日曜美術館「祈りのまなざし イコン画家・山下りんと東北」 2015.03.15


岩手県山田町。
かつてここに130年以上の歴史を持つ教会がありました。
そうですね。
4年前の東日本大震災。
町は高さ10mに及ぶ津波に襲われました。
更にその夜火災が発生。
炎に包まれた教会の中に長年受け継がれてきた一枚の絵がありました。
こういう感じの。
(取材者)これは?
(白土)マリア様の…うん。
幼子キリストを抱く聖母マリア。
今では小さな写真でしか見る事はできません。
あの…俺たちはね。
明治時代「イコン」と呼ばれる宗教画に生涯をささげた女性がいます。
山下りん。
日本人最初のイコン画家として300枚ものイコンを描きました。
イコンは教会の祭壇や壁に飾られます。
人々はその前に立ち静かに祈ります。
描かれるのは聖人の姿や聖書の物語。
りんはイコンの伝統に連なりながら日本の人々の心に寄り添う絵を残しました。
震災で東北に建つ多くの教会が被害に遭いました。
その時りんのイコンが大きな支えになったといいます。
一番最初見た時にね「え〜すごい!」。
なんかこう…そういう感じがしました。
慈しむようなまなざしでその絵は人々と共に時を刻んできました。
山下りんのイコンと東北。
知られざる物語です。
「日曜美術館」です。
今日は生涯イコンを描き続けた画家山下りんをご紹介します。
この作品が山下りんの代表作で現在はロシアのエルミタージュ美術館に収められているものです。
皇帝ニコライ2世が皇太子時代に来日した際に献上されたものだそうです。
新さんいかがですか?はいあの…宗教画の多くは光を強調するためにも陰を生んで陰影が強い印象があるんですけれどもこのイコンは全てに光が当たって陰が少ないですよね。
なのでとてもあたたかさを感じますね。
こうした山下りんのイコンというのはロシアから伝わったキリスト教であるハリストス正教会という所に飾られているんですがその正教会は全国でもほぼ4割近くが東北地方にあります。
そうした山下りんの作品がなぜ人々の心を支える力を持ったのでしょうか。
岩手県大船渡市。
4年前の東日本大震災で大きな被害を受けました。
復興に向けた歩みが続いています。
2月この地を訪れた人がいます。
大船渡に受け継がれてきた山下りんのイコンに会いにやって来ました。
向かったのは明治18年に創立された…130年にわたって人々の信仰を集めてきました。
あぁ〜。
驚きましたね。
信者が祈りをささげる聖堂。
その壁に山下りんのイコンが飾られています。
こちらに一歩踏み出そうとしているのは大天使ミハイル。
神からの聖なる言葉を人々に伝え魂を守護する役割を担っています。
鮮やかな青の衣を身にまとい世界を表す球を手にするのは救い主ハリストス。
「ハリストス」とはギリシャ語でキリストを表す言葉です。
(姜)口元からそれから目の辺りもそうですし西洋人のように凹凸が激しいというよりは少し何か…
(姜)決して近寄り難い厳かさというよりはなんかとても親しみのあるそれでいて何か敬虔な気持ちになるようなそういうイコンですね。
山下りんのイコンがこの教会にやって来たのは明治42年。
結婚や新しい家族の誕生…。
りんのイコンは人々の祈りに寄り添ってきました。
その長い歴史の中でも試練となったのが4年前の震災。
教会のある地域も大きな被害を受けました。
大船渡のあちらの町の方で亡くなっていて。
すぐに遺体が見つかるわけではなくてお一人の場合ですとかなり最後まで分かんなかったんですね。
やはり一人が大変だとみんなでカバーして…。
「頑張ろう」までいかないけれど…地震のあと信者たちはこの教会に集まりろうそくのともし火のもとで夜を明かしました。
その時心の支えとなったのがイコンでした。
こういうストーブでしたから…いまだに忘れられないですねその事は。
この中がどよんと見えました。
どんな時も心に寄り添い安らぎを与えたイコン。
山下りんとはどんな人物だったのでしょうか。
山下りんは江戸時代の末常陸国の武士の家に生まれました。
履歴の冒頭に「余生来画を好む」と書くほど絵を描く事が大好きな少女でした。
浮世絵や日本画など修業先を転々とし二十歳の時明治政府が設立した西洋美術を教える学校に入学。
女子の1期生でした。
名画の模写や石膏デッサン写生など西洋画の基礎を徹底的に学びます。
文明開化の時代にもたらされた新しい絵画との出会い。
りんはこう書き記しています。
女性が画家になる事は難しかった時代。
「洋画に人生を懸けたい」と思いを募らせていたりんに転機が訪れます。
友人に連れられ訪れた教会でロシアから伝道のためにやって来たニコライと出会ったのです。
りんはニコライから洗礼を受け入信しました。
ニコライがりんに贈った写真の裏にはメッセージが記されています。
「あなたがイコンを学び日本の役に立って下さる事を心から願います」。
ニコライがりんにイコン画家になる事を期待した背景には当時の布教を巡る状況がありました。
正教会の日本への布教は幕末函館にロシア領事館付属の教会が設けられた事から始まりました。
布教に大きな役割を担ったのが東北の藩士たち。
この地で戊辰戦争に敗れ教会で洗礼を受けたのです。
彼らは郷里に戻ると熱心に布教を行いました。
当時の正教会の場所を記した地図。
敗北から歩み始めた人々にとって新しい教えは一筋の光でした。
正教会は東北の地に目覚ましい勢いで広がっていきます。
人々は山から木を切り出し力を合わせて教会を造りました。
教会が出来ると礼拝に欠かせないのがイコン。
当初はロシアのイコンが飾られましたが信者が急増する中日本人の描き手が求められるようになったのです。
りんはニコライの後押しでロシアに留学。
やがてイコンを描く画家となります。
(犬のほえ声)秋田県北部の大館市曲田地区。
ここにりんがイコン画家として歩み始めた頃の作品が残されています。
「曲田の聖堂」と呼ばれる…明治25年に建てられた木造としては全国で最も古い教会の一つです。
聖堂には全て地元の秋田杉が使われています。
その奥にりんが描いたイコン。
教会が建てられた当時のままに飾られています。
正面の扉には神の子を宿した事を告げる大天使ガブリエルとそのお告げに耳を傾けるマリア。
ふくよかな体つき。
穏やかなまなざし。
どこか親しみやすい天使の姿です。
キリストの誕生を描いた…新しい命の誕生を祝福するかのようにあたたかな光が満ちています。
訪れる人々を安らぎにいざなう祈りの空間。
しかしかつてこの地域には厳しい現実がありました。
教会に伝わる古い冊子。
明治の初めこの地を訪れたニコライが信者たちに伝えた言葉が記されています。
度々襲う飢きん。
生きていくためには幼い我が子を捨てなければならないほどの暮らし。
長年この教会を守ってきた釜谷幹雄さんはそうした日々の中でりんのイコンは人々の心に深く届いたのではないかと言います。
さあ本日のゲストは姜尚中さんです。
どうも。
よろしくお願いしますというか「お帰りなさいませ」と言った方がよいかもしれませんがどうぞよろしくお願いします。
(井浦姜)よろしくお願いします。
実際訪れてどのような事を肌で感じられましたか?山下りんが描いたものはやっぱ「たおやか」というか。
決してそれは弱々しいという意味ではなくてやわらかさがあって。
そして表情を見てもねどちらかというとどこかほっとするような。
そういうものがやっぱり苦しい時とか飢きんとか悲しい時とかいろんな時に何かこう慰めてくれる。
ですからこのイコンというのはただ私たちが観賞するという対象ではなくて自分の生活のふるさとになってるんですね。
それがなくなると自分の生活自体がなくなっていくようなそういうイメージを持ちましたね。
今回は教会などだけではなくて実際に明治代々続く信者の方のお宅にも行かれたそうですね。
私もね初めてですよ。
ご家庭に入ったらねこんな感じでねご家庭の中にこんなにイコンがいっぱいあって。
光がこう上からですね。
例えば生まれてからその時に例えば祝福のために。
それから例えば小学校に通う時ね入学式。
もうずっとそういう人生の節目節目にイコンが付きまとってくると…。
イコンの作品というかイコンそのものが数が増えていく?
(姜)増えていく。
小さなものも含めてですね。
それを身にまとったりあるいは折り畳み式で置いてあるんですね。
そういう事がいっぱい増えていってるって感じ。
これは130年5代にわたるある種の魂の相続なんですね。
受け継がれているもの。
受け継がれてきて。
りんが洋画への情熱を胸にロシアにやって来たのは明治14年23歳の時の事。
ペテルブルクの修道院でイコンを学ぶ日々が始まりました。
念願の洋画修業。
しかし日記の言葉は喜びからは程遠いものでした。
「終日大いに悲しみ嘆きなげきて心はとろくる如くなり。
この日絵のことを種種聞こゆ。
イタリア画を嫌う様子なり。
ギリシャのオバケ画を好むは実に悲しむの次第なり」。
イコンは6世紀ビザンチン帝国の時代に発展しました。
りんが留学していた頃はその伝統を重んじたイコンが主流でしたがりんはそれを「オバケ画」と呼びました。
りんが憧れていたのはルネサンスから広がったヨーロッパ絵画です。
画家たちは写実を追求し神話や聖書の世界を臨場感豊かに描きました。
しかしイコンの世界では古い手本を忠実に写したものだけが神の姿を表すとされ画家の個性は一切認められませんでした。
日本で近代的な洋画を学んだりんにとって伝統的なイコンは人間味のないオバケ画としか感じられなかったのです。
「終日絵をかく。
心大いに痛むなり。
日々の悲しみ腹立ちにて何も手につかず。
心苦きわまるなり」。
りんは芸術と信仰の間で引き裂かれていきます。
「1月15日。
天気大いに能し。
この日はまことに心悪く終日寝居る。
何の心も消えうせ今はただ命終わる事を望むのみ」。
りんは体調を崩し5年の滞在予定を2年で切り上げ帰国の途に就きました。
帰国後東京にいたニコライのもとに身を寄せます。
ニコライからは教会の敷地に画室を与えられ「あなたの思うイコンを描けばよい」と言われます。
しかし一枚も描く事ができないまま年月が過ぎていきました。
再び筆を執るようになったのは帰国から6年後の事でした。
画室に籠もりイコンの制作に没頭していきます。
どんな思いで再びイコンに向き合ったのか。
りんはその理由を語っていません。
しかし手がかりとなる一枚の絵が残されています。
44歳の時に描いた「ウラジーミルの聖母」。
あたたかい色彩とやわらかなタッチ。
幼子イエスに頬を寄せる聖母マリアの姿です。
この絵の基になったのは「ロシアの至宝」とたたえられる12世紀のイコン。
イエスの行く末を案じるかのような憂いに満ちたマリア。
りんはこのイコンの構図を忠実に写しています。
しかし聖母の顔に憂いはなくそのまなざしは深い慈愛に満ちています。
絵の裏にりんは自らの名前を記しています。
普通イコンに作者の名を書く事はありません。
りんはたった1度だけサインを入れ生涯手放しませんでした。
山下りんを研究している大下智一さん。
この絵にりんが葛藤の先に見つけたものを感じるといいます。
それが形になった一枚だと思います。
りんは独り身のままイコンを描く事に生涯をささげ81歳で亡くなりました。
各地の教会に飾られた誰が描いたとも知れぬイコン。
それらが一人の女性画家の手によるものと判明したのは1960年代。
研究者によって次々と発見された山下りんのイコンはおよそ300点に上りました。
(歌声)その絵と守ってきた人々の間には深い絆が生まれていました。
(姜)あれから4年たつわけですけどまあいろんな…ひと言で言えない思いがあったと思いますがその分やっぱりイコンを見る目が何か変わった面がございましたか?やわらかくてなんかほんとにやさしくて…
(姜)あ〜そうですね。
そういう事でなんか…。
この教会にはもう一点りんが描いたイコンがあります。
その絵は最も神聖な部屋の奥に掲げられています。
死後よみがえったキリストが弟子たちに祝福を与えたあと天に昇っていく姿です。

(姜)慈愛に通じる肯定的なイエス様の姿っていうのかなあ。
屈折した暗さとかそれから苦しみの中のその生々しさとかそういうものがあまり感じられない。
むしろ非常に前向きでなんか希望が語られているような気がします。
彼女のどこかに…
(姜)そんなふうに僕はちょっと感じたんですね。
「断念から生まれた希望」という言葉ほんとに全てを物語っていると感じているんですけども姜さん改めてりんが残したイコンが今多くの人々の心を癒やして支えになっているという事について今どのように感じられますか?そうですね山下りんさんという人はすごく葛藤があったと思うんですね。
その葛藤の末に6年後ああいう絵を描かれて…聖母像をね。
そこに彼女なりに何かを見つけ出したんじゃないかなと。
これがまさに「ウラジーミルの聖母」でサインを唯一入れて最後まで手元離さなかったものですよね。
(姜)普通は作者が分からないというのがイコンなんですけど一枚だけ残した。
それはこれだけは残しておきたいという気持ちと同時に画家山下りんへの決別だったんじゃないかなと。
逆に言えば。
だからここを残しておく。
この作品だけではなくて山下りんさんの作品というのはあくまでもその伝統…イコンの約束事というのをしっかりと守りながら模写をしてきたという事なんです。
(姜)こういうような事を自らやるという事は画家性…つまり芸術家としての自分を否定する事ですよね。
そうしないと信仰の対象になれない。
だから彼女はあそこで何か断念をして自分がある容器というか器になっていったんじゃないかと思うんですよね。
何か人々の苦しみとか悲しみとかって思いがその器の中に入ってくるとそれがイコンとなって自分がそれを描けるという。
だからやっぱり山下さんのこれが多くの人々に信仰の対象になったというのは何となくそういう感じがするんですね。
自らを…器になろうという事がある意味断念であったと。
その中でも山下りんが描くイコン芸術というものはもちろん構図は忠実に模写しながらもでもどこか山下りんならではの特徴みたいなものがどこかにあるのかなと思ったんですけども。
ふかい憂いというよりはやっぱどこかで希望を与えてくれる。
やっぱりねとても悲しんでいる人苦しんでいる人にその上にまた憂いを与えるというのはとても過酷だし。
だからやっぱり笑いというかまあほほ笑みですね。
ただね何となくこれはちょっと気取った言い方だけどこのほほ笑みが涙というか多くの人々の涙を語っているようにも見えるし。
だからただほほ笑んでるとかやわらかいとか優しいとかっていうそれ自体がたくさんの涙の表れかもしれないしね。
そう見ると非常にその日々のあるいはひどい事があった時にこれを見る事で見守られている自分は助けられてるっていうイメージがあるのかもしれませんね。
彼女が300もイコンを残したっていうのはやっぱ断念の果てにそれを描き続ける事が人をいかに癒やして生かしていくかっていう事をだんだん分かっていったんじゃないかなって気もしますね。
それがまた特に今の私たちにグッと響いてくる力ってきっとありますよね。
ええ。
やっぱり3月11日からもうやがて4年を迎えますから。
東北の被災地でこの山下りんが心の支えになったというその事の意味は単に被災地という意味ではなくて我々にとっても大きいと思いますよね。
今日はどうもありがとうございました。
信者のよりどころであった聖堂を震災で失いました。
今は仮設の聖堂を建て再建を目指しています。
建物と同時に山下りんのイコンも失われました。
しかしその存在を忘れる事はないといいます。
だから火事で山下りんのイコンはなくなったけれども…支えられてる感じはしますね。
立ち止まっててはしょうがない事ですから。
喜びや悲しみ。
どんな時も人々に寄り添ってきた山下りんのイコン。
その絵は時を超え見る人の心を照らし続けています。
2015/03/15(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「祈りのまなざし イコン画家・山下りんと東北」[字][再]

東北で100年以上に渡り、人々の心の支えとなってきた絵がある。山下りんが描いた「イコン」と呼ばれる宗教画。深い祈りを誘うまなざしの秘密を、姜尚中さんが読み解く。

詳細情報
番組内容
東日本大震災から4年。東北の地で、人々の心の支えとなってきた絵がある。山下りん(1857−1939)が描いた「イコン」。聖書の物語や聖人を描き、教会に飾られる宗教画だが、りんの「イコン」は、こちらを見つめるやさしいまなざしが独特の魅力をたたえる。しかし、そうした絵が生まれるまでには、絵を学ぶためロシアに渡り、葛藤を繰り返した苦難の日々があった。深い祈りを誘う絵の秘密とは。姜尚中さんが読み解く。
出演者
【出演】聖学院大学学長、政治学者…姜尚中,【司会】井浦新,伊東敏恵

ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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