨーロッパを支配しないようにしたい。
だからこそNATOが必要であると考えたのです。
アメリカの主張にイギリスやフランスなど西側諸国は同調します。
しかしこれはゴルバチョフにとって受け入れがたい提案でした。
第1に統一ドイツがNATOに加盟すると東ドイツを西側に渡してしまう事になるからです。
そして第2の理由はワルシャワ条約機構の大きな変化でした。
東ヨーロッパに配備したソビエト軍の大幅な削減をゴルバチョフが打ち出したからです。
東ヨーロッパに展開するソビエト軍は西側を牽制する一方身内であるワルシャワ条約の加盟国が社会主義体制から逸脱しないように圧力をかける役割を果たしていました。
しかしこれには莫大な軍事費が必要です。
ゴルバチョフは軍事費削減のためソビエト軍を縮小し東側諸国の安全保障を各国に任せる方針へと転換したのです。
東側諸国を縛ってきた枠組みが緩んだ結果ポーランドを皮切りに次々と民主化を求める運動が始まりました。
チャウシェスク大統領が長い間独裁体制を続けてきたルーマニアでも政変が起きます。
(銃撃音)政権は崩壊。
チャウシェスクは射殺されました。
ゴルバチョフにとっての問題は民主化の動きが東ヨーロッパで進んだ事でした。
チェコスロバキアで革命が起こりルーマニアのチャウシェスクは失脚しました。
ワルシャワ条約機構全体が揺らいでいたのです。
そしてゴルバチョフが統一ドイツのNATO加盟に反対するもう1つの理由はソビエト軍部の問題でした。
東ドイツまでNATOに組み込まれれば軍部にとって大きな脅威になるというゴルバチョフの懸念を聞いていました。
ゴルバチョフは統一ドイツのNATO加盟に激しく反対していました。
もしそんな事にでもなればソビエトの軍部が黙っていない。
そして彼の権力を軍部が奪うのではないかと恐れていたのです。
ゴルバチョフは統一ドイツがNATOに加盟しないよう支援してほしいとフランスに要請していました。
ドイツ統一を目指す西ドイツコール首相は強い反対の姿勢を示すゴルバチョフを説得するためソビエトに向かいました。
冷戦の対立の象徴だった東西ドイツ。
その統一を巡る交渉がここから本格的に始まります。
コールの説得に対してゴルバチョフは……とはねつけました。
しかしコール首相もここで引き下がるわけにはいきません。
経済支援を交渉のカードに使おうと考えます。
当時ソビエトの物不足は更に深刻さを増し国民は不満を募らせていました。
ゴルバチョフは経済改革を打ち出しましたが状況は悪化する一方でした。
経済支援を打ち出せば事態は変わるのではないか。
コールは水面下の交渉を行うため信頼を置く首相顧問テルチクをモスクワに送り込みました。
その頃私がゴルバチョフと極秘会談を行ったんです。
西ドイツがソビエトに対して50億マルクの借款を提供する。
そう申し出ました。
更に統一後のドイツとソビエトとのパートナーシップと経済協力の協定を結ぼうと提案したのです。
経済援助でゴルバチョフの譲歩を引き出そうとする西ドイツ。
しかし統一ドイツのNATO加盟についてゴルバチョフは最後まで明言を避けました。
ゴルバチョフは「我々は今からパートナーとなるのになぜNATOがいまだに必要なのか?」と尋ねました。
それに対してこう答えました。
「私たちは友人でありパートナーとなりますからNATOは必要なくなるかもしれません。
しかしドイツには国境を接した国々がある事を理解して下さい」。
そうした国々は過去の歴史からドイツに非常に悪い印象を持っていますが同じNATOにいればドイツが再び1つになっても安心だと思っています。
NATOもドイツ統一を後押しします。
NATOはワルシャワ条約機構を今後敵視しないという新しい方針を打ち出しました。
それは歴史的な転換でした。
ソビエトへの経済援助とNATOの方針転換。
できる限りの条件をそろえて西ドイツのコール首相はソビエトに乗り込みます。
統一ドイツのNATO加盟についてゴルバチョフに最終的な決断を迫るためです。
不退転の決意で乗り込んだコール首相をゴルバチョフはモスクワから別の場所へと誘いました。
向かった先はモスクワから南に1,400キロ。
ゴルバチョフの生まれ故郷であるスタブロポリ地方でした。
なぜあの場所だったのかというと目まぐるしく状況が変わる中で多少距離を置いた所で話をしたいと思ったからです。
環境は大切です。
我々はけんかではなく話し合いをするために集まるのですから。
まずドイツとの戦争の犠牲者が眠る墓地の慰霊碑を訪れました。
コール首相に過去の戦争の理解を深めてもらう事は意義深い事だと考えたからです。
ゴルバチョフが生まれ育った場所も第二次世界大戦ではナチス・ドイツによって大きな被害を受けました。
統一問題に結論を出す前にドイツが始めた戦争の責任を改めて考えてほしい。
そうした思いからゴルバチョフはコール首相をこの場所に案内したのです。
そして更に一行はコーカサス山地の奥深くへと向かいます。
この静かな山村アルヒーズ村をゴルバチョフは最終決断の舞台に選びました。
ここでなら落ち着いて腹を割った話ができると考えました。
私たちはあらゆる事を話し合いました。
ソビエトが抱える財政的な課題。
東ドイツに配備した軍を撤退させるとしたらどんな問題が起きるのか。
これから更に軍縮を進めるにはどうすればいいか。
さまざまなテーマで議論しました。
夜ゴルバチョフとコールはこの山荘で食事を共にします。
用意したのは豪華な晩餐ではなく素朴な地元料理。
ゴルバチョフが幼い頃から親しんできた串焼きでした。
コールとゴルバチョフは更に語り合います。
コールとゴルバチョフは少年時代の思い出を語り始めました。
その頃の2人はドイツとソビエトという敵同士だったのです。
ゴルバチョフのふるさとにドイツ軍が侵攻し彼と両親は非常につらい思いをしました。
一方コールはふるさとで爆撃を経験しました。
コールはゴルバチョフに強く訴えました。
「これからは平和を守らなくてはいけない。
我々はパートナーであり友人でなくてはいけない」。
ゴルバチョフとコールは夜更けまで話し込み再び戦争を起こさないという決意を確認し合いました。
翌朝。
統一ドイツのNATO加盟を認めるかどうか。
ゴルバチョフの決断をコールに伝える時がやってきました。
イエスか?それともノーか?固唾をのむ瞬間。
ゴルバチョフはそこで今でも忘れない発言をしました。
統一ドイツは完全な主権を持つと認めたのです。
その国がどの同盟に参加するのかそれとも参加しないのか。
それは全てドイツ自身が決めればいいと言ったのです。
統一ドイツがNATOに加盟してもソビエトは反対しない。
それがゴルバチョフの答えでした。
直後の記者会見。
会場にもゴルバチョフのメッセージが隠されていました。
記者会見には市民を何人か招待したんです。
その中には地区の代表であるゴルロフさんがいました。
ゴルロフさんはドイツとの戦争で片足を失った元軍人で地元の英雄でした。
集まったソビエトの退役軍人が一体どんな反応をするのか。
私はドキドキしながら状況を見守りました。
彼らはゴルバチョフとコールのもとに歩み寄ってこう言ったのです。
「ソビエトとドイツはこれから友人でなくてはならない」。
私は感動しました。
ソビエトに戦争を仕掛けた私たちドイツを友人だと言ってくれたのですから。
これは私たちが言わせたのではなく市民からの自発的な発言でした。
大切なのは人々が「統一したい」という希望を持っていた事です。
希望や期待がなければゴルバチョフもブッシュも何もできなかったはずです。
過去の戦争から目を背けず深く語り合ったゴルバチョフとコール。
2人の真剣な交渉が歴史を変えました。
統一ドイツのNATO加盟を認める歴史的決断。
そこに至る前に実はゴルバチョフはアメリカとも話し合いを進めていました。
その事を示す文書。
2002年に公開された…そこにはモスクワを訪れたアメリカのベーカー国務長官とゴルバチョフとの会話の内容が詳細に記録されていました。
ベーカーは言いました。
統一ドイツが加盟してもNATOは東方には拡大させないと明言したのです。
この発言に対するゴルバチョフの答えはこうでした。
ドイツ統一の実現までにはこうした水面下の交渉もありました。
(鐘の音と歓声)冷戦の東西対立の象徴だった2つのドイツが1つになりました。
ヨーロッパでの冷戦終結を決定づける歴史的な大転換でした。
ゴルバチョフは冷戦後のヨーロッパの体制作りに乗り出します。
ドイツ再統一から1か月後のパリ。
(拍手)ゴルバチョフの強い働きかけによって東西34か国の首脳が一堂に集まる全欧安保首脳会議が開かれました。
東西の首脳が一堂に集まった全欧安保首脳会議で冷戦後のヨーロッパの枠組みについて協議しました。
ドイツ統一という機運を利用してこれまで東西に分かれていた世界各国が相互に協力を進める事になったのです。
ゴルバチョフにはヨーロッパの東西分断を克服する1つの構想がありました。
それはソビエトや東西ヨーロッパを含めたヨーロッパ全域を統合し経済と安全保障の結び付きを深めるものでした。
構想だけでは家は建ちません。
問題は「ヨーロッパ共通の家」をどういう家にするかという事でした。
西側も東側も全て参加しなければ「ヨーロッパ共通の家」とは言えません。
全欧安保首脳会議はゴルバチョフの理想の実現に向けた第一歩でした。
西側の軍事同盟であるNATOと東側のワルシャワ条約機構。
そのどちらも含んだ東西が協調する枠組みで冷戦後の安全保障体制を築く事が「ヨーロッパ共通の家」への近道だと考えたのです。
しかしそのもくろみは幻と消えます。
ゴルバチョフの退任を求めるソビエトの人々。
行き詰まった経済についに国民の不満が爆発しました。
ゴルバチョフは休暇先のクリミアで軟禁されました。
クーデターは僅か3日間で失敗に終わりゴルバチョフはモスクワに戻ります。
(拍手)しかしその権威は既に失墜していました。
(笑いと拍手)この4か月後ソビエト連邦は崩壊。
ゴルバチョフは辞任します。
東西協調による新たな世界をつくる構想は頓挫しました。
そしてその事が冷戦後の世界に微妙な影を落とす事になるのです。
冷戦終結は順調に進みましたがこれは東西首脳の「交渉」のたまものでした。
しかし人々はこれを西側の勝利の結果だと考えるようになったのです。
唯一の超大国となったアメリカは望む事は何でもできると思うようになりました。
そしてアメリカの高官による「NATOを1インチたりとも東方には拡大させない」という発言も忘れ去られていきました。
東の軍事同盟ワルシャワ条約機構が解体した一方で西のNATOは存続。
旧東側諸国の一部を取り込んで東へと勢力を拡大していったのです。
これに強く反発したのが2000年にロシア大統領の座に就いたプーチンでした。
プーチンはNATOの東方拡大はアメリカの約束違反だと主張。
アメリカの一極支配を強く非難する演説を行いました。
しかしロシアとアメリカは平行線をたどります。
プーチン大統領がアメリカが約束を破ったというのは大げさです。
アメリカの方針変更は残念な事だと個人的には思います。
しかしうそをついたとか約束を破ったと言われる筋合いのものではありません。
かつてソビエトに話した事には法的拘束力はありません。
確かに1つの方針ではありましたが明確な約束ではありませんでした。
NATO陣営はその後も東への圧力を強めていきます。
ロシアとヨーロッパの間で揺れ動いてきたウクライナも2014年NATO加盟を目指す事を決めました。
実現すればウクライナと国境を接するロシアはNATOの脅威にさらされます。
ロシアは強く反発しました。
(砲撃音)ウクライナ危機が世界を巻き込む対立に発展した背景には冷戦終結後にも解消されなかったNATOの問題があったのです。
アメリカとロシアの対立はますます深刻化しています。
新しい境界線が生まれている事を私は懸念しています。
考え方の違いが生み出す壁です。
そうした壁を作ってはいけません。
私は今東西ドイツの統一をきっかけに世界が協力し合ったあの時代に学ぶべきだと考えています。
我々が進んできた道それは壁をなくす事だったはずです。
(ファンファーレ)ウクライナ危機をきっかけに新たに生まれた東西対立。
アメリカオバマ大統領とロシアのプーチン大統領はこの1年半以上一度も公式の首脳会談を行っていません。
今年2月対立を乗り越えようとする試みが本格化します。
ウクライナ東部での停戦を巡る首脳会談です。
交渉を仲介したのはドイツとフランス。
決裂を回避して停戦で合意しましたが話し合いは16時間にも及びました。
しかし停戦がいつまで続くのか定かではありません。
ウクライナ東部がどうなるのかもまだ決まっていません。
(シュプレヒコール)世界を巻き込むウクライナ危機。
最終的な解決に向けて首脳たちの真剣な交渉による前進が求められています。
2015/03/14(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「冷戦終結 首脳たちの交渉〜ゴルバチョフが語る舞台裏〜」[字]
新たな東西対立を起こしたウクライナ危機。元ソ連大統領ゴルバチョフは、首脳たちの交渉で冷戦を終結させた時代を見直してほしいと語る。どのような交渉で対立終わらせた?
詳細情報
番組内容
世界を巻き込む東西対立を引き起こしたウクライナ危機。予断を許さない状況が続いている。この危機が起きる前に、プーチン大統領とオバマ大統領に警告の手紙を出した人物がいた。元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフである。ゴルバチョフは、東西の首脳たちが交渉によって冷戦を終結へと導いた時代を、今こそ見つめ直してほしいと語る。冷戦の対立を終わらせた首脳たちの交渉。その舞台裏に迫りながら危機打開の手がかりを探る。
出演者
【語り】濱中博久
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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