前回はイスラム国の宗教的なイデオロギーのことを考えてみたね。ジハードがイスラム教の宗教的な努力とか、偶像崇拝をなくすための奮闘とかの意味で、ときには暴力を容認するために利用されてきたって話。ジハードで殉死すると天国に行けることになってるから、このイデオロギーを叩き込めば、人の死生観まで揺るがしちゃう。怖いね……。
それからサラフィー主義。ムハンマドや初期のカリフの理想的な時代に戻ろうよ!っていう原点回帰の運動だね。サラフィー主義の源流は、700年近く前にシリアで活躍したイブン・タイミーヤにまでさかのぼることができるよ。
それから、サウジ・アラビア建国の宗教的なイデオローグになったムハンマド・アル=ワッハーブ。そして、エジプトのサイイド・クトゥブもかなり重要。ビン・ラディンやアイマン・ザワーヒーリーのようなアルカイーダの中枢メンバーは、この人の本を読んで暴力的なサラフィー主義に傾倒していったの。
アルカイーダとイスラム国の違いは?
イスラム原理主義の事情がわかったところで、今日はイスラム国のことを見てみようか? みんなはイスラム国がどうやって出てきたのか説明できる? アルカイーダとの違いは? わたしのお友達は「同じじゃん!」って言ってたけど、そうじゃない! イスラム国はもっとクセモノなんだよ!
いまのイスラム国のもとをたどると、ヨルダン生まれのアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー(1966-2006)は超重要人物だね。このひと、アルカイーダのビン・ラディンに傾倒してたみたいで、1989年にはソ連のアフガン侵攻と戦うために義勇兵としてアフガニスタンに向かったの。その後、ヨルダンに帰国してからは、王制を倒してカリフ制を打ち立てることを夢見てたんだって。1992年にはそのせいで逮捕されて、何年も牢獄にいたんだよ。
それから1999年にはアフガニスタンに戻って、イスラム国のもとになる「タウヒードとジハード団」を組織したの。タウヒードは神の「唯一性」っていう意味。唯一神信仰を守るための聖戦っていうコンセプトは、かなりイスラム教の根本的な考え方だね。イスラム原理主義者にとっては宗教的な理想と政治的な理想が重なり合ってる。こういうのって、近代以降の西洋的な価値観とはずいぶんかけ離れてるけど、ある意味では中世を通じてどの文化圏でも宗教と政治は切っても切り離せないものだったんだよ。
2001年の9・11事件後、アメリカがアフガニスタンに掃討をかけたことで、2002年にザルカーウィーはイラクに移ったの。それから、2003年にフセイン政権が破綻したのを機に力を伸ばしていくんだよ。こうやって、統治が不安定なところを点々としながら、カリフ制という見果てぬ夢を追いかけていったんだね。
宗教学的に知っておいたほうがいいのは、スンナ派のザルカーウィーがシーア派を異端と考えて、シーア派へのテロをジハードとして正当化したこと。スンナ派とシーア派の確執は根深くて、同じようなことはオスマン朝のセリム1世(1465-1520)のときにもあったよ。「シーア派を1人殺せば、キリスト教徒を70人殺したのと同じくらい価値がある」って言われたの。なんだか、こういう価値観ってぬぐいがたい感じがするね。
ザルカーウィーの場合、イラクでシーア派を攻撃したのがいろいろ問題だった。というのも、イラク国内ではスンナ派とシーア派のあいだにずっと緊張関係があって、フセイン政権がそれを抑え込んでたの。そのタガがはずれたところに、さらに宗派の分断を煽るようなことはかなり危ないやりかただったの。アルカイーダのザワヒーリーもこれを非難したんだって。
アルカイーダのフランチャイズ化が進んだころ
ザルカーウィーを中心とするこの組織は、2004年に「イラクのアルカイーダ」に名前を変えたよ。ザルカーウィーがビン・ラディンに忠誠を誓って暖簾分けしてもらうかたちになったわけ。このころ、ビン・ラディンがカリスマ的な存在になって、アルカイーダ・ブランドが一世を風靡してたから、それに乗っかったとも考えられるね。
いわゆるアルカイーダのフランチャイズ化が進んだのがこのころ。「イラクのアルカイーダ」のほかにも、「アラビア半島のアルカイーダ(AQAP)」、「イスラム・マグリブのアルカイーダ(AQIM)」、ソマリアの「アッシャバーブ」、ナイジェリア北部の「ボコ・ハラム」が出てくるね。組織的なつながりよりも、理念のつながりが強いのが特徴。
2006年にザルカーウィーがアメリカの空爆で殺害されて、そのあと実権を握ったのが、アブー・ウマル・アル=バグダーディーとアブー・アイユーブ・アル=マスリー。この年に「イラク・イスラム国」を名乗りはじめて、イラクのマリーキー政権はアメリカの傀儡だといって、武装闘争にうってでたの。
いま注目されてるアブー・バクル・アル=バグダーディー(1971-)は、2010年に前の2人が殺されたあとに指導者になった人。この人、イメージ作りがうまくて、メディアを使ってカリフの宗教的正統性をアピールしてるのが特徴だね。
「バグダーディー」は後付けの由来名で、バグダッドの人っていう意味。由来名には「クライシー」も入ってて、これはムハンマドと同じクライシュ族の出身っていう意味。事実かどうかはわからないらしいけど、クライシュ族であることはイスラム法ではカリフの条件なんだよね。
それに説教のとき、ムハンマドの子孫(サイイド)がかぶる黒いターバンをかぶって出てきたりもしたの。ムスリムはみんなこれを知ってるから、学者として優れてるだけじゃなくて、血統も由緒正しいんだと思っちゃうのかも。かなり本格的なイメージ戦略だよね!
そのあと、2013年に「イラクとシャームのイスラム国(ISIS)」に改称。そして、2014年、カリフ制国家を前面に押し出して「イスラム国(IS)」の建国を宣言したんだよ。
こうやって振り返ってみると、アフガニスタン、イラク、シリアの政治的な不安定さが土壌になってるのはもちろんだけど、宗教的な動機もかなりあるでしょ? 彼らは異教徒だけじゃなくてシーア派とも戦わなくちゃいけないと思ってる。昨日今日に出てきた新しい理由じゃないんだよね。
もちろん、彼らがそんなことを言うのは、暴力を正当化するための口実だって考えることもできるけど、わたしは宗教の教義って、よくも悪くも人間の行動原理になっちゃうんだと思うな。
イスラム国とイスラム教は、どこまで関係がある?
ところであらためて問い直してみるけど、イスラム国がやってることは、どれくらいイスラム教と関係があると思う? わたしのメルマガを読んでくれてる子は、「けっこう関係あるよね!」って思うかも。ジハードやサラフィー主義のアイデアは、イスラム教の教えが根っこにあるって話をしたしね。
でも、このことってメディアではあまり解説されてないと思わない? それよりもむしろ暴力はイスラム教の教えからはかけ離れてるとか、「イスラム国」っていう名前はムスリムに対する偏見を助長するからやめようよとか、そんな意見が多い気がしない? つまり、このところの暴力的な原理主義の原因はイスラム教じゃないって、そんなふうに言いたそうな風潮があると思うんだ。
わたしはこういう気遣いのできる考え方って好き。でもね、この意見が当たり前のように蔓延するのも、危ういなーって気がするんだよ。イスラム国のことで世界中のムスリムが心を痛めてるのは事実だし、政府やメディアが世界のムスリムに配慮するのは当然だけど、宗教の歴史と真摯に向かい合おうとするなら、いま起こってることを誰にもおもねらずに、もう少しドライに見てもいいと思う。
つまり、暴力の根源はイスラム教の歴史のなかに昔からあったし、原理主義者が曲解してるとしても、ジハードやサラフィー主義っていうアイデアが徹底的に否定されることなく、その曲解の根底にちゃんと存在してきたってこと。それはイスラム教がたどってきた歴史の現実を反映してる。いいとか悪いとかじゃなくて。だから、歴史や政治の条件さえそろえば、原理主義が力をもつ可能性はいつだってあるんだよ。いまの混乱が収まっても、必ずまた同じことが起こる。
ただし、宗教の原理主義はイスラム教だけじゃない。たとえば、ユダヤ教の宗教的シオニストのなかには、聖書に書かれてるダビデ王の時代の国土を回復することが救済の条件だって信じてる人がいる。
だから、その目的のためには、昔から住んでるパレスチナ人を武力で追い出したとしても、まぁしょうがないよね、ってことになるの。そういう人たちの支持を得るために、イスラエル政府はパレスチナ自治区に入植地を作ることを黙認してきたんだよ。
瑣末な表現の違いで、わかったふりはダメ!
わたしたち宗教を勉強してる子にとって大切なのは、まず信仰を持つ人を尊重すること。そのうえで、正しい知識に基づいて、認めるべきことは認めること。「イスラム国」と呼ぶのはよくないとか、ISがいいとか、瑣末な表現の違いにこだわってわかったふりをするんじゃなくて、十分なリテラシーを身につけることだと思うの。
だから、わたしは自称「イスラム国」をあえてそのままイスラム国って呼ぶんだよ。そんなことくらいでイスラム教を誤解してしまうのなら、それはただの勉強不足!
イスラム教がなければ、プラトンやアリストテレスは読み継がれなかったし、スコラ哲学も存在しなかったし、自然科学だって100年は遅れてたかもしれない。世界の半分と謳われたイスファハンの建築も、オスマン朝の華麗な宮廷文化もなかったかもしれない。
高度な文化を生み出したイスラム教がありながら、問題を暴力で解決しようとしたイスラム教がある。そういうふうに考えると、少し深い理解が得られるかもしれないね。
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