那覇青少年舞台プログラム

那覇市を中心とした9の高校9の中学、3つの小学校から集まった小5~高3の40人。現代版組踊「琉球伝信録」と現代舞踊劇「那覇センセイション」に取り組んでいます。歌って踊って芝居して、若い魂の躍動感あふれる舞台をご覧ください。笑い、泣きながら切磋琢磨して子供たち自身が作る舞台です。目指しているのは、地域に貢献できる人材育成。そんな子供たちと応援する父母の日常をお伝えしています。2014年10月、那覇市教育委員会の推薦により、博報財団より日本文化理解教育部門の第45回博報賞を受賞。皆様の応援に感謝。
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琉球伝信録の登場人物たち 1

父母OBのK花Mゆきさんが昔のブログで掲載してくれた、
琉球伝信録に登場する人物たちのプロフィールを紹介します。

平敷屋朝敏

和文学者で、組踊「手水の縁」などの作者 薄幸の才人

●0歳 1700年 首里金城に生まれる(尚敬王と同じ年)

第二尚氏の一代目・尚円王の子=尚真王の子孫
祖父は国頭親方と呼ばれ、漢学者で湛水流の三線の大家

幼いころから自我の強い性格ではあったが、学問では神童と呼ばれました。

●18歳 1718年 八代将軍吉宗の慶賀使、越来王子朝慶に随行して薩摩の太守公と共に上京

江戸滞在中、深川の本誓寺(浄土宗)で仏教を学び、かたわら源氏物語や伊勢物語、和歌等を学んだ

●21歳 美里地頭の娘まなび(当時19歳)と結婚

尚敬王妃の思亀樽金が朝敏を慕い金城の家をひそかに訪ねて来るようになりました。
朝敏は長身の美男子で人情家でもあり、多くの人に慕われたようです。
そのことを尚敬王や三司官・察温に知られ、首里金城村の家屋敷は没収。職も失ったのです。

思わぬん濡れ衣(ぬれぎぬ)で失脚した失意の中、短篇小説「若草物語」「苔の下」を執筆。

●27歳 1727年 勝連平敷屋(現在のうるま市)に転居

経済的に貧しく、田舎落ちしたことで失意のなか1年間を過ごしました。
随筆「貧家記」には、この頃の貧しさだけではなく、農民に温かい視線を持つなど、人間的な成長もみられるそうです。

●28歳 1728年 役人として首里に戻る(王妃との関係が無実と判明したためか?)

短編小説「万歳」執筆
和文学愛好の同志が集って朝敏を師として塾を開く

その頃の琉球は、薩摩が中国貿易に介入。
琉球全土の検地が行なわれ、その支配と収奪が強まっていました。
その結果、貧しい農民はさらに貧しくなり、富農の下男下女になる人や子女を遊女に売る人も珍しくはなかったのです。
士族が増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族も増えました。
金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代でした。
朝敏の作品は、このような社会状況を反映していました。

●31歳 平敷屋・友寄事件

三司官・察温一派を批判した文書が、琉球政務の監督者であった薩摩藩の役人あてにたびたび投書される事件が起こります。
蔡温による取り調べや捜査が行われ、朝敏が逮捕されました。

●34歳 1734年 安謝港近くの刑場で重刑者に適用される串刺しによって処刑

朝敏以外にも、同志の友寄親雲上や弟の弥覇里之子を含め総勢15人が対象となりました。
朝敏の妻と子は百姓に身分をおとされ、長男次男はそれぞれ島流し。
その刑の厳しさは沖縄の罪刑史上、例のないものと言われています。

朝敏の書いた組踊『手水の縁』は、謀反人の作ということで長く上演を禁止されていました。
組踊で唯一の恋愛物であり、若い男女の激しい恋をテーマに独自の思想を展開させています。
王府の踊奉行として忠孝節義を下敷きにした玉城朝薫の作品と際だった対照を示しています。

偶然にも玉城朝薫も平敷屋朝敏と同じ年に死去しています。
そして名護親方も…


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Posted by なは群星の会 at 2015年03月09日   10:31
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