東日本大震災で傷ついた文化財を救う作業が続く。国宝のような「お墨付き」はなくても、人々の営みを伝えるものはどれも、かけがえのない文化財ととらえて、次代につなぐ努力が重ねられている。

 震災以後の様々な記録や人々の記憶を集め、デジタル化して残す動きも広がっている。

 ともに息長く続けることが重要だ。社会全体で支えたい。

■「もの」が人をつなぐ

 宮城県石巻市のショッピングモールで先月、東北学院大(仙台市)の学生たちが展覧会を開いた。並べたのは古い漁業用具など。牡鹿(おしか)半島で津波にあった民具だ。約4千点を研究者らが集め、同大に運んだ。学生とボランティアが3年以上かけて洗い、カビや虫、塩分を除いて、保存処理をした。

 学生らは現地を訪ね、お年寄りの話も記録した。歴史学科3年の平木美南実(みなみ)さん(21)は「保存処理したわら草履を見た80代の女性が、同じ物を作って履いた思い出を話してくれた。古い写真を持って来てくれる人もいた。何かを託されたような気がしました」と言う。

 加藤幸治准教授(41)は「孫のような学生を相手に語ることで、お年寄りたちは、この土地で生きてきた誇りを再認識していた。それを肌で感じたことは、卒業後、地域の担い手になる学生にとって、大きな意味がある。もともとあった営みを見つめなければ、東北の復興は考えられないですから」と語る。

 原発事故で全町民が避難している福島県富岡町は、昨年夏から、手紙、写真、日記、新聞など町の歩みを記した資料をできるだけ広く集め始めた。このまま放っておくと、個人宅や寺社などにある資料が、家屋の傷みや除染のための解体で失われる心配がある。将来を考えるためにも、町の成り立ちを知る手がかりは数多く残したい。町教育委員会の主任学芸員、三瓶(さんぺい)秀文さん(35)らはそう考え、町民に協力を呼びかけた。

 三瓶さんは年に数回、避難先で小中学生に町の歴史を話す。町で出土した土器を見せ、「君の先祖が使った物かもしれないね」と言うと、子供の表情がぱっと明るくなったという。

 文化財は、そこで大昔から人々が生きていたことを、確かな形をもって語る。それを仲立ちに、いまは離ればなれに暮らす町民の心をつなぐことができるのではないか。そんな思いも抱いている。

■歴史をつくる「記録」

 震災が起きてから、おびただしい数の官民の文書、会議録、報告書、報道、ミニコミ、写真や映像などが世に出た。それらをデータベース化する「デジタルアーカイブ」が増えている。

 宮城県図書館が近く公開するアーカイブは約30万件を収録。地震発生直後の知事の会見音声などもあり、当時の空気を生々しく伝える。

 東北大の「みちのく震録伝」は企業や自治体などと協力して幅広い情報を集める。震災後の変化も写真や証言で記録し、防災研究や教材に活用する。

 仙台市の文化施設「せんだいメディアテーク」は、個人の思いに寄り添いながら、震災の体験とその後の歩みを、映像や文字などで記録し続けている。

 これらは、国立国会図書館のポータルサイト「ひなぎく」と結ばれ、一つの入り口から多様な情報が検索できる仕組みが整いつつある。

■課題は支える仕組み

 過去を受け継ぎ、いまを残すのは、未来に対する責任だ。

 文化財もアーカイブも、その基礎になる。

 だが、支える仕組みは弱い。

 いまの文化財保護制度では、国が直接支援するのは国宝など、ごく一部だけ。地域の文物の大半は対象外だ。そのため文化庁は震災直後に、多様な文化財を緊急に保全する「レスキュー事業」を提唱。全国の研究者や博物館、美術館、図書館などへ協力を呼びかけた。2年間で延べ6800人がそれに応じ、90カ所以上で活動した。

 費用は約3億円の寄付で賄った。だが、被害の広がりを食い止めるのに重要な初期の経費は、参加した個人や出身組織のやりくりでしのいだ。

 これでは安定した活動は難しい。災害時に柔軟に使える基金のようなものを作ったらどうだろう。今回の経験を経て、国立文化財機構は昨年、災害から文化財を守る連携組織を作った。そこを拠点に体制作りを急いでほしい。

 いまは復興予算で、文化財の復旧や活用への支援がある。しかし、先は見えない。アーカイブも維持やデータを追加してゆく費用への支援はない。いずれも長く続けてこそ意味のある事業だ。国はこの先も何らかの援助をするべきだろう。

 被災地に必要なのは土木工事や産業振興だけではない。傷ついた心のよりどころになる文化財や歴史を大切にすることも、復興に不可欠な要素なのだ。