人は何故病気になるのか
[2014年09月10日(Wed)] 
 現在、中高年齢者のうち何らかの疾病を抱えている人は、おそらく6割から7割を越えているのではないだろうか。さらに、疾病までは行かなくても何かの精神的肉体的不調を訴えている人も含めると、9割にも到達するのではないかと見られている。まったくの健常者で不調がなくて、元気一杯だという人は、1割にも満たないのではないかと思われる。日本人の中高年齢者はおしなべて、病気か病気予備軍だと言っても過言ではないように感じられる昨今である。病院や診療所に行くと、実に中高年者が多い。精神科や心療内科、または認知症外来にも多くの患者さんがたむろしている。このままで行くと、中高年者はすべて何らかの疾病や障害を抱えて生きるということになりはしないかと心配である。
さて、中高年者に代表される生活習慣病の原因は、まさしくその生活習慣に起因していると言われている。食事、休養、運動、ストレスへの対応を誤ることで、生活習慣病になると思われている。しかし、その生活習慣を変えることが出来ないのが人間である。薬や注射などの治療、またはサプリメントやハーブティーなどの民間療法などに依存するケースが多い。食生活を見直すことが必要だとは感じながらも、グルメやファストフード、またはジャンクフードやインスタント食品に手を出してしまうことも多い。生活習慣病を初めとするすべての疾病の原因は、自分にあると薄々感じながらも、その原因を完全に排除できないから、世の中から病気がなくならないのである。実に困ったことである。
このような状況にあるので、健康保険や介護保険の財政は厳しくなり、保険料の値上げが続くと共に、国の財政は厳しくなる一方である。当然、重度の疾病によって働けなくなるような中高年者が増えるから、傷病手当金の請求も増加するし障害年金の受給者も急増している。健保組合や共済組合、または年金機構の財政破綻も将来起きうるべくして起きるに違いない。福祉介護医療への国の拠出金も鰻登りに増加しているので、国の財政破綻が起きるのは火を見るより明らかである。そんな状況にありながら、抜本的な解決策を見出せないで、医療介護保険制度の見直し、保険料率の改定や健保の自己負担増などの小手先でしのごうとする厚労省のお役人の無策ぶりが際立ってしまうのである。
そもそも病気の根本的な原因を掴んでいなければ、抜本的な対策を立てようもないのである。病気になる真の原因は、端的に言えば自分の生き方が間違っているからである。生き方や生きる姿勢・考え方がそもそも間違っているから病気になるし、病気を呼び寄せているのである。つまり、病気というのは自分の間違いを自分自身で気付かせるために、自らの細胞が自己の命を犠牲にしてまで、生き方を正すように示しているのである。だから、その間違いを気付くのが難しければより重い病気になるし、すぐに気付くような間違いならば軽症で済むのである。人間とって、病気は四苦八苦のひとつだと仏陀が説いたが、まさしくこの四苦八苦を経験してこそ、自分の生き方の間違いに気付いて正しく生きるチャンスが与えられるのであろう。
それでは何が間違っているかと問えば、簡単に言うと天命に逆らって生きているということだろう。つまり、天から与えられた尊い使命が私たちには課せられている。そのミッションから生まれるビジョンを正しく認識して、正しい目標に向かって突き進むことが、私たちには求められている。その使命とは、自分と家族だけが幸福になったり豊かになったりすることではない。自分だけではなく、他人をも自分のことのように慈しみ愛し、そして他をも幸福にするため、または社会全体を豊かにする為に生きることが、まさしく人間に与えられた天命であろう。
その正しい生き方とは、言い換えればシステム思考の哲学を持って生きるということでもある。常に、自分の生き方が自分中心の生き方ではなくて、全体性や関係性を重視した生き方になっているかどうかを振り返り、自らの間違いを自ら正して生きるようにすれば、けっして病気にはならないのである。生活習慣が原因だと解っていても、その間違いを正せないのは、システム思考の哲学が身についていないからである。いつも事故にあったり怪我をしたりするのも、実はここに原因があるのだ。そのことを自覚して、正しい哲学を身に付けて、仏教における八正道のように正しく生きるのであれば、病気にはならずに健康で長生きできるのである。
さて、中高年者に代表される生活習慣病の原因は、まさしくその生活習慣に起因していると言われている。食事、休養、運動、ストレスへの対応を誤ることで、生活習慣病になると思われている。しかし、その生活習慣を変えることが出来ないのが人間である。薬や注射などの治療、またはサプリメントやハーブティーなどの民間療法などに依存するケースが多い。食生活を見直すことが必要だとは感じながらも、グルメやファストフード、またはジャンクフードやインスタント食品に手を出してしまうことも多い。生活習慣病を初めとするすべての疾病の原因は、自分にあると薄々感じながらも、その原因を完全に排除できないから、世の中から病気がなくならないのである。実に困ったことである。
このような状況にあるので、健康保険や介護保険の財政は厳しくなり、保険料の値上げが続くと共に、国の財政は厳しくなる一方である。当然、重度の疾病によって働けなくなるような中高年者が増えるから、傷病手当金の請求も増加するし障害年金の受給者も急増している。健保組合や共済組合、または年金機構の財政破綻も将来起きうるべくして起きるに違いない。福祉介護医療への国の拠出金も鰻登りに増加しているので、国の財政破綻が起きるのは火を見るより明らかである。そんな状況にありながら、抜本的な解決策を見出せないで、医療介護保険制度の見直し、保険料率の改定や健保の自己負担増などの小手先でしのごうとする厚労省のお役人の無策ぶりが際立ってしまうのである。
そもそも病気の根本的な原因を掴んでいなければ、抜本的な対策を立てようもないのである。病気になる真の原因は、端的に言えば自分の生き方が間違っているからである。生き方や生きる姿勢・考え方がそもそも間違っているから病気になるし、病気を呼び寄せているのである。つまり、病気というのは自分の間違いを自分自身で気付かせるために、自らの細胞が自己の命を犠牲にしてまで、生き方を正すように示しているのである。だから、その間違いを気付くのが難しければより重い病気になるし、すぐに気付くような間違いならば軽症で済むのである。人間とって、病気は四苦八苦のひとつだと仏陀が説いたが、まさしくこの四苦八苦を経験してこそ、自分の生き方の間違いに気付いて正しく生きるチャンスが与えられるのであろう。
それでは何が間違っているかと問えば、簡単に言うと天命に逆らって生きているということだろう。つまり、天から与えられた尊い使命が私たちには課せられている。そのミッションから生まれるビジョンを正しく認識して、正しい目標に向かって突き進むことが、私たちには求められている。その使命とは、自分と家族だけが幸福になったり豊かになったりすることではない。自分だけではなく、他人をも自分のことのように慈しみ愛し、そして他をも幸福にするため、または社会全体を豊かにする為に生きることが、まさしく人間に与えられた天命であろう。
その正しい生き方とは、言い換えればシステム思考の哲学を持って生きるということでもある。常に、自分の生き方が自分中心の生き方ではなくて、全体性や関係性を重視した生き方になっているかどうかを振り返り、自らの間違いを自ら正して生きるようにすれば、けっして病気にはならないのである。生活習慣が原因だと解っていても、その間違いを正せないのは、システム思考の哲学が身についていないからである。いつも事故にあったり怪我をしたりするのも、実はここに原因があるのだ。そのことを自覚して、正しい哲学を身に付けて、仏教における八正道のように正しく生きるのであれば、病気にはならずに健康で長生きできるのである。
【健康・メンタルヘルス・心理の最新記事】
そもそも、この震災と原発事故をどのようにとらえるかによって、それぞれの人々にとっての影響度は変わってくるのかと思っています。震災とその原発事故はあくまでも人災であり、加害者である政府と東電に対して、憎しみや怒りを感じている人々は多いことでしょう。確かにそういう側面はありますが、今までそのような原発政策を許していたのは他ならぬ自分達でありますし、東電や東北電力の原発事業を黙認していたのも私たちです。憎しみや怒りがあるのは当然ですが、そういう感情を持ち続けることは、ストレスになって自分の健康を損なうだけですし、周りの人々との関係性を損なうことになります。
一方、震災と原発事故を天災としてとらえ、この事故を貴重な教訓として受け容れ、この震災や事故によって今までないがしろにしていたことを思い出させてくれて、しかも我々が大切にしなければならないことを気付かさせてくれて、自分達が変わるきっかけを与えてくれたと思えば、憎しみや怒りは消えます。ましてや、おおいなる天の与えてくれた試練だから、我々がこの試練を乗り越える努力をすることこそが大切なんだと、前向きに考えるならば、ストレスにはならないし、健康を損なうこともありません。
この世の中に起きることは、すべてが無駄なことはないし、我々人類にとって必要なことしか起きないのです。それがシステム思考です。嫌なことや悲しいこと辛いこと、自分にとって不都合なこと不具合なことこそ、我々が気付くべきことを教えてくれているのではないでしょうか。病気と同じで、周りの人々が嫌なことを自分に対してするというならば、それは何かを暗示させてくれていることだと思います。自分の生き方や考え方と違う人々、つまり価値観の違う人たちとの関わり合いが、とてもストレスを感じるというのならば、それは相手に問題はあるとしても、自分にもそれを受け容れられない「心」と許せない「心」が存在するというこではないでしょうか。そういう寛容と受容の心を持ちなさいという天命を教えてくれている存在なのかもしれません。自分の心の中に嫌な人と同じものを抱えて生きているのだと思えば、ストレスも少なくなるように思います。