Eテレセレクション・アーカイブス「ETV特集 細野晴臣 音楽の軌跡」 2015.03.15


(原田知世)震災から1か月。
・「Smile,thoughyourheartisaching」・「Smile,eventhoughit’sbreaking」日本の音楽シーンの先頭を走り続けた音楽家細野晴臣さんが震災後初めてステージに立ちました。
・「Smileandmaybetomorrow」・「you’llseethesuncomeshiningthroughforyou」僕は外にいたんです。
ちょうど今日も入ってますけど「ETV」のカメラが回ってて原田知世さんと一緒に白金の自然教育公園っていう所にいてちょうどそこに入ろうという寸前でしたね。
ここが自然公園だけど。
僕が子供の頃…。
ええええ。
3月11日私は細野さんに幼い頃の音楽体験を語ってもらおうとしていました。
(男性)建物の外に出て下さい。
撮影中に突然襲った地震。
経験した事がない大きな揺れでした。
怖いよ。
大丈夫かな?みんな。
地震を経た今ミュージシャンは生き方が問われていると細野さんは感じています。
細野さんは63歳。
40年以上にわたって新しい音楽を生み出し続けてきました。
1970年ロックのサウンドに初めてオリジナルの日本語詞を乗せ音楽シーンに衝撃を与えたバンド「はっぴいえんど」を結成しました。
細野さんがユーミンと共に作り上げたサウンドは「ニューミュージック」という新しいジャンルを生み出します。
誰も聴いた事がなかったテクノポップ。
コンピューターを大胆に導入し世界へ進出しました。
その後もアンビエントワールドミュージックエレクトロニカ…。
決して同じ事を繰り返さず音楽で時代を導いてきました。
そして今。
終戦の2年後に生まれた細野さんは自分と音楽を見つめ直しています。
そんな細野さんが音楽と人生を若い世代のミュージシャンと語り合いました。
細野晴臣さん63歳。
時代の先端を音楽で切り開いてきた彼の軌跡をたどり今何を考えどう音楽と向き合おうとしているのか震災からの2か月を追いました。
桜が満開になった4月10日。
東日本大震災から1か月がたち東京は少しずつ日常を取り戻していました。
細野さんはこの日震災後初めてのライブの準備をしていました。
節電が呼びかけられる中ライブは徹底した省電力で行われました。
楽器もできるだけ電気を使わないアコースティックな編成。
照明も極力抑えロウソクの火がともされました。
楽器を触るのも自分で歌うのも震災以来1か月ぶり。
リハーサルで呼吸を整えていきます。
いつもの気持ちでやれればなと思うんですけどやっぱりいつもの気持ちにはなれなくてそういう話をいっぱいしたいなっていう…みんなで。
震災後細野さんがどんな言葉を発しどんな音楽を奏でるのか。
たくさんの人が集まりました。
(拍手)札幌から来てたりするでしょ。
大丈夫だった?札幌は大丈夫?震災の日に何をしていたのか。
そしてどう感じたのか。
ステージでみんなに聞き始めます。
どうですか?なんかね音楽やってて何の疑いもなかったんですよ。
「あれ?」って。
初めてですね。
地震で。
なんかねすごいむなしくなっちゃったんです。
そして細野さんは自分の事を話し始めました。
小学校の時にアメリカの水爆実験でビキニ環礁っていう所ですよ。
すばらしい海ですよ。
そこで水爆実験やってそれが拡散したんですよね。
放射能が。
ちっちゃい頃遊んでるとお母さんたちが駆けてきて黒い雨が降ると。
ストロンチウム90が降るよと。
放射線がいっぱい東京にも漂ってたわけで。
そういう事がこれからずっと続くんでミュージシャンとしてどうするかと。
え〜…。
この日は結局2曲しか歌いませんでした。
・「Treatmelikeafool,Treatmemeanandcruel,」・「Butloveme.」・「Wringmyfaithfulheart,」・「Tearitallapart,」・「Butloveme.」ミュージシャン岸田繁さん35歳。
同じ音楽家として細野さんを尊敬しています。
岸田さん率いるバンド「くるり」は京都出身。
繊細な歌詞と曲作りで高い評価を受けています。
細野さんも震災のあと若いミュージシャンと話がしたいと考えていました。
京都もちょっとだけ揺れたみたいなんですけど気付いてなくって最初にやっぱNHKのニュース…。
あの画面がね。
あれを見て…。
まずはちょっと自分の中にあるものを整理をしないとあかんなと思って。
僕音楽しかやってないから音楽やってる理由みたいなもんとかそんなに考えてねふだんやらないですから。
やっぱり僕も音楽が聴けなくなってやれなくなってうん…結構いろんな事考えて1か月ぐらい過ぎていきました。
どういう感じやったんですか?とにかく2月に自分のソロのマスタリングが完成してね4月20日に出るって決まってるわけだ。
アルバムが。
その間にこういう事があったんで出るのは延期になるのかなと思ったらなんないわけでね。
こんな時に出るんだという戸惑いがすごくあってねそういう時にやっぱり考えちゃうわけだよね。
同じように自分の音楽のやってる意味とか無力感とかね。
だから出てみんなが聴く時の怖さといったらないね。
そういうのは。
自分のこのなんだろう…自分のまんまが出ちゃうっていう感じはしてたんで。
40年以上自分の音楽を追求してきた細野さん。
その人生でどんな音楽に出会ってきたのでしょうか。
細野さんの音楽の始まりっていうか…。
この日地震に遭う前細野さんは私に子供の頃聴いた音楽の話をしてくれていました。
街には「お富さん」。
床屋さんいつもラジオかかってるんでみんな歌ってたね。
小学生で。
「死んだ筈…」。
・「粋な黒塀の見越しの松に」意味が分からず。
「死んだ筈だよお富さん」ですよね?そうそう。
すごい流行った。
不思議な。
終戦から2年後細野晴臣さんは東京・港区白金に生まれました。
育ったのはまだ焼け野原が残る街でした。
急激に入ってくるアメリカ文化を吸収し細野少年は成長していきます。
とりわけ夢中になったのはアメリカのポップスカントリーそしてロックでした。
ネガティブに言えば植えつけられた音楽だしでもそれはすごくすばらしいものだし面白かったから吸収したわけで嫌だったら嫌だって拒否しますから。
自分の中に血になり肉になりっていうかおいしい果物を食べたような。
毒かもしれないけどおいしい果実を食べたような。
立教大学を卒業した細野さんは「エイプリル・フール」でプロデビューします。
オリジナル曲はアメリカの最先端を意識したサウンド。
歌詞も英語でした。
しかしたった1年で解散。
細野さんは新しい音楽を模索します。
そうか。
自分たちもルーツを引っ張り出してこないと同じようにいいものが出来ないんだという事を教えられて「はっぴいえんど」でやりだしたわけです。
翌年細野さんが結成したのが「はっぴいえんど」。
このバンドが日本の音楽シーンに衝撃を与えます。
小山田圭吾さん42歳。
「はっぴいえんど」の音楽を海外に紹介しました。
「Cornelius」として活動する小山田さんは先鋭的な音楽が世界的な評価を受けています。
最近はYMOのライブにギターで参加するなど21歳の年の差を超えて細野さんが才能に注目しているミュージシャンです。
最初はやっぱ多分YMOなんですよね。
だろうね。
そこまで僕はのめり込んで聴いてはいなかったですけど自分で音楽やり始めて二十歳越えたぐらいから遡って細野さんのソロとか含めてはっぴいえんどとか。
やっぱ細野さんの年代ぐらいからそういうポップミュージックとか…。
ロックね。
そういうのって始まってるじゃないですか。
細野さんの前にあんまりこう…歴史がないというか。
僕の前はもう戦争だもん。
そうですよね。
だからミッキー・カーチスさんとかムッシュ。
その2人が先輩。
そうですよね。
ロックなんて日本で言われてきて…大体同い年なんだよロックが僕と。
還暦はもうとっくに越えてるっていう。
今ロックなんて言う人がいないのかな。
どうなんですかね。
ロックにこだわってる人ってやっぱり僕の世代なんじゃない。
「ロック」って日常的にあんまり使わないでしょ?言葉。
使いますよ。
使う?そう?・「お正月と云えば炬燵を囲んで」はっぴいえんどで細野さんはロックを日本語で表現しようという挑戦を始めます。
文学青年だったドラマーの松本隆さんに日本語で作詞をさせました。
その言葉の使い方は斬新でした。
(松本)「お正月」「炬燵」「歌留多」みたいなそれまでの長髪でヒッピーみたいな人たちからしたら全然なんか…その人たちが目が点になるような詞を書いたから。
それでこれが日本語のロックって言ったもんでおかしいとか変だとか笑われたんだけど。
はっぴいえんどが歌詞で描いたのはオリンピック以前の東京の街。
細野さんたちが少年時代に見た原風景でした。
はっぴいえんどの音楽はその後の日本のロックシーンに決定的な影響を与える事になります。
しかし当時は大衆的な大ヒットに結び付かず僅か3年で解散します。
聴く人に言わせると「言葉は分かるけど音楽が…」なんて言われて「そうか音楽は通じないんだ」と思って。
最後のラストアルバムでアメリカへ行った時に「音楽は分かる。
でも言葉が分からない」って言われてあっ僕たち居る場所がないなと。
今…今というかここ10年ぐらいずっと自分の中で音楽的なテーマになってる事があってどうしても日本語で歌うからリズムとつじつまの合わせ方…。
ああその話ね。
岸田さんが作詞し歌うくるりは日本語でロックを歌う事にこだわったバンドです。
はっぴいえんどと同様に文学的な歌詞が高い評価を受けています。
日本語で歌ってらっしゃるものも英語で歌ってらっしゃるものもああ細野さんやなって思う感じがあって。
細野さんとアメリカの音楽の絶対的な壁みたいなものとどう向き合ってはんのかなっていう…。
当時は聴くものっていうと日本のものかそういうアメリカで作られたものか。
子供だからどうしても面白い方にいっちゃうから自分で聴いてたのはそういうブギウギだったり映画音楽だったり。
それを聴いてきて自分で困っちゃったなっていうのがずっと続いてて。
はっぴいえんどから。
ブルースが好きだし。
でもブルースって言葉の韻で出来てるようなところがある。
「hoochiecoocie」ですからね。
そう。
日本語で歌わなきゃと思うとノレないから。
それを日本語に置き換えるとブルースっていう意味がもう無いなと。
そうすると日本の独自の音楽にならざるをえないだろうし。
つまり何か作るたんびにいつもこうアメリカとの折り合いつけながらやってたのね今まで。
でももう…もういいかと今は思ってて。
これから先のアメリカを見てるわけじゃないし。
そういう意味じゃアメリカの幻みたいなものを僕はずっと幻にさいなまれてるっていうか。
楽しい幻想だけど。
そういう体験が世代が違うという事だろうから希薄だという事なんだろうからね岸田君は。
僕の父親が今67なんですけど。
近いわ。
お父さんに近いわ。
はっぴいえんど解散後細野さんは初めてのソロアルバムを発表します。
26歳でした。
しかし雇われのスタジオミュージシャンとして生計を立てる日々が続いていました。
そんな細野さんの前に一人の天才少女が現れます。
ユーミンのデビューを支えたのが細野さん率いる演奏家集団「キャラメル・ママ」でした。
アレンジを依頼された細野さんは演奏技術を尽くして当時の最先端洗練されたシティポップスを生み出します。
全くない音楽だったと思います。
それは私の作品や声っていうだけじゃなくてほんとにサウンドによるところが大きかったですね。
細野さんの多分人間性にもつながるかもしれないけれど独特の浮遊感があると思います。
ユーミンの歌と細野さんたちの洗練されたサウンドは当時まだ歌謡曲やフォークが主流だった音楽界に「ニューミュージック」という新しいジャンルを作ります。
ユーミンはスーパースターへの階段を上っていきました。
70年代後半細野さんはロックともニューミュージックとも全く違う音楽をやり始めます。
細野さんが独自に生み出したエキゾチック・サウンド。
無国籍で新しい音楽でした。
しかし当時主流となっていたニューミュージックに比べて注目を集める事はありませんでした。
気が付けば30歳になっていました。
何かやるには成功させないと続けられないしじゃどっちかだろっていう2つの道の真ん中に立ってたんですね。
だからなんか賭けをしたっていう事もあるかな。
サイコロをふったみたいな。
・「TOKIOTOKIO」YMO。
細野さんが追いかけてきたエキゾチック・サウンドをコンピューターと組み合わせる。
その衝動は全く新しいテクノポップを生みました。
細野さんのYMO構想。
メンバーはこの2人でした。
細野さんは新しい事にすごいアンテナが尖ってる人だったんでそこに教授みたいな電子ミュージックというか当時のね現代音楽も含めてそういう音楽へのパイオニアそれから僕みたいなポップミュージック好きみたいな3人が集まったのは細野さんの嗅覚だったんじゃないかなって気もしますけどね。
雲の上の存在でね。
たまに何度か演奏した事がありますけどこっちも緊張しちゃってね。
というような存在でしたね。
一応ジャンル分けするとクラシックでもないし現代音楽でもないしジャズでもないし日本のロックかポップスというカテゴリーに入るんですけどその中にいて僕が勉強してきたような近代音楽とか現代音楽とかそういうものをこの人知ってるんじゃないかな。
結成の翌年YMOはいきなりワールドツアーに打って出ます。
イギリスフランスアメリカ。
YMOが作り出すテクノポップは世界を驚かせます。
新しい音楽に敏感な海外の若者たちを熱狂させました。
そして人気は日本に逆輸入。
ワールドツアーから戻る頃には日本でも空前のYMOブームが起きていました。
「この夏のテクノポリス・ファッションはこれしかない」。
「高橋幸宏デザインのYMOシャツ思い切ってプレゼント」。
・「君に胸キュン」YMOの人気は頂点へ。
80年代テクノポップは時代の音になりました。
そして歌謡曲の作曲家としてもオファーが殺到します。
・「気をつけて」トップアイドルたちに曲を提供。
・「ガラスの林檎たち」数々のナンバーワンヒットを飛ばします。
デビューして10年。
「新しい音楽を作りたい」。
細野さんの衝動から生まれた音楽がついにたくさんの人の心を捉えました。
しかし…。
(拍手と歓声)人気絶頂の中突然の散開。
惜しまれながら細野さんは5年間の活動にピリオドを打ちます。
それで嫌になっちゃったんですよ。
結果はね。
(拍手と歓声)細野さんキャリアも長いしいろんな音楽やってらっしゃるじゃないですか。
やり過ぎちゃった。
僕「TimeOut」かな何か雑誌で「外国の人に聴かせたい日本の音楽」っていうのを5曲選んでくれって言われてそれで「風をあつめて」を選ばせてもらったんですけど。
実はねニューヨークだったかな…。
20代かなあ4〜5人いたんだけど兄弟の2人が僕に声かけてきて。
いきさつは忘れちゃったけど「風をあつめて」を歌ってくれた。
すごいですね。
だから「あれ?」って思う事あるよ。
はっぴいえんどもねたかだか数年やっただけで解散してもう忘れちゃうわけで。
次自分のアルバムどうしようかとかね。
で何十年かたったら追っかけてくるでしょ。
「えっ!?」と思ったんだよ最初の頃。
はっぴいえんどが追っかけてきたよと思って。
はっぴいえんどだけじゃなくてYMOも解散したはずなの。
でも十何年か後に再結成みたいなアルバム作ってそこでやっと終わったと思ったの。
そしたら今もやってるの。
うん。
何で?何でなんだろう?追っかけてくるっていうかやった事が消えない。
だからこそあんまり考えたくないっていう。
「フリッパーズ・ギター」の時はいくつだったの?デビューしたのが二十歳です。
じゃあもうYMOの後期だね。
もうないですねYMOは。
あっないか。
細野さんがアンビエントとかにいくぐらいじゃないですか?そうですね引きこもりですね。
引きこもり時代の。
YMOを終わらせた細野さんは40歳を前に世の中から距離を置き始めます。
商業主義の音楽に疑問を感じ始めていました。
(取材者)違和感?ええ。
要するに土地を売ったり買ったり転がしてもうけるっていうような人たちにすごく僕は違和感を感じてて。
それまで周囲にいた人たちから離れた細野さんは日本の霊地を巡る旅に出ます。
誘ったのは人類学者の中沢新一さんでした。
このままいったら戦後突き進んできた日本がどんどん自分の足場を突き崩されて日本人そのものがこれから先地に足を着けて歩けなくなっちゃうんじゃないかっていうぐらいの恐怖感が2人にあったのね。
それであの旅をやったんだけど。
(鐘の音)いわば巡礼の旅。
伊勢神宮そして富士山。
スピリチュアルな旅の中でもう一度自分の心の奥を見つめ直した細野さんに新しい音楽への衝動が芽生えます。
たどりついたのはそれまでとは全く違う音楽「アンビエント」。
歌詞もメロディーも無い。
刺激的なイントロも盛り上がるサビも無い。
ただ抽象的な音の響きだけが繰り返し続く静かで穏やかな音楽。
僕の感覚では海の上をラッコのようにこうやって漂ってる感じですね。
そういう時の響き脳内の響き心の響きっていうか。
だから他の事は全部陸地の騒ぎに聞こえてるんですよ。
遠い陸地で何か騒いでるっていう。
関係ねえなと。
一人スタジオに籠もり新しい音の響きに没入していきます。
しかしそのころ世界中で同時多発的に同じ思いでアンビエント音楽を作る人々が存在していました。
21世紀に入って細野さんはYMOのメンバーと再び活動を始めます。

(「RYDEEN」)アンビエントの時代を経てその音も変化しています。
自分たちが一番進んでるんだとかね。
それから今までそれまで培ってきたいろんなスタイルとかテクニックとかっていうものを一旦捨てて全く新しい音楽をやるんだっていう気負いっていうのかな。
そういうのとても強かったわけですね当然ね。
それだから前に進めたわけですけども。
だから別に今はもう「テクノ」である必要もないし「何々」という看板はもう全部なくなってるんでね肩の力が抜けてるので持ってるもの全部引き出しを出せる状態。
同じ所にいるようで上から見ると同じだけど横から見ると螺旋なんで違う所にいるんですけど2次元的に見ると同じ所にいたりするっていう。

(「Smile」)去年11月細野さんは新しいアルバムの制作に取りかかっていました。
・「ダラララ…」大切にしたのは人が奏でる生の楽器と声。
全曲自分で歌っています。
・「ララララ…」全ての生楽器の響きに特にこだわりました。
「南風」…「ふぇ〜かじ」って言ってしまう。
面白かったけど。
細野さんの声に重ねるコーラス。
さまざまな歌手が呼び集められました。
・「吹きすさぶ南風」・「Com’oCom’oKimonaGirl」自分で作ったメロディー。
細野さんが生まれる以前のアメリカ音楽のカバー。
63歳の細野さんが今歌いたい歌を12曲集めました。
全部生でやってるのはどうなの?大幅に昔に戻っちゃった感じしない?ああ〜。
確かにサウンド自体はビンテージですけど響きはやっぱすごい新しいしいろんな時代の細野さんっていうのがその中にいろいろ入ってるのは分かるんですけどやっぱ今の細野さんだなっていう感じがすごくしましたけどね。
そうしたかったしね。
例えばカバーやってるけどなぞってるわけじゃなくて知らない音楽を自分の感覚に取り入れたいっていうね。
なんかこう…自分では分からない音楽があるわけだからそれをどうやったらできるようになるんだろうっていう事が面白いんだよね。
だから同じ事をやれっていうのが一番難しいしできないね。
大体できない。
でもさやる事はいっぱいあるでしょ。
やりたい事。
どうなの?まあありますけどね。
あるでしょ。
僕もねいっぱいあったの。
小山田君の年齢の頃からまあ最近までは。
でもやりたい事の1割ぐらいしかできないんだよね。
い〜っぱいあったんだよやりたい事が。
でも自分でできる事ってその中の1割…もうちょっとあるかな3割ぐらい。
3割3分3厘ぐらいか。
だからまだ時間があるからどんどんやってほしいなと思うけどね。
遅いよソロ。
はい。
人の事言えないけどさ。
アルバム制作作業を全て終えていたこの日東日本大震災が起こりました。
怖いよ。
(鳥のさえずり)地震から1か月の間音楽に全く触れられなかったという細野さん。
3月に予定されていたライブは中止しこの日に延期していました。
ひと月ぶりに会ってお話を聞きました。
(取材者)細野さんはこの1か月ぐらいどんな事を考えてました?いやもう日本地図広げてどこに原発があるかとかね。
そんな事ばっかりですよ毎日。
(取材者)恐怖?恐怖っていうかもうちゃんと自衛してかないと生きていけないんじゃないのって思ってねこの国で。
そのくらいせっぱ詰まって…。
っていうのはまだ終わってないからね。
だからずっと考え続けるっていうか基本的な生き方を決めなきゃいけないっていうそこまで考えてますねうん。
(取材者)それは音楽家としての細野さんみたいなところ?まあそうですねうん。
音楽家はどうやって暮らしていけばいいんだろうっていうね。
震災で全てが変わってしまった。
その戸惑いを細野さんは客席に語りかけました。
今もちょっと思考停止状態。
自分も含めて。
だっていい天気で街歩くと夢だったのかなと思っちゃうでしょ。
でもねやっぱり忘れられないねあの揺れは。
なんかこう傷を負ってるっていうかね。
忘れない方がいいと思うんで。
これからの行動に結び付いてくるんで。
何がどうなるか分かんないですけどいろんな行動の変化が多分みんなにも訪れると思うんでそれがいい方向に行くようにとにかく祈るしかないという今。
じゃあもう今日は「ラッキースター」やめて「Smile」で終わろう。
最後に歌ったのはチャーリー・チャップリンの「Smile」。
1930年代大恐慌のアメリカに希望を与えた曲です。
「震災以降」っていう言い方って便利やからそういう言い方してしまうけど幸せみたいな幸福みたいなもんっていうのは一体何なのか?みたいなテーマがあったらそれは結構当たり前の事やなっていうふうに気付き始めてる人も多いなと思って。
僕もそうで。
僕もそうだね。
なんか普通の事をこれほど意識した時期はないね。
普通でいたいっていう事とか。
まあでもそれは今回というかだんだん分かってきた事は一番僕が好きな時間っていうのは自分の部屋で汚いソファーに座ってね汚いギター持ってそれで爪弾いて曲を作ってる時が一番の幸せなんだろうね。
それをなくさないようにレコーディングしてたの。
2015/03/15(日) 00:30〜01:30
NHKEテレ1大阪
Eテレセレクション・アーカイブス「ETV特集 細野晴臣 音楽の軌跡」[字]

NHKホームページ「お願い!編集長」へのリクエストに応え、ETV特集「細野晴臣 音楽の軌跡」(2011年5月放送)をアンコール放送する。

詳細情報
番組内容
番組撮影中に東日本大震災の激しい揺れに遭遇した音楽家・細野晴臣さん。ミュージシャンとして、今そしてこれから音楽にどう向き合っていけばいいのか…細野さんの苦悩が始まった。1947年生まれの細野さんは、はっぴいえんど、松任谷由実さん、YMOなどを通じて日本の音楽界の先頭を走ってきた。その軌跡と今回の震災をめぐって若手ミュージシャンと対話を行い、音楽家の苦悩と未来への創造を考える。
出演者
【出演】細野晴臣,坂本龍一,高橋幸宏,松任谷由実,中沢新一,小山田圭吾,岸田繁,【語り】原田知世

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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