▼あの日、思ったことが現実に
2001年5月26日、僕は松本市にいた。
時は日韓 W杯の前年、コンフェデ杯の直前である。もちろん、日本代表への興味は尽きなかったが、僕のファーストチョイスはサンフレッチェ広島だ。この日、広島は松 本平広域公園総合球技場のこけら落としに招待され、福岡とのプレシーズンマッチに臨んでいたため、同行取材したというわけである。
学生時代にワンダーフォーゲル部に所属していた僕にとって、松本は初めての街ではなかった。毎年1度は必ず訪れ、この街を起点にして北アルプスや八が岳など、様々な山へと出かけていった。
当時は、バックパッカーが若者の文化・風俗として定着していた時代で、僕らのような山が目的とした者だけでなく、フラリフラリと放浪を続けるような若者も 含め、たくさんの10~20代の男女が松本の街を歩いていた。僕はといえばお金もなく、松本駅のバルコニーのような場所で寝袋を敷き、そこで眠っていただ けなのだが。
そんな青春時代から20年、久しぶりの松本の印象は、実はほとんどなかった。試合に訪れ、すぐに戻らねばならなかった事 情 もあるのだが、不思議なことにこの時に試合が行われたスタジアムの印象も、ほとんどない。「なんで広島と福岡が松本で?」という疑問が、最後まで払拭でき なかったことだけを覚えている。
この試合、広島はリーグ再開後の戦いをにらみ、高卒ルーキーだった闘莉王や2年目の山形恭平らを起用 す る一方で、元日本代表の久保竜彦や藤本主税、森保一や下田崇ら錚々たるメンバーもそろえていた。ただ、当時のレポートを読むと、内容は低調。広島・福岡共 にミスが多く、「これがJ1だ」と声高に言えるものではなかったことも、記憶から試合のことが消された要因だったのかもしれない。
ただ、当時からサッカースタジアムでの試合を熱望していた森保一が、目を輝かせてこのスタジアムを絶賛していたのは覚えている。
「松本のようなJクラブのない街でも、こんなに素晴らしいサッカースタジアムがある」
その事実が、森保の心を動かしていた。
「ここにもし、地元のチームを応援するサポーターがいて、そのサポーターでスタンドが埋まったら、きっとすごい光景になるのだろうな」
森保一が感じたこの感覚は、約10年の時を経て現実化し、美しいアルプスの山並みと共に、松本の文化となろうとしている。
▼駒場、あるいは仙台、日立台
スタジアムは決して大きくはない。いや、J1仕様から考えれば、むしろ小さいと言っていい。歴史的なJ1ホーム開幕を迎えた3月14日の試合にはたくさん の報道陣が押し寄せ、狭い記者控室はすぐに満席となり、記者会見室と同じ部屋が当てられたカメラマン控え室は、人であふれた。球技場にあてられた敷地も決 して広いとはいえず、余裕も感じない。
だが、このコンパクト感が一方で一体感を生み出す。すべては考え方、とらえ方だ。
2001年は5,838人が来場したこのスタジアムだったが、広島にも福岡にも、それほど思い入れがない人々が大半。サッカーが好きで好きでたまらない人 もいただろうし、招待券を頂いたからという人も、あるいはただ何となくという人たちもいただろう。間違いないのは、広島を(あるいは福岡を)応援しようと いう人々はごく少数で、5,500人くらいの方々が「観戦」に訪れたという現実。試合後、スタンドでは「面白かったね」「やっぱりプロは違うね」という過 分な言葉をいくつも聞いたが、それがきっかけで松本山雅がプロを目指し始めたという物語ではあるまい。
だが、その時に感じたのは、 ギュッとコンパクトな空間は観客たちの声を束にして集める効果があるという事実。選手たちがダッシュを繰り返すその姿に、キックのスピードに、ミリ単位の 精度に、身体と身体がぶつけあう音に、「おおっ」「すげぇ」「はあへー」という観客たちの素直なリアクションが巻き起こり、それが集まって歓声と化した。 その歓声がいくつにも折り重なり、14年前の試合は決して「熱戦」ではなかったのに、「熱い戦い」に見えてきたのである。
2015年 3 月14日、アルプスとウインド(風)からくるアルウィンという造語が愛称となったこのスタジアムには、17,091人が集まった。しかも、彼らのほとんど は「観客」ではなく「サポーター」だった。約500人の紫サポーターを除いた、およそ約15,000人ほどだろうか。多くが緑のシャツを身につけ、緑のマ フラーを身にまとうなど、緑の「何か」を手にしていた。そして選手たちが入場すると、サポーターは総立ち。バックスタンド→ゴール裏→メインスタンド→ ゴール裏、1部の紫サポーターを取り囲むように、緑のマフラーが天高く掲げられ、自分たちの選手を鼓舞した。それはまさに緑で覆われた信州の山々のよう。 14年の歳月は、試合を見ることを目的とした観客から、選手と共に闘いたいと願い、その気持ちをパフォーマンスとして表現できるサポーターを生み出してい た。
僕はその時、唐突に「駒場」を思い出した。1999年11月23日、広島がJ1生き残りを懸ける浦和と対戦した時に感じた、圧倒 的 な声のボリュームと迫力。僕は常々、5万人が入った埼玉スタジアムもすごいが、2万人の駒場のほうが浦和サポーターの脅威と情熱が感じられたと思っている が、それはこのときの2万人弱(今よりもはるかに数が少ないとはいえ、広島サポーターもいた)がピッチに向かって降り注いだ「WE ARE REDS」を聞いているからだ。
狭い空間で声と声が連結し、束となる。一人ひとりの声は小さな枝かもしれないが、ギュッと凝縮すれば極 太で堅い幹になる。かつて駒場で聞いた「WE ARE REDS」、ユアスタで胸に刺さった「レッツゴー仙台」、他にも柏や日本平で感じた圧力と同じテイストのものが、この日のアルウィンにも存在したのであ る。
ただ、「凝縮」ということでは同様ではあるが、アルウィンのサポーターの声援はひと味違う。あえて近いものを探すとすれば、仙台で はないか。審判の判定に対して「えーっ」という声はあがるが、すぐに切り替えて味方選手へのコールや拍手が鳴り響く。ブーイングやヤジの類いはほとんどな く、ただひたすらに味方への声援を繰り返す。前から一生懸命にボールを追った選手に対して、たとえボールを奪えなくても、まったくの無駄走りに終わったよ うでも、大きな拍手が起きる。何でもないクリアだけで、大歓声が巻き起こる。
特にスゴいのは、守備から攻撃に切り替わったその瞬 間、 まだチャンスになるかどうかも見えないところから、自然発生的に巨大な声の束がピッチに降り注ぐことだ。その瞬間は何でもない一場面のはずなのに、巨大な 声援に背中を押されるように、次から次へと選手が後ろからわき出してくる。1点目のPKも、裏に出された浮き球の処理を広島が手間取ったというミスからス タートしたが、前でオビナがキープしたところから次々と緑の戦士たちが大声援に押し出されるように飛び出し、その迫力が広島のファウルを生んだ。81分、 カウンターからのクロスに飛び込んできたのも、「こっちにこい」と引き寄せんばかりの声に牽引された最終ラインの後藤圭太だった。
か つ て「何でもないプレーなのに、チャンスだと思わせる力がある」とサポーターの声援について語ったのは小野剛現熊本監督である。その力は、まるで「元気玉」 のよう。しかもその「元気の集積」を相手にぶつけた時、強烈な破壊力を生み出すだけでなく、広島のパス回しに対して足が止まり掛けていた松本の選手にパ ワーを与え、疲れを癒やす「仙豆」のような力も持っていた。それは、応援のテイストは全く違うが、最近の日立台で感じるパワーと似た感覚を覚えた。
▼これぞ、スタジアム
サポーターの声援が選手に力や脅威を与えるなどと書くと「そんなばかな」という人もいる。それは実体験がないとわからない。スタンドではなくピッチで実感しないと、それも第三者ではなく当事者意識をもってその場所に立たないと、わからない。
僕も2003年、命を削るようなJ1昇格争いの中でカメラマンとして仕事をした時、「ここでJ1に広島が昇格できなかったら、俺の仕事はどうなっていくん だろう」という危機感と共にピッチに立っていたから、あの時のサポーターの声援が心に染みたし、その声援によって力を得ることができた。逆に4万人のア ウェイサポーターにさらされた新潟では、これ以上ない孤立感と無力感に悄然となった。
「アルウィンで闘うこれからのチームは、苦労すると思う」
こけら落としとJ1ホーム開幕、アルウィンの歴史に2度も名前を刻むことになった森保一は、そう語った。
反町康治監督が認めたように、J1レベルでは実力の差は明確。オビナは脅威だったし、徹底したカウンター戦術とハイボールでの戦いは迫力もあったが、2戦で5失点という現実は重い。人数をかけて押し込みはしたが、結果としてネットを揺さぶれなかったことも現実だ。
それでも、アルウィンでの勝利は難しい。15,000人もの「元気」が常に松本山雅の後ろにいる。彼らがつくった元気玉が、いつ炸裂するかもわからない し、仙豆の効果も抜群である。アルウィンを取り囲むアルプスに御座す神々からも元気と力を受け取っているかのように、アルウィンの熱気はずっと気温0度の 中でも冷めない。
この空気感が勢いや流行ではなく、文化や伝統として定着していくのであれば、今年とか来年という意味ではなく、もう少し長いスパンでの話ではあるが、間違いなく松本山雅は強くなる。
「こういうスタジアムが、広島にも欲しい」
森保監督や佐藤寿人ら、広島側の声が切実さを増したのは、スタジアムの力を改めて実感したからに他ならない。
中野和也(なかの・かずや)
1962 年3月9日生まれ。長崎県出身。居酒屋・リクルート勤務を経て、1994年からフリーライター。1995年から他の仕事の傍らで広島の取材を始め、 1999年からは広島の取材に専念。翌年にはサンフレッチェ専門誌『紫熊倶楽部』を創刊。1999年以降、広島公式戦651試合連続帯同取材を続けてお り、昨年末には『サンフレッチェ情熱史』(ソルメディア)を上梓。今回の連戦もすべて帯同して心身共に疲れ果てたが、なぜか体重は増えていた。